2011年旧満州の旅 その3 大連
2011年11月13日。長春、瀋陽で1週間を過ごしたあと、昔の満州鉄道で大連に行く。長春と瀋陽の間はもう、いわゆる「新幹線」(とは言っても、既存のレールを走る)だが、瀋陽と大連の間は普通の列車、つまり昔の満州鉄道に近い形で、5時間ほどかかる。
もう日の暮れた夕方、大連に近づくと、その光景は欧州の都市の郊外と変わらない。高層アパートがならび、車でいっぱいの道路は温かい色のナトリウム灯で照らされている。
大連駅に着く。瀋陽の駅はプラットホームのコンクリートが打ち放しのようにざらざらし、スーツケースの車も取れんばかりになるが、大連のプラットホームはなめらかで、地下に降りる階段はスロープ式だ。さすが港町、開けていると思っていると、改札口は大混雑。出口が二つしかなく、駅員がいちいち切符を集めている。その改札口の向こうでは、長春の東北師範大学の卒業生だという日本語教授が、ご主人と一緒に待ってくれている。ご主人とは昔日本に留学しているころ知り合ったのだそうで、彼は大連の日本企業のマネジャーをやっている。給料は15万円ほど。二人して、夜の大連の街を車で手際よく案内してくれた。
中国のボストン、大連
大連は港町だ。200万人以上の都市がずらりとならぶ東北地方への玄関口で、日本海側の日本の諸都市はこの大連に事務所を持つ。港町だから、古い欧風の建物もならび、その中に高層ビルがそびえたつ。そのオープンで雑然とした雰囲気は、米東海岸ボストンを思わせる。
長春や瀋陽は肩をいからせている雰囲気があるが、ここ大連はぐっとくだける。ホテルの入り口で女性従業員とおぼしき若い女性がカードを配っていたので、割引券かと思ってもらってみるとマッサージの広告だったり、いったんそれをもらった客には「かわいい子いますよ」と迫ってきたり。そして街には茶髪の若者も珍しくない。
街の情景
次の日は、市電と歩きとタクシーで、一人で街をぶらついた。まずモダンできれいな市電に乗って港の近くまで行ったのだが、大連では戦前の木造の電車も走っていて、その中には戦前の情景を写した写真も展示されているのだそうだ。市電を下り、慣れない街を一人で歩くとまごついて、同じところを堂々巡りしたりする。同じ犬に2度出くわし、怪訝な顔をされる。そこらじゅうで高層ビルを建てている。気がついたが、ここは真ん中のエレベーター部分から作っていく工法をとるところが多い。ビルの上にエレベーター部分のみがまず、そびえていくのだ。日本では、こうした工法は見たことがない。
港を見たいと思ったが、どうも簡単には埠頭に入れない。高層ビルにも展望台がなかなかない(その高層ビル。入居率は半分くらいのものもあった)。それでも陸橋から、空母のヴァリャーグが見えた。崩壊したソ連(のあとのウクライナ)から鉄くず同様に買い入れた旧式空母。天津に「キーエフ」、深圳に「ミンスク」があって、どちらもテーマパークにされてしまったが、この「ヴァリャーク」は中国海軍に本当の空母を作るための実験台として使われている。大連で改装してからもう2回「出港」したが、まだ艦載機はないようだ。空母はこれを守る駆逐艦や潜水艦をくっつけ、しかもそうした部隊を3セット揃えないと実戦では使えない。そうなるまでには、あと10年以上かかるだろうし、そうならないかもしれない。
港近くの裏街を歩く。乾物、ネギ、そして便所の臭いが埃にまぶされたような臭いが鼻をつき、道路ぎわの露店ではゴザや新聞紙の上にネギやら何やら泥だらけの野菜、果物がうず高く積まれている。二束三文で売られるこうした食品の数々を我々の価格で評価したら、中国のGDPはあと20%くらいははねあがるだろう。
露店の横には「将棋屋」、「麻将(マージャン)屋」の看板、そして場末の浴場。入浴代は8元で、「求む女性従業員」という貼り札。そのすぐ横には、若干古目だが大型の黒塗りシボレーがでんとひかえる。成金になりかけの者が買ったのだろう。
