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街角での雑想

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2008年10月26日

ヴェニス紀行

10月の中頃、4日ほどヴェニスに行ってきたので、徒然の随想を。ちょっと長めになりますが。
Copyright ©08.10 河東哲夫

今回は、ロシアのある研究所がヴェニスでシンポジウムをやるというので、招ばれていった。イタリアへは行ったことがあるけれど、なぜかヴェニスだけは行きそびれていたので嬉しかった。シンポのことについてはまた別途書くことにして、ここでは旅の随想だけ。

ヴェニスまでの旅路
ローマには友人がいるので残念だったけれど、今回はフランクフルト経由でヴェニスに直行するルフトハンザ。
金融危機の真っ只中だったのに、飛行機はビジネスもエコノミーも満席だった。そしてビジネスクラスはなぜかドイツ人の方が多かった。一昔前なら、ビジネスをやたら使うのは日本人だったのに。

ルフトハンザはいかにもドイツの飛行機らしく、2分も遅れずに離陸した。もちろん日本の飛行機も時間にうるさいし、ロシアのアエロフロートもこの数年は時間をきっちり守っているが。

で、フランクフルト空港に着くと、ターミナルで最初に聞こえたアナウンスが中国語だったのだ。
ブルータス、お前もか、という心境。かつてここは僕にとっては、上品で小奇麗なヨーロッパの象徴みたいに見えたものだが、もうヨーロッパもグローバリゼーションの波の中であっぷあっぷだ。

そしてヴェニス行きのルフトハンザは何故か遅れたのだ。
離陸直前、東洋人の一行がどやどやと乗り込んできて席を争い、上品な身なりの女の子がいらだった口調で既に着席している白人に、「あなたの席、本当にここなの?」と聞いている。
彼らは、自分達の間では中国語で話していた。
このルフトハンザは大変な「雑種」で、スカンジナビア航空、ポーランド航空、カナダ航空、そしてユナイテッドとの共同運航便なのだ。さすが国際観光都市、ヴェニス。

ハンニバルも越えたアルプスは、東山魁夷の絵のように靄に包まれていた。
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イタリアの印象
アルプスを越えると、畑の輪郭が不定形になる。
ドイツやフランスの畑というのは飛行機から見ても、みごとに整地してあり、しかも境界が明確だ(ロシア、ポーランドとなると、境界がぼやけて見えるのです)。
それに比べると、ここはまるで東南アジアのどこかに来たかのよう。ローマ貴族の大農園の時代から、こうだったのか?

降り立って陸地を行くと、ローマ文明の匂いがしてくる。道端のみすぼらしい小屋でも、どこか趣があるのだ。歴史。長い歴史。人の心を和ませる柔らかいトーンの緑。北ヨーロッパのように気張っていない。どこか懐かしい感じがする。

だが次の朝、ホテルのシャトル・バス(ヴェニスの島からは遠く離れたホテルに泊められたので)に乗ってみると、運転手がハンドルの上に広げて見ていたのは、金融危機についてのG7財務相会合の結果とポールソン財務長官の声明だった。人は歴史だけじゃ、食っていかれない。

ヴェニス、ヴェニス
ヴェニスというのは、5世紀にフンやゲルマン人を避けて海中の州に本土の民が避難したところから始まったらしい。で、どのくらい陸から離れているかというと、これが半端ではないので、目分量では1,5~2kmくらいか。本当の島国というか、島都市国家というか、小型の日本、大型の江ノ島(ヴェニスは岩山ではありませんが)のようなものなのだ。

いったい、どうやって飲料水を確保したのか、わからない。雨水を溜める井戸を作るまでは、海水を蒸留したのだろうか?

ヴェニスはインスピレーションを誘う街で、MJQの"No Sun in Venice"、ターナーの絵(夏目漱石の「坊ちゃん」にも出てくる)、トーマス・マンの「ベニスに死す」、そしておお、007シリーズには少なくとも二回は登場するのだが、まあ素晴らしい面と散文的な面と両方がもちろんある。

(昔の007は良かった。ユーモアとセンスがあって。サンマルコ広場の悪役「ジョーズ」)
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ホテルのシャトル・バスを降りたはいいものの、どこへどう行っていいのかわからない。でも見回すとアカデミア橋とか、目指す場所への標識がそこらじゅうにあるので、いい加減に歩き出す。

小路をたどると、暗いアーチの向こうが明るくなっていて、壁に光がゆらめいている。クリークがあるのだ。
そしてアーチの向こうを黒光りするゴンドラが、観光客を(大体中国人のグループが多いのですが)乗せてゆらゆらと通っていく。

そしてアカデミア橋http://www.civilnet.or.jp/gallery/ebridge/Venezia/03DELL%20ACCADEMIA.htmからは、音に聞くThe Grand Canalの景色が目の前に広がる。これは、やはり感激します。

