Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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世界はこう変わる

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2009年12月28日

5年ぶりのデリー、発展の諸相

(この12月、5年ぶりにインドのデリーに行く機会があった。偶然、鳩山総理のインド訪問と重なったが、今日やっと印象記を書きあげたので、掲載します。インドの外交政策についての印象記も書くつもりですが、それは来年になってからにします)

インド行きのJALは満席だったが、この頃はエコノミーがビジネス・クラス並みの広い座席になっていて、快適だった。
インドへ行く飛行機と言えば、バンコクとか南をずっと大周りで行くのだろうなと思っていたら、今の時代は上海からユーラシア大陸に突っ込んで、蘇州は太湖の北をかすめて武漢、重慶、昆明の上空、ミャンマーの古都マンダレーの北から、太平洋戦争の転換点、地獄のインパール作戦の上空(ワコールの故塚本幸一会長などがその後、密林を彷徨ったところ)、バングラデシュを突き抜けてデリーへまっしぐらなのだ(地図を見ていたら、バングラデシュの東側にもインド領が入り込んでいて、だからインドとミャンマーは国境を接していることを発見した)。それでも9時間かかる。

昔はよく、空港のパスポート・コントロールのあたりから早くも賄賂を請求された話など聞いたことがあるが、空港では5年前もそんな目にあったことはない。ただ両替所が1軒しかなく、係員も一人で、「2分待て。2分待て」と繰り返すばかりなので、この国では「2」の意味がとてつもなく重いのだろうと思って両替を諦めた。

インドは中央アジアと同根の文明
デリーの空港ターミナルの前は、モスクワのコムソモール広場のあたりのような感じだ。と言ってもわかってもらえないだろうが、昔の上野駅前広場のようなところで、要するに言いたいことは、よくインドの雑然としたところが好きで、こういうのはインドにしかないと思っている人がいるが、インドに似た国は他にもあるということなのだ。

カーラジオから流れ出る鼻声のアルト、半音を多用した蛇のうねるような音楽、そして白茶けた街の様子は、中央アジアのタシケントそっくりでもある。もともとインドの北は「ヒンドゥスタン」という名が示すとおり、ペルシャ文明圏の一部だったし、中世にはチムール帝国の末裔バブール王子が今のウズベキスタンから南下してきて作ったのがムガール王朝だ。このあたりの習俗、工芸品の意匠、音楽などはモロッコの方まで広がるオリエント文明圏の一部に属するものに見える。

そして空港から都心への埃っぽい道は、タイならさしずめ15年程前の情景。これからの経済成長に向けて身構えた姿とも言える。空気はいつも霞かスモッグのせいで白くくすんで、色がさえない。サマルカンドあたりの灼熱の太陽の下、強烈な原色の数々がシンフォニーを織り成す世界は、望むべくもない。

インドの車インドは左側通行だ。同じく英国の影響が強くても、米国、中国は右側通行なのは面白い。日本でも、関西は右側ということにでもすれば面白かろう。
インドというと、車の左側サイドミラーが寝かせてあることで有名だ。インドの道では人力車、オート3輪、車、牛がぎりぎりに接近してくるので、怪我をさせないよう寝かせてある。ナノ財閥が大衆用に2000ドルで発売した有名な「ナノ」などは、最初から左サイドミラーをつけずにその分だけ安くしてある。確かに運転席と反対側のサイドミラーはなくてもあまり困らないし、合理思考のアメリカでもかつてこれのない車を見かけた記憶がある。

もっとも左のサイドミラーを使っている車も、けっこう多い。5年前と比べると道路の雑踏の中を平然と歩く白い牛も、車の奔流の中をあちこち飛び回る人力車もめっきり減って、車の世界になった。ミゼットのようなオート3輪タクシーは相変わらず多いが、5年前と違って今ではメーターがついている。そしてバイクが多くなった。
2000ドルの大衆車「ナノ」は、僕を案内してくれた学者によれば「ステータス・シンボルにならないから」ということなのかどうか、まだ数台しか見かけなかった。それでも納入を待たされているのだそうだ。この「ナノ」、一見したところ塗装とか仕上げが良くて、中々見栄えのする車なのだ。
RIMG0723.JPG

