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北朝鮮

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2018年3月 5日

常識破壊の日本史 日本と朝鮮半島の歴史は当初一体

(以下は、8月16日に「日本書記」という初歩的な誤り表記を、「日本書紀」に改めたものです)

(これは、日本史、世界史でよく知られていない「移行期」のことを調べ、ステレオタイプを剥ぎ取るシリーズの一つ。ローマ帝国崩壊とか、日本の弥生時代から飛鳥時代への移行とかには、様々の新しい勢力が参入して移行期のあとの新しい体制を作り上げていく。ここでは、「神武天皇」から白村江敗戦までを調べてみた。日本書紀を読んでみると、この頃の歴史では百済や新羅がごく当たり前に、つまり外国としてではなく登場してくる。もともとは朝鮮半島からやってきた日本の大和朝廷は、白村江敗戦で朝鮮半島から決定的にはじき出されて、「日本」になったのだな、というのが実感)

日本史始原探訪2
 12月に第1回を書いて、すぐ2回目を書こうと思ったのが、随分リサーチに時間がかかって、そしてリサーチしたあげく(日本書紀や古事記や中国、朝鮮での日本関係資料を渉猟していたのだ)、今更素人に書ける新しいことはあまりないことを発見して、困っているところ。要するに、この日本という国の始まり方を知ろうということで始めたのだが、結論は「確かなことはわからない。但し、日本は朝鮮半島の政体と渾然一体のものとして当初生成されてきたことはほぼ確か」ということ。日本書紀では、百済、新羅の人士が大和朝廷に日常感覚で出入りしている。外国扱いされていない。これ以上は、画期的な史料や遺跡が発見されないとわからない、ということだ。

日本書記(720年完成)は古事記よりはましだが、それが書かれた千年以前、紀元前400年頃書かれたツキジデスの「戦史」や紀元前100年頃書かれた司馬遷の「史記」に比べて稚拙。おそらく朝廷が統括する下で、何名もが30年以上の長期にわたって執筆、編集したからだろう。記事の選択基準が恣意的であるように見えるし、しかも事件の意味をまったく吟味していない。それでも、おそらく神武天皇から崇神天皇までの歴史を創作して、その後の本当の有史時代につなげた大変な労作ではある。

 稚拙、恣意的と言ったが、この史実を記し、記憶していくことへの無関心、起きていることの意味を考えることへの無関心は、今でも日本人のマインドに巣食っている。日本人、特に現代の日本人は刹那、刹那で生きていて、それは記憶されることもなく、まるでブロックチェーンに閉じこめたデータのように鍵をかけられ積もっていくだけなのだ。

 で、ここでは何がわかっていて何がわかっていないのか、主な点をまとめておくだけにする。同時に日本史とペルシャ人とか、聖徳太子の正体とか、際物的な話題にも少し触れておく。
 年表に基づいて、時代順にコメントしていくのが一番わかりやすいだろう。

目次
 紀元前660年頃   神武天皇の東征
 
紀元前97-紀元前30年頃   崇神天皇
 57年    後漢の光武帝が奴国王に金印を授ける
150年     このころ倭の国に大乱(「魏志倭人伝」)
201-269年頃   神功皇后の「三韓征伐」(「日本書紀」)
239年    邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配(「魏志倭人伝」)

「応神王朝」――朝鮮半島からの征服者?・・・・・・・・・・・・・・・5
250年頃   前方後円墳の「古墳時代」始まる
270-312年頃 応神天皇
285年頃 王仁が漢字をもたらす
391年 大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。
(九州王朝説)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
(倭国大乱)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
(「応神王朝」か「倭の五王」か)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7

507-531年 継体天皇

(継体王朝、朝鮮半島との分離、「日本」成立)・・ ・・・・・・・・・7

538 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。
562 任那の日本府が滅ぶ。
587-592年 崇峻天皇
592-628年 推古天皇+聖徳太子
(2回遣隋使を派遣)
629-641年 舒明天皇
629年 第一回遣唐使を派遣
642-645年 皇極天皇
645年 乙巳の変で蘇我入鹿暗殺
645-654年 孝徳天皇
646年 大化の改新
655-661年 斉明天皇
663年10月 白村江の戦い
668-671年 天智天皇
671-672年 弘文天皇
673-686年 天武天皇
690-697年 持統天皇
710年 平城京に遷都
712年 大宝律令

(皇位継承の血なまぐささ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(豪族達)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
(帰化人の時代)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(ペルシャ人伝説そしてかぐや姫の正体)・・・・・・・・・・・・・・・12
(聖徳太子)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
(蘇我氏滅亡・大化の改新・白村江大敗戦)・・・・・・・・・・・・・・14
(白村江の戦いと九州王朝説)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
(壬申の乱)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

宮中祭祀は古来からのものなのか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17


紀元前660年頃 神武天皇の東征
 神武天皇の実在性には、以前から疑問が呈されている。だいたい、紀元前660年頃というのは弥生時代の中期で、とても大きな王国ができていたとは思えないのである。「神武天皇陵」は樫原神宮の近くにあるが、江戸時代以降、大型の陵に整備されたものらしい。それでも「神武天皇の東征」が面白いのは、日本書紀での記述がいやに詳しくて、九州から進発した神武軍は瀬戸内沿いに東進すると、今の河内から生駒山を越えて奈良盆地に進入しようとして地元豪族の抵抗に会い、その後熊野の方から(多分、そこまで行かないと地元豪族の抵抗が強すぎたのだろう。日本書紀の記述から判断すれば、陸路と海路を合わせて行ったものと思われる)カラスの道案内で吉野山地を越え、奈良盆地に攻め入ったと書いていることだ。飛鳥は山を背にしているが、ここから急に神武軍が出てきたので、奈良盆地の地場勢力はあわてて敗北してしまったものと思われる。

