Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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世界はこう変わる

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2017年8月 4日

金と銀の世界歴史 安土桃山の繁栄と日本の銀

(半年前、メルマガで配信した記事。自分では面白いと思うので、ここに掲載しておきます)

「金銀の大量の流入または生産は、経済を一段上に導き、世界史を変える」。その例をこれまで古代アテネ、ローマ帝国に見てきたが、今回は少し飛んで日本の安土桃山時代を考えてみる。100年にわたる戦国時代で荒れに荒れたはずの日本で、なぜ突如としてあれだけ金ぴかで絢爛豪華な文化が咲き誇ったのか、荒れたはずの日本がなぜ朝鮮半島、中国に大軍を送るようなことができたのか――安土桃山時代については、こういった疑問が湧いてしかるべきなのに、なぜかこの荒廃と絢爛豪華の間の断絶を我々は不思議にも思ってこなかった。

 大規模な戦争は、(勝ち戦であれば)経済を一段上の高みにもたらす。それは米国経済史で顕著である。南北戦争の後、米北部の経済は急成長したし、第一次世界大戦は米国を世界一の経済大国の座に押し上げた。そして第2次世界大戦では米国は国債を大量に発行して兵器を生産・調達。そのために米国GDPは倍増したのである。

 それはおそらく、中世・近世の西欧でも同じだったのだ。戦争は政府の支出を急増させるし(中世・近世の「民間消費」は微々たるもので、政府支出の比重は大きかっただろう)、軍需生産が急増するからだ。1618年からの30年戦争はドイツの経済を荒廃させたことになっているが、少なくとも戦勝国であったフランスやスウェーデンではプラスに作用したに違いない。スウェーデンで中央銀行の前身、「ストックホルム銀行」が設立されたのは1656年のことである。そして英国は30年戦争に直接参加はしなかったが、戦時品需要で大いに潤ったに違いない。

 日本ではどうだったか? 戦国時代はサムライたちが「田畑を踏みにじり、農民たちを殺戮し」、「国土は荒廃した」ことになっているが、実態は随分異なったようだ。大名たちは自分の領地で「富国強兵」を実行したので、金銀の鉱山はこの頃急速に開発されるし(島根の石見銀山、兵庫の生野銀山が代表的。石見銀山の最盛期は16世紀後半。しかし江戸時代を通じて採掘は続き、その富が松江のしっとりとした文化を生んだのだろう)、田畑の開墾・整地、二毛作・二期作の導入も始まって、経済は飛躍的に伸びたようなのだ。

そして関西を中心にして貨幣経済の浸透がこの頃進んだ。モノの取引は物々交換より、カネを仲介させた方が回転が速く、量も多くなる。貨幣経済は経済を膨らませるのである。「日本の歴史第8巻戦国の活力」によれば、一部地域では年貢が金銭になっていたし(218頁)、「天下統一とシルバーラッシュ」によれば、京都では16世紀後半、金・銀の流通が一挙に拡大している(97頁)。
 
 そして戦国時代の終焉は、余剰兵力を生み出す。イベリア半島ではレコンキスタでイスラム勢力と戦った傭兵たちは、仕事がなくなってくると、ポルトガルやスペインの船に乗って新天地へと渡ったことだろう。レコンキスタの終了、つまりグラナダの陥落は1492年。コロンブスの航海と同年である。岩波文庫の「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読むと、中南米の植民地におけるスペイン人の勇猛さ、戦術の巧みさと同時に残虐行為の数々が叙述されているが、これは旧傭兵たちの仕業かもしれない。
 
そして同じことは日本の戦国時代にも言えるのだ。戦国時代の大名の軍隊の先棒を務めるのは足軽で(「本社員」ではない一時雇い。浪人や侍への成り上がりを夢見る農家の次男坊、三男坊)、これが戦闘という実際の汚れ仕事を引き受けていたようなのだが(「日本の歴史」第8巻「戦国の活力」小学館)、戦国時代が終わると余剰人員が出た。そこで彼らは東南アジア諸国に進出して、その地の王の用心棒を務めたりしたようなのだ。山田長政などである。まるで、30年戦争の立役者、傭兵隊長としてハプスブルク王家を助け(そして捨てられた)ワレンシュタインを思わせる。

今、中央アジア諸国の青年達は職にあぶれると、中東のISISに「出稼ぎ」のノリで出かけているらしいのだが、16世紀海外に出た日本の足軽たちも、あるいはそれと似たり寄ったり。1633年徳永家康による鎖国令では、彼らの日本への帰国が禁じられているが、これは現代ISIS分子が先進国への再入国を禁じられているのとよく似ている。
 

 繁栄の帰結としての秀吉朝鮮侵攻

 秀吉の朝鮮侵攻(目的は明への侵入)の動機については、諸説がある。配下の大名たちに全国統一の論功行賞を行うには国内の領地が足りなかったから海外へ進出した、というのが一般の解釈だが、他には石田三成などが新たに淀君が生んだ鶴松への継承を確かなものにするために、海外遠征という一大事業を起こし、それによって大名たちへの掌握度を高める目論見があったという見方も、日経の小説で読んだことがある。西欧では教皇が、ウルバヌス2世に始まり、十字軍を起こすことで、西欧の各王家に対する支配力を確固たるものにしようとしたのと似ている。何やら米国が標榜する多国籍軍も髣髴とさせる。
 動機がどうであれ、海外遠征という大事業は、安土桃山時代の経済成長、貨幣経済の浸透、そして戦争がなくなって仕事にあぶれた多数の元足軽の存在なくしては不可能だったことだろう。