5年前との変化
今回、牛はもうほとんど見かけなかったが、野犬が多かった。全員茶色で、柴犬を長細くしたようなかっこうの雑種。徒党を組んでいるものは少なくて、ただ一人道路を渡るのがうまい。セダン、トラック、オート3輪、人力車、そしてバイクと雑踏する中、右左を見まわしてうまく渡っていく。インテリジェントな犬だ。自立心がある上にインド哲学的と言ってもいいほど物静かだ。スキンヘッドのように徒党を組み、街を徘徊しては異人種を威嚇する、モスクワの野犬に比べればはるかにまし。

デリーの中心部は5年前と変わっていなかった。高層ビルも西欧化粧品のブティック店もない。ここでは地権が入り組み、再開発をめぐっては訴訟も起きているとかで、中国のように国有地を共産党幹部の鶴の一声で再開発にまわすようなことはできないのだ。だから経済成長のスピードも中国より遅い。
RIMG0721.JPG (これがデリーの平均水準)

英国統治が残したものは19世紀、英国は毎年、自国の貿易赤字の40%にも相当する金額を、Home Chargeと称して植民地インドから巻きあげた。東インド会社はこの資金をひねり出すために、中国へのアヘン輸出に依存する。昔も今も、中国が超大国の赤字をファイナンスする構図なのだ。しかも英国は、当時世界に冠たるインドの綿織物に高関税をかけてその輸入を阻害し、代わりに機械で織り上げた安手の国産綿織物をインドに売りつけた。インドの貧しい農民がよく買えたものだと思うが、人口が多いので買い手もいたのだろう。ある時英国の要人は、「インドの野は綿織物職工の白い骨で埋め尽くされている」と言い、これがあたかも英国は暴力でインドの綿織物を殲滅したことの証左にされているが、そこまでひどいことはしなかったにしても、英国はインドを随分搾取した。
他方英国は、インドに鉄道網を張り巡らしたし、産業基盤も作り上げた。インド経済は発展しなかったが、それは英国に搾取されたためと言うより、農地が細分化されすぎていて、農民が綿花などの商品作物を作りたがらなかったためでもある。

まあそんなわけで、英国文明に対する尊敬の念もあって、インド人は英国による植民地主義支配を声を揃えて非難するところまではいかないのだ。それに「民主主義」というのがインドの識者にとって一種の宗教のようになっていて、それが国の誇り、自分のアイデンティティーのよすがだから、その本家英国への憧れはそう簡単にはなくならない。

今回僕を案内してくれた学者は、「英国はやはり法治主義を残してくれました。そして市場経済も」と言った。それは本当だ。

「絶対的な貧困」
5年前初めてインドに来て、オールド・デリーの雑踏や、ヴェラナーシの街並みを歩いた時、この情景が絶対的貧困というものなのだと思った。本当に何もない生活。ヴェラナーシのガンジー河畔には吹き抜けの楼があり、その2階では全国から巡礼で集まった老婆達が死を待っている。ここで死ぬと、河原で無料で焼いてくれて、聖なるガンジス河に灰を流してくれる。河原では、遺骸にシーツをかけて油をかけ、火をつけると燃えあがる。片側だけが焼けるとだんだん反っていったりして、そのうちに隠亡が遺骸に竿をつきさすと空中高く振り上げ、えいやと石にたたきつける。多分頭蓋でも割っているのだろう。

「こういう情景が人生観を変えた」、「インドは素晴らしい」という人がいるが、僕は少しも素晴らしいと思わない。変えなければと思うだけだ。
これだけの貧困の罪は、誰にあるのか? どんな歴史に根差しているのか? 英国植民地主義のせいにすることも可能だ。彼らは前述のように、インドの綿織物産業を崩壊寸前に追い込んだ。だが19世紀後半インドでは、綿工業が発展するのだ。これを打ち破ったのは、新興日本の綿織物工業である。
RIMG0748.JPG(5年前はこの3倍の密度の情景に、白い牛が2匹ほどいた)

