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世界はこう変わる

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2013年9月13日

ワルの歴史観  カトリック教会はローマ帝国の後身か

(「ワル」と言うのは、「歴史とか政治は利権をめぐる闘争である。歴史が美しい言葉で動いてきたとは思わない」という意味で、殊更ワルぶって見せることではありません)

歴史というのは、一つの時代から次の時代へ移行する過程がよくわからない。学校でも、西ローマ帝国が崩壊すると、いきなりフランク王国の建立とか中世西欧の封建主義に話が飛ぶのだが、風土と人間は連綿と続いている。歴史は断絶しているのではなく継続しており、その継続期が、次の時代の底流を作る。西ローマ帝国が消滅してから西欧中世に至る間の、カトリック教会の歴史もそうだ。教会は、実はローマ帝国的な広域支配の行政・徴税機関としても機能していたのである。

「西ローマ帝国から西欧への移行」をめぐる論争

 この移行期への関心が大きくなったのは、戦後のことである。それまではベルギーの泰斗ピレンヌが「ヨーロッパ世界の誕生ーマホメットとシャルルマーニュ」(素晴らしい本ではあるが)で述べている、「地中海を舞台とする遠隔地商業はイスラム教徒の地中海制覇によって消滅したが、紀元1000年以降、「自由な」商人たちが遠隔地商業を再生させるとともに、彼らの連帯の拠点として中世都市を作り上げていった」という断絶を伴う歴史観が支配していたが、1971年プリンストン大学のピーター・ブラウンが「古代末期の世界」を出版、西ローマ帝国以来の継続性を強調するようになった。その中で、カトリック教会がローマ帝国の行政単位に沿って展開し、ローマ貴族の末裔達が司教、司祭として奉職していたことが、「継続性」の証左の一つとして言及されたのである。

今となっては、ピレンヌもブラウンもそれぞれ批判されている。遠隔地商業は消滅していなかった一方、イスラム教徒の地中海制覇が西欧文明に大きな打撃を与えていたことも事実であるからだ。塩野七生の「ローマ亡き後の地中海世界」によれば、コロンブスの航海から50年たっても、地中海ではイスラム海賊やオスマンが大きな存在で、スペインやポルトガルの船は安全に航行できなかった。おそらくこのため、ベルギーのアントワープ(当時はスペイン領)に南米の金が持ち込まれ、「フランドル地方」(ベルギー、オランダの総称)の繁栄をもたらしたのではないだろうか。オランダのGDPは18世紀半ばまで英国のGDPを上回っていたと言われる。

ラテン語・ローマ法・カトリック教会・ローマ軍道=ローマ帝国の残骸

西ローマという行政単位が消滅した後も、帝国の構成要素はいくつか残った。その最大のものはラテン語だ。ラテン語は西欧諸語の土台の一つだし、今でも英語の論文ではラテン語の言い回しを時々挿入するのが知的水準の証明となる。ローマ法は、1070年頃イタリアで「パンデクテン」(ユスティニアヌス大帝が編纂した、ローマ法解釈大全)が再発見され、ボローニャに欧州最古の大学ができて、法学者が多数養成されたところから欧州に広がる。ローマ法は所有の概念など商法が優れていたため、西欧諸国(特にフランス、ドイツ等における「大陸法」)の法律の基礎となっていった。

キリスト教がコンスタンチヌス大帝によって国教化されて以後、教会が機構としてどのように全国に広がっていったかについて資料を見たことはないが、それまでのゼウス神殿に代わって帝国の行政単位の中心地にどんどん設置されていったに違いない。ここは、地元の有力者にとっては次男、三男のかっこうの就職先であったばかりでなく、官僚機構が非常に小さかったローマ帝国にとっては、徴税、証明事務なども代行させることのできる存在となっていったであろう。今でもデンマークなどでは、教会が信徒の戸籍事務を扱っている。北欧諸国、スイス、ドイツ、オーストリアなどには現在でも教会税という税金があり、所得税のうち3~9%にあたる額を税務署が、所管地区の新旧両教会員数に比例して各教会に送付している。例えばデンマークの憲法は、ルター教会を国の宗教と定め、国家による支援を定めている(他方、宗教の自由も定めている)。

そして4世紀になると、ローマ帝国の中央、地方の「侍」兼官僚であったセナトール貴族が大挙して司教職についている(「西洋中世史研究入門」)。ローマ末期以降の混乱期においては、文字を知る者にとっては教会が唯一の奉職先になったのだろう。「西欧中世史」(佐藤彰一、早川良弥編著 ミネルヴァ書房)には、「地方行政では、ローマ末期以来の官職である都市の伯(コメス)が、王の裁判官となって都市を統治した」、「古代末期から司教が都市の指導的人物であり、一部の都市では彼らが伯を選出し、あるいは自らその職務を担当した」、「7世紀には文書行政と官僚統治が不可能となり、文字文化は聖職者と特定のエリートのものとなった」、「司教区はローマ帝国行政の最小単位である都市行政区(キヴィタス)を基準とする。その都市に司教座がおかれた」、「ローマ時代からのセナトール貴族の末裔とゲルマン系の貴族が融合してエリートを成した。

