ウラジオストック紀行記
(この記事はもう10月に書いたが、ブログの隅で眠っていたので、埃をはたいて展示する)
9月下旬、ウラジオストクでの学術シンポジウム「第1回日ロ学術・応用フォーラム」に参加する機会があった。僕にとっては20年ぶりのウラジオだ。まだソ連崩壊の余韻が残る1993年、モスクワの大使館で文化・広報を担当していた僕は、国際交流基金からの出向者と共にここウラジオに飛んできて、大学や研究所を軒並み訪問しては交流への地盤を固めたのだ。
交流への意欲に燃える学生たちは別にして、ウラジオの印象はひどかった。ホテルの食堂でいつも魚のはらわたを揚げたものを食わされ、そのしつこい臭いは今でも鼻の先から離れないからだ。
だから今回、ウラジオに行きませんかと言われた時は、げっという思いだったのだが、実際に来てみるとさすが20年前とは随分違った。物はモスクワと同じくらい豊富だし、人々の表情も落ち着いて明るい。というわけで、紀行の印象をひとつ。
(新しい電器店)
アプローチ
ウズベク・アヴィアのツポレフ204(新型機)は海辺の原生林の上を飛んでいく。まさに原生林。その間に畑も見える。半分くらい放置されている感じの畑。閑散、雑然、雄大がないまぜになった、ロシア特有の情景。
ウラジオストク空港は本当に国際色がない。ロシアの中型機が10機ほど、そして灰色の輸送機が一機とまっているだけだ。もっとも、ソウルには週5便あるそうだし、日本に帰国するときには北朝鮮の飛行機も見かけた。
ともあれ、僕たちは機内でもう30分も待っている。迎えのバスが来ないのだ。やっと来たかと思うと直ちに満員になって行ってしまう。また10分。この国のロジは本当に変わらない。
そして機内のロシア青年達の荒れた、幼稚なもののしゃべり方。ソ連崩壊で低下した文化水準。やっと空港ターミナルには入っていざトイレに入ると、ドアが閉まらない。これでAPEC首脳会議をやろうというのか?
儚き存在
ウラジオにいると、そこはかとない情がわく。ウラジオという存在の限りない儚さについて。地図を見ればわかるが、バイカル湖のあたりで中国軍が少し北上すると、シベリア鉄道はもう切断されてしまい、ウラジオは本土から孤絶する。そういう、儚さだ。
僕は今まで、ロシアの極東部は政治的にも経済的にも無力に等しい、ここを中国に対する日本の外交カードとして使えると思っている人々もいるが、それには全く賛成できない、日本外交の王道は対米・対中関係推進なのだと思ってきた。だがこうしてウラジオを見、尖閣事件を経てみると、別の気持ちもわいてくる。対中カードにする、しない以前に、まずここを中国に席巻されないために、他の諸国もまきこんでシベリア・極東開発を進めることが必要だ、ここを支えないと中国に取られてしまう、という気持ちだ。大事なことだが、中国は今のままでは日本海への出口を有さない。中国が日本海に軍港をかまえると、日本海諸都市はその圧力をまともに受けることになるだろう。
中国に対する脅威意識はウラジオでは、例えばハバロフスクなどに比べると低い。シンポでの議論でも、「これからは世界のことは米中が決めます。日本は米国、ロシアは中国寄りでやっていくことになるでしょう」とか「中国も、東アジアにおける米国のプレゼンスを欲しています」など、半年くらい認識が遅れているのではないかと思われる時もあった。そして7月初めの極東軍大演習で、「近代化された大軍が国境を越えて攻めてきたときに」核地雷を作動させる模擬演習が行われたという切迫感も知らないでいる。学生の間でも、中国をパートナーとして見る者は非常に多く、それは米国、日本をそう見るのを上回るそうだ。
その中国は随分近いところにある。車で5時間悪路を行くと、中国の国境の町、琿春だそうだ。「そして琿春に入るともう道は素晴らしい。国境の検査も速いし、スマートだし」。
ウラジオから中国まで、ツアーを組んで観光に行くのも珍しくないそうだ。
