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世界はこう変わる

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2010年11月 2日

ジェネレーションY 青年の無感動。そして対米コンプレックス

ロシアでも「ジェネレーションY」
(1)「Y世代」という言葉が流行っている。これはロシアに限らず、アメリカでも日本でも1970年代以降に生まれた連中をこう呼ぶので、いずれもITを体の一部のように扱う。他方いずれも経済が厳しい時代に成人したので、政府が経済や自分達の生活に介入して助けてくれることを期待しているのだそうだ。筆者たちは日本では全共闘世代、アメリカではヒッピー世代と呼ばれた年代に属していて、無政府主義的な政府性悪論を心の底に秘めている。
ロシアの青年たちについてはこれに加えて、「特定の価値観を持たず、いや自我と呼べるものがなく、人生の目的を持たないから何事にも無責任」――こういう特徴を持っているのだそうだ。

ソ連崩壊直後、ロシアの青年たちが見せた「自由」、「民主」、「市場経済」への憧れはすごかった。学生たちの目は輝いていた。ところが世界では二流国に転落し、やりたいことをアメリカにことごとく封じられるということになって、青年たちはニヒリズムに転じたのだろう。言ってみれば、「理屈には関心ない。どうせ世の中のすべては強い者、強い国が動かす」ということで、ロシアのシニシズムは絶望、うらみと紙一重、そして経済が悪くなればテロに容易に転化し得るものなのだ(19世紀末のロシアでも同じ現象があって、それはたとえばドストエフスキーの「悪霊」の主人公スタヴローギンに体現されている)。

(2)日本ではそのドストエフスキーの作品などが時ならぬ流行りになっているが、モスクワの青年たちは「ロシア文学」などもう読まない。ITとか付き合いとか実学で忙しい。オブローモフのようなロシア文学の典型的人物については学校で習うから知っているが、インターネットから切り貼りしたインスタント知識の域を出ない。モスクワ大学の学生たちはシェイクスピアの名は流石に知っていても、「ヴェニスの商人」は、というような話になるともうわからない。読んだことがないから、「たとえばヴェニスの商人のシャイロックのような」とたとえ話をしても通じない。ソ連時代のインテリとは雲泥の差だ。彼らは代わりにロックのビデオクリップなどから、情報を吸収している。年長世代とは教養と常識のベースが違ってきているのだ。
考えるより感覚でものを判断するというか。

(3)モスクワの青年たちの多くは、一見ヨーロッパの青年と見分けがつかない。少し甘やかされていて、自分の権利ばかり意識しているというのも似ている。岩にしがみついても、という粘り強さが足りない感じがする。将来の進路を聞いてみると、「偉くなりたくない」とはっきり言う者が多いのは、日本と似ている。あまり努力せず、自分の時間が持てるような生き方をしたいのだ。

(4)ソ連時代、学校では「社会科」というのがあって、マルクス主義を教えていたが、この時間が今でもあって、マルクス主義の代わりに市民としての権利、自分の権利の守り方を教えているのだそうだ。その教科書を研究してみる価値がある。

(5)「民族的理念」の探究
ソ連時代、優等生、良家の子弟は共産党の児童版「ピオネール」、同じく学生版の「コムソモール」に入ってイデオロギー訓練を受けたものだ。今ではそんなものはない。社会を貫くイデオロギーの芯はなくなった。だからこそロシア人たちは今でも不安で、「国家的な理念」となるものを探している。エリツィン時代の西側崇拝を卒業し、ロシアに誇りをもつようになったプーチン時代以降、その傾向はなおさらで、なぜ誇りを持てるのかを必死に理論化しようとしているように見える。

ロシアのマスコミが僕にインタビューすると、「日本の国家的な理念は何なのですか? サムライ精神は今でも残っていますか?」という質問を定番のようにする。敗戦で自前の国家的理念を失い、そのままで当然と思っている僕にとっては、ものすごくアナクロ、反動的に思える質問なのだが。「別に国家に理念など考えてもらわなくていい。押し付けは息が詰まる。われわれは自分で考えるから」というのが僕の気持で、時々ははっきりそう言う。

