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日本・歴史

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2023年6月12日

大和の出雲

(5月連休の関西旅行記続き)
日本の古代は、朝鮮半島、九州王朝、「神武天皇の東征」、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、継体天皇、葛城氏、蘇我氏、藤原氏などが入り乱れ、もつれにもつれて、考えれば考えるほど頭は過熱するばかり、そこに出雲という変数を投げ込むと、頭の回路は爆発するかフリーズするのだ。
 
 飛鳥のあたりを歩いていると、出雲とか大国主の足跡にでくわして驚くことが多い。いくつかの事実だけ、筆者のデータベースから列挙しておこう。それらを結び付けたり、何かを推論しようとすると、頭が爆発するので控える。ChatGPTに聞いたが、大した答えは返ってこなかった。
 
(大和の出雲)

 銅鐸、埴輪は大和、そして北九州、出雲で多出する。
大和の三輪には「出雲屋敷」という地名がある。出雲屋敷とは大国主を祭る、一種の神社で、日本の諸方にある。三輪の「出雲屋敷」は、神武天皇の皇后の実家があったとされるところである。三輪の近くの大田遺跡では、出雲の陶器が多数発掘されている。

そしてその三輪は、古い家柄の名前でもあり、近くの大神(みわ)神社とそのご神体であるところの背後の三輪山ともゆかりがある。そして大神神社は大物主を祀るが、この方は大国主と同一だ、とか。宮司は三輪家が長らく務めた。

その三輪家は元々はタイ方面から朝鮮経由で――三輪家は何度も朝鮮に出征、あるいは派遣されている――稲作・青銅器・蛇信仰文明を持ち込み、出雲を経て2世紀前半、大和にやってきた。その時大物主(実体は蛇)信仰も持ち込んだ。

銅鐸を出雲から大和にもたらしたのも、三輪家だとされる。彼らが大和にやってきたのは神武天皇以前のことで、同じく古い有力豪族葛城氏と並立していたのだろう。葛城氏の本拠は東方の葛城山麓で、三輪からは離れている。記紀では、雄略天皇に逆らって討伐されたことになっていて、彼らの遺跡には燃えた後が残っているそうだ。

三輪家から少しあと、出雲から物部氏がやってきたのだ、とする学者たちがいる。物部氏は鍛冶・兵器製造技術に優れ、大和朝廷の軍を支えるのだが、その本拠兼兵器庫は奈良の近く、天理の石上神宮にあった。そしてその境内に出雲建雄神社があり、ここのご神体は草薙の剣である。物部氏が出雲から鋼鉄の剣の製造技術を持ってやってきた、としか思えない。

(大和と出雲M&Aの顛末-皇室と出雲国造家の縁)

 時期、態様は不明だが、上記、そしてその他の事績に照らして、大和と出雲の権力が合体したのは多分、事実だろう。古事記では、高天の原が建御雷神・天鳥船神を出雲に派遣し、剣の輝きで脅しつつ、大国主に国譲りを迫ったことになっている。

 両者合体の決定的な証拠は、出雲大社の宮司である千家(せんげ)家(もう一つ北島家が分家としてある)の当主は、代わるたびに皇居に出向き、天皇に「出雲国造神賀詞」を奏することである。これには、「出雲の神を八咫鏡にこめて、神奈備にまつった」という言葉もある由。

この八咫鏡は伊勢神宮で祀られている。千家家と皇室は古代から通婚しており、現在の当主千家国麿は2014年、高円宮憲仁親王の第二女子・典子女王と出雲大社で結婚式をあげている。

 なお、出雲国造家は当初、出雲大社のあるところではなく、意宇に本拠を構え、その上流の熊野大社を大事にしていた。 

大和と出雲の関係はこうして謎なのだが、日本古代史には他にも謎が多い。

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