Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
ChineseEnglishRussian

世界はこう変わる

Automatic Translation to English
Automatic Translation to English
2009年08月04日

菅野さんのチタ、ウランウデ訪問記

ロシアはバイカル湖の近く、チタ、ウランウデという二つの大きな都市がある。双方とも人口は35万人ほど。ウランウデのヘリコプター工場のように、工業も発達している。
双方ともロシア人植民者が作った軍都、行政都。チタは愛知県の知多(チタ)、ウランウデは山形市と北海道の留萌市が姉妹都市のようだ。
ウランウデはその変った名が示すように、モンゴル系のブリャート人(日本人にそっくり)が多数分布するブリャート共和国の首都、ラマ教寺院がいくつかある。ロシアでの仏教の中心地とみなされている。

僕はこのあたり、イルクーツク、ヤクーツク、ハバロフスクしか行ったことがないので、チタとウランウデについては好奇心があった。

そう思っていたら、以前東京銀行でソ連・東欧を担当し、今は欧州復興開発銀行のアドバイザーとして極東、東シベリアにしょっちゅう飛んでいる菅野哲夫氏から、チタ、ウランウデ旅行記を寄稿いただいた。
願ってもないことなので、ここに掲載させていただくことにした。      河東哲夫

チタとウランウデ訪問記

                                     菅野哲夫
はじめに                       

チタとウランウデを訪ねる機会があった。
そこで繰り返された「祝杯のスピーチ」の機会に、世界に誇る日本の短い詩である俳句を説明しながら、「来た、見た、知った(チタ)、ウランウデ!」の中に込められた感激について述べた。
ここ両所への旅は、実に私の浅薄なシベリア感を一変させてくれた。

訪問のきっかけは単純。私が欧州復興開発銀行TAM/BAS Programme Japanese Liaison Adviser for Far East Russiaを務めていることから、日本センター・ハバロフスクの黒坂所長より、「チタとウランウデで『マーケッティングとビジネスマッチング』のセミナーをするので、協力してくれないか」との誘いがあり、快諾したからだ。

7月13日(月)新潟からハバロフスクに飛んだ。そこで、一週間2回しか飛ばないチタ便を待つ。
16日(水)ハバロフスクを09時00分(以下全て現地時間表示)に発つ。12:30、チタ空港に着く。

17(金)と18日(土)の2日をつかってセミナー。土曜日なのに、沢山の受講者が参加。無事に講義を終え、7月20日(月)01時09分、チタ発列車でウランウデに向かう。

同日10時17分、目的地に到着。21日(火)と22日(水)の両日、セミナーを行う。ここでも嬉しいほどの熱気のなか、無事にセミナーを終える。
飛行便なら、イルクーツクまで行って、ハバロフスクに戻る方が日程的には便利。そこで、23日(木)10時00分、ウランウデを汽車で発って、イルクーツクに17時31分着。
モスクワの都合で飛行便の時間が決められるから、イルクーツク発は真夜中の01時55分。ハバロフスクに着いたのが07時25分。
なお、日本との時差は、ハバロフスクが+2時間、チタが+1時間、ウランウデとイルクーツクが±ゼロ。距離は、ハバロフスク−ブラゴベーシェンスク−スレテンスク−チタ−ウランウデ−イルクーツクの片道で約2,500キロメートル。これを7月15日から7月24日の約10日間で往復したわけだ。 

チタとウランウデ行きが決まって、再度チェーホフの「シベリアの旅」と「サハリン島」を読み返す。
チェーホフは30歳で、作家としての一代転機を図るべく、1890年4月21日、モスクワを発った。目的地はサハリン。馬車と川下りの難行苦行の末、サハリンに到着したのが7月10日。
それから約3ヶ月間、作家としてサハリンの当時の現実を鋭く観察し続け、10月13日になってサハリンを後にする。帰途日本に立ち寄るつもりであった。
しかし、極東でコレラが流行っていたため、実現せず、香港を経由してモスクワに戻った。これが12月7日のことで、出発から約8ヶ月が経っていた。

