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世界文明

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2019年1月 3日

米国の退潮 退場への備えは超国家主義ではない

(これは、12月26日発行のメルマガ「文明の万華鏡」第80号の一部です。同メルマガ継続講読ご希望の場合、http://www.japan-world-trends.com/ja/subscribe.php で手続きをお願いします)

 米国の退潮は、ベトナム戦争の頃から一貫して語られてきたし、2008年のリーマン危機後はロシア・中国が声を揃えて囃したててきたものだが、いずれも現実のものとはならなかった。中ロ自身がその貿易の多くをドルで決済し、外貨準備の多くをドルで保有している有様では(ロシアは米国債の大半を売却したと称しているが、実際には欧州で保管しているとも報じられている)、彼らの言うことを信ずることはできなかった。

しかし米国の退潮を食い止めると称して登場したトランプは、彼自身の政策の誤りで、米国の退潮を却って加速し、表面化させ、破局に導こうとしている。これはよくあることで、例えばソ連の分裂を防ぐために1991年8月、軍・諜報機関がクーデターを起こしたが、民衆がエリツィンの周りに結集したことであえなく失敗。ソ連解体を却って速めることとなった。そしてそのエリツィンは、「共産党を放逐し、経済を自由化して、ロシアを民主主義と市場経済の国にする」と称して大衆をあおり、1991年12月にソ連を解体してゴルバチョフを放逐、全権力を握ると価格を全面自由化した。その結果、国民は6000%のハイパー・インフレと、共産党に代わって国を統治する機関不在の大混乱状態に投げ込まれたのである。

トランプも、同じようなことをしようとしている。法人税大減税や金融大緩和で病的な上昇を続けてきた株式市場は、上昇要因が尽き、中国との貿易戦争、トランプ政権内の人事の荒れ、来年1月からの捻れ議会の出現等、下降要因ばかり目立つようになって、暴落を始めている。その規模は2008年のリーマン危機の時と同様である。

そして、前述のように金利が上がり、社債価格が下がって来ているために、企業によっては社債の償還に窮し、デフォルトとなるところも出てくるだろう。そうなると、信用不安の連鎖からリーマン並みの金融恐慌の再来となる。

Kakistocracyという言葉がある。社会の中で最低の能力と品格を持つ者が権力の座につくことを言う。中西部の白人労働者(彼らが、工場=職場が中国、メキシコ等に流出したことを恨みに思い、それまでの民主党支持からトランプ支持に鞍替えしたことが、2017年トランプの勝利を大きく支えた)の苦境を救うことは絶対に必要なことだが、それをわざわざトランプとその取り巻きのような連中にやらせると、ソ連崩壊のようなオウン・ゴールの失敗になる。

米国の退潮は製造業の流出によると言われるが、それは中西部では事実だろうが、米国の製造業は全体としては空洞化していない。現在でも米国は、製造業の産出額では、中国に次ぐ世界2位だし、これから中国での製造業の伸びが減速するにつれて、2010年頃に失った世界1位の座に返り咲くことも十分可能なのだ。今でも半導体製造機械ではアプライド・マテリアルズが世界一のシェアを有するし、宇宙・航空・医療・薬品・バイオ・ロボット等の先端分野では、米国の製造業はいとも簡単に(と見える)新製品を世に出してくる。

そして中西部の白人労働者階級の生活を改善することは、十分可能だ。彼らは、オレゴンのように労働力需要が上昇しているところに移転する財力をもはや持っていないので(手持ちの不動産の価格が下落しすぎている。と言うか、売ろうとしても買い手がつかない)、移転のためのローンを提供すればいいし、再研修も必要である。

そして、人口の1%がGDPの40%を独占しているという歪んだ格差構造を是正しないと(累進税強化等)、あるいはその40%分がもっと投資に回る環境を整えなければ、米国経済は活力を取り戻さないだろう。今の米国は、この人口の1%の者による支配構造はそのままに、低所得階層の面倒は日本や西欧諸国の企業(の直接投資)に見させようという、驕ったやり方を持している。これでは、ソ連崩壊直後、自らは石油利権、国営大企業の利権を独占しながら、困窮した大多数の国民の面倒を、西側に丸投げしようとしてエリツィン政権と変わるところがない。

以上をまとめると、米国自身が本当に退潮する可能性は低いだろうが、米国が内向きで、世界の安定と発展維持のためにコストを払おうとしない傾向は、これからも長く続くだろう。日本にとって、これはどういう意味を持つだろう?

