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世界はこう変わる

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2014年10月11日

ゼロサム大陸 ユーラシア 

「ゼロサム大陸」ユーラシア 
(2007年頃に書いたものですが、まだこのブログに掲載していなかったので今。ロシアや旧ソ連諸国のマインドを理解するのに便利な論文です。何しろ、あの「何でもあり」の世界は日本人には想像もつかないところなので・・・)                  

マッキンダー達の地政学は、時代遅れのものとして排撃されているが、アメリカ以外の全ての大国が集まるユーラシアが世界政治の核であることは厳然たる真実だ。アメリカは二度の世界戦争でユーラシアに関わることで初めて超大国となったし、ユーラシアでの地歩を失えば今でも超大国ではあり得ない。ところが、人間の欲と権謀術数が渦巻くこのユーラシア大陸では、ウブで小回りの利かない日本外交はいつも「落第」してきた。日本にとって最も重要な東アジアに影響を与える広大なユーラシアに我々はもっと眼を向けなければならない。

日本がユーラシアを苦手としているのは、その本質を知らないからだ。日本は経済発展史上非常に幸運な国で、農地の所有権は長年にわたって確立し、仲間を奴隷として扱うことも少なかった国である。百五十年前、日本が産業革命に乗り出した時、これがどれほどプラスに働いたかわからない。ところがユーラシアの多くの国は、大地主制、奴隷制を基礎とした産業革命以前のモラルに生きている。この基本的な事実を知らずにビジネスやボランティア活動に乗り出すから、不必要な摩擦や幻滅感を招くのだ。

人間や国家は主義や言葉で動くのではない。国際情勢を動かしてきた原動力も富の奪い合い、そして意地と見栄である。そして、「産業革命を経ているかどうか」ということが、国や民族のメンタリティーを大きく決定することになる。産業革命が富を自力で作り出すことのできるプラスサムの社会を生み出したのに対して―――市場を奪い合い必要はあったが―――、産業革命以前の社会では自分が豊かになるためには他者から富を奪うしか手段はない。ゼロサムの社会なのだ。

ここでは、少しでも豊かになるため、「何でもあり」の権謀術数が繰り広げられ、人を騙せることはむしろ「能力」として高い評価を受ける。ユーラシアには、産業革命の恩恵にまだ浴していないゼロサム文明に生きる国が多数ある。こうした国々は、産業革命を経たプラスサム思考の国々とは多くの点で相互理解ができず、ハンチントンの言う「文明の衝突」を引き起こしている。

西欧以外のユーラシアが産業革命以前の段階で停滞してきたのには、様々の理由がある。まず他ならぬ西欧諸国が東南アジア、インド、中近東の通商路を抑えた上、産業革命で作った製品の市場として搾取し、地場産業の発展を阻害したことがあげられる。西欧は植民地の犠牲において発展したのであり―――十九世紀のインド経済が毎年三%縮小したと仮定すると、インドのGDPは百年間で二十分の一に縮小する―――、アメリカも数々の戦争を経て経済を拡大してきたのである。日本も例外ではなく、戦前日本の各地にあった軍需工場が多数の大企業、中小企業を派生させたことを忘れてはならない。現在東アジアの国々が平和裏に産業社会に移行できているのは、戦後六十年間にもわたって自由貿易の原則が保持されていることと、最初は低賃金に甘んじて外国の直接投資を受け入れたからである。もっとも、現在ではシンガポールの一人当たりGDPは日本より高くなったが。

ゼロサム社会は経済規模が小さいために、利権を特権階級に牛耳られやすい。彼らはクランを形成しては仲間内で利益を分け合い、国民の大半を放置する。プラスサムの諸国が彼らに市場経済や民主主義や法治国家の良さをいくら説いても、ゼロサム社会の特権層は聞き流すだけだ。自分達の利権にチャレンジする競争相手をなぜ作らなければならないのか、成金が政党を作って大統領候補にのし上がり自分達の権力を危うくするのを、なぜ指をくわえて眺めていなければならないのか、彼らには全くわからないからだ。国民全体、社会全体の利益という概念がないからである。

