Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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街角での雑想

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2008年10月06日

長崎旅情--出島と唐人屋敷

鎖国時代でも、オランダより中国が上得意
                                 Copyright ©河東哲夫(09.1 微修正)
08年の春、長崎に行った。「唐人屋敷」を見るのが目的だった。
長崎と言うとすぐ鎖国時代の唯一の海外への玄関、即ち「出島」、つまり南蛮のオランダ人、とこう学校で習ったのだが、本当はそれほどでもないだろう、おそらく江戸時代でも中国と外交関係はなかったとしても貿易関係はオランダをはるかにしのいでいたのではないか、それを証明してくれるのが「唐人屋敷」とやら何かよくわからないものではないか、―--そう思ったからだ。
そして調べた結果は、思った通りだった。
08年の春でも、熊本城に行くと韓国人の観光客が目立ったし、阿蘇の中腹にある「猿回し劇場」では観客の半分が中国人の団体だった。そして説明の字幕は中国語、韓国語、英語の三通り。中国人の観光客は品行方正で、日本人家族の子供達にごく自然に笑いかけていた。このあたり、日本とか韓国とか中国とか分けて考えるのは便宜上のことで、本当はつながっているのだ。

では、まず出島のことから始めよう。

出島
長崎は馬蹄形の小さな湾を市がぐるりと囲み(湾の入り口は南西方向)、一番奥の方に出島がある。
ここは埋立地で、江戸時代は海に突き出た本当の出島だったが(陸とは、橋で結ばれていた)、今では陸の内部に入っていて、周囲をぐるりと市電が通る。
そのサイズは200メートル×70メートルほどで、戦艦大和より少々小さいほど。
ここに、いくつかの商館が復元されている。と言っても、何回も建て替えられたものだから、徹底的な時代考証の結果、何年頃の何々という形でぴっしりした復元が行われていた。

(昔蝶々夫人が眺めただろう、長崎港の景色)

この出島はオランダ人にとっては、彼らが監獄と呼ぶほど陰鬱なところだったらしい。1年にオランダ船は2隻しか来なかった。と言うか来させてもらえなかったらしい。幕府に規制されていたのだ。出島は、オランダの「東インド会社」(商社や自治体などが出資した、一種の第三セクターのような組織だった)が賃貸する形になっていて、1年間に現在の1億円相当の賃料が幕府に払われていた。随分ボッたものだと思う。

西洋人がそのように扱われたところは、アジアで日本くらいのものだったらしい。
つまり政府の権力が強かったし、末端まで官僚機構がしっかりしていたのだ。そして、昔から日本人は外国人においそれとは儲けさせない性向をこの頃からもう発揮していたのだ。
それでもオランダ人は商売を続けた。どうも、日本の銅が利益をもたらすものだったらしい。日本の銅はきちんと精錬され、「棹銅」として輸出されていた。中国へ通貨鋳造用に随分出ていたはずだが、オランダ側の記録ではほとんどがインドに輸出されたことになっている。

船は6月から11月の間にやってきて、荷揚げの間(船は接岸せず艀を使った)、船長は出島の「船長室」にネズミに悩まされながら宿泊し(トイレはおまるを使っていたようだ)、船員は船に泊まっていたらしい。島の奥の一隅には牛小屋があり、教会もあった。牧師も当然いた。

(出島の景色。商館が並ぶ)

出島に遊女をよんでのどんちゃん騒ぎ
冬は船は来ず、その間15名ほどのオランダ人が何もすることなく、出島に単身赴任で常駐していた。「のぞき眼鏡」と言って、レンズをのぞくとオランダの街並みの写真などが立体的に見える装置(今で言えばDVDだ)が今でも部屋においてある。こんなものを見るくらいしかすることはなかったのか、可哀相に。

と思ったらそうでもなく、彼らは遊女を出島に呼んでは(遊女は出入りを認められていた)若い書記官たちと素人芝居をするなど、どんちゃん騒ぎをしていたらしい。
遊女と一緒に物干し台の上から望遠鏡で長崎港を見てはしゃいでいる絵などが残っている。中には赤子を背負っている遊女がいたりして、これなど、故郷の奥さんに発見されたら大変だったろうにと思う。こんなのを見ると、何がキリスト教徒だと思う。