その当時のシベリア旅行の厳しさは想像を絶するもので、その一端をチェーホフが書いた「シベリアの旅」(神西清、原卓也訳:中央公論社)から読み取ることができる。特に記憶に残るくだりを列挙すれば次のとおり。

1.「シベリアはどうしてこう寒いのかね?」「神様の思召しでさ」とがたくり馬車の馭者が答える。

2.1年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥濘で、夏は小山と穴と修理で、冬は落とし穴で。かってヴィーゲリ注1や、後れてはゴンチャローフ注2の息の根を止めたと言われる疾走は、今日では冬、雪の初路でなければ想像し得ぬところだ。
 注1:作家で、『回想録』等の著作がある。1787-1856年の生涯。
 注2:1853年、提督プチャーチンの秘書として、海路日本を訪問。『オブローモフ』
    の著者。1812−91年の生涯。

3.エニセイを越えると間もなく、有名なタイガ(密林帯)がはじまる。これに関しては色々と喧伝も記述もされてきた。そのため返って実際とはほど遠いものとなっていた。最初はどうやら多少の幻滅感さえ抱く。松、落葉松、樅、白樺からなる変哲もない森が、道の両側に間断なく続いている。五抱えとある木は一本もなく、見上げると眼まいのするような喬木もない。

以上のように、今となると、シベリアの変化や無変化の様子がよく理解出来る。大切なことは、シベリアを語るとき、チェーホフが描写した原点を忘れてはならないことだろう。

さて、今回、チタとウランウデの2都市をみただけの話であるが、それでも、現地を訪ね、読んだり、聞いたり、見たりしたことにより、そのシベリア感をあらたにする機会となった。以下に、そうした印象の強く残った事項に関し、誤解や間違いを恐れずに書き連ねてみたい。

1. シベリア管区とチタ市、ウランウデ市

チタ市とウランウデ市が属するシベリア連邦管区はロシア全体のなかでどんな地位を占めているのであろうか。

下表のとおり、シベリア連邦管区は国土5,145千㎢でロシア全体の30%,人口2千万人弱でロシア全体の14%弱、地域総生産でロシア全体の11%弱のシェアを占める。極東連邦管区と比較すると国土は若干狭いものの、人口や地域総生産で凌駕している。

なお、本稿では、「シベリア連邦管区」と「極東連邦管区」を合わせた地域を「シベリア以東ロシア」ということにしたい。


(1)シベリア連邦管区の基本数字               
全ロシア シベリア連邦管区(a) 極東連邦管区(b) シベリア以東ロシア
   (a)+(b) 備考欄
国土(千㎢)
(構成比%) 17,098.2
(100.0) 5,145.0
(30.1) 6,169.3
(36.1) 11,314.3
(66.2) 広大な土地
人口(百万人)
1996.1.1
(構成比% )
2008.1.1
(構成比%)
148.3
(100.0)
142.0
(100.0)
20.9
(14.1)
19.6
(13.8)
7.4
(5.0)
6.5
(4.6)
28.3
(19.1)
26.1
(18.4)
ロシア人口の18%
地域総生産(%) 100.0 10.7 4.4 15.1 ロシア経済の約15%
平均名目月収
2007年(Ruble) 13,593.4 12,344.8 16,713.0 -- シベリア連邦管区は低い
1人住面積(㎡) 21.5 20.2 20.6 -- 両者全国平均より狭い
(出所:ロシア統計2009年)


(2)ザバイカル地方とブリヤート共和国
チタ市は従来チタ州の首都として存在してきた。しかし、2008年3月1日にいたり、チタ州とアガ・ブリヤート自治区が合併し、あらたにザバイカル地方として発足することになり、その首都となっている。

このザバイカル地方と、ウランウデを首都とするブリヤート共和国はお互いシベリア連邦管区に属しながら、現政権が進める「極東ザバイカル長期発展プログラム」の対象地域となっている。