「市場経済」を実現するため、たとえ無理して民営化を進めようとしても、国営企業を買収できるほどの資力、そして経営能力を持った者は国内にほとんどいない。欧米が資金を出して「野党」なるものを作ってみても、そこに集まる者達は国民の福祉より自分が特権層の仲間入りをすることにかまけがちだ。

このような社会では所有権、人権は軽視され、強権主義が支配的となる。強権で押さえつけておかないと、九十年台のタジキスタンや今イラクで起きているように、宗教や日ごろの恨みも絡んだ利権の奪い合いや殺し合いが起きるからだ。国民もそのことを知っているから、実は強権政治を望んでいる。

すべての富や便宜の入手が特権階級の匙加減次第という社会では大衆は卑屈になり、すべてを「お上」に期待する。彼らは指導者が国のあらゆる事を決めていると思い込んでいて、我々の説くマスコミや議会の「独立性」は言葉だけのまやかしだと思っている。

ゼロサム社会の富を差配する者達のモラルは、合理性と透明性を重んずる欧米のものとは正反対だ。彼らは奪い合い、ルール無視、コネとなあなあの原則、透明性の欠如と恣意性という世界に住んでいる。彼らの多くにとって公務とは、国民の生活向上のために働くことではなく、自分の属するクランや自分自身の致富のための手段である。このような社会においては、西側の企業が「コンプライアンス」を貫くことは不可能であり、生き残りのためには「うまく立ち回る」ことが必要になってくる。

ゼロサム社会には、三種類の人間がいる。筆者は昔モスクワに留学した時、「ロシア文学の登場人物には二種類のプロトタイプがある。それは『よけい者』と『哀れな者』の二種だ」と教わったことがある。「よけい者」とは社会から浮き上がった頭でっかちのインテリのこと、「哀れな者」とは大衆のことである。これに特権層を加えると三種類となる。そしてこの三種のどれと付き合うかで、その国から得る印象は決定的に異なってくる。エリートを見て「ロシアの役人は冷たい。あの国は嫌いだ。」と言う者がいるかと思えば、大衆と付き合い「あんなに温かい人達がいるロシアと、どうして仲良くしないのですか」と詰め寄る者もいる。

そして問題は、この三種の人間のどれにも改革への期待はかけられないということなのである。インテリの多くは自由を叫びながらも、実は自分のことしか考えていない。こんな連中の言うことを、大衆は相手にしない。大衆はどの時代にも結構自由にモノを言っていて、インテリがなぜ「自由」とか「民主主義」を求めるのかがわからない。彼らにとって経済改革とか市場経済というのは労働条件の強化、公共価格の値上げ、治安の悪化、少数の成金の台頭でしかなく、そのメリットは全然わからない。

こうして、ゼロサムの社会には改革を進めるための足がかりが殆んどないのだ西側で盛んになっている開発経済学の類は、ゼロサム社会向けには作られていない。ゼロサムの社会では、地縁・血縁のある者以外は一夜の客としてならいざ知らず、商売のパートナーとしては信用されない。市場経済には不可欠の「不特定多数の顧客」は、中国や中近東諸国では忌避されがちだ。そこでは株式会社の成長は難しく、同族会社や財閥が幅を利かせることになる。小さくまとまってしまうのだ。

このような社会で居丈高に自由や民主主義を説くと、大衆までが意固地になる。彼らにとって家父長制や村共同体は、自分達の権威と生活を保持してくれるひどく安楽なものなのだが、西側の言う自由は年長者の権威を剥ぎ取り、若者と同じベースに置いてしまうからだ。

アメリカの一部勢力は、ゼロサム社会の特性を顧慮することなく、民主主義をしゃにむに広め、権威主義的政権を倒してきた。だがこうして出現した新政権は利権闘争に明け暮れ、反対派を強権で抑え始めている
こうしてユーラシア大陸には、権威主義・強権主義の一大ベルトが形成されている。産業革命に乗り遅れたが故にいつまでも貧困で、生活は麻薬、密輸、武器取引、そしてテロなどで支えるしかない地方もある。彼らは、歴史の被害者なのだ。大量の直接投資が来なければ、これら諸国の国民には出稼ぎに出るくらいしか手段はない。

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