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で、この橋の袂から(ゴンドラは高いので)水上バスのようなVaporettoに乗る。小さな汽船が桟橋にドカンと横腹をぶつけて停船するのだ。舷側には緩衝材のタイヤもついてない。乳母車を押した母親が細い板を渡って乗船したとたん、その安全もろくに確かめずそそくさとVaporettoは離岸した。

船は大運河を通って、音に聞くサンマルコ広場へ向かう。この海からヴェニスを見た景色こそが、ヴェニスの本質なのだそうで。

翌朝まだ朝ぼらけの景色を撮る機会があったので、こういう感じだ。中世の船乗りはいろんな想いを抱いて、ヴェニスにやってきたことだろう。まったく、この小さな島がヨーロッパのどの王家もかなわない現金収入を稼いでいたのだ。
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因みに空間を飛び越えると、上海から車でわずか30分のところにも、ヴェニスに良く似た水郷地帯があって、ここも古くから商業のハブだった。素晴らしいところだ。http://doraku.asahi.com/earth/travel/theme/070109.html

サンマルコ広場で
サンマルコ広場へは、高速ゴンドラとの戦いを終えた007ことロジャー・ムーアが、ホバークラフト式ゴンドラで「上陸」するのだ。路上カフェで客にワインを注いでいたボーイは仰天し、ワインを客の頭に注いでしまう。

で、そのカフェが空いていたので、僕は秋の快晴日和の下、サンマルコ広場に陣取って、塩野七生の「海の都の物語」を読みふける。至福の時だ。

ただ、コカ・コーラは一杯9.8ユーロ、1300円。「高いねえ」と言うとボーイは、「場所がいいですから」。ごもっとも。
ただ、10ユーロと言っても、実感は700円くらい。円が低金利政策のため、これまで過小評価されすぎてきたのだ。

誰かがスズメにパンくずを投げる。やけに太っているスズメだ。すると鳩が寄ってきてパンくずを食べ始めるのだが、大きすぎてこぼしてしまう。それをスズメが取ろうとすると、今度は鳩がもう一羽寄ってきて、鳩同士のにらみ合い。スズメは素早くパンくずをくわえると、まっしぐらに飛び立った。

アメリカと中国の間にはさまれた日本国も、このスズメにあやかりたいもの・・・と思った。

戸外に出された安ピアノ・・・こうした場にふさわしい、つぶれた音だ・・・が鳴り、オーソレミオを歌いだす。陽光。目の前の観光客の群れ。Cunard汽船会社のQueen Victoriaの真っ白い巨体が、目の前を悠然と通り過ぎる。上部だけで6階建てで、デッキには乗客が鈴なりになってこちらを見入る。他にも、3万トンくらいの客船が2隻も、前から停泊しているのだ。

サンマルコ寺院が示す、ローマ、ビザンチン、ヨーロッパ文明の継続性
よく絵葉書に出てくる、ヴェニス総督庁の建物もすごいけれど(この中には予審監獄もある。随分独房の数が多い)、その隣のサンマルコ寺院こそは、僕が度肝を抜かれた珠玉の建築。
西暦1000年頃に完成し、以後500年ほどにわたって磨き上げられてきた芸術品だ。

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ヴェニスは政治的にはローマ法王の勢力圏にあったのだが、経済的にはコンスタンチノープルの東ローマ帝国、即ちビザンチン帝国の方に近かった。だからサンマルコ寺院はビザンチン文明を強く反映していて、トルコによる征服以後はモスクにされてしまったイスタンブールのセント・ソフィア大寺院がキリスト教の時代にはどのような結構だったのか、ということを示してくれている。

優雅、豪華絢爛・・・これがビザンチン文化なのだ。玄関正面上の絵は、油絵などではなく、小さい色タイルをはめたモザイクだ。これはカトリックではなく、ビザンチンのギリシャ正教の特徴だ。色タイルの文化は中央アジアから中近東にかけても、広がっている。

中に入ると、壁は全体に渋い金色で塗ってある中、モザイク絵がちりばめられている。
そして細工や仕上げの念入りなこと。成金の金ピカ趣味とは違う。

サンマルコ寺院の向かい側には、70メートルくらいの時計塔があって、今でも時を告げる。
これに上ったが(エレベーターで)、入り口の行列にはロシアの青年が多かった。
そして彼らは規則を守り、行列に横入りしようとはもはやしない! 数年前に比べて、マナーが格段に良くなった。
受付にはAudioguideの看板があって、伊英仏独西しか言語がないが、その表示の上に黒いマジックでRussianとあった。つまり、ロシア人はヨーロッパではもう上得意なのだ。

ヴェニスを見、その歴史をたどると、ゲルマン人に破壊されたというローマの文明は、実は東ローマ帝国からイタリアの都市国家を経て断続なしに連綿として存続し、次第に北ヨーロッパに波及していったのだということが体感される。

僕はヨーロッパの源流がギリシャ・ローマ文明だというのはうそで、未開のゲルマン民族がルネッサンスなどで人為的に作り上げたフィクションだと思っていたが、どうもヨーロッパはやはりギリシャ・ローマの嫡子であり、それは人為的に作り上げられた神話ではないのだ。