 なおこの頃、日本は火縄銃の保有数で世界で群を抜いていたと言われる。火縄銃は1543年日本に持ち込まれ、堺などの鍛冶によって瞬時に国産化された。鎧生産等で、金属加工の技術が十分発達していたためである。当時は戦国時代であったために、銃への需要は大きく、信長や秀吉は火縄銃を戦闘に多用した。これは日本の技術面での先進性を示すものと言われることがあるが、西欧では火縄銃は急速に旧式化し、1650年代 には火打ち式(フリントロック式)に変わっていったのに対して、日本では火縄銃がガラパゴス化して江戸末期まで使われる。

 銃は国産化できても、火薬に使う硝石、そして弾丸に使う鉛は殆どを輸入に依存していたらしいが、鎖国後は硝石も一部で細々と国内生産していた。例えば富山県の合掌造りで有名な五箇山部落に行った時、そこには前田藩の罪人が送られて、床下の土からご法度の硝石を作っていたと聞いて、驚いたことがある。

富の源泉としての対中貿易

 安土桃山時代の経済成長は、農業・鉱業の発展によるものばかりではない。一貫して対外貿易、特に対中貿易がもたらす利益、輸入品の日本国内での物流路支配がもたらす利益が、通奏低音となっている。
日中の貿易は、元寇で公的なチャンネルは途絶えたが、小型私営の貿易・海賊船は倭寇として中国沿岸に出没。元朝に続く明朝は1371年に「海禁」(鎖国)を発布して、小型民営の貿易を禁ずる挙に出た。そして寧波を日本船に開放、室町末期の日本の大名は幕府から「勘合」を得て、ここでの貿易利権を争った(「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之)。

他方、1523年には寧波への日本船の入港が禁止されたこともあって、中国人商人王直などは倭寇と称して密輸に従事。その拠点であった寧波沖合の舟山列島(日本では五島列島の福江に拠点)からは、海流を利用して1日程で日本の五島列島、九州海岸にたどり着けるらしく、古代「呉」の人たちが集団移住したルートであると言う者もいる。日本での漢字の読み方は「呉音」が多いので、あながちウソでないかもしれない。

閑話休題、1553年には舟山諸島に明の軍が進撃、王直を官位で釣り出し捕えて1559年には処刑してしまう。ここで、日明貿易は急減したらしい。そこで1570年にはポルトガル船がマカオと長崎の間を定期的に往復し、日明貿易の仲介で儲けるようになった。ほぼ同時、1571年にはスペインがマニラを整備、マニラを中国との貿易のハブとした(「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之 47頁)。

スペインはここに、メキシコのアカプルコから南米の銀を持ち込み、中国からもたらされた陶磁器、絹織物等と交換しては、中国産品を中米経由、大西洋を渡って欧州に輸出していたものと思われる。当時、スペインとポルトガルは1494年のトルデシリャス条約で地球を二分、インド洋はポルトガルの縄張りとされていたので、スペイン船は通れなかったのだろう。

 1601年、徳川家康は明朝の福建の総督に貿易を持ち掛け、明の船が長崎に次第に来航しては生糸をもたらすようになるのだが、1603年朱印貿易を開始、日本は中国・朝鮮以外の地域とも交易するようになった。対外交易は、1639年の第5次鎖国令で、長崎への中国船、オランダ船入港のみに限定されるようになるのだが、そのオランダ船に期待されていたのは欧州産品よりも、中国の絹織物、工芸品であった。幕府は対外貿易を長崎に限定して輸入制限を行いやすいようにして、枯渇してきた銀の流出を抑え、かつ対外貿易を独占差配しようとしたのである。

 (なお清王朝は1656年海禁令を発布、清が滅ぼした明王朝の遺臣を気取る海賊兼政商、鄭成功[明王朝の幹部と日本人女性の間の子。歌舞伎「国姓爺合戦」のヒーロー]を中国での利権から閉め出そうとした。しかし1684年には海禁令を撤廃、4港を開港している。1757年には対外交易は広東に限られることとなった)

富の源泉としての国内物流路支配

現代の我々はもはや意識しないが、中世日本の日本海側諸港は海の表玄関だったようだ。そして首都、消費の中心地である京都に近い敦賀、小浜、三国等の港は、物資搬入の表玄関であり、それがもたらす利益は、福井近くの一乗谷に本拠を構える朝倉氏の力の基礎となった。当時の一乗谷(今では当時の町の様子が復元されている)には中国人や朝鮮人が住んでいた。

