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世界はこう変わる

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2011年10月24日

失われた意味を求めて 第9話 乱を経ての興隆 15から17世紀の西欧基本構図

産業革命そのものについて話し始める前に、英国発展の基盤を作ることとなった、17世紀までのヨーロッパをもう一度、見ておきたい。

なぜそんなに念を入れるかと言うと、こういうことだ。まず産業革命(その本質は商品の大量な生産)こそは、われわれの生活の物的な面での豊かさばかりか、「中産階級」と呼ばれる階層を大幅に増やし、自由な個人、民主主義という現代社会、政治システムの基礎を形成してくれたものだからである。つまり一つの社会が工業を失うと雇用が減って格差が広がり、民主主義は維持しにくくなるのである。それは、格差が広がったアメリカで、世論の分裂、過激化の度合いが激しくなって議会の審議が止まりやすくなり、そのなかで職を失った人たちがウォール・ストリートなどで集会、デモを繰り返しているのを見ればわかるだろう。だから、欧州で産業革命を可能にした要因が何で、そのような要因は今日どこにどのくらい残っているかを見れば、世界、そしてひいては日本の命運も少しはわかるだろう。

産業革命が、ヨーロッパより数百年は先を行く消費経済を西暦1000年頃には築いていた中国に、なぜ起きなかったのか? ヨーロッパ、それも英国で最初に起きたのはなぜか? この点をよく考えると、今日の発展途上国にとって「経済離陸のための秘訣」と呼べるようなものを抽出できるだろう。そして今、日本、中国などヨーロッパ文明の系統に属していない国々が産業革命――安価な労働力を使って商品を大量に生産し、輸出して富を築く――を模倣して莫大な富を手に入れているが、これらアジア諸国の工業化の過程は17世紀以降のヨーロッパと比べて、どこか重要な条件を欠いていないかどうかを見ていくことも必要だ。それは日本、中国などの今後の命運を決することになる。

たとえば、英国で特徴的だった「生産手段を個人が所有し、経営していく権利」が現在の中国で十分確保されていないとすると(共産党や政府からの指図、干渉が強すぎると言われる)、機械設備を輸入して低賃金労働を活用していくだけでは限界が訪れるだろう。日本の社会、行政にも、経済成長の足を引っ張る要因は多数残っている。なかでも、「自由」や「民主主義」などの概念をつきつめて議論することなく、無原則とも言えるポピュリズムで代用している日本には、ガバナンスの上での限界が訪れている。GDPが大きくなっても、人間にとって住みにくく、能力も発揮しにくい社会に止まっているのなら、GDPの伸びも止まるだろう。

他方、ヨーロッパ人の慢心を戒めるためにも、産業革命、国民国家成立の歴史を再訪することが必要である。彼らは、ギリシャ、ローマの頃から一貫して先進国であったかのような顔をして、開発途上国に対して高い目線で民主主義・市場経済の御利益を説くのだが、ちょっと待ってもらいたい。ヨーロッパは民主主義が先にあって、民主主義だったから経済発展ができたのではないだろう。実際の過程はむしろ逆で、植民地の犠牲で経済発展をしながら現在の民主政体を徐々に築いていったのが実態ではないか。ものごとの原因と結果を間違えると、時々危険な結論が出てくるので注意しなければならない。生活水準が低く富が偏在している社会で民主主義を強行すると、それは富の奪い合いと新しい支配者を頂点とする新しい利権構造の出現で終わってしまうのである。

ヨーロッパ人は、彼らが世界に進出して後れた他民族を植民地として従え、国内では産業革命を実現して高度の文明を築くことができたのは、彼ら特有の自由と合理性の追求――ヨーロッパ諸民族の遺伝子にだけ組み込まれている、と言わんばかりだ――、キリスト教が育んだ論理的思考――中世のキリスト教神学は「神は存在し、それは唯一神だ」ということを証明するための理論開発に明け暮れた――などによるものだと主張するが、本当にそうなのか? ヨーロッパ人だけでなく、多くの人間が自由を求めているだろう。子犬だって、首輪をはめられるといやがるではないか。論理的思考ならば、古代ギリシャがその最たるものだし――ヨーロッパの人たちは古代ギリシャはヨーロッパだと言うが、古代ギリシャと中世ヨーロッパの間には人種、時空の溝がある――、中国の易もそうだし、ペルシャのゾロアスター教だってそうだろう。つまりヨーロッパには自由と合理性の追求は芽生えていたし、論理性も十分あった。それなしには産業革命も実現できなかっただろう。