街の南に「77街」(チーチーチエ)というシックな並木道があって、ここは戦前満鉄をはじめ、日本企業の幹部たちの住宅がずらりと並んでいたところだ。今でも、立派な邸宅が立ち並び、そのいくつかはレストランになっていたりする。そして裏道に入ると、日本企業の課長級くらいの住宅だったかと思われる、2階建て百平米ほどの一戸建てがならんでいて、だいたい手入れが悪くて半分くずれかけたようなこれらの家には、中国人家族が住んでいる。
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大連で、満州時代の日本人住宅や満鉄のことを聞くと、奥歯にもののはさまったような答えが返ってくる。どこにあるのか聞くと、「もうないんじゃないですか?」など、あたかも行ってほしくないと言わんばかりの返事が返ってきたりする。ロシアがこのあたりを植民地化していた頃建てられた「ロシア人街」は、観光資源として念入りに保存されているのだが、同じ人種の日本人への思いはもっと複雑なのだろう。他方、日本語を知っている中国人は市の真ん中にある中山公園を、「なかやま公園」と発音したりする。中国で中山と言ったら、それは辛亥革命の父、孫文(孫中山)のことに他ならないのだが、そのあたりの記憶も薄れているようだ。
都心にある「ヤマトホテル」に行く。ほこりにまみれ、廃墟じみてはいるものの、まだ現役。近づくにつれ、何か自分は若いころこうしてここを歩いていたという懐かしい感じ。映画の見過ぎか。
ホテルの内部は素晴らしい。吹き抜けの小さなスペイン風の庭があったりして。昔ながらの小さな喫茶室の天井には、ラファエロ風の天使の壁画があって、座ってコーヒーを飲んでいると、この100年生きてきた日本の疲れがじわじわと出てくる思いだ。
埠頭に出ることができなかったが、この大連という港のキャパシティー、拡張の可能性を知りたくて、地図を見ると街のはずれにテレビ塔がある。展望台があるようなので、タクシーで丘の上にのぼる。案の定、テレビ塔の下には「空母、一番よく見えます」などという看板が立っている。はるか上空の展望台にのぼると、海に囲まれた大連の様子がよくわかって素晴らしい。港は大きく、クレーンが無数に並ぶ。そしてまだ拡張ができそうな具合だ。空母は建物のかげになって見えないが、別に隠しているわけでもないので、インターネットを見れば、画像が無数に出てくる。テレビ塔の2階に下りると、「世界空母模型展覧」場というのがあった(有料)。閑散としていて、僕以外には客もいない。ぶらぶらして展覧場に近づくと、後ろの売店の従業員が「お客さんよー!」と大声でよばわる。展覧場の従業員は近くでお茶でも飲んでいるらしい。
テレビ塔の横からは下界に降りるリフトがあって、大きな公園めがけて暮れなずむ大連の空を下りていく。リフトが傾き、みやげに買ってあった本がプラスチックバッグごとすうーっと滑ると下の林に落ちて行った。
大連の日比谷公園のようなところを歩いて、都心に帰る。池のほとりに老人たちが集まって、太極拳などやっている。寺の鐘(とおぼしき音)がゴーンと鳴った。
(テレビ塔から見た大連市街)
大連の日本人
大連は、上海とならんで日本人、日本企業が多い(1500-2000社)ところだ。親日的なこととか、海産物がうまいことでは、上海を上回るらしい。総領事館(と言っても、公称は連絡事務所)に登録している日本人は6500人ほどいるらしいが、2万人はいると言う中国人もいた。
逆に、日本語を学習する大学生は3万人。その他で日本語を勉強している者は推計20万人で、その点大連は中国最大の日本語学習人口を持っているそうだ。
大連は、製造業からIT(電話サービスのアウトソーシングなど)の中心地になることを目指しており、郊外にはそれら企業の大きな社屋が並ぶ。ここにも、日本語学生の就職先がある。だが、「何か外国語ができれ」ば就職が有利になるので、大学で日本語を学習した学生すべてに日本語での就職先を用意しなければならないと思い悩む必要もないらしい。
旅順