ところでこの物干し台の絵http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/DejimaAstronomy.jpgにはどうやら黒人の召使のように見える人がいるのだが、これが何とその通り、南アフリカの黒人や東南アジアの人達が使用人として連れて来られていたと言う。何ともはや国際的などんちゃん騒ぎだったのだ。

で、出島には日本の役人も常駐していて、これを乙名(おとな)と言った。25人いたそうだ。
彼らの事務室が復元されていて、そこにはなぜかゴッドファーザーのテーマが静かに流れていた。
この乙名さん達は、荷が着くと検査をした。幕府への献上品もあって、これも彼らが「検査」するのである。許認可権限には不正がまとわりついた。オランダ人達はこの乙名に酒を飲ませたり、付け届けをしたりで大変だったらしい。これは乙名(おとな)ではなく、乙名(おつな)職業だったのだ。

そして通詞、つまり通訳もいた。当時、中国も外国との交易を広州に限っていて、日本もそれにおそらく倣ったのだろうが、広州にも通詞がいた。
彼らは代々家業として通訳を営み、通訳だけでなく、コンサルタント、商社員的な役割も果たしていた。長崎の通詞もそうで、その子孫が後に外交官になった例もある。学者になった通詞もいた。

そしてオランダ人達は、4年に一度は江戸の幕府に参上したのだ。
今なら大村湾の真ん中にあるものすごくきれいな長崎空港から(元は天然の島の上の海軍施設だ)飛んで行けばいいのだが、当時は往復90日かかった。
で、これは江戸幕府にとっては世界の情勢を知るいい機会で、オランダ政府が世界情勢年報のようなものをまとめて幕府にくれていたらしい。

幕末になると、オランダ政府は幕府に対してアヘン戦争後の世界情勢を説き、開国をしないと国の安全保障が危ないという忠告をしている。これは自分の独占商権が危なくなるのも顧みずに開国(と言うか貿易の自由化だ)すべきことを説いてくれたわけで、日本は感謝してしかるべきだと思う。

唐人屋敷
出島はそのくらいにして、今度は「唐人屋敷」だ。
名前から言って、中国人の商館のことかと思ったら、確かにそれはそのとおりなのだが、一軒の屋敷ではなく、海岸沿い、塀に囲まれた500メートル四方ほどの昔の「中国人街」のことだったのである。入り口には「麒麟」の像が左右に並ぶ。麒麟は向かって右がオスで麒、左がメスが麟、あわせて麒麟と言う、とここの解説に書いてあった、と僕のメモにあるが、ホントかね?

中国で明が滅びたとき、沢山の漢人(当時、「中国」とか「中国人」という概念はなかったはずだ。一定の領域に「王朝」が権力として存在していたのである)が日本に避難してきた。
清王朝は異民族である満州族の作ったもので、漢人に何をするかわからないと思ったからだ。
明の遺臣の一人は日本人女性を妻として、その子供鄭成功は台湾を占領し、ここをベースに海賊として富を蓄え、清に逆らう。彼は商船を仕立てて長崎に何度も入港し、資金稼ぎをするのである。
このスケールの大きな日中混血の英雄が、歌舞伎「国姓爺合戦」の和唐内のモデルだ。

中国から逃げてきた中国人達は多数、平戸を中心に住み着いた。彼らは幕府の規制外で「密輸」をしていたし、清に逆らう者もいて、江戸幕府はこれが清との関係)を緊張させることを恐れたろうから、1635年、国内6万人の中国人のうち1万人ほどを長崎に集めた。

因みに、平安時代の朝廷が遣唐使を廃止して以来、日中間に外交関係はなかった。と言うのは、中国は対等な「外交関係」は認めず、中国が保護者として振舞う「冊封・朝貢関係」しか認めなかったからだ。日本は、東アジアでは中国と冊封関係に入らない時期がほとんどだった唯一の国だ。足利義満が短期間冊封関係を結んでいたが、豊臣秀吉が明と戦った後は公的関係が復活することはなかった

ところで、長崎に中国人を集めて見ると、これが金銀の海外への大量流出を招いたこともあって、それを規制するため一時滞在の中国人は新しく作られた唐人屋敷に集住させられ、街中への出入りを統制された。
でも、出島と同じく、ここでも遊女は出入り自由で、それに中国人はオランダ人ほど厳しく動静を統制されなかったらしい。
当時の遊女はオランダ語と中国語ができないと完璧ではなかったわけで、大変だったろう。

