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2016年12月18日

2016 11月ベルリン詩情

11月末ベルリンに出張した時の随想です。

ルフトハンザ、スト騒ぎ

出発は土曜日の15時。朝、メールを見ると、ベルリンの会議の主宰者から、「ルフトハンザがストライキ。東京からの便もキャンセルになったかも。自分で調べろ」という有難いお達し。これでルフトハンザにひどい目に会うのは、2回目。2年程前もパイロット達がもっと賃金を上げろと騒いで、経営陣と争いになり、無理無体に飛行機を降りてしまった(地上で)。その頃、ルフトハンザは既に羽田空港を使っていて、僕はスーツケースを前日、羽田に送ってあったのだが、エージェントが急遽とってくれた代替便は成田発。自分でスーツケースを羽田に取りに行き、成田に持っていく破目になった。

お堅いドイツ人が同じことはもう2度とやらないだろうと思ったら、相変わらず乗客を無視した給与闘争。急いでインターネットのサイトを見ると、僕の便は「キャンセル」と書いてある。今回は、ベルリンの主宰者が送ってくれた切符なので、こちらのエージェントに代替便の手配を頼めない。そこでルフトハンザに電話をして(向こうが電話に出てくるまで30分待たされた。電話代はこちら持ち)代替便を取るよう頼むと、しばし調べた後で、僕の便はキャンセルされていないと言う。もうルフトハンザは絶対乗らない。ドイツ的でなくなってしまった。おそらく湾岸諸国の新興航空会社に要員を高給で引き抜かれ、本体にはカスしか残っていないのだろう。現に機上乗務員のサービスはいい加減で、ランプの具合が悪いので何度呼んでも来はしない(エコノミー席)。

中国より中国的になった羽田空港

やっとパスコンを通ってTax Freeの店に入ると、客と店員は中国人ばかり。中国人の男性店員がモップを前に押すのでなく、後ろに適当に引きずりながら「掃除の格好」をしている。ずるずるとモップを後ろに引きずりながら店内を歩き回り、行きつく目当ては中国人女性店員達が群がっておしゃべりしているところ。何度、彼のモップにつまずきそうになったことか。中国の国際空港では、こんな勤労意欲の低い中国人を見たことはない。日本での仕事をなめているようだ。

無愛想になった欧州

欧州行のルフトハンザ機はシベリア上空から北にずれて北極海の頭上を数時間飛ぶ。こんなコースは初めて。遠回りだろうに(帰りのANA便はずっとシベリア上空)。シベリア上空をずっと飛ぶと、ロシアから上空通過料をふんだくられるからか? ヨーロッパも変わった。せちがらくなった。もうウィンナ・ワルツの聞こえてこないウィーン、シャンソンの聞こえてこないパリ。聞こえてくるのは、リリー・マルレーンの軍靴の響きのみ――といった感じ。

フランクフルトの空港では、空港ホテルともども、無料のWIFIがないから驚いてしまう。そして次の日の朝、空港レストランで朝食を注文したら、持ってくるまで20分。食べようと思ってナイフを持ち上げると、その重さに手首を捻挫しそうになる。そしてまずいのに、ウェイトレスは「おいしいか?」と何度も聞いてくる。懐かしいドイツ。35年前ボンに在勤していた時を思い出す。あの頃、ソ連のレストランに行って、食事が出てくるまで1時間待たされて怒らないのはドイツ人だけ、と言われていたものだ。

ベルリンにて

ベルリンのタクシー運転手はだいたい、中東出身。着いた時のはレバノン人。「息子が2人いて、長男は警察官になる勉強中なんだ」と誇らしげに言う。移住一代目は運転手、2世は公務員、そうやって段々同化していく。「レバノン人はブラジルに600万人。大統領もレバノン人なんだよ。あなた中国人? 日本? ああ、広島ね。アメリカ人にたくさん殺された」と薄笑い。

昔、日本と言えばソニーとかトヨタとか尊敬の念を込めたお世辞を言ってくれたのに、今ではジェノサイドをされても黙っている国なんだ、という嘲笑が前面にでてくる。これまで日本のカネの力で隠れていた嘲笑が。

ホテルに着き、フロントでもらったカードを部屋の鍵穴に通す。カチャッと音がしたのでドアを引く。いくら引いてもドアは開かない。5分ほど格闘していたら、ボーイが通りかかったので、頼むとすぐ開けてくれた。引くのではなく、押せば開くドアでありました。年は取りたくないもの。

ところが部屋が寒い。暖房をMaxにしたらますます寒くなった。そうやって凍えたまま、実に2晩を過ごした。3日目、眼鏡をかけてよく見ると、そのダイヤルは冷房で、暖房のダイヤルはよく見えない色だったのだ。年を取ることは、ある場合には致命的。

ポツダム広場に散歩に行く。去年も来たのだが、今回じっくり見る。Ideeがない。無愛想な真新しい建築が並んでいる。安普請。レストランが少ない。ベルリンには、ロンドン、パリに比べて「思想」がないのだ。都市としての一体性がない。店の飾り付けにしても安っぽいので、偉大な田舎という印象。だいたい、世界の首都からの直行便が少ない。ベルリン分割統治時代の小さな飛行場を使っているからだ。

大変な費用をかけて新しい国際空港を作り、さあお披露目というところで、ターミナルの建物が消防基準を満たしていないことが判明、市長は辞任、空港開港は数年遅れ、という仕儀に相成った。律儀で細かいはずのドイツ人も、最近ではそうでもないのだ。でも、この国際空港が開港する時は、ベルリンが本当の世界級の首都になる時だろう。

