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世界はこう変わる

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2021年6月15日

世界の行き詰まり 近代 の限界なのか それとも人間の限界なのか

(これは5月26日発行のメルマガ「文明の万華鏡」第109号の一部です)

中世的価値観は近代の価値観と対等ではない

よく「資本主義の限界」とか「近代国民国家の終焉」とかが言われる。5年に1回くらいブームが起きて、このテーマで本を書くと売れているようだ。
 だが、19世紀欧州が築いた「近代」の民主主義政治・市場主義経済はもう限界だと言っても、今の世界でそこまで行った国家は、まだ少数派だ。国名を出すのははばかりがあるが、「近代」をどうしても築けない、あるいは築く意欲がない国々のエリートが一人前の顔をして、市民の福祉を考えることもなく、ただただ自分たちの利権、自分たちの地位を守り、自分たちの粗野な野心、倨傲を実現するために他国と問題を起こす。

それに介入すると、こうした連中は「近代の市民社会的価値は絶対ではない。自分たちの(中世的権威主義の)価値観も同等のものとして認め、介入するべきでない」と強硬に主張する。その主張は、近代国際法に基づくものなのだが。

 これは、近代市民社会の価値観の終焉を意味しない。人間の権利については、中世的価値観は近代の価値観に明確に劣る

「資本主義」はその全部がいけないわけではない。「社会主義」はその全部が良いわけではない

「資本主義」、「社会主義」という言葉の定義はまちまちで、きちんとした議論が不可能になっている。僕は資本主義を、「市場経済に軸足を置いた経済メカニズム」と定義する。つまり何をいくつ、いつ作り、いくらで、どこで、だれに売るかということを、企業自身が決定できること。僕の言う「社会主義」とはソ連型の計画・指令経済で、企業の利益は全部吸い上げられて、投資も賃金水準も全部「上」が決めてくる。何をいくつ、いつ作り、いくらで、どこで、だれに売るかということ、原材料をどこからいくつ、いつ、いくらで仕入れるかということ、そして銀行融資、あらゆることを「お上」が決めて、年度の法律とされて、企業経営者は企業家ではなく役人のように扱われるのだ。

 市場経済の社会で人間の欲を野放しにすれば、格差が広がるのだが、北欧諸国では市場経済に軸足を置いたうえで、税制と予算による所得の再配分を行い、格差が極小の社会を実現している。これは資本主義と社会主義の双方から良いとこ取りをした、「混合経済」と呼ばれる体制である。何も、資本主義か社会主義かで、all or nothingの争論をすることはないのだ。

確かに、資本主義諸国では人間の欲望に歯止めがかかりにくい。しかしソ連にしろ、今の中国にしろ、独裁型体制が人間の欲望を止めることも無い。統制は富を一部の者に集中させ、それは特権と腐敗を生む。ソ連共産党員は特権を享受していたし、中国のエリートの一部は公私混同でせしめた金を海外の口座に送金している。ソ連、そして今のロシアでも、道端には文字通り乞食が新聞紙の上にひざまずいて、施しを求めている。

 「モノへの執着を捨てろ。そうすれば、争いも、格差も、環境汚染もなくなる」という人がいるが、みんなが仏陀みたいになってしまったら、托鉢に出ても喜捨してくれる人はなく、みんな飢え死にしてしまうのでないか?

最後に言うが、民主主義社会というのは(これからも)基本的に統治不可能なものなのではないか? 一人のリーダーが国を率いるなど、所詮不可能。もろもろの利害が対立する中でうまくバランスを取って、政治を転がしていくのが精いっぱい。結局は社会のもろもろの矛盾、歴史の残した負の遺産のしわ寄せで、人身御供にされて終わり。つまり現代のリーダーとは、古代の神への生け贄と同じ。あるいは西暦ゼロ年の頃、ローマの植民地としての矛盾のしわ寄せで、磔にされたイエス・キリスト。こういった伝統に連なるものなのではないか? 

人間の欲にブレーキをかけることができなければ、人間の社会に問題が絶えることはないだろう。宗教で欲を制御するか、それとも遺伝子改造でそうするか。しかしそうした「わきまえた」人たちだけでできた社会は、つまらないものになるだろう。

「近代」のあとに来るもの

 近代のあとに来るもの・・・。もう疲れたので、また別の機会に。バラ色の社会にはならないと思っている。

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