ザバイカル地方とブリヤート共和国の主要指標は次表のとおりであるが、両者が属するシベリア連邦管区全体に占める両者の割合をみると、面積で15.2%、人口で10.8%となっている。

民族面では、ロシア人が多数を占めるが、その他では、モンゴル系ブリヤート人、ウクライナ人、タタール人など数多くの異民族が雑居している。とくに、ブリヤート共和国の民族は多岐に亘っており、したがって、宗教も、ロシア正教、チベット仏教、シャーマニズム等多種にわたっている。

ザバイカル地方 ブリヤート共和国
面積 43.2万㎢ 35.1万㎢
人口 113.8万人 97.9万人
首都 チタ(人口:37万人) ウランウデ(人口:39.3万人)
民族
(%) ロシア人:89.6、ブリヤート人:4.5、ウクライナ人:2.2、タタール人:1.3 ロシア人:60、ブリヤート人:23、その他ウクライナ人、タタール人など60近い民族が居住する
宗教 ロシア正教 ロシア正教、チベット仏教、シャーマニズム
略史 1653年:ザバイカルコサックが越冬地として開拓。
1675年:ロシア人の定住が始まる。
1699年:チタ要塞が建設される(地名はスロボダ)
1825年:デカブリストの流刑地となる
1851年以降:チタ市となる。
1920年:極東共和国の首都(〜1922年まで) BC3~1世紀:フン族などが居住
1206年:チンギスカンの傘下に入る
17世紀半:ロシア帝国に統合される
1666年:ザバイカルコサックが越冬要塞を建設
1923年:ブリヤート・モンゴル自治SSR成立
1991年:ブリヤート共和国成立

産業 モンゴル、中国との国境近くに位置する。特に、
1980年以降、満州里との国境交流が活発化。
山と森林の国で、金、銅、石炭、モリブデン、ウラニウム等を産出する ウランウデはウランバートルと鉄道・道路で結ばれた交通の要衝に位置する。
軍需産業を中心とした機械工業の占める比重が大きく、石炭、ウラニウム、モリブデン、亜鉛、金、鉄鉱石等に富む。

重要 チタ州も、シベリア管区に属しながら、ブリヤート共和国同様、「極東ザバイカル長期発展プログラム」の対象地域に含まれる ブリヤート共和国も、シベリア管区に属しながら、チタ州同様「極東ザバイカル長期発展プログラム」の対象地域に含まれる

2. チタ市とウランウデ市およびそれら周辺地域のみどころ・話どころ

(1) チタ市および周辺地域

1)「チタ」という地名の由来

「チタ」という地名の由来について、ロシア人に聞いても、知っている人には会えなかった。チタに到着してから、現地の通訳に聞いてみると、「チトナ山」と呼ばれる山があり、そこから流れ出ている川がチタ川。そこら周辺に住み着いた人達が「チチンカ」と呼ばれるようになり、地名「チタ」が定着したのだろうとのことであった。

地元の資料に依れば、「チタ」については次の記述となっている。
 AA)「チタ」という地名がどこから来たのかについての古い記録はない。
BB) 1650—70頃の文書をみても、「チタ川」、あるいは「チタ」といった地名
   の記述は見当たらない。
 CC) その後、17—18世紀の半ば頃、チタの最初の呼称「プロットビッシェ」
   という表現が出現する。
DD) さらに下って、1701年に書かれた本のなかに、「チタ・スロボダ」と称
   される地名が記述されたのが、「チタ」名の最初の文書である。

2)高い教育水準を誇るアガ・ブリヤート自治区

ザバイカル地方の経済開発大臣はアガ・ブリヤート自治区出身の出世頭であるが、アガ・ブリヤート自治区の小学校の参観を手配してくれた。大臣は、ひと昔前のよき日本を良く知り、日本をこよなく愛してくれている有り難い人である。彼は、「アガ・ブリヤート自治区はロシアの中の日本で、その教育の高さはロシア全土で1−2を争う」と誇らしげに語った。確かに、大臣が言ったように、公立の小学校でありながら、学習施設が見事に装備され、先生方にも自信と誇りが溢れていた。