(6)スーローヴゥイ
モスクワ大学の構内には、外国の高級車が無数にある。
RIMG0273.JPG(大学の構内にずらりとならぶ[僕にとっては]高級車)
レクサス、BMW、ベンツそしてアウディ。それらは教師ではなく、学生が乗っている。異常な世界だ。そしてそれを、彼らは異常だと思わない。BMWのSUVのハンドルを握り、くわえ煙草で荒々しく発進する女学生などを見ると、本当に彼らは肉食なのだと思う。まるでティラノサウルスの社会で生きていくような感じ。

それはロシア語でいう、スーローヴゥイという形容詞がぴったりの世界なのだ。辞書をひくと「苛酷な」などという訳語が出てくるが、「大根オロシでいつも皮膚をこすられている感じ」というのがぴったりだろう。

毎回来るたびに地下鉄駅でのアナウンスは内容が違っている。あの地下深くに降りて行く長い長いエスカレーターに乗っている間、流れるアナウンスは今回、「乗客の皆さん、もし他人に対して攻撃的なグループを見かけましたら、それが未成年者であっても警察に連絡してください」(これは非白人を襲うスキンヘッドの右翼を意味する)、「乗客の皆さん、見慣れない装置を持った人物を見かけたら、直ちに警備員に連絡ください」(半年前、地下鉄であった自爆事件を想定している)というものだった。こういうむき出しの暴力の怖さは例えばアメリカでもあるが、モスクワのは少し違う。怨念がらみ、あるいはイデオロギーがからむ暴力とでも言おうか。

(7)アメリカへの愛憎・「アメリカ」への誤解
ロシアの青年たちは、アメリカがきらいだと言う。だがラジオのニュースの読み方やテレビでやっているショーののりなどは、彼らの嫌いなはずのアメリカ風そのままなのだ。何のことはない、彼らはアメリカと同格になりたい、アメリカのようになりたいと切望し、自分たちがアメリカになれないからアメリカを憎む。そして彼らが想定するアメリカというのは、金ぴかで白人の特権階級がその他の国民、その他の国々を力で従える、といったものだろう。2000ドル程度の月給が並みの、アメリカの実像をぜんぜん知らない。二重・三重に心根がねじれているのだ。

ロシア人(ユダヤ系)の友人が言った。「ロシア人というのはな。他人を羨ましがる気持ちが非常に強い。そして何かを失うのではないかという潜在的恐怖感も非常に強い」。羨望のあまり腕力を使ってでも、他人と同じようになろうとする欲求が強いように思える。
テレビ・ニュースも、ドイツや北欧の静かな語り口とは正反対、劇的な音楽を背景に流したうえで、ことさらに力強い荒い声でニュースを読み上げる。よく考えてみると、これはアメリカのまねなのだ。あの0.5秒でも沈黙は罪悪、とばかりにまくしたてるアメリカのアナウンサー。その表面だけを模倣して、やたらアグレッシブになっている。これは、ロシアじゃない。

(8)ソ連崩壊前後の青年たちは、「西側」に憧れ、「西側」に期待していた。日本との北方領土問題についても、返還支持とまではいかずとも、日本の言い分に素直に耳を傾けようとする者は多かった。それが今では、日本にかぎらず、どこか西側全般に対するいら立ち、敵意が感じられ、こちらの肌をちくちく刺すのだ。

(9)ソ連崩壊後の大混乱からもう20年もたつ。もういい加減、文化的なもの、精神的なものに関心が移行してしかるべき時代ではないのか、いつまでもジェネレーションYでもあるまいに、と思うのだが、窓の外では相変わらず若者たちが車のエンジン音を競っている。モノとカネに憑かれたままなのだ。

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