復旧された唐人屋敷に入っていくと、正面から門が2箇所もある。出入りは、一応厳重だったのだ。
斜面にできた町を3本くらいの石畳の小路が貫き、その両脇は小さな店や大きめの家が立ち並ぶ。(当時の絵図)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Tojin-yashiki.jpg
雰囲気は、中国や東南アジアと変わらない。
中国船はオランダ船と違って、秋に来航し春に出航したのだそうだが、その間、数千人がこの「唐人屋敷」にたむろしていたらしい。
明治になってから唐人屋敷は放置され、火事で焼けた。中国人は唐人屋敷の外に新しい中国人街を作っており、長崎チャンポンが名物になっている。

(現代の「唐人屋敷」、中華街。毎年みなとまつりをやっている)

出島と同じく、唐人屋敷でも通訳が必要になったが、出島よりはるかに多数、しかも中国人が家代々の通訳になることが多かった。唐通事という。70数家もあったらしい。
彼らは風説書(中国大陸の情勢)も作成していたので、幕府には中国情報も入っていたのだ。

江戸時代でも対中貿易の方が上
「長崎の唐人貿易」という貴重な本がある。山脇悌二郎という先生が吉川弘文館から出している。これは江戸時代の日清関係から長崎で行われていた外国貿易の実態まで、実によく調べた、目からウロコが落ちるような本だ。ここでの僕なりの発見を並べておく。とうにご存知の方もいっぱいいるだろうが。

●上記の明の忠臣海賊・鄭成功は、清にとっては現在の台湾のような深刻な問題だった。で、彼の船が中国で集荷できないように、清政府は海岸地方の住民を内陸に移して(遷界令)まで、弾圧に努めたのだ。

●鄭成功が死去する頃から、清政府による海禁(外国貿易の国家独占)措置も緩み、長崎には中国船の来航が急増した。
彼らは日本の割安の金・銀を大量に買い付けたので、幕府は貞享令を発して銅輸出を振興し、その金額内のみの輸入を認めるようにした。

●貞享令は、唐船の貿易高を1ヵ年、銀6000貫(金にして10万両、ただし、一両、銀60匁替)、蘭船の貿易高を金5万両に限ることを内容としている。これを定高という。つまり、江戸時代初期は対中貿易は対蘭貿易の2倍あったのだ。

●そして日本の大商社は、長崎での国家貿易にぶら下がって誕生している
元禄11年以降は長崎会所が設立され、国営商社として唐人屋敷での貿易を独占したが、これにぶら下がった商社が越後屋(三井)等だったのだ。泉屋(住友家)は、寛文から元禄年代へかけて、銅を唐・蘭船に売込んだ代表的な商人であった。

●これにダークホース的存在として薩摩が対中貿易に合法・非合法に入り込み、財を築いていった。
薩摩は琉球経由の中国産絹織物を、長崎で日本国内向けに販売したのである。
また、薩摩の船は新潟ばかりか、北海道の松前にまで入り込み(と言うか忍び込み)、極上の品を仕入れては清に売りさばいていたらしい。
これでは幕府の長崎会所のビジネスは上がったりなのだ。
それでも、幕府の薩摩への対応は腰くだけだった。島津・徳川・黒田が姻戚関係にあったためと思われるが、もしかすると薩摩から幕府へウラ金が渡っていたかもしれない。

●川勝平太教授等によれば、当時の日本は世界一の砂糖輸入国であったらしい。砂糖は、幕末まで輸入品の太宗だった。
どうしてそんなに砂糖が輸入されたかについて「長崎の唐人貿易」は、2つの理由をあげている。
1つは、帆船の底荷として最適であったことだ。

2は、長崎会所の収益が、多分に砂糖を売捌いた利益によっていたこと。
つまり、長崎会所は輸出用の日本国内物品を買い付けるための資金を、輸入砂糖を国内向けに販売することで得ていた。
だがそれにしても、大量の砂糖がなぜ売れたのだろう? 和菓子に使われたことになっているが、それだけで大量の砂糖が必要になるだろうか? 

(尻切れとんぼですが、以上で終わり)

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