気付いた点を列挙すると次のとおりである。
AA)コンピューター要員の先生が3人常駐。学習に必要な教材の視覚化に必要なメインテナンスを集中管理していた。回答する時間がどのくらいかかったか、また、正解率が何%か、不正解率が何%であったかが、瞬時に分かる授業体制が出来ていた。

BB)中国語と英語のラボ施設が完備していた。特に、聴覚教育に偏ることなく、いろいろな視覚教育も盛り込んだ教材が揃えられていた。

CC)小さな部落の小学校であるところから、村民の運転教習所を兼ねるといった地域一体教育にも取り組んでいる様子が見てとれた。

D)学校間ニュースや新聞が広く活用されており、良い意味での「競争する教育」が実践されていた。
E)ロシアの中では一番教育水準が高いのがアガ・ブリヤート自治区であるとの自信が職員全体から感じることができた。

3)アガ・ブリヤート人秘話

今回チタ市周辺を快く案内してくれたのがかの経済開発大臣であった。大臣みずから、名所旧跡の案内役を引き受け、あちこち引率してくれた。特に、アガ・ブリヤート自治区の教育行政については、大臣自身がその経験者であり、「子供たちの教育にかける情熱」について胸を張って語ってくれた。

4)チベット仏教の霊峰アルハナイ山
チタ市から自動車で約5時間かかってチベット仏教の霊峰アルハナイ山の麓に到着した。信仰の山として、多くの市民がここを訪ねていた。

チベット仏教のロシアにおける総本山はウランウデにあるが、チタにも霊峰として多くの信者を集める「アルハナイ山」がある。「アルハナイ」という発音が日本人名「花井」さんを連想させるため、その由来を尋ねたところ次の物語を聞かせてくれた。バリジン・ハトウーンという王様が、逃げた王妃を追って「アラハオー、ヤー チェビャー ウビユー(「殺してやるうー」)と叫んだ声が、「アルハナイ...アルハナイ...」と谺して、山の名前が「アルハナイ」と名づけられたのだという。

アルハナイ山の渓谷を縫って流れる渓流があるが、私が手を流れに突っ込んで、1分ともたないほどの冷たさである。この水が多くのラドンを含む名水だという。そのため、この冷水を求めて沢山の信者が集まってくる。
1日3回定められた時間に、どこからともなく、沢山の人達が手拭を下げて集まってくる。ある者は頭を、ある者は足を、ある者は腹を、ある者は火燵櫓に仕切られた木枠に掴まって全身をこの名水に浸すといった具合に、ひと様々である。

かの案内してくれた経済開発大臣も、メタボ症候群の一人だが、同道された奥様や小生の「やめた方がいい」といったアドバイスを無視して、この渓流に5分ぐらい身体全体を浸かってみせてくれた。「見本をみせたから、お前もやってみろ」、と勧められたが、沢山のモンゴル人の末裔が見ているなか、わが貧弱な肉体を日本人代表として曝すわけにもいかず、残念ながら、この貴重な体験は実現しなかった。

5)デカブリストが流刑された地
1825年12月14日、首都サンクト・ペテルブルクで、ツァーリ専制と農奴制の廃止を掲げた貴族の青年将校による武装蜂起が敢行されたが、十分な準備もなく、また、事前の情報漏れもあり、新帝ニコライ1世の指揮する軍隊に容易に鎮圧された。579人が裁判にかけられ、首謀者5名が絞首刑、121名がシベリア流刑となった。チタ地域に流刑となったのは、数十人であったが、彼らを追って貴族の地位を捨てた妻達の姿もあった。

