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政治学

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2010年8月23日

戦後の日本はみんなでモラル・ハザード

民主党党首の選挙とやらでマスコミは盛り上がるが、世論はどうやら冷めている。呆れている。あきらめている。
でもここには「政治」とか「政治家」が実際にやっていること、できることなどについての幻想があって、戦後の日本、いや明治以後の日本を現代化するには、いくつか地に足のついた制度・組織改革を(つまり制度を改革するという面での憲法改正を)やっていかねばならない。
そしてその手始めは、明治以後、終戦後、日本社会に自然に、あるいは意図的に形成されてきたいくつかの常識を見直すことだ。

まず、「優れた政治家が一人いれば、社会のすべてはうまくいく」という幻想について。これはファシズムにつながる危険な思想だ。アメリカも西欧諸国も、三権分立の思想をベースに、特定の個人が国を牛耳ることを防いでいるというのに。

政治家、特に重要な決断をしなければならない総理とか官房長官とかいう人たちは、「何をどうやらなければいけないかを知っている」、「一人で何でもできる」ことではなく、必要な政策を選び取り、それを社会に説明、納得させ、抵抗を克服できる識見、人格、人脈を持っていることが求められている。

「優れた一人の政治家が決めて、それを役人たちが実行する」ということは、現実の政治ではほとんど起こらない。政治家は国会や社会で決定を通すためのエンジニアみたいなもので、決定案を作るのは工場の工員に相当する官僚達の役目だからだ。複雑なこの社会から丹念に情報を集め、いくつかの政策選択肢を作り上げ、その効果をシミュレーションして比べるような時間は、政治家達にない。しかも大半の政治家は、自分の小さな選挙区の利益を過重にプロモートしがちだ。

次に政治家の質についてだが、「誰でも平等」は確かにその通り。だが、それは各人の権利をめぐってのことである。社会全体を動かすという公共の任務を負う政治家には、「誰でも平等だから」という理由だけでなるべきではない。選挙民はいわば投票所で政治家という買い物をしているようなもので、投票されたことがその候補のすべてを正当化するものではあるまい。たとえばスーパーで買う牛肉でも餃子でも、それなりの基準、検査があるから我々は買っているので、今の日本で唯一保証がないのは政治家だけになってしまった。見栄えがいいので買ってきては、いつも食当たりばかりしている。

かと言って官僚がいいかと言うと、終戦からしばらくはわりと廉潔だったエリートたちに、私利を気にする者が増えている。だから、信用されない。それだけではなく、官僚は社会における富の配分を大きく買える政策変更はできないから(そのためには政党、議会、選挙というしかけが必要になる)、国のすべてを任せることはできない。

マスコミはと言えば、これだって真実を伝えるというより、面白く加工して広告を取る方に意識を使わなければならないし、幹部のなかには政府から工作費をもらって懐柔される者もいると報じられるに至っては、どうしようもない。地方ではテレビ局が地元の政治家に賄賂を贈って電波の独占を奪われないように工作している、ともっともらしく報ずる週刊誌もある。

これに、日本のムラ社会に根差しているのだろう、何にでも「金一封」を包もうとする体質、そして対米依存構造が加わって、社会全体で心が蝕まれてしまったのだ。

これに学校のホームルームで覚えたのかなにか知らないが、「誰でも政治家になれる」という平等主義がからんで、なんとも能天気な構造ができあがっている。平時ならそれでいいが、今の時代ではあぶなくて仕方ない。

要するに、戦後日本を支えてきたすべての柱が、実は虫食い、見かけ倒しであることがわかったのだ。民主党もそのひとつになってほしくない。
(8月29日改訂)

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