だがこれらの要因は、ヨーロッパ特有のものではない。17世紀以降のヨーロッパ台頭には、次の要因――その中には偶然のものもあり、武力の優位もあり、ヨーロッパとして特に誇れるものでもない――もあった。たとえば、スペインが征服した南米に金、銀があれほどなければ、ヨーロッパにおける絶対主義、そしてその後の国民国家の成立もなかったかもしれない。国民国家というのは国力を集中して戦争を行うためのマシンみたいなものだから、国民国家なしには植民地の獲得と、これを市場として行うその後の産業革命も起きなかっただろう。

そして、十七世紀以降英国、ヨーロッパで蓄積されていった資本――それは後に産業革命実現の原資となる――のかなりは、アフリカ人奴隷の血と涙と汗で購われたものである。十七世紀以降、十九世紀に禁止されるまで、アフリカからは1200万人にのぼる奴隷が中南米、北米などに拉致されている。そして十七世紀から十九世紀にかけてはスペイン、オランダ、フランス、英国などの間における数次の戦争と流血があった。英国とフランスの間の植民地獲得競争は、最後にナポレオン戦争となって戦われ、ワーテルローの戦いで大英帝国の優位が確立されたのである。そしてヨーロッパの植民地とその周辺では無数のインド人、中国人、東南アジアなどの人たちが利益をヨーロッパに吸い取られ――彼らはヨーロッパ人が来なくても、社会の不公平な支配構造を変えることはできなかっただろうが――、麻薬を売りつけられた。

ヨーロッパにおける現在の高い生活水準のかげには、このような犠牲がある。ヨーロッパにもこうした点を認識して、腰の低い人たちは大勢いる。そして経済発展が「原罪」で血ぬられている点では、他の先進国も同様である。日本も明治以降の工業化の過程では朝鮮半島、そして中国などの人たちに多大の犠牲を強いている。アメリカの経済発展も、数次の大戦争のたびに大きく伸びてきたのである。つまり、ヨーロッパで産業革命が実現した背景を調べることは、他ならぬ日本を、そして他の諸国を歴史、政治、経済、文化など諸方面において検証するための座標軸として役に立つのだ。

以下、本文では話の大筋だけにして、注で詳しいことを述べることにする。さもなければ、われわれは歴史の深い深い森のなかで迷ってしまい、いったいどこで何をしているのかわからなくなってしまうだろう。

「長い16世紀」の基本構図

では1600年ごろのヨーロッパに話を戻す。15世紀後半から17世紀前半頃までを、「長い16世紀」という一括りの時代として捉える見方がある。これはヨーロッパの人たちがスペインをイスラムの手から取り戻し、勢いをかってイスラム商人の商権まで奪うべく大洋に乗り出す(ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブス)ところから始まり、中央集権の絶対主義体制を実現し、今日の国民国家と呼ばれる国家体制の基礎を作り上げるまでの時期である。とは言っても、ここで書いているのはヨーロッパ史そのものではないので、「長い16世紀」が始まったときの基本的な構図――政治・経済上の――だけまとめておく。

(政治上の構造)
まず政治的な構造だが、西ローマ帝国が崩壊した後、諸部族・勢力が入り乱れての動乱時代が続く。ヨーロッパの北半はまだ深い深い森におおわれて、そこではゲルマン諸族が相戦い、ローマ帝国時代に開かれていたヨーロッパ南半部でも都市文明と農村が共存するなかで戦いが続く。

諸部族・勢力は統合、提携、離反を繰り返し、その結果、主要な対立軸としては、次の二つができたと言えよう。それは、

①ドイツそしてスペイン双方において王座(ドイツにおいては神聖ローマ皇帝)を持つハプスブルク家

②そしてフランスを支配するヴァロア家、ついでブルボン家である。

英国はこの2大勢力に比べると国土も経済力も軍事力も小さく、王位継承などにおいてはスペイン、フランスの干渉を受けたり、形勢の悪くなった王族が両国のいずれかにすり寄ったりして、翻弄されることが多かった。