ヴェニスは、全ヨーロッパに影響を与えている。例えば水の都のストックホルムも港の風景はヴェニスにそっくりだし、市庁舎はヴェニスの建築様式なのだ。

海洋国家ヴェニスはどうやって滅びたか?
・・・オーストリアとナポレオンに二股かけて、結局は分割されたヴェニスの運命

塩野七生さんの「海の都の物語」を拾い読みしていて一番身につまされたのは、ヴェニスがどうやって滅びたかだ。

東洋の産品をコンスタンチノープルやアレクサンドリアから持ってきてヨーロッパに売りさばくというヴェニスのビジネス・モデル。航路の安全だけ守っていれば(ヴェニスの海軍は強大だった。今でも島の一隅に大きな造船所が残っている。そして航路沿岸に基地網を持っていた)、莫大な富を常に手に入れることができたのである。

中世の国際的な力のバランスは、ヴェニスに有利だった。ローマ法王、ビザンチン帝国、双方とも軍事力に欠けた。ヴェニスは、陸上からの脅威を心配する必要がなかった。

だが、東洋の産品を運んで稼ぐというビジネス・モデルは、オランダが香辛料生産地のモルッカ諸島を直接制圧した時(香辛料は自然に生えてたんではなく、農園で栽培していたのだが)、成り立たなくなったし、ビザンチンに代わったオスマン帝国には制海権を奪われた。

だが経済大国というのは、一度成立するとなんとか存続するもので、ヴェニスも毛織物やガラス製造を発達させて18世紀までしのいでいた。

ところがフランス革命後、イタリア方面軍司令官にナポレオンが任命されると、事態は急変する。
列強に干渉される中、フランスは自由・平等・博愛のスローガンを掲げて、攻撃的防御作戦を展開する。

で、ナポレオンはイタリア北部に勢力を伸ばしていたオーストリアと戦いつつ、ヴェニス近辺に迫ってくるのだ。そして、ヴェニスが本土に所有する土地をフランスの大軍が通過する際、糧食費をすべて負担せよと居丈高にヴェニスに迫る。

その物言いは、現代で言うならアフガニスタンのタリバンあたりを髣髴させる。スペインのゴヤの絵を見てもわかるように、ナポレオン軍の行いというのは、とても「自由・平等・博愛」とは言えないものだった。

結論を言うなら、ヴェニスはオーストリアとナポレオン軍との間で「中立」を守っていることを口実に、ナポレオンの要求に対して引き伸ばし作戦を展開するのだが、結局はベタ降りして、独立を失うのだ。

それだけならまだしも、ヴェニスが本土に有する領土は、フランスとオーストリアの間で分割されてしまう。

中国とアメリカという二大国に挟まれている日本にとって、これは他人事ではない。
これまで僕は、日米同盟が相対化し、米中関係が緊密化する現在、日本の安全保障を確保するためには、自主防衛(いくらやっても制海権、制空権は確立できないだろう。核ミサイルも持てないだろう)か、それとも米中双方に基地を使わせる(言って見れば江戸時代、琉球が取っていたような政策)くらいしかないだろうと思っていたが、ヴェニスの運命を知って考え直した。

すべては泡沫のごとく
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帰路
帰る日の朝。ホテルの食堂は満員で騒がしい。中国人のツァー・グループがバイキングの周りにたむろしている。ああ、中国人にみんな食われてしまう。

シンポジウムでは皆、「じゃあ、中国はどうなんだ」とすぐ声を出すのだが、中国人は誰もいない。存在は大きいが、わりと外部へのメッセージがない場合もあるのだ、中国は。内部だけで十分やっていけるから。

フランクフルトからは、マイレージのポイントでビジネスにアップ・グレードしたのだが、席は便所の前で、人が出入りするたび、臭い空気が鼻の前を漂う。
そしてその横の乗客席にはスチュワーデス2名が並んですわり、のべつまくなしによく通る声で数時間、しゃべり通す。マイレージ・ポイントを返してもらいたい。

ルフトハンザには、冷たいほどきちんとしたプロシア的規律はもうなくなった。ゲルマン的な規律は、ローマ的、あるいは東欧的な馴れ馴れしさにすっかり占領されてしまったのだ。 (了)

コメント

投稿者: Kinoshita | 2008年11月20日 12:17

河東様のヴェニス紀行、大変楽しく拝読しました。
制海権を持っていたヴェネツィア、海への信頼が何ものにも勝るものだったのでしょう。
12世紀以降、ヴェネツィアでは「センサ」(ヴェネツィア方言でキリスト昇天祭のことをさすのだそうです)の際には、海との結婚の儀式(スポザリーツィオ・デル・マーレ)が行われているのもその表れでしょう。
サンマルコの岸辺から豪華船ブチントーロ号に乗った総督が、ヴェネツィア潟が海とつながるリド島まで赴き、そこで金の指輪を海に投げ、「海よ、永遠の海洋支配を祈念してヴェネツィアは汝と結婚せり」と宣言するのだそうです。


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