「インド人」とはどんな人たちか?
日本人にしてみると、インドはやはり異質な文明だ。殆どのインド人は、顔つきはアーリア人と言うより、ペルシャ、アルメニア、トルコ人を思わせる。かなり色黒で、真っ黒に近い人もいる。そして感性が全く違う。日本人が人種的に抵抗を感じないのはせいぜい、中国人、韓国人くらいのもので、その中国人でさえ日本人の感性とはおおいに違う。
インドやロシアは西欧の白人社会と異なり、その街路風景にはどこか雑踏、混雑の趣があるが、日本と違ってやはり強い個人の自己主張の臭いが漂う。集団と親和性の高い中国、日本人とは、感性が遺伝的に違うのではないか? 
人間を細胞に例えると、インド人には殻がある。日本人には殻はない。一つの細胞のようでもあり、ないようでもあり、他の細胞と渾然一体に結び付いてしまう。現代は、その殻のない細胞を結び合わせていた村共同体という触媒が失われ、皆殻のないまま、くっつきもせずただ浮遊していると言うか。

だがインドの場合、カーストが最近まで強く残っていた。このように上下の格差がひどい社会では、大衆は主体性を持とうとしない。富は主人のもの、利益は主人のものだから、自分達は絶望感しか持たず、仕事は苦役でしかない。だからここでは、「気を利かせる」ということが少ない。この点、インドの民度は中国より劣るのではないか。
例えば、時間や約束を守らない。これは産業化以前の社会の特徴だ。Punctualityというものは、英国の産業革命とともに普及したものである。昨日合意したことを簡単に変えて、電話もしてこない。驚くほど、私用を理由にして約束を変える。子供が病気になった、自分が病気になった云々。

インドの民主主義
シンポジウムでは、何人かのインド人学者が、「民主主義こそはインドの特徴で、民主主義は絶対守らなければ・・・」的なスピーチをするのに何回も出くわした。この国の民主主義が大衆にまで及んでいるかどうか疑問だが、民主主義はインド人知識人にとっては、「GDPが世界でナンバー2」を誇りにしてきた日本の知識人と同様に、一種の旗印なのだろう。

だが、インドの民主主義とは混沌のことではないか? テレビのディベート番組など見ていると、皆すごい勢いで言い争いながらものごとが何となくきまっていく。表で何を言っていようが、おそらく裏で決めればいいのだろう。

本当に皆自説を開陳するのが好きだ。割り当てられた時間を守らず、自分の意見をとうとうとしゃべり続ける。この点、中央アジアの方がはるかにディシプリンがある。
一方、大衆はボスからの指示が下りるのを待って、自分では動かない。学校では手を洗うことや、英語を教わるのだが、家に帰るとまったく違う。このような家庭で育った若者が大学に来ても、すべてを教師に期待し、自分では本を読もうとしない。

つまり民主主義や言論の自由は、この国では限られた層が気にかけているだけで、残りの人間達は同等扱いされていないのだ。ロシアと同じく、エリートと大衆の間は断絶しており、両者の間はあらゆる誤解とうそと言い訳と叱責に満ち満ちている。大衆は醒めているが、エリートだけが喧々諤々の議論の末、大衆の生活事情とはかけ離れたところで決定を下す――これがインドの民主主義なのか?

ロシアにはpolitical classというよくわからない言葉があり、官僚、学者、ジャーナリスト達が喧々諤々のやりとりの末、政治の多くを決めていく。彼らを「政治階級」と言うのだ。選挙が当局に操作されているので、大衆の意見は無視はされないにしても、政治における決定的な要因になりにくい。これは、インドでも同じだろう。大衆が無知で、政治に無関心だからだ。

インドの知識人には、話し相手の言うことを全然聞いていない者がいる。黙っているなと思うと、その人は心の中で一心不乱に考えており、次の瞬間、突然しゃべりだしたりする。これでは知的な行為と言うより、一種の知の排泄行為だ。

