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世界文明

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2020年11月22日

ロシアのあるテレビマンの思い出に寄せて

(9月の初めになりますが、ロシアのテレビマン、グリゴーリー(グリーシャ)・ヤーコヴレヴィチ・ラートネル氏Grigorii Yakovlevich Ratnerが亡くなりました。この人は目立とうとしない人でしたが、彼を知る人たちは、その能力と高潔さ、そして1990年代の困難な時代にロシアのテレビの水準を維持することに注いだ献身的な努力を高く評価していたものです。自分は当時、モスクワの日本大使館で広報部長をやっていましたから、彼にはよく助けてもらったものです。遺族の願いにもより、ここにラートネル氏の思い出を記すことにします。この一文は、同氏についてのロシア語wikipediahttps://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A0%D0%B0%D1%82%D0%BD%D0%B5%D1%80,_%D0%93%D1%80%D0%B8%D0%B3%D0%BE%D1%80%D0%B8%D0%B9_%D0%AF%D0%BA%D0%BE%D0%B2%D0%BB%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87にも寄せたものです)

 グリゴーリー・ラートネル氏死去の知らせは、私にとって大きな打撃でした。まだモスクワが混乱状態にあった1990年代からの友人だったからです。当時自分は日本大使館で、日本についての広報、そして日ロ関係の様々な問題についての日本政府の立場の広報を担当していました。

 そのころのロシアのテレビ界では、外国についての情報に対する飢えのような現象が見られました。外国人との付き合いがやっと自由になったからです。

どういうきっかけでグリーシャと知り合ったかはもう覚えていません。多分、彼が国立テレビ局で担当していたニュース番組に出るよう、私に声をかけてきたのがきっかけだったのでしょう。そのあと、彼はよく私に声をかけてくるようになりました。あとでわかったことですが、彼は以前から日本文化に大きな共感を持ってもいたのです。日本文化に、何か優しい、繊細なもの、つまり時として荒々しいところのあるロシアのやり方と対極的なものを見ていたのです。

彼は、心のどこかに温かい、そして人間的なものを持っていました。それは若い時に、クラシック音楽を本格的にやっていたことにも表れているのですが、何と言っても夫人のアンナ・ラートネル (旧姓Leibchik)の治療のために仕事をなげうち、約10年間、家族とともにイスラエルで過ごし、夫人の治療に専念したことは感動的なものでした。

彼はテレビマンとしても、立派な人物でした。特にリベラルとか、国家主義者というわけでもなく、多分ソ連国立テレビの報道番組の独立性を維持することが、彼にとって一番大事なことだったのでしょう。国立テレビのニュース「ヴレーミャ」の編集は、大きな責任を伴う仕事だったのです。

 1991年8月の保守派クーデターの際、彼は国立テレビ局の本拠オスタンキノに、上司のヴァレンチン・ヴァレンチノヴィチ・ラズートキンとともに踏みとどまり、クーデター首謀者たちがテレビ局を支配下に収めようとすることに秘かに抵抗していました(注:このあたりは、ラートネル氏の知人が加筆したもの)。クーデターの日、グリーシャは国立テレビ総裁の秘書室で当直していました。クラフチェンコ総裁は、その日のニュース番組「ヴレーミャ」を放送する責任を回避して、郊外の別邸に引きこもっていたのです。従ってその責任は、報道局長のヴァレンチン・ラズートキンの両肩にかかってきました。