しかし、いくら詳しく書いてあるからと言って、前述のように紀元前660年頃の建国というのは、ちょっとどうかということになる。神武天皇の東征は実際には後世の崇神天皇、あるいは年代的にもっと適当なのは応神天皇がしたものである可能性があると思う。

日本を統一した王朝はずっと後世、外部からやってきた征服者の崇神天皇、あるいは応神天皇によって開かれたことをごまかすために、神武天皇というフィクションを持ち出して、崇神天皇、応神天皇をその系列に置き、「純正日本」王朝であることを強調しようとしたものかもしれない。
ところで、神武天皇以後数代の天皇達は、神に近いのか、異常な長命である。100年以上在位した天皇もいる。

紀元前97-紀元前30年頃 崇神天皇
 これは既に指摘したとおり、もしかすると神武天皇に相当する実在の人物かもしれない。と言うのは、彼の時に奈良盆地に大神(みわ)神社が開かれて出雲の大国主ゆかりの大物神(蛇)をまつり、それまで地元で崇拝されていた天照大神を伊勢に移してしまったからである。そしてこれも出雲に発祥している熊野大社がらみの熊野本宮大社を紀伊に作ったのも崇神天皇とされ、ここは神武東征のルート上にある。ただそれでも、弥生時代が紀元250年頃まで続いたとされていることに鑑みて、崇神天皇が実在したかどうかについて疑問は残る。

 なお江上波夫氏はその「騎馬民族国家」で、崇神天皇が騎馬民族として九州に渡来し、後に応神天皇が東征して日本を統一したとの説を展開しているが、日本で馬具が埋葬品として現れるのは応神天皇以後のことである。筆者としては、応神天皇の方を神武天皇になぞらえ、彼が東征をして大神神社、そして熊野本宮大社もひらいたものと考えたくなる。

57年 後漢の光武帝が奴国王に金印を授ける

(九州王朝説)
 崇神天皇実在性を怪しませる材料にもう一つ、「奴国王への金印」がある。この金印については、このシリーズ第1回で述べたとおり、当時九州北部にあった王国の主が受けたものだろう。「九州王朝」説というのは学界で異端視されているようだが、吉野ケ里のような立派な遺跡が佐賀県に残っている以上、九州にいくつか王国があったのは事実だろう。そしてこの時代、崇神天皇が実在していた、いないにかかわらず、奈良盆地にあった勢力はまだ辺境の存在だったのではないか? 

九州の王国が出雲の勢力も巻き込んで(砂鉄から武具を製造する中心地)東征したのは事実なのだろうが、それがいつごろのことなのかは、わからない。古事記、日本書紀の神武天皇から応神天皇にかけては、九州や朝鮮にあった諸王国の歴史がごたまぜにされて「日本史」に仕立て上げられてしまったのだ、と考える学者もいる。
年表に戻る。

150年 このころ倭の国に大乱(「魏志倭人伝」)
201-269年頃 神功皇后の「三韓征伐」(「日本書紀」)
239年 邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配(「魏志倭人伝」)

(「応神王朝」――朝鮮半島からの征服者?)
250年頃 前方後円墳の「古墳時代」始まる
270-312年頃 応神天皇
285年頃 王仁が漢字をもたらす
391年 大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。
このころ、朝鮮からの渡来人が多く、百済から織物・彫刻・陶芸などの技術が伝わる。
 
(以上の年号、そして事象はすべて確定したものではない)

(倭国大乱とは)
上記の一連の出来事は、ひとつの塊、クラスターを成している。「倭の国に大乱」というのは、魏志倭人伝等中国の史書に書いてあることで、古事記、日本書記には書いてない。そしてこの「倭の国」というのが九州にあったと目される諸王国のことなのか、それとも奈良盆地の勢力まで含んでのことなのかもわからない。しかし、この頃の神功皇后の事績(後出)について日本書紀を読むと、奈良盆地を思わせる記述は皆無、日本では九州を思わせる記述しかない。

「神功皇后」は、夫の仲哀天皇の死後、少なくとも当初はその死去を秘匿して、天皇の代行を70年間近く務めたことになっており(日本書紀によれば百歳で死んでいる)、しかもその間多くの時間を朝鮮半島で過ごしたことになっている。彼女の時代についての日本書紀の記述は、「百済記」を転載したような部分が多く、神功皇后がほとんど言及されない部分もあって、読者はまるでナマの朝鮮史を読まされている気分になる。

なお、高句麗の好大王碑文には、「倭が391年、海を渡ってやってきて、百済の残党及び新羅(ここには脱字があって、必ずしもこうでないかもしれない)を破った」という文章があって、これが「任那の日本府」(場所等、定説がない)設立だと言われるが、これは神功皇后の三韓征伐より後世のできごとである。

「神功皇后の三韓征伐」は20世紀になって、日本の朝鮮併合を正当化するため殊更強調された面があって、70年間もの在位を含め、その信憑性は疑われている。むしろ当時は、百済から九州北部の勢力は渾然一体のもので、日本と朝鮮に分けて論じる方がおかしいのだろう。