(米国退潮と日本)
まず一つ。短期的には、日本はこれから「アベノミックス逆回し」現象に見舞われるかもしれない。それは円高と、米国・中国・世界経済の後退によって引き起こされる。成長率はマイナスになるかもしれないし、財政赤字は拡大するだろう。そしてまたデフレ・スパイラルがやってくる。分配を求める声は強まって、政権交代があるかもしれない。既に金利はゼロに近く、国債発行も限界に近い日本だが、危機をしのぐためには、国民の金融資産、つまりこれまでの貯金すべてに相当するくらいの国債発行を迫られるかもしれない。

二つ目。安全保障面では、「同盟」というものに対して冷淡なトランプの出現を、過度の対米依存を是正する機会としてむしろ活用するべきである。通常兵力では自衛隊の能力を増強し、自力で領土を守ることのできる能力を整備するべきである。しかし日米安保条約を廃棄することは、日本の安全保障環境を急変させ過ぎ、日本の負担能力を超えるのでよくない。安保条約と日米地位協定の改定も、デモと国会での果てしのない論戦を呼ぶだけなので、現行の条約の運営を徐々に変えていくことで対処するべきである。米国が在日米軍を減らすのであれば、思いやり予算は減額するべきだろう。

経済面でも、過度の対米依存は(否応なしに)是正されるだろう。2017年日本の対米貿易黒字は7兆円強で、2017年の日本の貿易黒字総額の2兆9072億円をはるかに上回っている。つまり日本は、米国との貿易で大きな黒字をあげて、それで他の諸国への貿易赤字を賄っている。そして対米黒字の80%近くは乗用車であるとされる。事実、米国の街路を走っている自動車の大半は日本製である(うちかなりは米国産であるが)。これは「やり過ぎ」であり、米国での現地生産を増やす等、是正するべきである。

これからの世界では「地産地消」が主流になると思われるので、日本での乗用車生産・部品生産は減少するだろう。日本は輸入をまかなうだけの輸出を確保できればいいので、経済構造を変えるべきだろう。そんなやり方でも経済活力を失わない方途については、先月のメルマガで書いているので、それをご参照願いたい。

(日本社会の根本的変動)
次に、日本の社会はこれらの変化、改革に適応できるかという、最大の問題がある。どの国でも同じだが、人間の多くは外界で起きている変化、混乱は知らないのであり、その中で「世界の変化に追い付けないから、変われ」と政治家に言われると、最近のパリでのように暴動を起こすのである。だから変化、改革は、現実の生活でじわり、じわりと起きて行って、市民にとっても政府にとっても消化可能であることが望ましい。

その面で、いくつかの「現場からの否応なしの変化」の芽はある。それは、「有名大学を出て、4月に大企業に就職する。または国家公務員になる」という、戦後数十年間有効だった理想の人生コースが退潮して来ていることだ。

世界の大企業の中には破綻するものも多くなっており(米国の銀行、GE、日本の東芝等)、インターネットは銀行の事務を劇的に合理化して、「銀行の総合職」という大口のエリート・コースを閉ざしつつある。日本の三大銀行は毎年5000人以上採用してきたが、2019年卒では2000人強に減るようだ
(https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=2502)。これは、日本の労働市場のうち上層部を大きく流動化、多様化させるものだ。

これまでのサラリーマン、つまり企業での総合職は減少し、代わって「コンピューター・エンジニア」が膨大な労働市場を形成しつつある。これは、教育制度に大きく影響するだろう。総合職に見合う「総合大学」は減少し、コンピューター教育に重点を置いた単科大学、高等専門学校、そしてハイ・クラスのコンピューター・エンジニア、あるいは弁護士等養成のための職能別大学院が増加するのではないか。

もう一つ、「現場からの否応なしの変化」は、外国人労働者の増加だ。電車でも商店でも住宅地域でも、中国語、韓国語がとびかい、インドネシア等からのイスラム系女性のヒジャブ姿が普通になってきている。

今のところ、欧州でのアラブ人のように、自国の文化・習慣を殊更墨守する「島」を作るような動きは目立たず、自己主張よりも社会に受け入れてもらうことを心がける外国人が多いようなので、外国人の増加は日本人のマインドを柔軟なものにする上で役に立っているのだが、受け入れ人数は限定していないと、必ず米国や欧州諸国におけるような問題が起きてくるだろう。つまり「庇を貸して母屋を取られる」現象が起きてくる。人間は「おもてなし」に期待するよりも、自分で自由にやっていけるようになりたいものなのだ。

(左右両極端を避け、中庸を)
戦後の対米依存から脱却し、社会も変化していく時代、日本はよほど価値観、哲学の問題をしっかり考えておかないと、過激な思想に流されるだろう。心配なのは、左右の両極端である。左の極端というのは、過度の分配で成長の芽を摘んでしまう経済政策のことを言う。労働組合が大きな力を持つ、いくつかの野党は、過度の分配性向を自戒し、「使える経済政策」を開発しておくべきだ。