中国の東北地方との運輸手段は限られている。東北地方に北方から入る鉄道もあり、時々貨物(主として石油)を送っているのだが、帰りの荷がないのが問題なのだそうだ。そしてウラジオから輸入貨物を東北地方に届ける実験をしたこともあるが、20日もかかってしまったそうだ。
そして面白いことに、中国はウラジオに総領事館を持たないのだ。どうやら、ロシアが中国のハルピンに総領事館を作りたいと言っているのを中国は抑えているらしく、その仕返しにウラジオに開かせてもらえないらしい。
因みに、北朝鮮とは平壌に飛行機が飛んでいるらしいが、ウラジオの市民は北朝鮮が好きではない。核実験をやった時には、市民が北朝鮮への抗議デモをしたと言う。そして北朝鮮も中国とならび、ウラジオに総領事館を開いていない。ナホトカに以前開いてしまって、なかなか移転しづらいようだ。
ウラジオでは北朝鮮人労務者の姿を見かけることもあるが、最多の外国人はなんとウズベキスタン人なのだそうだ。ウズベキスタンからは韓国へも多数の出稼ぎが出ている。ロシア語ができるからウラジオでも働けるし、ウズベクには数十万の韓国系人もいて彼らは韓国語もできるのだ。
情景
ウラジオは湾を取り巻く丘に沿って長く長く続く街だ。湾口の向こうの方にまで続いている。函館とかニュージーランドのウェリントンを思わせる。
(ウラジオストク港=金角湾)
旧市街はそうでもないが、郊外に出ると道は片道3車線と広く、車も多い。その周囲には現代的なショッピング・センターやマンションがならび、横を郊外電車が走って行く。
20年前には貧窮を究めていた学術研究所も、今ではアルミ製の窓枠をいれて小奇麗になっている。モスクワ並みの繁栄と整頓ぶりだ。道路わきでは市の清掃員がゴミを拾っていた。それも、あまりだらだらしてなくて。
ウラジオは、諸民族入り乱れるモスクワと違って、ロシア系、ウクライナ系など白人が大多数なので、他所者に与える印象はモスクワ以上にヨーロッパ的だ。ホテルでのサービスも、中国の三ツ星ホテルよりは洗練され、丁寧だ。あと10年もすると、サンクト・ペテルブルクに似た欧州風の上品な街が日本海のすぐ向こうに出現することになるのだろう。
(街角の風景。ヨーロッパ的だ)
われわれシンポ参加者一行が乗ったのは、韓国製の中古バス。ハングルがそこらじゅうに書いてある。運転手はウズベキスタンのウズベク人、と思ったらタタール人、そしてそこの街角でウズベキスタンから送られてきた大きな大きなウリを売っているのはウズベク人、と思ったらアゼルバイジャン人なのでした。ウラジオストクで一番多い外国人は、ウズベク人なのだそうだが。ソ連という帝国のあとは、やはりどこも多民族社会になる。
(売るウリはウズベキスタン、そして売り子はアゼルバイジャン)
海沿いの丘の斜面にへばりつくように広がる住宅地には、高級な一戸建て邸宅が散在する。だが、都心から車で40分もかかる土地に家を作っても、子供や夫人はいい迷惑だろう。周囲には友達もいないし、買い物も歩いて行けない。
ソ連崩壊後まもなく、国内航空便の料金が上がって、極東部はモスクワから切り離されたようになった。肉親がいるのに盆暮れに訪問できなくなった人々も多かった。だが今ではモスクワ往復は300ドル強で、これまでの600ドルに比べると半減したそうだ。これでも高いと僕は思うが。
(レストランで)
日本との関係
ウラジオがロシア領になったのは、わずか1860年、清がロシアと北京条約を結んで沿海州を割譲したときだ。その頃のウラジオには何もなかったに違いない。
だがそれ以来、ウラジオは日本と少なからぬ因縁をもった。何よりも、1918年日本軍がシベリアに上陸し、はるかな奥地まで侵入して革命への干渉を行った「シベリア出兵」のことはもっと思い出されていい。逆の方向だが、ここウラジオには、戦後満州でソ連軍に強制抑留されたあげくこの地で亡くなった日本兵・民間人の埋葬地がいくつもある。
そしてかの奔放な女性歌人、与謝野晶子もこの地を通っていった。どんないきさつがあったのか知らないが、パリに行ってしまった夫、鉄幹のあとを追ってシベリア鉄道に乗ったのだ。その彼女の歌碑が思いがけずもウラジオにあった。それは―――――