なお、西暦266年から413年にかけて(ちょうど応神天皇の登場後、大和朝廷の基礎が固まったと思われる約150年の重要な期間だ。413年に「倭王の讃」が東晋の安帝に朝貢したとの記事が晋書に現れ、これが後出の「倭の五王」の朝貢の始まりである)中国の歴史文献における倭国の記述がなく、詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」と呼ばれる。それは、日本が混乱していたためと言うより、中国が漢滅亡後の三国時代、五胡十六国時代等、隋建国まで400年に及ぶ分裂・内乱状態にあったことによるものだろう。日本ではこの間に、大和朝廷が国内をほぼ統一する。

面白いのは、卑弥呼が魏から金印をもらったのは、神功皇后の朝鮮作戦の最中ということになることだ。岩波文庫の「日本書紀」の編注では、日本書紀は魏志倭人伝に出てくる卑弥呼を神功皇后に措定、年代をうまく合わせたものと推定している。魏志倭人伝に書いてある以上、卑弥呼的な人物は実在したのだろうが、当時の歴史舞台を考えると、卑弥呼の邪馬台国は九州にあったとの説に傾く。

卑弥呼のことより、新羅征伐を終えた神功皇后が応神天皇を九州で産んだことになっている(日本書紀)ことの方が重要だと思う。重要だと言うのは、応神天皇の頃から例の壮大な前方後円墳の「古墳時代」が始まったし、馬の使用も日本に伝わり(馬具が埋葬されている)、明らかに新たな文明が到来しているからで、その当人が九州で生まれたということは、応神天皇的な人物が朝鮮半島から騎馬民族としてやってきたことを、「日本史」として塗りこめてしまうためのフィクションではないかと思うからだ。

日本の神社で最も多い八幡神社の祭神、八幡大神は応神天皇の御神霊だとされるが、これだけの宗教勢力が日本史の中に突然現れているのは、外部からやってきた征服勢力であったからとしか考えられない。なお八幡宮の総本宮は大分県の宇佐八幡で、このことも応神天皇が朝鮮半島からやってきた新しい勢力だったことを示している。ここでは、応神天皇は朝鮮と日本の間の航路を司っていた宗像氏の祭神とともに祀られているのである。

前出のように江上波夫氏は、高天原に降臨した「騎馬民族」は崇神天皇だとするが、降臨も東征も応神天皇一代で行われた可能性があるだろう。そして日本書紀では、応神天皇の時から奈良盆地の大和の叙述が信憑性を増す。叙述が地名、人名とも具体性を増し、それがまた現在ある遺跡とよくマッチするのだ。

以上をまとめると、150年当時日本と朝鮮が三つ巴、四つ巴になって相争っていたのが、中国には「大乱」と見えたのかもしれないし、これを収拾したのが朝鮮半島から九州に入り、奈良盆地の大和まで平定した応神天皇なのかもしれない。

(「応神王朝」か「倭の五王」か)

応神天皇の後は「応神王朝」とでも言おうか、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顯宗、仁賢、武烈と続き、この間中国の晋や宋(中世の宋とは違う)の記録によれば、「倭の五王」が使節を送ってきている。これが大和朝廷のいずれかの天皇なのか、九州にあったと目される王国の長であったのか、今でもわかっていない。いずれにしても、応神天皇の後は奈良盆地の大和朝廷は機能していたと思う。そして日本書紀によれば、この「応神王朝」の最後の武烈天皇が暴君で、女性に残虐なことを行い、部下とともに酒に溺れていたと言う。そして突然、死去している。暗殺であったかもしれない。彼には子供がいなかったことになっている。皇統はここで絶えて、西欧のように王朝が代わった可能性がある。

507-531年 継体天皇

 (継体王朝、、朝鮮半島との分離、「日本」成立)
それが次の継体天皇である。舞台は完全に奈良盆地を中心に回っている。九州での独自の権力の存在をうかがわせるものは、継体天皇の時代527-528年にあった磐井の乱が最後である。これは、大和朝廷が朝鮮半島で新羅に奪われた任那周辺の領土を回復するため軍を派遣しようとしたところ、新羅に工作された九州の有力者、磐井が妨害して内戦になったというもの。応神天皇以来、大和朝廷と朝鮮半島の百済はほぼ一体で、大和朝廷は任那周辺に領土も持っていたようだ。それに対して新羅は九州の有力者に手を伸ばしていたという話し。

後に661年、大和朝廷が百済王朝再興のためと称して軍を送ろうとしたが、軍を率いていたことになっている斉明天皇が北九州で亡くなっている。それが事実なら――天皇、それも女帝が軍を率いて出征するのかと思うのだが――、この時も九州の勢力といさかいがあったのかもしれない。なおこの出征は、白村江の大敗北で終わっている。

 話しを507年の継体天皇に戻す。武烈天皇に子がなかったので(あるいは暴君と言うことでクーデターにあって、根絶やしにされたので)、臣下たちは諸方に手を伸ばして後継に足る人材を求めた。日本書紀によれば、丹波の国にいい人材がいるということで迎えを差し向けたところ、その人物は捕まるものと勘違いして雲隠れする。そこで臣下は今の福井に人材を見つけて、それが継体天皇として即位する。福井市近くの山頂には継体天皇の石像が明治になって建てられている。

日本書紀は彼を、誉田天皇(応神天皇の別名)の5代後の孫、彦主人王の子だとするが、誉田天皇から彦主人までの系列は書いておらず、通常の書き方から逸脱している。しかも継体天皇は「即位」してから奈良盆地に入るまで、20年も諸方を転々としているのである。これも、武烈から継体に移行するところで皇統は代わった、王朝が代わったとしか思えない理由の一つで、後の聖徳太子や天智天皇、天武天皇はこの「継体王朝」(但し蘇我家の血が色濃く混入してくる)の中に位置することになる。