シベリア流刑は、制度として、モスクワ大公イワン3世(1462−1505年)の時代に始まる。それが本格的に利用されるようになったのは、18世紀になって、シベリアの資源の開発が叫ばれるようになり、植民や強制労働の形で、労働力を供給する必要からも、シベリア流刑が本格化した。しかし、シベリア流刑は、制度として、存在を続け得るものではなく、1996年の新刑法典の制定に先立って、廃止された。

6)極東共和国の首都であったチタ市とウランウデ市
ロシア革命後、いわゆる日本のシベリア出兵によって派遣された日本軍が1918年9月にチタ市を占拠。1920年10月22日には赤軍の傘下に入り、極東共和国に組み入れられた。その後、極東共和国の首都はベルフネウジンスク市(現在のウランウデ市)からチタ市に移された。極東共和国は1922年11月15日にロシアに併合された。そうした負の歴史を共有するが、チタ市の人々のわれらに対する歓迎振りは非常に好意的。日本の中古車の優秀性をしきりに褒めてくれた姿が印象的であった。
  
7)日本人シベリア抑留者

第2次世界大戦で日本が無条件降伏した際、満州、北朝鮮、樺太、千島列島に駐留していた日本軍のうち、約60万人の日本将兵がソ連の捕虜となり、シベリアはじめソ連各地に連行された。
当時のチタ州やブリヤート共和国は、稀少金属や石炭の探鉱や採掘、鉄道や道路の補修、建物や施設建設に多くの労働者を必要としていたので、比較的多くの日本人抑留者が送り込まれた。

そのころのことを説明するチタの案内書には「日本人シベリア抑留者」について次のように記述している。「第二次大戦後の最初の数年の間、チタ市には戦争に敗れた日本関東軍の捕虜たちが沢山住んでいた。彼らは手作業で、多くの住宅や行政府の建物を建造した」と。

チタ市やウランウデ市のあちこちに日本人達の墓地があり、気楽に連れて行ってくれた。日本人の勝手な解釈であろうが、こうした好意を目の当たりにすると、彼らは、負の歴史としてみるものの、歴史のひとこまとして、物事を大切にするという気質が強いように思われた。

(2)ウランウデ市

1)「ウランウデ」呼称の由来
ブリヤート共和国の歴史は遠い昔に遡る。この地は、エヴァンキ人やトウヴァ人等の居住地でもあった。その後、13世紀になって、武闘を好まないモンゴル族の一派であるブリヤート人が沿バイカルの地に進出。1700年頃になると、コサック達が到来し、モンゴルからの侵略を遮るため要塞が築かれた。2つの川が合流する場所に町が設立され、「ヴェルフネウジンスク」と命名されたのがウランウデの源点。

17−19世紀において、「ヴェルフネウジンスク」はロシア帝国の東端の貿易の中心であった。ロシアから中国にこの町を通って皮、ラシャ、絨毯、油、魚が、また、中国からは金、銀、真珠、宝石、シルク、木綿、食料品がやってきた。やがて積み荷の主役はお茶となり、「ティーロード」と呼ばれ、その取引高は「シルクロード」に次ぐ規模となった。

「ヴェルフネウジンスク」が「ウランウデ」と呼称が変わったのはソビエト時代になってからだそうだ。聞くところでは、「赤いウデ川」と上から押し付けられたこのソビエト的呼称に親しみを覚えず、あまり親近の情をもっていないとのことだ。

2)匈奴(フン族)の故郷
バイカル湖の南東の地は、匈奴(フン族)が紀元前3世紀頃から活躍した場所である。
その匈奴(フン族)こそは、秦の始皇帝に万里の長城を築かせ、ゲルマン人の大移動を引き起こした遊牧の民。一時、世界を舞台に大帝国を築き上げた恐るべき民族であった。
その民族が最初に居住し、フン族としての帝国を築いたのがこの地であったという。このフン族といい、また、モンゴル族といい、世界を制覇するという野望に燃えたこの地方の民族のエネルギーにただただ驚きと敬意を表した。