(少し写し間違えたかもしれないが)
旅に立つ
――いざ、天の日は我がために
金の車をきしらせよ
颱風の羽は東より
いざ、こころよく我を追え
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
天がけりゆく、西へ行く
巴里の君に逢ひに行く
かっこいい。まあ実際は多数のスーツケースを抱えて大変だったでしょうが。シベリア鉄道というと、1週間以上も風呂に入れないし。
(与謝野晶子歌碑)
ウラジオに長期滞在する日本人は、100名に満たないそうだ。
だが日本のビジネスマン達は、ヘリコプターと車を数時間乗り継がないといけないような奥地にまで常時駐在し、木材切り出しなどを監督しているそうだ。
会議をやるとロシア側は異口同音に、「ロシア極東部で人気がいちばん高いのは何と言っても日本。われわれがいちばん期待しているのも日本なのです」と言う。まあ、かなり本音に近いのだろう。日本語履修者はサンクト・ペテルブルク並み、3000人もいる。だが知識はかなり限られている。
(スーパー。日本のものが当たり前に入っている)
今回、晩のディナーで隣に座った大学教授にいきなり頼まれ、翌午前にはそれが実現するという、昔のソ連でなら絶対考えられないスピードで、国立極東大学での講演をする羽目になった。60名くらいの学生は全体として水準が高いが、それでも玉石混交。尖閣諸島で起きている大騒ぎもろくに知らず、その成り行きがロシア極東をめぐる力のバランスを変えることもあり得るなど、考えてもいない。2012年にウラジオで首脳会議が開かれるから、APECのことは知っているが、東アジア首脳会議や東アジア共同体のことは知らない。まあどこの国もそうなのだが、自分とその周辺のごく狭い範囲にしか関心がない、ということだ。
(2012年APEC首脳会議をめざして大吊橋建設中)
今回、われわれ一行と同時期に、もっと大きな代表団が日本から来ていたらしい。彼らは「ロシアとは、平和条約をまず締結しましょう。そうすれば北方領土も返ってくるかも」という立場の人たちらしい。そんなことをロシアに言ったせいで、もし島が帰って来なかったら、賠償請求を彼らは引き受けてくれるのかな? 幸せな人たちだ。この世界は好意で満ち溢れていると思っているのだろう。
だが尖閣事件で明らかになったように、この世界では悪意の方が通例だとするなら、彼らの主張も危険な主張ということになる。いったい誰がこんな意見を吹き込んだのだろう。
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コメント
日本とウラジオストックは距離的には近く、歴史的な関わりも多い地域にもかかわらず、訪れる人もまばらで情報も少ない。
この地域で日本が経済的にでも優位に立つことが出来る道は無いのでしょうか?
北方領土問題を少しでも進展させるための、正面作戦は進展どころか後退を余儀なくされ続けており、側面作戦にこそ打開の道が開けることになると思うのですが?
日本とウラジオストックは距離的には近く、歴史的な関わりも多い地域にもかかわらず、訪れる人もまばらで情報も少ない。
この地域で日本が経済的にでも優位に立つことが出来る道は無いのでしょうか?
北方領土問題を少しでも進展させるための、正面作戦は進展どころか後退を余儀なくされ続けており、側面作戦にこそ打開の道が開けることになると思うのですが?
日本とウラジオストックは距離的には近く、歴史的な関わりも多い地域にもかかわらず、訪れる人もまばらで情報も少ない。
この地域で日本が経済的にでも優位に立つことが出来る道は無いのでしょうか?
北方領土問題を少しでも進展させるための、正面作戦は進展どころか後退を余儀なくされ続けており、側面作戦にこそ打開の道が開けることになると思うのですが?
おはようございます。
まったく楽しい旅になりそうですな。