この二家とは異質の軸として、③全欧州の教会を支配し、ここから上納金も徴収していたローマ教会がある[i]。これは崩壊して久しい西ローマ帝国を引き継ぐものとしての権威を維持しており、神聖ローマ皇帝とフランス国王はこのローマ教会を自陣営に取り込んで政治的な箔をつけ、同時に経済的な利権にもあずかろうと、しのぎを削る。それは、日本の戦国時代に有力な大名たちが京都に攻めのぼり、天皇を自陣営に引き込もうとしたのに似ていた。

(経済上の構造1 地中海交易圏)
経済では、ローマ帝国以来の地中海交易圏がまだダントツの繁栄を見せていただろう(統計はないが)。それはローマ帝国時代と同様、北アフリカの小麦、地中海北岸で産する銀、木材、金属製品、白人の奴隷、そしてコンスタンチノープル(1453年にはオスマン帝国に征服されてイスタンブールになる)にアラビア商人たちがもたらす中国、インドの絹織物、綿織物、陶器などの交易で成り立っており、商権は北岸のヴェネツィア、ジェノヴァなどのイタリア諸都市と南岸・東岸のイスラム商人との間で分け合っていたようである。ヴェネツィアなどの築いた富は、当時のフランスやドイツ(神聖ローマ帝国)の富に匹敵するようなものだったと言われており、近代の銀行システムはジェノヴァなどで築かれている[ii]。17世紀初頭からヴェネツィアなどは後退を始め、この地の銀行もドイツなどの銀行に吸収されていく。だがその過程で、イタリア諸都市の築いた富は、ポルトガル、スペイン、オランダなどに移転され、一部は産業革命の原資としても使われたことだろう[iii]。現にコロンブスの航海は、ジェノヴァの商人たちの出資で可能になったのである。

(経済上の構造2、ヨーロッパ北部とフランドル)
他方、ヨーロッパ北部では、バルト海を中心に12世紀頃からハンザ同盟が発展し、水産物や林産物など身内の交易を発展させていた。そしてハンザ同盟と地中海交易圏の中間、つまり現在のドイツ、フランス北半、そしてベネルックス三国に相当する部分では、11世紀頃から鉄製農具が普及したこと等の要因で農業生産が急増して余剰品売買のために市場ができ、そこから多数の都市が発達した。

その中でもフランドルと呼ばれる今日のベルギーの一部、そしてオランダはローマ帝国の一部として古くから開発されていたし、中世初期の頃からは耕作不適地での牧羊を進め、これに先進的な紡績・染色技術を加えて毛織物生産という、これまでとは別種の富の源泉=工業を成立させた[iv]。英国は初めは羊毛、15世紀になると白物の毛織物製品をここに輸出して(フランドルは染色技術で群を抜いていた。但しフランドルもその以前は、染色で優れるフィレンツェへ白物毛織物を輸出していたようである)、富を蓄えつつあった。

地中海交易圏とヨーロッパ北部の経済圏は、フランスのローヌ河沿いに結ばれていたが、これが英仏間の百年戦争で乱されると、スイスのアルプスを越えるルートが開発されて、15世紀末にはここが主要な通商路となったらしい。地中海用に作られているヴェネツィアやジェノヴァのガレー船では、波の荒い大西洋経由でヨーロッパ北部に至るのは難しかったろうし、それほど利益のあがる航路でもなかったようだ(ヨーロッパ北部の経済圏と地中海交易圏を本格的に結びつけたのは、16世紀後半以降のオランダ商船だろう)。アルプス越えのルートの開発とほぼ同時にドイツで銀山が開発されたため[v]、それまでもヴェネツィアとの中継貿易に従事していたフッガー家などのドイツ系商人が大銀行家へと成長していく。

だが中世を通じて欧州南北間の交易は南の大幅な出超だったはずであり、地中海交易圏が現在の二次的な重要性のものに落ち、「英仏独」がヨーロッパの中心的な勢力として自他ともに認められるのは17世紀の話である。そしてそうなるに当たっては、後述のように新大陸から大量に流入してきた金銀が大きな役割を果たしたと思われる。ただフッガー家はスペインのハプスブルク家に借金を踏み倒されたのが原因で、歴史から消えてしまったが。