その次の日、ガイドを雇って旅順に行く。観光バス・ツァーはないので、車、運転手つきで1日700元だった。タクシーを借り切って行く手もあるのだが、日本関係の故地はけっこう見つかりにくく、タクシーではとても回り切れなかっただろうと思う。旅順は正式には旅順口区といって、大連市の一部になっている。人口は20万人で、僕の地元の東京郊外の市と同じなのだが、高層ビルの類はやたらに多い。
旅順のことをだらだら書いても仕方ないので(地球の歩き方などに書いてある)、面白かったことだけ書いておこう。まず激戦の203高地。禿山の上に壊れた要塞がある姿を想像していたが、かつて弾丸が雨あられと降り注いだ山肌は今では森となっている。近くの森の中にロシア軍の旅順要塞跡があって、要塞司令官コンドラチェンコ少将は、ここの一室で会議中を砲撃されて死んだのだが、日本軍は彼がここにいることをどうして知ったのか? 「坂の上の雲」でも読み返してみよう。ロシア軍の内部にスパイがいて日本側に携帯電話で通報していた、という時代でもないから。それとも、双眼鏡で見ていたのだろうか?
大砲と言えば、児玉源太郎が持ち込んだ口径280ミリのおばけ榴弾砲が有名で、これを203高地から打ちこんで旅順港のロシア艦隊を沈めたことになっている。現地で見た記録では、この一つ217キロもする280ミリ榴弾は11トンの重さの大砲から2254発発射されたのだそうだ。射程は7800米だったというから、どこから飛んでくるのかわかったものではない。
203高地には、戦後乃木将軍が建てた慰霊碑が今でもたっている。当時の兵隊の気持ちを思うと、言葉もない。立て札には、「日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」という説明が書いてある。日本人として怒って当然なのだが、こうでもしておかないと、今度は中国当局の方が国民から「こんな記念碑をどうして残しておくのか?」という圧力を食ってしまうだろう。
親愛的中国、再見
次の早朝6時、空港へ向かう。日本人の客がチェック・アウトで行列するなか、ホテルのフロントには2人しかおらず、しかも1名は見習いで、勝手知らざる彼女は涙物語。7時にもなると、空港へ向かう通りの対向車線は車がもうぎっしりつまって動かない。郊外電車、地下鉄の類がほとんどない大連の問題だ。
大連空港は、成田なみの大きなターミナルだが、使っている航空会社は少なく、内部の使い方は効率的ではない。この時間、「中国南方航空」の行き先は東京、名古屋、大阪とあり、日本と中国は一体のようだ。中国人乗客が多い。
北京でもそうだが、空港のパスポート検査などは本当に素早く手慣れている。ロシアとは大違いだ。係官がパスポートを見終わると、彼女のデスクの前のパネルがちかちか光り、「私の仕事を評価してください」というアナウンス。いくつかのボタンがあって、そのうちのニコニコ顔「満意」というのを押した。無表情を装う若い女性係官が「おかしいでしょう?」とでも言いたげに、少し面映そうにゆがんだ。再見、親愛的中国(今回はいやな奴に会わなかったから)、加油。
(乃木大将とステッセル司令官が停戦に署名した水師営村の農家。いちど壊れ、最近修復されたらしいが、なぜかどの写真を見ても屋根に草が生えている。僕の行った時もそうで、嬉しかった)
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コメント
河東さん
ありがとうございます。
私も11月に大連に行きました。中国の世界一のコンテナ会社が建築鉄骨分野に進出するために日本人技術者を雇っていて、その日本人の案内でした。工場は日本の製鉄会社のように大変広く、その敷地一杯にコンテナがありました。世界中に販売しています。そこの責任者の挨拶は経営者として大変立派なものでした。町は建設ラシュで日本の東京オリンピックやかっての上海以上と感じました。建設はほとんどRC造(鉄筋コンクリート)でしたが、中国人経営者はS造(鉄骨)がもっと増えると言う予想をしています。私も同感でした。