3)ジンギス−ハンの墓があるといわれる「イッフ−ホーリング(地名)」
チンギス−ハンは、モンゴル諸族のなかの正統な貴族であるニルン族のエスゲイ−バアトルとオルフヌト族のホエルンとの間に生まれた。誕生年は、1155年、1161年、1162年説があるが定説はない。
また、生まれた場所は、オノン河畔のデリウン−ボルタク山といわれている。その生誕に関わるこれといった説話はない。
チンギス−ハンは、その壮大な人生を歴史に残したが、その死は誠にあっけないものであった。
西夏国を攻め、王が和を乞うて来た1227年の夏頃、甘粛省六盤山中で狩猟を楽しんでいた。ところが、運悪く落馬した傷がもとで、同年8月18日この世を去った。

生前、チンギス−ハンはモンゴル族に縁の深いブルハン山中での狩りを好んだ。
そして、鬱蒼と茂る古木の樹陰で憩ったあと、「この地こそわが墓にふさわしい」と語ったといわれる。
しかし、一般に、モンゴル人は、墓を地下深く隠すのが常で、チンギス−ハンやその後継者の墓は発見されていない。
そんなことも手伝って、チンギス−ハンの墓説があちこちにある。ブリヤート共和国のなかに存在する「小ハマール−ダバンを後背地とするイッフ−ホーリング」もその有力な候補地のひとつである。

なお、ブリヤート共和国で公開されているジンギス−ハンの肖像画は、極めてハンサムなものであるので、参考までに公開しておきたい。

   IMG0021PDFの写真(技術的理由により未掲載)


4)ロシアにおけるチベット仏教の総本山
チベットからモンゴルをへてチベット仏教がブリヤートへ伝来した。
1741年、チベット仏教がロシア帝国許容の宗教と認められたことから、多くのダッツァン(礼拝所)が建てられ、哲学、医学、占星術、建築、絵画、彫刻など学問の中心地として、賑わいをみせ、多くのチベット語、モンゴル語、サンスクリット語による本が刊行された。

ロシアにおけるチベット仏教の総本山は「イヴォルギンスキー・ダッツァン」と呼ばれる。その威容と美しさは次の写真のとおりである。
  
     IMG0022PDFの写真(これも掲載へ向け努力中)


ここには、1911−1927の間、東シベリアのチベット仏教の最高指導者であったダシャ・ドルジョ・イティゲロフ大僧正のミイラとなった「瞑想座像」が安置されている。私どもが日本からきたことを知って、特別扱いということで、拝ませてもらうことができた。

6)ロシア正教(新教徒派)

ロシア正教は17世紀半ばに、コサック達によって、ザバイカル地方にもたらされた。
最初の教会は、1648年、バルグジン要塞に建てられた。

1741年に、ヴェルフネウジンスクに最初の石造りの首教座教会が建てられ、現在でも、ウランウデの中心地で美しく輝いている。

7)ロシア正教(旧教徒派)
2007年7月初旬、ブリヤートでロシア正教旧教徒派の国際大会が「アッヴアクーマ足跡を訪ねて」と題して開催された。
アッヴァクーマは1620年から1682年にかけて生存したロシアの作家であり、ロシア正教旧教徒の救済者的司祭長であった。
当時、中央では、ロシア正教の新教徒が主流を占め、旧教徒は圧迫されていた。そのため、彼は新天地を求め、「セメイスキー」と名乗る信者グループとなり、辿り着いた先がブリヤートのタルバガイであった。これが1653年頃のこと。
このタルバガイに、旧教徒の教会や歴史博物館がある。ロシア旧教徒の生活を想像してみることもシベリアを知る上で、有益であった。

シャーマニズムの故郷
シャーマニズムは最も古い宗教のひとつ。
ブリヤートのシャーマニズムの発祥の地はバイカル湖にぽっかりと浮かぶほんの小さなアリホン島であると考えられている。
自然界の力が戦争や災害から自分の身を守ってくれることを願い、「タイルガン」と呼ばれる祈祷を捧げる。