 継体天皇のあとは安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻(587年蘇我馬子に暗殺されている)、推古(敏達天皇の異母妹、かつ皇后で、初の女性天皇。蘇我氏の血統。皇太子格で摂政を務めたのが、同じく蘇我氏の血統の聖徳太子。古事記は推古天皇のところで終わっている)、舒明、皇極(舒明天皇の皇后。645年、同女帝の面前で蘇我入鹿が暗殺され、彼女は退位して大化の改新が始まる)、孝徳、斉明(皇極天皇が返り咲いたもの。この女帝がペルシャ文明を珍重する。661年朝鮮半島に出征しようとして九州で死去)、天智(645年の蘇我入鹿暗殺のシナリオを中臣鎌足と共に練り、その後長らく摂政格で大化の改新、朝鮮出征等を差配。彼によって蘇我氏の影響力は一掃され、中臣転じて藤原家の隆盛を招く)、弘文、天武(天智天皇の弟ということになっているが疑問を呈する者あり。天智天皇の子である弘文天皇に逆らって672年壬申の乱を起こし、白村江敗戦で疲弊した豪族達の支持を得て即位する)、持統(天武天皇の皇后)、文武、元明となる。最後の元明天皇は710年都を奈良に移し、時代を画する。この継体天皇から奈良遷都までの年表を掲げる。

538 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。
562 任那の日本府が滅ぶ。
587-592年 崇峻天皇
592-628年 推古天皇+聖徳太子
(2回遣隋使を派遣)
629-641年 舒明天皇
629年 第一回遣唐使を派遣

642-645年 皇極天皇
645年 乙巳の変で蘇我入鹿暗殺
645-654年 孝徳天皇
646年 大化の改新
655-661年 斉明天皇
663年10月 白村江の戦い
668-671年 天智天皇
671-672年 弘文天皇
673-686年 天武天皇
690-697年 持統天皇
710年 平城京に遷都
712年 大宝律令

以上が「継体王朝」と目される系統が平城京遷都に至るまでの年表なのだが、この間いくつか目立つことについて書いておく。

(皇位継承の血なまぐささ)
この6~7世紀の時期は、歴史の記述も増える。それによると随分血なまぐさい時期で、皇位継承をめぐって命をかけた闘いが何度も展開され(まるで遊牧民族を思わせる)、何名もの皇族が死刑にされ、それはまた多くの詩情を生んでもいる。

例えば643年親戚の蘇我入鹿の攻撃を受けて集団自害した山背大兄王(聖徳太子の子)一族、658年謀反の罪で死刑になった有馬皇子、686年同じ謀反の罪で自害した大津皇子がいる。継承争いの最たるものは、言わずと知れた672年の壬申の乱で、この時は天智天皇の弟である(その信憑性には疑問が呈されている)大海人皇子が天智天皇の子、大友皇子または弘文天皇に反旗を翻し、日本の広い範囲を巻き込んだ内乱の末、権力を奪って天武天皇として即位するのである。

 そしてこの頃、日本書紀では、激動の時代を象徴するように、よく「大きな地震があった」という記述が出てくる。奈良盆地では二上山は火山であり、畝傍山、耳成山も火山性の岩石でできているようだ。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿殺害の謀議をこらした多武の峰は別名、「御破裂山」と呼ばれ、頂上にある藤原鎌足の墓は、国家の有事には鳴動し、光を発して山体が裂けると言われているので、これも火山っぽい(裂けるのは頂上にある神像だけだという説もある。これが最後に裂けたのは1607年。第1回朝鮮通信使が来日した年)。いずれにしても奈良盆地は瀬戸内火山帯の延長上にあって、古代の地下では、まだマグマが活動していたのだろう。今でも十津川温泉など温泉がいくつかある。

(豪族達)
この頃になると、豪族や帰化人の動きが記録に現れてくる。
まず7世紀が始まった頃、日本の島々で動いていた主要な勢力をさらってみよう。まず、大和周辺で蠢いていた豪族たちについて。

教科書にも出てきた、物部氏(蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされたという記事だけ覚えている)という人たちの正体はわからない。この姓を持つ家は日本の広い範囲に分布しているので、特定の家族・種族ではなく、軍職を示すものかもしれない(筆者の独断)。なお、現在の天理市にある石上(いそのかみ)神社は崇神天皇(紀元前1世紀とされる)の時代の創建で、物部氏の氏神と言われる。この神社にあるとされる、素戔嗚がヤマタノオロチを屠った剣は、もとは岡山県の石上布都魂神社にあったとされ、ここの宮司は今でも物部姓を名乗っている。日本書紀では、神武天皇は東征の際、岡山あたりにとどまって力を養ったことになっているので、この物部というのは岡山の豪族で、出雲(素戔嗚)の勢力と共に東征に随って大和にやってきたものかもしれない。

 物部守屋が蘇我馬子に敗れた後は、物部姓を名乗る人たちは石上に姓を変えるが(守屋の妹は蘇我馬子の妻にされている)、公家になることもなく、歴史から次第に消えていく。
 そして大伴氏という家系もある。物部氏と同じく軍に関係していたらしいが、早い時期に失脚していて、詳しいことはわからない。

 そして物部氏と対立してこれを滅ぼした蘇我氏。その出自については諸説があってわからない。なお門脇禎二氏は蘇我氏の先祖を応神天皇の代に渡来した百済の高官だとして、一時は随分学界の賛同を受けていたが、今では根拠不十分とされる。いずれにしても、外来の技術を力の基盤にしていたことは確か、との見方もある。物部や大伴に比べて新参の勢力で、仏教をおしたてて物部に対抗した。