右の極端というのは、戦前の超国家主義復活を目指す潮流のことだ。日本では、中央の権力が強力・専制的であったことは非常に稀で、ほぼ常に複数の中央権力・権威が併存している。明治維新の下で薩長閥が天皇をいただいて作り上げた絶対主義的体制においてすら、強い野党勢力を排除することはできず、僅かに1936年の2・26事件後、終戦に至るまでの9年という短期間だけ、1890年(明治23年)発布の教育勅語に代表される、天皇をかざした超国家主義・軍国主義が日本を支配したのに過ぎない。憲兵や内閣情報局が人権や民主主義を踏みにじった、僅か9年間のことを、これからの日本の基準にされてはたまったものでない。

現在、教育勅語、つまり天皇を仰ぐ絶対主義体制の哲学の土台になっている「水戸学」に注目する動きがあるが、水戸学の氏素性をよく調べてからにしてもらいたい。水戸学というのは、日本の他の思想と同様、確固とした理論、体系をもったものではない。

最近出た兵藤裕己の「後醍醐天皇」(岩波新書)は、後醍醐天皇は当時の上下の秩序を破壊し、天皇が公家や武家を飛び越えて臣民に直接号令する絶対主義体制を作ったが、水戸の徳川光圀が音頭を取って編纂された「大日本史」は、この後醍醐天皇の絶対主義イデオロギーを引き継いでいる、とする。大日本史は、徳川政権は天皇から授権を受けていると称するとともに、南北朝のうち後醍醐の南朝に正統性を認めているからである。右「後醍醐天皇」によれば、大日本史は徳川家を新田義貞系統の源氏の子孫としたので、新田義貞を使って足利尊氏除去をはかった後醍醐天皇を正統と認める運びになった由。

大日本史の編纂は資金不足で途中で蹉跌し、江戸時代の260年間余を通じ、担当部署が江戸屋敷に細々と残っていたに過ぎない。しかし「大日本史を完成せねばならない」という意識は藩の有識者の間には常にあり、しかも御三家であるので、日本全体を考えて国家を憂えるという伝統があった。

そうした思潮の中で、水戸には何人も学者が現れる。吉田俊純の「水戸学と明治維新」によれば、立原翠軒、金沢正志斎、藤田東湖等である。特徴的なのは、彼らは朱子学だけでなく、荻生徂徠(近隣の上総を拠点としていた)の影響を受けていたことである。徂徠の儒学は陽明学の系統にあって、朱子学が秩序を尊ぶのに対して、秩序を主体的に作り替えることを主張する。革命思想に通ずるし、後の吉田松陰に見られるように、革命のためにはテロも厭わないということになる。

重要なことだが、水戸の尊王攘夷論は最後のところでねじれる。つまり攘夷を叫ぶが、あくまでも江戸幕府の下で叫ぶのである。一言で言えば、それは尊皇敬幕ということで、天皇を前面に押し立てて自分たち徳川家による支配体制を守ることとなる。これは、水戸が御三家の一つであり、大日本史も徳川治世を正当化するために編纂されていたことの流れにある。

因みに、水戸藩での論争は非常に過激で、藩の内外でのテロにつながっているのだが、当時の聞き書きを集めた「覚書 幕末の水戸藩」(岩波文庫)は、その過激性の裏には、水戸藩の貧しさと、それゆえのポスト争いがあったとする。貧乏藩士はウナギの蒲焼の串けずりで稼いでいたので、いいポストにつけるかどうかは「蒲焼を自ら食うか、蒲焼の串をけずるか」の分け目であったそうな。「水戸産の蒲焼用串」は、念入りに削ってあるため、江戸で人気で、サンマは目黒、串は水戸に限ると言われていたとかいなかったとか。水戸学を神格化する前に、そういう側面もあったことは、覚えて置いた方がいい。

では、日本人が道しるべとするべき哲学は何か。筆者は、「できるだけ多数の人が自分の権利、自由、そして民主主義と良い生活を享受できること」だと思う。別の哲学であってもかまわないし、人それぞれ好みがあるだろうが、要するにそれはわかりやすいもの、実行可能なものでなければならず、決して上から押し付けられてはならない。「自由と民主主義」にしても、米国人がやりがちの、「後れた途上国の人間を啓発するために」上から目線で押し付けるものであってはならない。

結局のところ、少し下世話に聞こえるかもしれないが、日本人が常々口にする「ちゃんとしている」ことこそが、日本人の責任感、協調性、人道性、中庸性を体現する最適の言葉なのではあるまいか。因みに、この「ちゃんとしている」は、英語とか他の外国語に一語では翻訳できない。それほど多くの意味がつまっている。

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