ユダヤ博物館

ベルリンにはユダヤ博物館がある。まるで東京のど真ん中に、慰安婦記念館、あるいは南京虐殺記念館があるようなもので、ドイツも随分寛大だと思って見に行った。タクシーに乗って「ユダヤ博物館」と言うと、「知らない」と言う。まあ運転手のアラブ人はユダヤ人が嫌いだから、あえて知らないと言っているのかと思ったが、そうでもない。本当に知らない。

「ホロコーストの記念館だ」と僕が言うと、「ああ、あそこね」と下ろされたのが、Topography of Terrorという記念館。ここはナチの新撰組に相当するSS(親衛隊)の本部跡。まあ、ここもユダヤ人迫害に手を下したのだが、迫害したのはアデナウアー(後の首相)も含めて、ドイツ人全般。ユダヤ博物館とは違うのだ。

僕はユダヤ博物館を地図で探すと、てくてくと歩き出す。Topography of Terrorもユダヤ博物館も、ベルリン南東のKreuzberg地区にある。ここはトルコ、アラブ移民が多いことで有名なところ。確かに学校の校庭でサッカーをしているのは移民ばかり。それでも、パリのアラブ人居住地区のようにアラビア語看板が林立したり、シシカバブを焼く煙で白くけぶっていたりすることはない。ふつうと変わらない。治安もいい。

ただ、壁にペインティングをしている一帯があり、そこで昼日中、その地区の「画家」とおぼしき若いアラブ人がマスクをかけて、スプレーのペンキを壁に吹きかけていた。警官に取り締まられるなどとは、全く思っていない、無防備な様子。

ユダヤ博物館を見つけて入る。思ったより、展示は控えめで、遺品、写真、手記、パネルが中心。ホロコーストだけでなく、ドイツにおけるユダヤ民族の歴史全体を紹介している。「ドイツに同化することが可能だと思っていたのに・・・」との思いを書きつけてあるパネルは痛々しかった。
展示は控えめだと言っても、この博物館は建物全体で不正を訴えている。全体に重苦しく、出口が見えず、廊下、壁が変にゆがんでいるので、疲れるのだ。特にGarden of Exileというインスタレーションは、柱はまっすぐ立っているのに斜めに見える。通路は3軸にわたってゆがんでいるので、歩いて行くうちに吐き気、めまいがしてくる。館を出ても、その感覚はしばしなくならなかった。

帰路

帰路、ホテルから空港へのタクシーの運転手はイラン人。1976年に西独に留学、建築を勉強していたのだが、イランのイスラム革命で帰れなくなった。以後西独、そしてドイツで建築技師として25年、一時事務職に移ったが退屈で、建築に戻ろうとしたが雇ってもらえず、運転手になった次第。妻もイラン人で児童教育専門家。息子はイベント・プロモーター会社を運営、娘は建築家でスイス在住。ドイツは統一後、急に多民族社会になった感じがすると言っていた。「世界は大乱だ。日本は静かだって? 日本人には感心している」と言うので、「中国人は?」と聞くと、「つき合った経験はあまりないが、世界を征服しようとしているようで、気に入らない。」ということ。よくできました。因みに、これらの会話は全部ドイツ語。1979年ボンに赴任した時、ほぼゼロから叩き上げたドイツ語。35年経っても覚えている。

帰りのルフトハンザ便はストのせいでキャンセルされていて、会議主催者は苦労の末、ANA便をとってくれていた。最初からこれにしておけばよかったのだ。歳を取ってものを読むスタミナがなくなってきたので、機上で珍しく映画を見る。「シン・ゴジラ」。最後に、東京で原爆を投下してゴジラを殺すかどうかという話しになり、国連安保理での議論における米中ロシア・仏の立場がさもありなんと思われるようによく描かれている。そして日米混血女性が米国大統領になる野心をごく自然に語っていたりする。少々マンガチック。でも面白い。

その次見た「君の名は」の画面の素晴らしさ、そして全体に漂う詩情に感銘を受ける。反戦イデオロギーの教訓臭が漂う宮崎駿ものとは違って、自然。でも歳のせいか急にスタミナがなくなって、途中で見るのをギブアップ。今度孫と行って、全部見ることにしよう。

デリーのステーキ屋

ところで今回の会議で仕入れた最新情報で面白かったのは、インドのあるジャーナリストが言っていたこと。インドのデリーと言えば、15年前にはヒンズー教の聖なる存在、牛、それも白い牛が沢山、道路を歩いていたものだ。人力車、オートバイ、三輪車、乗用車、トラックがひしめき合う中に牛達が悠々と歩く。インド的混沌。

それが5年程前行った時には、なぜか道路に牛が見当たらない。インド人にどうしたのかと聞くと、口を濁している。それが、今度インド人のジャーナリストがあっけらかんとして言うには、「食べるか、輸出するか、どっちかで、いなくなってしまった」のだそうだ。成牛はイスラムのバングラデシュに輸出、インドは今や牛肉輸出国にもなった。聖牛は資源に変わったのだ。デリーではステーキ店が流行しているのだそうで、今度行ってみよう。前回は、マクドナルドに行ってもハンバーガーはなく、朝、昼、晩と食わされたカレーも「ベジ」(野菜)ばかり。閉口したものだ。文明は進歩する?
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