 587年物部守屋を滅ぼすと、世は蘇我馬子の春となり、娘を天皇の后に入れて、592年には崇峻天皇を暗殺、推古天皇・聖徳太子チームの後見役でありながら葛城県の割譲を要求したり、643年には天皇継承問題に絡んで馬子の息子の入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族を攻撃して集団自殺に追いやる(梅原猛氏は著書「隠された十字架」で、法隆寺は彼らの住居「斑鳩の宮」のあとに建てられた鎮魂施設であるとする)などの挙に出た。

645年蘇我入鹿(変な名だ)は、中大兄皇子と中臣鎌足の謀議により、皇極天皇(女帝)の面前で暗殺され(その後も蘇我家の傍流の方は残り、石川に姓を変えたりしている)、中大兄皇子と中臣鎌足は孝徳天皇を補佐して大化の改新を行い、大和朝廷の集権国家化をはかる。土地は朝廷のものとされた上で、あらためて農民に口分田として指定配布され、徴税の基盤とされた。当時の極東情勢は、400年も続いた中国の分裂状態に終止符が打たれ、隋に続いて唐という強大な統一国家が興隆期にあった。大和朝廷としても、これに対して国家の構えを整えようとしたものだろう。

 (帰化人の時代)
 
当時のプレーヤーは豪族たちだけではない。これとも絡み合って、「帰化人」という大きな存在がある。当時の中国、そして朝鮮半島の高官達は戦乱のたびに日本に逃げてきたようで、その末裔はいくつものグループの帰化人として、日本の技術・文化に大きな足跡を残している。例えば埼玉県行田市には古墳が集中しているが、これは5世紀末から150年間に集中しているそうだ。当時はこの傍を大きな河川が流れていて、海に通じていたらしい。

埼玉県には758年新羅郡が置かれ、その後新座郡に改称されたそうだ。現在の地名、志木は新羅に通ずるし、地元の白子川ももとは新羅川だった由。銅が採れた秩父には高麗神社が今でもある。日本書記には(岩波文庫では第5巻の38頁)、白村江の敗戦後、百済の遺臣男女2000人を「東国に居く」という記述がある。集団で入植させたのだろう。これが新羅郡になったのかもしれない。

京都の太秦は、絹織物の技術に秀でていた帰化人、秦氏の本拠で、広隆寺を氏寺とする。広隆寺の弥勒菩薩はもとは本尊だったらしいが、同じ優雅なスタイルの仏像は韓国にもある。

日本人は皆、昔は「帰化人」だったのだが、その後も大陸の戦乱のたびにいくつもの波となって日本に押し寄せたのだ。そしてそのいくつかは技術革新をもたらしている。出雲の製鉄がそうだし、大規模な古墳作り、あるいは法隆寺のような大規模木造建築の技術は、日本でひとりでに育ったものではあるまい。

(ペルシャ人伝説そしてかぐや姫の正体)
 帰化人の中でもエキゾチックなのは、ペルシャ人。これは伊藤義教氏の「ペルシャ文化渡来考」に詳しく、そこに出てくるペルシャのプリンセスを孫崎紀子女史(孫崎享大使の夫人)は著書「「かぐや姫」誕生の謎」の中で、かぐや姫のモデルだとしている。大いにあり得る話しだと思う。

1966年平城宮跡から発掘された木簡(765年のもの)には、嘱託役の「破斯清通」という名があったが、これは続日本紀に、遣唐使が連れ帰った「唐の人三人、波斯(ペルシャ)一人」が736年、聖武天皇に謁見した、その後、この「波斯人李密翳」に位を授けたとあるので、「破斯清通」はこの時のペルシャ人だったかもしれない。

もっと奇想天外、かつロマンチックなのは、かぐや姫に関連してくるものだ。654年ー675年にかけての日本書紀には、吐火羅人が漂着との記録が数件ある。トカラとは鉄門の南、バクトリアに相当する地域で(メコン流域とする説もある)、ペルシャ系人種も居住している。当時トカレスタン(今日のアフガニスタン北部。クンドゥースのあたり)には、642年アラブに滅ぼされたササーン朝皇族の末裔がいた。677年にはアラブに追われて唐に亡命している。

上記の日本に流れ着いたトカラ人の首領「乾豆波斯達阿」はその後、妻を日本に残して去るが、15年後、その妻は百済王善光とともに天皇に拝謁。百済王よりも上座で遇され、かつ娘を伴っていた。孫崎紀子女史は、この娘が長じてかぐや姫のモデルとされる美人に成長するが、宮中に召されるのが嫌で急死したのを鳥葬に付されたために亡骸もなく、激怒した宮中からの使いに斬られた、ペルシャ人側近達(竹取物語では竹取の翁になる)の霊が祀られているのが、奈良県北葛城郡広陵町の讃岐神社ではないかとしている。今、付近には「竹取公園」がある。

斉明天皇は随分ペルシャ人に入れあげている。例えば日本書記には、飛鳥寺の西に須弥山の像を作り、トカラ人を招宴したとの記事がある。そして須弥山を思わせる彫刻が発掘されていて、上野の国立博物館に陳列されている。飛鳥にはその他数々の謎の石造物が残っているが、それらはペルシャ文明、ゾロアスター教との関連を強く思わせるもので、そのあたりは松本清張の「火の路」の題材となっている。

斉明天皇は、かつて彼女の面前で殺害された蘇我入鹿、そして蘇我家がプロモートした仏教との距離をことさらに示すために、ペルシャ人のゾロアスター教に入れあげて見せたのかもしれない。あるいは、摂政格の息子、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我家弾圧を完成させるために、ペルシャ珍重政策を推進していたのかもしれない。だがそれは、朝廷と不可分の関係にあった朝鮮半島の百済危うしの知らせで吹っ飛んだことだろう。斉明天皇、中大兄皇子とも九州に軍を率いて進発する。もしかすると、蘇我氏は新羅に通じていて、何かしかけたのかもしれない。だとすれば、この間奈良盆地での抑えはどうしていたのだろう? 中臣鎌足が諜報・警察を指揮して蘇我家の策動を押さえていたのか?