そして個人主義、民主主義に基づく社会では、他人の権利も自分のと同様に尊重するものだが、インドではそうなっていないこともある。大学の「ゲストハウス」では、実に夜の5時までドアを開け放って騒ぎまくり、平気でシャワーを浴びる隣人達がいた。だからインド人にとって、「モスクワは清潔で静かな」街に見えるのだ。

だがロシアや中国に比べれば、この国の民主主義はわりと基盤を持っている。土地などの財産がソ連、中国に比べてはるかに多くの人の手に分散しているので、それをベースに野党を作ることが容易である。ロシア、中央アジアで野党を作ろうと思ったら、まず党官僚が差配していた財産を奪うところから始めなければならないのに対して、恵まれている。

まだこれからの諸点
インドでは、水道の水を口に入れるとまだあぶない。すぐ腹をこわす。タジキスタンと同じだ。こういうところでは、歯磨きさえミネラル・ウォーターでやらないといけない。トイレには紙がなく、バケツが置いてあるのが普通だが(つまり手と水を使う)、客に茶を出すときは縁にその指をかけて出してくる。中央アジアと同じで、それがエチケットであるようだ。客は絶望感におそわれる。

デリーの通りでは、街灯がまだ少ない。なのに黒い肌に黒いシャツ、黒っぽいパンツ姿で通りを横切るので、あぶなくてしかたない。

交差点では、止まっている車に向けて、ガラス製のパイプや本や、あらゆるものを抱えた子供たちがものを売りつける。90年代前半の困窮したロシアでも、交差点で子供たちがこうやって商売をしていたものだ。

インドでは誰でも英語を話すと思っていたが、話せるのはむしろ少数派だ。案内に雇ったタクシーの運転手も英語は完全に駄目だったし、学者達でさえ、英語がたどたどしい人達がほとんどだ。話せても、その発音は我々の常識からかけ離れている。

価格は安くて、大学の奨学金など月に100ドルに満たないから、100ドルの両替を頼むだけでも大変だ。1日タクシーを借り上げても、20ドルくらいですんでしまう。日本では7000円はするだろう立派なネクタイが、ここでは1000円で手に入る。
学生用のレストランでの夕食代は1人で200ルピーもしなかったが、ファイブ・スターのホテルのヴァイキング昼食は2000ルピーだった。博物館の入場料は一般が5ルピーだが、外国人は100ルピーを払わされる。これがインドの価格水準だ。

デリー大学は、広大な敷地を有する。木立の中に煉瓦で作られた建物が並ぶが、外側の仕上げは荒い。インテリアは問題がない。まだ学生運動があるらしく、立て看板やポスターがちらほら見える。カマとツチの、共産党のトレードマークも見える。立て看板、ポスターは、カーストの廃止を呼び掛けたり、農地の略取を批判するものが多かった。

「ゲスト・ハウス」エレジー
今回は大学でシンポジウムがあったので、その大学の「ゲスト・ハウス」に泊めてもらった。無料なので文句は言えないが、ぼやくことはできる。

受付の愛想の悪さはしょうがないとして、冬なのに部屋に蚊が多数いる。トイレの窓が開いていて、外から入ってくるのだと気がついたので、その窓を閉めようとすると、どうしても閉まらない。蝶つがいがはずれかかって、建てつけが悪くなっているから閉まらないのだ。困って机の引き出しを開けると、日本的な蚊取り線香が置いてある。しめたと思ったが、ライターもなし、マッチもない。ヤレヤレ、シャワーでもと思ったが、いくら見回しても石鹸がない。やれやれと思って湯の栓をひねったつもりが、いつまでたっても冷たい水が裸の足元ではねかえるだけ。壁にかかる電気ボイラーで水を温めるシステムになっているのだが、ボイラーのスイッチが入らない。ままよ、昔モスクワでは毎年春、まだ寒い頃に集中暖房の給湯が1カ月くらい止まって水シャワーを浴びていたではないか、それに小さい頃はお湯の出てくるシャワーなど身の回りになかった、がんばれ、ということで、最初の日は石鹸なしの水シャワーを浴び、身も心もしゃきっとしたが、僕をインドに送りだした某大学の某教授への怒りがむくむくと盛り上がった。次の日は、電気ボイラーのスイッチの入れ方がわかって、めでたくお湯のシャワーを浴び始めたのだが、さあ頭を洗おう、かゆいなと思って石鹸を塗りたくった途端、お湯が水に変わり始めた。電気ボイラーというのは、こうなのだ。
そして夜。冬とは言え昼は暑かったデリーも、夜半になるとさすがに冷え込む。ところが夜具は薄べったい毛布が一枚だけ。それも短かめで、足が出る。シンポジウムを主宰している教授の名がワリクーだったので、最初から悪い予感がしていたのだが、やはり割食う羽目になってしまった。