総裁室には、政府要人用特別回線を使って、すべての重要な電話がかかってきました。そうした中でラズートキンとラートネルは、ニュースの編集をやり続けました。二人は、クーデターを仕組んだ「国家非常事態委員会」を支持するよう求められていましたが、そうする気は全然なかったので、危ない橋を渡ることになりました。そうやって、「国家非常事態委員会」の意向とは正反対のニュース報道になったのですが(注:クーデターの首謀者ヤナーエフ副大統領の手が記者会見中、震えているのを克明に映し出した他、戦車によじ登って国民へのアピールを読むエリツィンの姿も画像つきで報道)、「ヴレーミャ」の放送が終わるや、クーデター首謀者の一人プーゴ内相が電話をかけてきて、ぶっきらぼうな声で告げました。国家非常事態委員会に抵抗した廉で、お前たちを全員解雇し、罪を問うことになる、と。しかし、ラズートキンとラートネルはひるむことはなかったのです。これは勇気と名誉心がなければ、できることではありません。

 それに加えて、グリーシャは金に対してきれいな人物でした。1990年代と言えば、国立テレビ局では猛烈な勢いで商業化が進んでいた時です。コマーシャルのための放送時間枠が売りに出されていました。テレビマンたちは、そのカネを自分のポケットに入れる誘惑に簡単に負けていました。しかしグリーシャは見たところ、職権を乱用して金を稼ぐようなことはしていませんでした。みすぼらしい、国産車に乗っていましたから。

そして夫人の治療のためにグリーシャは、モスクワでのすべてをなげうって、イスラエルに移住しなければなりませんでした(注:ガンの治療はイスラエルの方が進んでいましたし、彼はユダヤ系でしたから費用を免除されたのでしょう)。彼はそこでゼロから始めて、イスラエルとロシアのテレビ局間でニュースを交換する道を開くのに大きな貢献をしました。彼のこうした勇気、そして自分に近い者、家族に対する献身ぶりは尊敬に値するものでした。

.ソ連崩壊直後、すべてが自由になったかに見えた1990年代であってさえ、ロシアのテレビマンは外国の外交官との付き合いをかなり厳しく規制されていました。グリーシャも、そうした仕事上のきまりを守っていて、私が高価なレストランでの会食に誘ってもいつも断ってきました。

しかしある時彼は、日本政府の招待を受け入れ、少人数の撮影チームを率いて訪日しました。日本で、完全な自由の下に番組を作ったのです。確か彼は、自分で希望して、日本が返還を要求している北方四島が北海道にどんなに近いかを撮影に行ったはずです。

 そのような彼の姿は、私が書いた小説「遥かなる大地-イリヤ―の物語」(ヴァグリウス、2001年。日本では草思社2002年)に、好意を持って描かれています。ここではグリーシャは、アポローンという名のテレビマンとして登場します。その箇所は次の通りです。
ーーアポローンはテレビ局の幹部。それなのに、「ザポロージェッツ」を運転してやがる。

(アポローンは言った) 
「俺みたいな男は分をわきまえなきゃならない。ユダヤ人だからってわけじゃない。それもあるよ。だが,まだ上に行こうと思えば行けるんだ。コマーシャルの料金をくすねようと思えば,できるよ。女性アナウンサーとしけこもうと思えば,よりどりみどりだ。そうしてる奴は,掃いて捨てるほどいる。でも,俺はもういい。ソ連時代の考え方が染みついたこの俺は,もうこれ以上,上に行くべきじゃない。俺は,昔の男なのさ。ははは」

・・・アポローンのザポロージェッツはまたエンストを起こすと,五回目の試みでのろのろと
走りだし,まだ濡れたサドーヴォエ環状線の混雑に,頼りなく消えていった・・・――。
                   ◇

 最後になりますが、大事なことを。夫人のアンナがイスラエルで亡くなったあと、グリーシャはモスクワに戻り、幸運なことに新たな伴侶、エレーナ・ツィルーリニコヴァ(Elena Tsirulnikova)さんを見出しました。彼女は、グリーシャの晩年、頼りになる支えとなりました。彼女が動いてくれたおかげで、我々は、ロシアのテレビ報道を現代化するうえで大きな貢献をしたグリゴーリー・ヤーコヴレヴィチ・ラートネルの記憶を後世に残すことができるのです。グリーシャが安らかに眠るよう祈ります。
河東哲夫

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