なお、薬師寺の薬師如来の台座には、ギリシャ風のぶどう模様、ペルシャ風の唐草模様、そしてインド・中国の神々が浮き彫りになっている。もう燃えてしまった法隆寺金堂の壁画の顔は、日本人のものではない。サマルカンドにあるアフロシアブ壁画の顔と、驚くほど似ている。仁王像なども、日本人、中国人より中央アジアのごっつい男たちによほど似ているのである。そして春日大社の灯篭には、ペルシャ風の透かし彫りが入っている。平城京朱雀門の朱雀とは、フェニックスとかロシアの「火の鳥」に似た鳥のこと。中国の意匠では、よく竜と対で使われる。竜とは蛇のことで、これはユーラシア全域、そして遠くメキシコにまで広がる蛇と鳥崇拝の表れなのだ。そして意匠と言えば、奈良から平安時代にかけての日本の美人画はおかめのようにふっくらした女性をイメージしているが、このやや日本人離れした顔は唐の美人画のそれにそっくりなのだ。奈良はユーラシア文明の一部(端っこ)だったのだ

(聖徳太子)
 帰化人の話しからペルシャ人、そして斉明天皇へと話が少し先に行き過ぎた。少し時代を戻る。
593年、推古天皇が即位する。同時に厩戸皇子が皇太子となり(推古天皇の子ではない)摂政格となって、後に聖徳太子と呼ばれる。推古天皇は「継体王朝」第8代目ということになるが、この頃は蘇我家全盛の頃で、天皇家には蘇我家の血が濃く入り、推古天皇即位も蘇我馬子の描いたシナリオによっていた。推古天皇も聖徳太子も、蘇我家の血を強く受けている。

聖徳太子の父は用明天皇だが、用明天皇の母は蘇我一族の頭目の稲目の娘。聖徳太子の母の母、つまり母方の祖母は同じく蘇我稲目の娘。つまり聖徳太子は稲目の息子の蘇我馬子とは大叔父・甥の関係にあった。そして聖徳太子の妃の一人(4名もいたらしい)、刀自古郎女は蘇我馬子の娘である。

馬子はできれば自分が皇太子、あるいは天皇になりたかったのかもしれないが、崇峻天皇を暗殺した直後でもあり、そこはまだ天皇家の血を引く推古天皇と聖徳太子を前面に立てたのであろう。そのことと関連するかもしれないが、聖徳太子の能力は誇張されている気味があり、当時の改革を何から何まで彼のおかげとすることには抵抗感を持つ。仏教推進、十七条の憲法、冠位十二階制定、隋との国交設定(遣隋使派遣)も含めて、蘇我馬子は政策決定に深く関わっていたのでないか?

 当時朝鮮半島では、大和朝廷と長年にわたって不可分の関係にあった百済が新羅に脅かされ、大陸では400年続いた内乱・分裂の後を581年隋が強大な統一国家を作り上げ、北九州にあった王国は未だ平定されていない――こういう状況の中で聖徳太子は登場した。
しかし聖徳太子にはあらゆる伝説がまとわりついていて、実像がどうであったか全然わからない。遣隋使の派遣にしても、当時の政策決定の実相はわからない。

 極端なものでは、彼は実在の人物ではないという説がある。同じくらい奇異なものでは、彼はペルシャ人だった、あるいはネストリウス派のキリスト教の流れを引いていたとするものがある。前者については、聖徳太子の用いた七星剣とかには北斗七星が描かれているが、、これはシルクロードを旅する隊商にとって方角を知るために大事だったということ、飛鳥寺を作った職人の名(日本書紀に記されている)はペルシャ語だと思わないと意味を成さないこと、聖徳太子の等身大の像と言われる飛鳥寺の救世観音像は約180センチあり、当時の平均を越えていること、聖徳太子の母の名「穴穂部間人皇女」(あなほべのはしひとのひめみこ)のうち「はしひと」とはペルシャ人を意味し得ること、などの根拠が上げられている。もっとも、後の孝徳天皇の皇后の名も間人であるので、ペルシャに結び付けるのはちょっと。

 ネストリウス派のキリスト教(7世紀頃中国に景教として伝来したキリスト教の一派)については、聖徳太子の別名「厩戸豊聡耳皇子」のうち「厩戸」は、キリストの生まれた馬小屋に関係するものだ、というのである。そしてキリスト教の三位一体(神、精霊、キリストは同じもの)の思想は、当時帰化人秦氏の建てた京都の木嶋坐天照御魂神社等、日本全国で5つ以上分布している「三柱鳥居」にも反映されているほど普及していたと続く。三位一体はとにかく、「厩戸」について日本書紀は、厩の近くで産気づいて生まれたので厩戸と呼ばれたのだとしており、こちらの方が正しいだろう。