そして真宗勢力は日本海岸から琵琶湖を経て京都に至るあたりの物流、そして今の大阪城のあるところに聳えていた石山本願寺が抑えていた瀬戸内海と京都の間の物流、双方に力の源泉を得ていたのだろう。だから、信長にとって石山本願寺、そして一向一揆との戦いは、物流利権の支配をめぐるものでもあったのだ。安土城は日本海から琵琶湖を渡って京都に至る物流ルート、日本海及び京都から名古屋方面(このあたり、本州はくびれていて、日本海側と太平洋側の間の距離が短くなっている。信長の織田家は、太平洋側の濃尾平野での商業利権を力の源泉としていた)に向かう物流ルートの3ルートを同時に支配できる地点に作られている。

 上杉謙信も物流と大いに関係がある。上杉家はもともとは上越を拠点とする大名で、日本海舟運の利権を抑えていた。武田信玄と川中島で戦っているが、ここは双方の本拠地からは遠いところ。なぜこんなところで戦ったかと言えば、日本海から信濃、甲斐に至る物流ルートの取り合いだったという説もある。後に上杉謙信が敵の武田信玄に「塩を送った」ことが美談となっているが、これは信玄がそれまでの盟友今川氏を裏切ったが故に、駿河産の塩供給を止められて苦しんでいたのにつけこんで、日本海産の塩を高く売りつけたのが真相だったらしい。これが美談として後世に伝わったのは、謙信の広報担当の敏腕によるものだろう。

大量の銀流入はなぜアジアで産業革命を起こさなかったか?

 西欧の産業革命はGDPを何十倍にも引き上げ、広汎な中産階級を生むことで、民主主義の基盤も作り上げた。西欧で産業革命が起きた理由については、万巻の書が書かれていて、唯一無二のものなど挙げることはできないのだが、15世紀から新大陸の金銀が大量に流入したことは、投資資金を生むなど、産業革命の大きな背景を成しているだろう。

 そこで疑問が起きる。同時期、アジアでも銀の生産、銀の流入が飛躍的に増大したのだが、なぜ当時の明や日本で産業革命は起きなかったのか? それは、日本では銀の生産が17世紀には頭打ちになり、遂には下火になってしまった、つまり社会にデフレ圧力が強く作用したことによるのではないか?

明については、岸本美緒がその「東アジアの近世」で書いている。新大陸からマニラを経由して明に渡った銀は毎年50トン(欧州へは1600年前後毎年250トン)。日本からマニラ、マカオ等を経由して明に渡った銀は1630年代85-190トン。つまり当時の明は毎年135-240トンの銀を得ていた(今で言えば、貿易黒字の外貨収入)。

これは1990年の価格で言うと、約4000万ドルに相当し、Angus Maddisonが推計する1600年時点の明王朝GDP96億ドル(1990年価格、"The World Economy"OECD,p261)の0,4%でしかない。当時の銀価格評価がこれでいいかどうかはわからないのだが、明王朝では商業、手工業の発展が顕著であった。10台程度の織機を所有する、マニュファクチュア生産も生起していたらしい。正直な勤勉さを貴ぶ明王朝時代の勤労道徳は、江戸時代の日本に伝わって、商家の家訓となり、また寺子屋で教えられる心学となって、今日の日本でも脈打っているものである。

また当時メキシコで鋳造されたスペイン・ドル銀貨は明中国にも到達。銀の硬貨は初めてだった中国人に重宝がられ、硬貨は円いので「圓」が貨幣の代名詞となった。「圓」すなわちユワン、「元」の起源であり、中国人は今でも日本の円は日本の圓、韓国のウォンは韓国の圓ということで、いずれもユワンと呼ぶ。そして明王朝時代、庶民文化が隆盛し、三国志演義、西遊記、水滸伝、金瓶梅などの小説、そして演劇はこの時代に成立した。

しかし岸本によれば、銀の殆どは税として徴収され、北方に残る元王朝に貢納されていた。それは毎年150トン相当であった。モンゴル人は、これを明からの贅沢品、消費財の輸入に消費したのだろう。この交易の活発化は、北方の李成梁やヌルハチのような軍閥の台頭を招き、明王朝の没落、清王朝の台頭につながる。つまり、明に流入した銀は、投資に回るよりは浪費されてしまったのだろう。

 そして1639年には日本の鎖国で、日本からの銀流入が止まる。そのため明王朝では猛烈なデフレが起きた。1630年代から1640年にかけて物価は50%に、それからの3年でも20%強下落している(Wikipedia英文)。農民は銀で納税していたので、実質的負担が一気に高まった。そこに小氷河期の不作の連続が重なったので、明王朝末期の混乱が起きる。

その後18世紀央の清王朝初期にかけて人口は推定2億人と、ほぼ倍増するのだが(人頭税が廃止されたため、農家が労働力として子供を多数生んだためと思われる)、食料こそトウモロコシとサツマイモの導入で確保したものの、GDPはデフレでさして大きくならなかったため、社会の貧困化を生んだのでないか? 西欧に対する貿易黒字は続いていたが、輸出に対して入って来たのは銀の替わりにアヘンということになれば、経済は停滞して不思議でない。漢民族は貧しい山間部にも拡張を始め、華僑として海外に出た者も多かった。

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