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街角での雑想

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2011年6月23日

菅騒ぎを乗り越えて 日本の症状と療法 1

――沈む社会を浮揚に転じさせるために――

地震・津波・原発をめぐっては、日本の気分は沈むばかりだ。せっかく皆が日本を、原発を何とかしなければと思い始めたのに、それが政権存続の肥やしにされたり、大増税の方向とかに持っていかれるものだから、世論の意気込みももう醒めた。
様々の利権に縛られて、都合の悪いことは見ない、考えない、でいるうちに「想定外の」災難がやってくるという「自殺体制」が続きそうだ。折角、スマートグリッドや燃料電池の普及のように、夢のある話しがそこにあるというのに。
長くなるので、三回に分けて、日本社会の現在の症状とその療法について論じてみる。

(なおこの原稿のオリジナルは7月10日、NPO法人ロシア極東研の会報「ボストーク」http://www.ne.jp/asahi/kyokutouken/sono2/ 第6号に掲載される予定です)

福島原発事故が見せたもの
今回福島原発事故とそれへの対処は、日本社会の本質を露わにした。
まず上の方について言えば、国とか東電とか大きな組織を動かしていく識見(原発についての技術的な知識のことを言っているのではない。危機の際、現場に出かけて作業を阻害することは控えるとか、社会への説明の仕方を心得ているとか、リーダーとしての心得のことを言っている)のある日本人が本当に少ないということがある。

日本が工業化、都市化、近代国家建設に踏み切ったのが僅か150年前だから、農耕共同体の内部調整・協力を重んずるやり方がまだ社会の主流として残っている。米国では民主主義は多数決の原則とのセットで運営されているから、重要な方向転換を迅速に成し得る。ところが日本の民主主義は、徹底的な利害調整と平等性の確保という古来からのムラ社会の仕来たりで運営されているから、戦略的な決定を速やかに行えない

戦後、アメリカに言われて「民主主義」という言葉を殊更使うようになったのに、内容をすり替えたのだ。そして、徒競走で順位をつけることさえ控える極端な平等主義が学校教育で強調されたことも、日本をリーダーの出て来にくい社会とした。

周囲の情勢をきちんと判断して正しい処方箋を社会に提示するより、ムードを読んでそれに乗っていくことが良いとされる学級委員のようなポピュリズムが良いとされ、それを無責任なマスコミが煽っていく――戦国時代のムラでこんなことをやっていたら、外敵に蹂躙されてしまったろうが――これが今の日本社会である。

リーダーに背骨が通っていないとならば、各省、各組織は相争い、問題が起これば責任の押し付け合いをするだけで、新しい大きなことは何も起こらない。そして各組織の中もいくつかのたこつぼ集団に分かれている。たとえば東電内部では、東大の原子力工学出身者が閉鎖的なエリート集団を作って部外からの干渉を許さないところがあるから、組織が組織として動かない。

外部を見ることなく、組織内の論理――現在の社内のヒエラルキー・利権構造を守るためにはどうしたらいいかという論理――だけでしか行動しない社会は、自滅する。外部を見ていないから、自分を守ろうとしても破滅するのだ。

例えばドイツと組んでソ連に対抗しようとした戦前の平沼内閣は、その他ならぬドイツとソ連が手を結ぶという「想定外の」展開に、「欧州の情勢は奇奇怪怪なり」という情けない声明を発して総辞職するしかなかった。そして、陸軍は中国での既得権益を捨てようとはせず、海軍も多額の予算を費消していた以上、開戦への動きを身を張って止めることはしなかった。

日本はこうして、強大な軍隊を持つ近代国民国家の取り扱いを間違え、かえってその軍隊のために滅びた。今また原発という巨大な技術体系の扱いに失敗している。日本社会の仕組みは、産業革命が生んだ巨大な生産力、「国民国家」という強力な集税装置が可能とした軍事力、そして中産階級化して権利意識を具えた無数の選挙民をうまく調整していけるものになっていないのである。

自縄自縛・自滅の構造
原発の問題は、このような自縄自縛の構造が戦後も生きていることを示してくれた。1970年代、原子力発電の普及をはかった人たちにとって、燃料が自己増殖するという原子力発電は、「エネルギー自立」や国際収支の赤字回避のためには唯一無二の選択肢だった。その人たちの責任を今更云々してもしかたない。だが今の日本なら、原子力発電に代わって天然ガス、石炭を追加輸入していけるだけの経済力はあるだろう。

今回の福島原発事故が明らかにしたように、狭い日本に50基以上もの原発を置くことは無謀なのだ。地震、津波は防げても、テロや隕石の落下は防げない。今回わかったように、原子力発電はかなり原始的なもので、結局はお湯を沸かして湯気で風車を回しているだけのこと。過熱した燃料は水をかけて冷やす。これでは、パイプがどこかで一カ所外れただけで、今回と同じ事態がまた起こり得る。そんな土地に人間は住めない。

ところが一旦原子力発電に発電の30%もを依存してしまうと、国内のベクトルは全部原発維持の方に向いてしまう。経済界は原発に異存がないようだし、原発が立地する地方自治体は膨大な助成金なしには予算が組めない。地元の雇用も、原発に大きく依存してしまう。学界、マスコミには電力会社から多額の研究費や謝金、そして広告費が出るので、原発廃止を唱えにくい。政府や電力会社は、「原発は絶対安全」という作り話を仕立てて現地に受け入れを決めてもらった建前、「実はまだ大津波の危険が残っていた。堤防をかさ上げしなければならない」とは言いだしにくい。

こうして責任体制が不明確なまま――電力会社は経済産業省に言われて原発を始めたと言い、経済産業省はそれは民間企業である電力会社が自分の責任で決めたことだと言い張って、責任をなすりつけあう――、(実際には主のない)原発だけが一つ、また一つと増えて行く。無責任体制が、カネでなんとか一つにまとめられている。平時には、これはシステムとしてちゃんと動いているように見えるが、今回のような非常時には馬脚を現すのだ。

だが非常事態が起きても、誰も一度作られた大枠を崩そうとは夢思わない。つまり原発全廃を掲げることなど思いも浮かばない。日本人は古来、外国人が作り上げた国際的枠組みのなかで生きてきたし、抽象的な思考が苦手だからシステムとか枠を自ら作ることも下手だ。枠を提供されると、それをベースに権益構造を作り上げてしまい、問題が起きると、その枠を改造しようとするよりは、運悪く責任者の地位にいる者に問題の責任を背負わせて、すまそうとする。枠が同じままだから、同じ問題が繰り返される。――続く

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