7)レーニン頭部像

ウランウデの市の中心地にあるソビエト広場の修復工事が進んでいた。その広場の一番の目玉が「世界最大のレーニンの頭像」だ。
ロシア極東の地にも、「万国の労働者よ、団結せよ!」と右手を突き出して今でも頑張っているレーニン立像は少なくないが、頭だけのレーニンは少ない。
コンクリート作りのように見受けられるが、真鍮つくりで重くはないそうだ。
そして、その大きさについては、ギネスブックにも載っているほどで、過去の歴史を大切にするウランウデ市民の気質を垣間みることができる記念碑となっている。

8)青色ポピー
ウランウデ市から40分程度の景勝地に連れていってもらったときのこと、黄色い花が一面に咲いている。何かと思ってみていたら、芥子の花だという。
黄色い芥子の花などあまりみたこともなかったので、感心してみていると、もう少し早い時期だと、「青い芥子」の花が見事だという。

帰りのハバロフスク空港で、小生を「大学の先生」だと誤解した人から声を掛けられた。
高校の先生を退職して、今は熊本在住。宮崎の仲間も入れて、こうして、12ー13人の男女グループで世界を巡って歩いている。花の写真をとるのが目的とのこと。

早速チタとウランウデを売り込みしたところ、ぜひ来年の訪問候補地に取り上げてみたいとのこと。私が、直接、著者であるおばさんからもらった本「Baikal」をみせたところ大喜び。
関心のある箇所を日本語にしてe-mailすること、また、来年のツアーに仕立てる準備のために、講演に行くことも辞さない旨を約束した。
とくに、青色ポピーの花にはご関心が強かったので、ご参考までに写真を添付しておきたい。

   IMG0023PFDの写真(これも技術的理由により未掲載)
  

おわりに
限られた時間と資料による観光案内はさておき、セミナーでどんなことを講義したのかについて若干なりとも触れておくこととしたい。

勝手な私の夢物語であるが、「日本にとって望ましいシベリア以東ロシアのあり方」はどんなものなのであろうか。それは、「日本の国益を最大限尊重してくれ、日本の資本や技術、ノウハウを使いこなして、もって世界経済への参入を進め、同時に、日本への資源や穀物に最大配慮をしてくれ、日本のネットオンとなる経済圏として貢献し続けてくれるよきパートナー」ということになるだろう。

そんなことは現実にありえないだろうが、人間万事塞翁が馬、天変地異が起こって、日本人がこの地に救いを求めるということも考えられないことではないだろう。永い眼でみたシベリア以東ロシアとの付き合いの重要性を自分にも良い聞かせたかったのだ。セミナーで強調したことは次の点であった。
1. お互いに協働した方がよいと思われる環境にあるということ。
ちなみに、ザバイカルからみた日本の重要性は次のように整理出来る。

1)地理的にも至近距離にあり、取引実現の可能性を秘めた大きな市場である
2)資源と技術といった具合に、相互に補完しあえる関係にある

3)国際市場参入に当り、種々協力を期待出来る市場である
4)先行投資と技術移行に比較的理解がある市場であるロシアの生産業・農業・
加工業への関心が高まっているグッドタイミングである

  逆に、日本からみたザバイカルの重要性は次のとおり整理出来る。
1)ネットオンとなる市場である
2)資金や技術を提供すれば自力発展できる市場である

3)中央ロシア、中央アジア、欧州進出へのアンテナ的機能を有する市場である
4)日本の中小企業にとってサイザブルな市場である

5)5−10年先に大きく育つことが期待出来る市場である
6)中国一辺倒から多角化を目指すうえで、大きな魅力ある市場である

2. 現状をみるかぎり、多くの人が「日本との取引は不要」と考えるのも無理からぬことであろうが、次のように考えた方がよいのではないか。

1)現在、チタやウランウデの人達が「日本との経済関係はあまり必要でない」 と考えていることは、現実でもあり、理解することはできる
2)しかし,将来必ずチタもウランウデも世界経済に緊密に参入せざるを得ない時が到来する筈である。