 そして霊験あらたかな聖徳太子は予言を残しているという都市伝説があり、これによると京都は千年の間都として栄えるが、その時黒龍(黒船)が来るために、都は東に移される(東京)、それからさらに200年過ぎた頃、クハンダ(仏教用語の悪鬼)が来るため、その東の都は親と7人の子供のように分かれるだろう、ということなのだそうだ。つまり東京滅亡を予言しておられるのだが、このクハンダとはトランプか、中国か、北朝鮮か、あるいは小池都知事か。

(蘇我氏滅亡・大化の改新・白村江大敗戦)

聖徳太子は推古天皇より先、622年に死去し、推古天皇が628年亡くなると、聖徳太子の子の山背大兄王が後継者として名が上がる。しかし蘇我蝦夷(馬子の子)は欽明天皇を擁立し、643年蝦夷の子入鹿ははね上がって山背大兄王一族を斑鳩の里で全滅させる。この時斑鳩宮(今の法隆寺)が焼け落ちている。再建された法隆寺は、梅原猛氏によれば、怨霊となった聖徳太子一族を鎮魂するための寺で、諸方にそのしかけが隠されている(「隠された十字架」)。

 そして641年欽明天皇が亡くなると、その皇后が皇極天皇として即位する。645年の乙巳の変では、この天皇の眼前で同女帝の息子(次男)の中大兄皇子が時の最有力者、蘇我入鹿を斬殺させ、その父蝦夷一族も自宅で殲滅する。皇極天皇はその翌々日、譲位する。何名かのまわしの取り合いのあと、天皇に即位したのは皇極天皇の弟、軽皇子で、孝徳天皇となった。しかし孝徳天皇は都を難波(大阪)に構え、後に中大兄皇子に大和に戻ろうと言われても聞かず、結局ハーメルンの笛吹きよろしく中大兄皇子は廷臣の多くを従えて勝手に大和に帰っていく。これは一種のクーデターで、孝徳天皇はそれから間もなくしてほとんど憤死している。

ここで起こる疑問は、孝徳天皇が位にあった9年間ほどの間に、例の「大化の改新」が行われ、その中で税制改正(租・庸・調)や「班田収授」も行われたことになっているのだが、果たしてどこまで実行されたものかということである。徴税のためには官僚機構が必要だが、そんなものはなかっただろうし、班田収授は土地を豪族から取り上げ一旦国有化してから農民に分与する(蘇我氏の没落で、豪族の力が一時弱まっていたのに乗じたものだろう)というものなので、簡単にできるはずがない。班田収授は隋の前頃から中国の一部で採用されたが、それほど普及はしていないはずだ。日本でも、平安時代になれば土地は貴族・寺社に割拠されて荘園となり、これを差配した侍たちが後に大名になっていくのである。班田収授が実質的に広がったのは、豊臣秀吉の検地の時だろう。

 孝徳天皇が654年崩御すると、その姉、つまり元の皇極天皇は斉明天皇と名を変えて再び即位、難波から飛鳥に戻ったうえで既に述べたペルシャ狂いを始める。大化の改新の方はこの頃の日本書記にはもはや言及もされず、すぐ後の白村江の戦いにすっかりお株を奪われてしまう。

 当時朝鮮半島では、大和朝廷と渾然一体の関係にあったと目される百済が、隣接の新羅に追い詰められていた。大和朝廷は661年、かくまってきた百済の王子扶余豊璋を押し立てて、援軍を派遣。奇妙なことに斉明天皇自身(そして中大兄皇子も)がこの軍隊を率いて九州にまで下り、そこで「急病のため」6か月後に崩御している。

 中大兄皇子は天皇に即位することなしに「称制」(代行のようなもの)を行い、日本書記によれば「長津京」で(その跡は、今では近代的ゴミ処理場になってしまったようだ)朝鮮遠征軍の指揮をとった。663年白村江で敗戦を喫したあとは、都を大津に移して、唐・新羅軍の来襲に備えたとされる。668年彼が天智天皇として即位するまでは、大和朝廷では実に6年間にわたって天皇不在の状況が続いたのである。そして斉明天皇崩御から白村江敗戦までは実に2年強もあるのだが、この間中大兄皇子と大和朝廷軍は何をしていたのだろう。

白村江の戦いとその後の混乱は、現代の敗戦と米軍進駐に似たところもある混乱の時代だと思うが、史料が十分でない、あるいは意図的に歪められているようだ。白村江の敗戦は、本来は朝鮮半島からやってきた大和の王朝が朝鮮半島から全く切り離されてしまったことを意味する。まるで14世紀の百年戦争で、王朝の故地ブルターニュから完全な撤退を余儀なくされた英国プランタジネット王朝のようなものだ。日本の自主性確立、天皇家の権威の根拠づけ等、いろいろ大変だったことだろう。「日本」という国号が使われるようになったのは、まさにこの頃と目される

(白村江の戦いと九州王朝説)

岩波文庫の「日本書紀」第5巻28頁によれば、白村江の現場では、日本の諸将と百済の王子が合議制と言うか烏合の衆体制で無責任な指揮を執っていたようだ。ここには、長津宮で指揮をとっていたとされる中大兄皇子の影はどこにもない。そして日本の諸将の代表としては、「エチノタクツ」なる人物が2回言及されている。彼は源平合戦の平知盛のように、数十人を殺した末戦死している。この「エチノタクツ」は九州に残っていた王国の長で、彼の死後、北九州の王国が決定的に弱化したのかもしれない。前出、528年の磐井の乱の立役者、筑紫君磐井の墓と目されるものが福岡県岩戸山古墳で発掘されており、それは随分豪壮なものなので(「日本書紀」岩波文庫第3巻 P392)、磐井の乱後も九州の王朝は残っていたのかもしれない。