(ヨーロッパは登場人物の一人。他にも役者は大勢)
そしてこの頃の欧州をそれだけで完結し、閉じた地域と思ってはならない。ヨーロッパの人たち自身が言うように、ヨーロッパはユーラシア大陸の西に突き出た大きな半島のようなものであり、ユーラシア全体のなかでの存在は相対的なものである。特に当時のヨーロッパの中核とも言える地中海地域はローマ帝国の時代、多民族の都市国家連合であった。そこではシリア、エジプト、メソポタミアを中心とする「オリエント」諸勢力がこの地域の経済活動の多くを担い、文明・文化の面でも多くをローマ帝国本体にもたらしていたはずなのだ。彼らの文明は後に「イスラム」の衣装をまとうことになったが、その根本にはイスラムより数千年は古い、古来からのオリエント文明がある。

中世になっても、イスラム勢力は地中海の交易をヴェネツィア、ジェノヴァなどイタリアの港湾都市国家と分かち合い[vi]、イスラムの海賊は地中海北岸のヨーロッパ諸都市を襲い、陸上においてもスペインを基地にして、南フランスのプロヴァンスなどを襲撃、占拠することが常だった。スペインのイスラム国、後ウマイヤ朝の首都コルドヴァは11世紀には世界一の人口500万以上を数える大都市であったばかりか、西欧諸国から留学にやってくるほどの文化の中心地であり(アラビア数字は言うに及ばず、代数、三角法はイスラム地域で開発されたもの。医学、天文学においてもギリシャの科学を引き継いだイスラム地域の業績が、ヨーロッパでは近世に至るまで使われた)、舗石、水道、医療など都市インフラが整っていた。

コルドヴァでは、アッバース朝イスラム帝国の初期から進められたギリシャ・ローマ古典のアラビア語への大々的な翻訳が、今度はアラビア語からラテン語への大々的な翻訳として進められており、ギリシャ古典をヨーロッパに伝える源泉となっていたのだ。ユークリッド、ヒポクラテス、プトレマイオス、アリストテレスなど医学と自然科学を中心とした古典がラテン語に訳された[vii](もう一つの翻訳の中心地はイタリアのフィレンツェなどで、ここではオスマン帝国に滅ぼされたコンスタンチノープルを逃れてやってきたギリシャ人の学者たちが、ギリシャの古典をラテン語に翻訳していた。あるいはコルドヴァは自然科学中心、フィレンツェは人文・社会科学中心だったのかもしれない)。

従って時代、地域ごとに程度の差はあるだろうが、中世のヨーロッパにおいてはイスラムは常に意識の中にある、しかし異質の隣人だったのだろう。このあたりの諸点が研究されるようになったのは、つい最近のことだ。それまでは、ヨーロッパを相対的な視点から眺めるようなことは、歓迎されなかったのである。

11世紀以降、スペインの後ウマイヤ朝は衰え、1492年には最後の拠点グラナダもカスティリア王国に征服されてしまったが、1453年にはオスマン帝国のマフメト2世がコンスタンチノープルを攻略して東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を滅ぼした。ヨーロッパは、イスラムの脅威をふたたび強く感じたことだろう。特にオーストリアはオスマン帝国とバルカン半島の領有を争い、1683年にもオスマンの軍隊がウィーンに押し寄せている。ヨーロッパの絶対主義――国王を頂点とし、中世の封建貴族はいなくなった中央集権政体――は、オスマン・トルコの政体を参考にしたものだと指摘する学説もある[viii]。

他方、ローマ帝国がビザンチン帝国=東ローマ帝国というかたちで、1453年まで残っていたのは驚異的なことである。つまりローマは帝政に移行して以降、約1500年間も続いたことになる。一つの統治機構の寿命としては、驚くべきことだ。但し西ローマ帝国の版図だった西欧においても、ローマ教会という統治・徴税構造が中世末期まで続いていたのだが。

(ユダヤ人)
中世ヨーロッパには、他にも忘れてならない「アクター」=登場人物がいる。ユダヤ人もそのうちの一つだ。ユダヤ人は地中海地域と西欧の経済、特に金融面で大きな役割を果たしてきたと思われるのにもかかわらず、何度も迫害を受けてきたためか、自分の事績をあれこれ言われるのを好まないようだ。だが、英国の産業革命や19世紀米国経済の高度成長、そして他ならぬ日本の戦前の経済発展においても、ユダヤ人と言われる人たちは金融面などで大きな貢献をしたのであり、彼らの役割に言及することなしには歴史の真相はわからない。次回以降、彼らの役割も詳しく見ていくこととする。