3)第2次世界大戦後、日本に残ったのは廃墟と人間だけであった。しかし、そこから立ち上がって、世界第2位の経済規模の国を創り上げた。この日本の努力や工夫・技術は必ず皆さんのお役に立つ筈である。

4)信頼の醸成、質、量、納期、低価格など極めて厳しい条件を日本人は突きつけるので「やかましい」と考える人達が多いかも知れない。しかし、重要なことは、これを拒絶するのではなく、時間をかけて解決し、挑戦していくこと。すなわち、このことが将来を切り開く鍵だということだ。

5)日本との関係を短期的にみるのではなく、ぜひ、長い眼でみた付き合いを考えて欲しい。

3. 今回のセミナーを通じ、シベリアのみなさんに、ロシア極東の中小企業のみなさんと現在次のような「ビジネスマッチング」の仕事を進めていることを報告したい。
シベリア管区は極東に比べ運輸面で不利となること免れないが、努力と工夫次第で、それをはねとばすことは必ずできる筈。
日本センターや欧州復興開発銀行のサービスをうまく使って、一緒に仕事をしてみようではないか。

1)日本の会計事務所がロシアの「法律・会計・税務」の専門機関との交流を望んでいる。そのパートナーとなるロシアの専門機関を探して欲しい
2)日本の物流会社が日本商品の輸出手配を受け持つ。ロシアの物流会社はそれを受けて、ロシアの小売業へ売り込む。そうしたロシアのパートナーを探して欲しい

3)ロシアに日本の銭湯「湯—トピア」施設を持ち込みたい。それを現地で運営管理してくれるロシアのパートナーを探して欲しい
4)ロシアの赤字レストランを抜本的に改善したい。種々アドバイスをしてくれる日本人の親切なコンサルタントを探して欲しい

5)日本の最新医療機器を使って、ロシア人のための健康診断を引き受ける。「観光+温泉+スキー+健康診断」の複合ツアーを企画したので、ロシアで集客してくれるパートナーを探して欲しい
6)極東の大農場から耕作地を借り受けて穀物や野菜の栽培をしてみたい。こうした日本の農業グループの希望を叶えてくれるロシアのパートナーを探して欲しい

7)極東に、「ミスタードーナツ」店形式の店舗網を展開したい。装備やノウハウなどの指導や教育をしてくれる日本パートナーを探して欲しい

4. ところで、7月13日(月)にハバロフスクに到着して、ホテルのレストランで一人軽食をとっていた時のこと。私のお客さんでもあるロシア人がやってきてこう言った。
「菅野さん、あのM社の社長が行方不明になっています。会社は倒産のようです」と。M社といえば、一時飛ぶ鳥を落とす勢いで、日本からのお客さんも本当にお世話になった会社。ロシア極東で仕事をしたひとなら誰でも知っている。それが立ちいかなくなったようだ。

5. 「ビジネスマッチングのサポート」を掲げ、公的・私的機関がそれぞれのやり方で積極的に活動している。
しかし、その難しさは、こうした事例でも明らかなように、「ただ引き合わせればよい」ものでもなく、また、「ただ、依怙贔屓をして引き倒す」ことでもないということだ。サポートする以上、財政的地盤を確認したうえで、中庸なポジションに立って、両者が本当に満足するビジネスマッチングを両者の判断で行う原則を遵守しながら進める。
この重要性を再確認した旅でもあった。

6. 最後に、チタとウランウデ、さらには遠い周辺からわざわざ受講してくれた若手ビジネスマンやレディー皆さん、その事務局となって専心的に裏方事務を黙々とやってくれた方々、それに何よりもまず、こうした熱気を読み取ってセミナーを開催している黒坂所長を初めとする日本センターのみなさん、ここにあらためて謝意を表する次第です。
                                 (了)
欧州復興開発銀行TAM/BAS Programme
Japanese Liaison Adviser菅野哲夫 記

コメントを投稿





トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/810