白村江敗戦の1年弱後、岩波文庫「日本書紀」第5巻36頁によれば、唐は劉徳高等なるものを筆頭とした250名の使節団を日本に派遣し、日本側から饗応され(誰がやったのかは書いてない)、「物を賜」られた後、帰国する。日本は白村江の敗戦後、702年まで遣唐使をしばらく派遣しなかったことになっているが、実は右の劉徳高等の来日の後を追って、「小錦中河内直鯨」なる者を唐に派遣している(同52頁)。その直後、唐は郭務悰なる者を総勢2000名で日本に送り込んでくるが、彼についての中国側での記録はないらしい。また日本で何をやったかについても、日本書紀は何も書いていない。郭務悰はマッカーサーよろしく北九州を占領行政していたと見る向きもあるが、それよりは白村江での捕虜、あるいは百済の遺臣を送って来た可能性がある。前出のように、白村江敗戦後、百済の男女2000名が「東国に送られた」という日本書紀の記述(岩波文庫第5巻38ページ)と、それは平仄が合っている。筆者は西東京市に住んでいるが、このあたり志木(新羅)とか横田基地とか、白村江、太平洋戦争と二つの敗戦の故地に近い。これでは意気が上がらない。

 なお、630年に始まった遣唐使は白村江の戦いの後の669年から30年間中断し(668年には今の北朝鮮に相当する高句麗が唐・新羅の連合に滅ぼされ、この後676年までは唐・新羅間で戦争が行われたので、朝鮮半島沿いの航路での遣唐使を派遣できなくなったせいもあろう)、702年再開した時には、敵対的な新羅が支配する朝鮮半島沿いではなく東シナ海を横切る航路を取り、しかも朝貢の形式を取るようになっていた。630年遣唐使開始の頃には朝貢形式ではなかったので、このあたり白村江敗戦、高句麗滅亡、そして新羅の隆盛による日本の立場の低下を示すものかもしれない。

(壬申の乱)

中大兄皇子、転じて天智天皇は、中臣(藤原)鎌足とともに蘇我入鹿を討ち、大化の改新を実施し、白村江への軍派遣を指揮し、敗戦の後は唐・新羅軍の襲来に備えて海岸の守りを固め、都を飛鳥(大阪湾から大和川等を用いて敵の水軍が侵入しやすい)から大津に移したが、白村江での敗戦の8年後、大津で崩御している(平安時代の歴史書「扶桑略記」には、天智天皇はある日狩りに出たまま行方不明になったとの伝説が記されてあるらしい。暗殺されたのかもしれない。大津への遷都には不平・不満が大きかったらしい)。

 そして彼の後継の座をめぐって壬申の乱が起きる。それまでも、天皇の地位継承をめぐっては何度も争いが起き、前出のように有馬皇子、大津皇子のように刑死した皇子もいるのだが、いずれも宮廷内の出来事だったのに対して、672年壬申の乱では天智天皇の弟、大海人皇子が天智天皇の息子の大友皇子に反旗をひるがえし、地方の豪族たちの支持を得て都(飛鳥)に攻めあがった点で、スケールの大きなものだった。

おそらく、蘇我家から藤原家への覇権の移動、大化の改新、班田収授の法の施行、白村江での戦い、そして大津への遷都での負担などが豪族達の一部に不平の種を蒔き、それが大海人皇子の下に結集したのではないか。

宮中祭祀は古来からのものなのか?

以上が、僕が調べてみたかった「日本」成立までの経緯である。要するに、多くの史実が記録されていないために、実相はわからない。朝鮮半島からやってきた人達が日本列島に勢力を植え付け、やがて誰かが統一した後、朝鮮半島からは完全に駆逐されて「日本」となった、ということではないか? そういう中では、今絶対視されている「宮中祭祀」の来し方来歴を再吟味しておく必要がある。

宮中祭祀は非常に重視され、来年4月の新天皇即位の時にも守られるだろうし、国事と見なされる部分には国家予算も支出される。しかし天皇家の祭祀とは、古来一貫して今のような姿を持ち、今のような重要性を付されていたのだろうか? そもそも天皇家は江戸時代までは仏教にも帰依していたから、出家して上皇になる天皇も多数いたのだ。そして京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)は天皇家の菩提寺で、後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓(最後の孝明天皇は、それまでの墓石ではなく簡素な陵に葬られている)。

天皇家の祭祀には、新嘗など大陸の農耕民族の祭祀、あるいは鈴を用いるシベリアの遊牧民族のシャーマン儀礼を強く思わせるものが並立している。いくつかは古来からのもの、そしていくつかは廃れていたのが江戸時代、明治時代に再制定されたものである。

薩長中心の明治政府には、天皇の権威を高めることで自らの権威を高めようという魂胆があったので、神道と言うより皇室そのものの神化をはかった。明治23年の教育勅語では、末尾に「斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」とあるように、皇室は神の子孫とされて、国教的存在となった。明治33年には内務省社寺局を「神社局」と「宗教局」に分割することにより、神道とその他諸宗教を明確に区別した。また明治41年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。

以上、皇室の地位、皇室祭祀はその時々の政権の意向で変わってきている。現在の形態を後生大事に守るいわれはない、ということだ。天皇に長時間の正座を強いるなど、現代には改定を必要としているし、また改定したからと言って、1000年以上も一貫して続いてきた文化を覆すといった大げさなものにはならないのでないか?
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