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[i] 中世フランス農村の生活を克明に記した「モンタイユー」(刀水書房)という、素晴らしい本がある。これによると、地元の司教は10分の1税などの利権を保持することに努めており、領主と徴税権をめぐって争う時などには「異端」のレッテルを貼り付けて脅している。

また住民同士も、気に入らない者を「異端」として教会に密告することもあり、それは時には入獄につながることもあった。

また14世紀の後半、フランス国王は法王座をローマからアヴィニヨンに移させてしまうが、ここにはカトリック教会の収入が集中し、「教皇の宮殿にはいるとき、お坊さんたちが机をならべて、それぞれ金貨の山をまえにして勘定にかかりきりでいるのを必ず見た」という有様だった由(「ルネサンス」ポール・フォール)。

[ii] 北部イタリアでは13世紀に、Lombardsと総称される銀行が台頭した。当時、カトリック教会は融資から利子を取ることを禁じていたのだが(現在のイスラムと同じ)、銀行家たちは複式簿記を発明し、教会をあざむいて、利子の使用を実質的に解禁した。フィレンツェやヴェネツィアにはドイツの方からも仲買人がやってきたので、その金貨は欧州全域で通用するようになった。

[iii] 16世紀、フランス国王がイタリアを征服するため、絶え間ない戦乱を起こすと、たとえばヴェネツィアなど都市財政が破綻しているが、民間資本はスペイン、ポルトガルに逃避したし(たとえばコロンブスの航海はジェノヴァ商人が融資)、おそらくユダヤ人ネットワークの助けも借りて新興のアムステルダムあたりにも移動しただろう。アムステルダムの取引所は1602年に開業し、オランダ東インド会社の株式や、貿易手形、先物取引、信用取引などの先端金融技術を駆使している。

[iv] ベルギーのブラッセルは今、「欧州の首都」と呼ばれて、EU議会、EU委員会本部、NATO事務局が置かれている。なぜ小国のベルギーにこのような重要性が付されるのかわからないだろうが、それには政治的、地理的な理由の他に歴史的な背景もある。今のオランダも含めてこの地域はフランドルと呼ばれ、中世からヨーロッパ北半では毛織物を中心にもっとも先進的な産業・農業形態を持っていたのである。地理的に平らで河川が多いことも有利に作用した。そもそもライン河口がこの地域にあって、ドイツ内陸に至るまでの交易を可能としていたし、ドイツとの境界にあるアイフェル山地からは多数の川が流れ出て、水車のための動力を提供した。

この地域は13世紀から世界最大の毛織物生産地となり、ブルージュは毛織物積み出し港としても発展した。都市人口が増えたため、これを養うための農業も発展した。18世紀にはこのフランドル農法は英国にも広まり、ノーフォーク農法として農業生産性を大幅に引き上げた。

この地域は鉄鉱石、石炭にも恵まれているし、アムステルダムを中心に投資銀行が早くに発展したため、19世紀以降は製鉄なども発展したのである。この結果、19世紀末には一人当たりの貿易額は世界最高に達した。(「西洋経済史」岡田泰男 八千代出版)

[v] 南ドイツの銀は、1521~44年、世界の52%を産出していた。フッガーはフィレンツェから銀行のやり方を学んでおり、ハプスブルク家に借金を踏み倒されたあとの1637年にはジェノヴァの銀行に吸収されたようだ。(「マネーセンターの興亡」 高橋琢磨 p119)

[vi] ヴェネツィアやジェノヴァの商人はオスマン帝国に大砲や船具、金属製品、毛織物、そしてヨーロッパ人男女の奴隷を輸出していた。ヨーロッパ北部の君主の軍隊を養うための小麦の大量調達を請け負うこともあった。(「ルネサンス」ポール・フォール P25)

[vii] 「科学で読むイスラム文化」ハワード・ターナー P239

[viii] たとえば、「オスマン VS. ヨーロッパ」新井政美

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