シンポジウム
シンポジウムがやっと始まった。だが開始後も、人が会議場にしょっちゅう出入りする。携帯の呼び出し音が鳴る。窓の外では犬が数匹吠えたてている。組織だったロジがないので、主宰者からの指示がないと助手達は何もしない。この混沌たる情勢の中、形式ばった挨拶だけが延々と続いていく。

そして社会主義圏から来た人達は、当意即妙のプレゼンテーションができない。準備してきた原稿を、「発言時間15分」と言われても気にせず、30分間も読み上げて平然としている。「国際シンポで論文を発表した」というのは彼らの履歴では大変な業績になるので、自由闊達な議論などどうでもよく、苦心して書きあげた論文を読み上げるために彼らは来たのだ。

インドにも、いろいろな人たちがいる。インド的な訛りのない立派な英語で、客観的で深い分析をすることができる者もいるが、それはほんの少数で、国際関係の学界はまだ発展途上だ。「日本はアジアなのか、西側につくのか、はっきりしろ。ODAなどと偉そうなこと言っていないで、もっとアジアと一体化してやらないとだめだ。3年後には膝を屈して仲間に入れてくれと頼んでくることになるぞ」などと僕に迫る老学者がいたりして、日本はアジアでも西側でもない、日本は日本だ、と考える僕はむっとしたりした。

経済発展の諸相
北京、上海と比べると、デリーは未だに高層ビルがほとんどない街だ。郊外に数軒そびえているだけ。インドは私有地が多く、「国有地を再開発」する手が使えないのだ。アメリカ的なショッピングモールも、中型のがやっとちらほら出てきた程度のようだ。
行ってみると駐車場は狭いし、建物の仕上げはどこか雑だし、インテリアもどことなく雑然としている。そしてもっと重要なことだが、従業員の働きぶりがよくない。レジに3~4人いたのだが、仕事をするのは女性1人だけ、男達は顧客の方を努めて見ないようにして、自分達の間でだべっていた。

だが一流ホテルは、別世界だ。従業員の英語は流暢だし、サービスも速い。従業員がいつも気を配って、ニーズを探しているのが決定的にいい。それに、レストランではどのウェイターに頼んでもいい。その代わり、ビュフェ・ランチが2000ルピーしたが。先進社会になるまで遠いように見えるが、外国からの直接投資が増えればすべては前向きに回りだす。インフラだけでなく、従業員のメンタリティーも確実に変わっていく。
あるインド人に経済成長を実感できるかと聞いてみたら、いろいろな答えが返ってきた。中には、「奨学金は100ドルもない。経済成長を感ずるとしたら、物価がどんどん上がることだけだ。」という人もいた。

帰りの飛行機のJALチェックイン・ゲートの隣りは中華航空(台湾)で、ROME行きと書いてある。方向が正反対だ。こちらは内向き、むこうは外向き。時の勢いだ。

コメント

投稿者: 高月 瞭 | 2009年12月28日 09:38

私はヨーロッパのごく一部そしてアメリカ西海岸、南オーストラリア以外には外国に行った経験がないのですが、それでも知識で知っている事と体験したこととに乖離があることは理解しています。
河東さんのインド観を私なりに解釈すると、混沌民主主義と言ったところでしょうか。
昔は和式トイレでしゃがむことに慣れていた私が洗浄トイレでないと困るなどと言ったら世界中どこの国へも行けません。
堕落したと言われればそうなのかなと妙に納得いたします。

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