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日本・歴史

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2021年11月 6日

正倉院と中国人と焼き芋の話し

コロナの合間をくぐって、関西に夫婦で行ってきました。ほぼ2年ぶりの旅行。乗った新幹線が動き出しただけで、嬉しかったものです。

途中、京都に寄って、国立博物館で開かれていた「畠山記念館の名品」展を見に行きました。駅を出て呆れたのは、ずらっと並ぶコイン・ロッカーが軒並み空で、キーがささったままになっていることでした。コロナの前、中国人観光客が日本にあふれていたころは、この京都駅前のコイン・ロッカーは文字通り満杯。当時は荷物をあずけるのも一苦労だったことを思い出し、苦笑いするばかり。ホテルの朝食でも、中国人観光客の一団に占拠されて自分たちは街のカフェーで朝食セット、ということもありませんでした。

そこで畠山記念館の話し。畠山一清は能登の大名(戦国時代に一時絶えている)の末裔で、荏原製作所を立ち上げた人。実に1300件の東洋美術品を収集した人です。実業家には、自分で目利きをしては、美術品を収集する人がいて、うらやましい限り。まあ、それを僅かな拝観料で見る我々の方が楽でいいかもしれませんが。この畠山記念館は白金台にあって、中国の牧谿の水墨画をいつか見に行きたいと思っていたら、改築で一時閉館のため、京都で展示をしているわけです。

個人の蒐集ですが、中には国宝が3点もあり、最高水準のものばかり。これを見ると、つくづく、日本の美術の多彩さ、層の厚さに驚かされます。天皇という権威が一貫して存在していたことが、前代の文化を全否定して破棄する中国のようなことがなかったからでしょうか。

そして畠山記念館展でも、そのあと回った三十三間堂でも東寺でも、日本の仏像は彫刻としても素晴らしいですね。運慶・湛慶などの仁王像はヨーロッパのルネサンス以来の写実的彫刻によく似ています。

次の次の日、奈良国立博物館で開かれている正倉院御物展示を見に行ったのですが、その前に万葉まほろぼ線に乗って巻向駅で降り、近くの纏向遺跡を見てきました。このまほろぼ線と言うのは何回乗っても味のある鉄道で、山の辺の道のすぐ下を南北に飛鳥の近くまで、多数の古跡の間を走っていく鄙びた単線です。奈良を出てすぐの駅が「きょうばて」。何かと思って看板を見ると「京終」。平城京の端だから京ばてだそうで。そしてその次の駅が「帯解」(おびどけ)。安産のための腹帯が安らかに解けたという意味から平安時代に命名されたそうで。そしてその次の駅が「いちのもと(櫟の本)」。これは、天狗の住む巨大な櫟(イチイ)の木の根元があったとの伝承に由来・・・。ここらで、ギブ・アップ。

目指す巻向(まきむく)も、ずいぶん変わった名です。古代日本語なのでしょう。これは纏向とも呼ばれ、日本の東西南北からの土器類が発掘されるところから、通商・政治のハブであったと推定されており、ここに邪馬台国を比定する人たちは少なくありません。

で、纏向遺跡というのは、私の住んでいるひばりヶ丘の50年前の姿のような田園地帯にあります。小さな標識をたどっていくと、まるで住宅地造成中のような空き地があって、そこに古代の「宮殿」跡と目される建物の土台を示した杭が何本も立っている、あっけないものでした。まだまだ調査は始まったばかり。

そこから、歩いて十分ほどのところに、前方後円墳の箸墓があり、これが卑弥呼の墓だとする人も大勢います。ならば早く発掘して、確かめて欲しいのですが。面白いのは墓の脇の交差点に「日本一たい焼きの店」というのがあることです。入ってみましたら、ここは博多の人が「ここのたい焼きは日本一たい」と博多弁で言ったのが、この屋号の由来だそうで。今から35年も前に流行った「およげ、たいやきくん」の歌が店内に静かに流れていました。たい焼きは本当においしかったです。その昔、卑弥呼女王も食されたことでしょうか。

ちなみに、このあたりは奈良盆地が一望に見渡せるのですが、本当に大きな平地です。ここに縦横に川が流れているのですから(昔は大きな湖だったという説もありますが、当時の遺跡はすると湖中にあったことになってしまうので、無理があります)、稲作は大変な富を生んだことでしょう。それが大和朝廷、あるいは平安朝の力の背景にあったわけです。

午後は奈良に戻り、正倉院展を拝観しました。コロナのおかげで希望者が少なく、チケットを確保できたわけです。で、そのチケットを上着のポケットに挿して会場に近づきますと、後ろから鹿が背中にかみつき、振り向いたところでポケットから顔をのぞかせていた大事なチケットをくわえだすと、むしゃむしゃ食べ始めました。前代未聞(と言っても、年に数回こういうことはあるのだそうで)。鹿の頭を押さえてチケットを口からもぎ取ろうとしましたが、回収に成功したのは幅2センチほどの切れ端。係員に事情を説明すると、快く入れてくれました。鹿にはああいうことをしないよう、しかと言い聞かせておいてもらいたいものです。

正倉院展を見て出てくると、外はもう夕暮れ。けっこう寒くて、バス停の前ではリヤカーで引いた炉で、焼き芋を売っています。なぜかぜいぜい息を切らしている薄汚れた白いチンを引いた2,3人の中国人の若い男女が、リヤカーに近寄ると焼き芋を買っていました。正倉院と焼き芋と中国人。まあその昔、長安でも宮城の前で焼き芋を売っていたのかもしれませんが。
中国人で始まり、中国人で終わった関西旅行でした。

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