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世界文明

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2021年4月29日

日本の国家がばらばらになる危惧

(以下は、大きな論文の一部です)

今の世界の中で、日本はどう生きていくか? 「4月現在コロナ・ワクチン接種率は世界で60位」が、日本人の国内ガバナンス、そして対外折衝能力の位置を如実に示している。課題は多い。ここではまず基本の基本、日本を一つの国家としてまとめていた「糊」が最近緩んできて、日本は一つの国家としての機能を失ってしまうのではないかという恐怖感について述べておく。

 「国家」は当たり前のものではない。それは人間が作ったものだ。1991年、筆者の眼前で、ソ連という大国が文字通り消失した。日本の場合、国の統一は信長・秀吉によって回復されて、まだ400年強なのである。

今日本では、戦後の日本を曲がりなりにも一つにまとめてきた所得上昇という夢が消えている。しかも米軍による占領の遺物としての日米同盟体制が日本国内のイデオロギー的対立――保守と革新、つまり戦前の超国家主義とマルクス主義の対立――を抑えてきたのが、米国の力の後退と中国の台頭で相対化しつつある。中国が台湾を制圧し、米軍が日本から去るような場合には、保守・革新の対立が息を吹き返し、日本は米中の間、あるいは無鉄砲な国粋主義で、頼りなく揺れ動くようになるかもしれない。

そもそも信長・秀吉による再統一後、日本は近代欧州型の、民主主義に基礎を置く国民国家をまだ十分確立していないのだ。米欧諸国、特に北欧・ベネルクス諸国では、政府は国民が作り上げた、自分達のものなのだという「オーナーシップ」の感覚が、建前ではなく実感として確立しているように感ずる。

そこでは、自分の権利だけでなく、他人の権利も同等に尊重される。個人的に親しいわけではない他人は一からげにして、publicとして意識される。両者の間に上下関係はない。Public(社会)の掟を守ることは別に強制されてそうするのではなく、儒教のような長幼の序列に強いられてそうするのではなく、同等の権利を持つ他人を尊重する気持ちから、自発的にそうするのである。つまり北欧諸国では、publicと個人は分離したものではない。

ところが日本では、農村の村落共同体を出てばらばらになった個人を束ねる仕組み、論理が確立していない。欧州の人間のような「個人」、あるいは「市民」としての意識を持たず、ただ他者との交流を断って自分のからに閉じこもる者が出やすい。そうした人間は、政府、地元の役所から多くのサービスを受けていながら、税金を取られること、自分の生活に立ち入られることに過剰に反発する。Publicに一切の権利を認めないのである。彼らにとってはpublicは自分と無関係の存在、あるいは昔の「お上」で、できるだけ触りたくない存在なのである。

このような社会を、明治維新後一つにまとめてきたものは、戦前は教育勅語に体現された、天皇を頭とする疑似絶対主義体制(明治憲法の立憲君主制は外国向けの外面の話しである)、そして戦後は既に述べたように、所得上昇への望み、そして日米同盟であっただろう。

国外の、世界の枠組みが流動化してきた今、日本には――米欧諸国も同様に問題を抱えているのだが――、バラバラの社会が残されている。近代国民国家を率いるべき政治家はヴィジョン、責任感、そして政治を実行するためのガッツと人脈を持っていなければならないのだが、それをすべて備える者は殆どいない。国民に媚び、国民の望むことには見境なく税金をつぎ込むことで権力を維持する。かつてはこのような政治家に代わって国家の運営をつかさどった官僚も、人事権を政治家に握られて忖度を繰り返す存在になり果てた。それに、国民に選ばれたわけでもない官僚には、安全保障や経済について大きな決定をする資格がない。

政治家、官僚、企業の幹部、そして一般人、すべては戦後の経済的な成功に甘やかされて、ハングリー精神、競争精神を失い、自分とは別の何かがすべてをうまく整えてくれるものと無意識に期待している。既に述べたように、これからロボットとAIが果たす役割が増えてくると、人間は働かずして食える状況が現出するだろう。その時、向上心を失って、あてがいぶちの餌をはみ、喧嘩とセックスに明け暮れる存在に人間が堕ちるとしたら、その率は日本人の間では最も高くなるだろう。

宿命論を述べても仕方ないので、これからの日本で最も必要なものを少し敷衍して、本稿を終える。それはまず第一に、既存の企業に依存、安住を続けるのではなく、企業内の改革、そして新規企業の設立、つまり経済の活性化をはかることだ。そして学校、家庭での教育では、子供たちに「市民」としての権利と義務、つまりpublicと個人の関係についての原則を植え付けること、既存のシステムに依存するのでなく、新境地を自ら開いていく気概と能力を持たせることが必要だ。

外交面では米国への過度の依存から少しずつ離れて、自主防衛・外交の部分を増やしていく。自主防衛・外交と言っても、日本一国だけで生きていくことは無理である。自国の存立基盤となる同盟国・友好国、つまり仲間を持つ必要がある。

政治家、官僚、その他日本の政策を形作っていく人達は、思考が惰性化して現実に見合わないものになっていないか、自分が単なる既得権益層になって変革を妨げる存在になっていないか、常にチェックしていく心構えを持たねばならないだろう。
できないことを並べていても仕方ない。この章はこれで終える。

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