古代ガリアでは司教の3分の1をセナトール貴族が占め、彼らはその地位を世襲しようとしていた」、「ローマ帝国がゲルマン諸部族王国に分裂した時、教会もこれに従った。しかし安定してくると(7世紀)、教会は宗教的一体性を回復しようとする」、「王の宮廷の司祭集団が文書行政も担当した」、「キウィタス(部族保有地)の中心地は交易の結節点であり、司祭、司教が流通の心配をする例もあった(これは、ソ連時代の地区共産党の姿に似ている)」等、いろいろ手掛かりになる言葉(一部、筆者が改変)がある。

宗教組織、イデオロギー政党の組織が行政機構を兼ねることは、ホメイニ以降のイランやソ連、そして現代の中国においても見られることである

なお、修道院というものは教会組織とは離れた独自の存在で、ここにも利権や経済が強く絡んでいる。「中世の国家と教会」(E.ヴエルナー 未来社)によれば、909年設立されたブルゴーニュのクリュニー修道院は教皇の直轄下に入り、フランチャイズの修道院を2,000集めた。つまり地元にとって、修道院は教会とは別の徴税利権であり、教皇にとっては使いやすい収入源であったのだろう。

十分の一税

中世のカトリック教会は十分の一税と名のついた所得税を、信者から徴収する権利を持っていた。国王や諸侯の足元から税がローマに漏出していたのである。どうしてこんなことが可能だったのか、十分の一税はいつ頃確立したのかはわからない。インターネットで調べたところでは、旧約聖書の「レビ記」・「申命記」に、全ての農作物の10%が神のものであると説かれているそうで、教皇庁はこれを根拠に十分の一税を徴収したそうだ。払わない者は「異端」として迫害するし、妨害する国王は「破門」してその権威を奪うのである。

十分の一税はローマ帝国時代、属州の人民に課されていた税金である。これがどうしてカトリック教会に移管されていったのか、あるいは西ローマ帝国消滅後、一時消滅していたものなのかについては、資料を見たことがない。6世紀になると、記録がある。例えば585年のフランク王国の司教会議では、十分の一税の納付を怠るものは破門できるものとした。779年にはカール大帝がヘルスタル勅令を出して、十分の一税はフランク王国に住む全住人が教会に納めるべき税金であると定め、以後一般的な税の一つとなった。カロリング朝時代にはキリスト教徒が司教区に払う税として定着、各地の司教が徴税の決定権を持った。

11世紀には法王グレゴリウス7世が、就任前から財務官として全欧州教会からの収入をまとめ、カトリック教会の力を頂点へと導いた。彼が神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世と展開した、聖職者人事権の取り合いは(叙任権闘争)、聖職者への抑えを通じて税収も抑えることを意味していたことだろう。
 
僕のメルマガ「文明の万華鏡」15号号外で紹介した「モンタイユー」村の村民は、十分の一税について次のような実感を持っていた。
――村の第3の権力(第1は城代、第2は代官)は、地区中心都市パミエにある司教座だった。理論上は遠く教皇庁の統制下にあって、モンタイユーの司祭や助祭など教会組織を統轄し、信者の義務たる10分の1税支払いを強制した。城主、後には国王への納税額が相対的に低下していくのに対し、教会は14世紀から10分の1税取り立てを強化した。抵抗した者は「異端」とされ、弾圧された。教会に対する物質次元での不満という点から言えば、つねに10分の1税がその焦点だった。

司祭も地方の農家出身で、地元の一家族と関係が悪化すると、これを「異端」と言い立てて、牢に送る。司祭は識字階級の一人だし、書物を持っている。少しは公証人の役も務め、重要書類を保管した。異端審問の正式な代理人でもあった。クレルグ家の2人の大物、ピエールは司祭、ベルナールは代官。多くの場合、両人一緒になって10分の1税徴収に当たる。フォア伯がこの村に対する公権力の保持者であると当時に領主でもあったので、ベルナールは伯の名における司法と警察の役人であった―――。面白い、光景が目の前にふつふつと浮かび上がる。

なお十分の一税は、カトリック教会を批判して宗教改革を展開したルターも是認していた(Britannica百科事典)。しかしそれは、プロテスタント教会のために信者が君主に払うものとなり、現在に至っている。十分の一税はフランスではフランス革命の際に廃止され、イタリアでは1887年、英国では1936年に廃止されている。

ローマ軍道

ローマ軍道は立派な舗装で、軍の移動だけでなく商業一般に使われた。アルプスを越えライン河に沿って河口まで至る長いものがあったし、ドナウ川以南にあるアウグスブルクなどの都市は、軍道の密なネットワークに結ばれていた。18世紀ヨーロッパ中を巡業したモーツァルト一家も、このローマ軍道を馬車に揺られていったのだと思うと、感慨深い。今日、ドイツ南部のローテンブルクなどを結ぶ観光資源「ロマンティック街道」も、インターネットによればその起源はローマ時代で、中世にはローマへの巡礼が通って行った道とある。オペラのタンホイザーなどにこの巡礼の話しは出てくるが、ローマは割と身近なところにあったのだ。ドイツのフランクフルトとローマの間は960キロあって、日本の伊勢参りに比べれば遠いが、不可能な距離ではない。

この軍道が西ローマ帝国消滅後も健在であったために、ヴェニスやジェノヴァの商人、銀行家達がアルプスを越え、森林に覆われていた西欧を横切って、北部経済圏の窓口であるリェージュやアントワープなどに往来できたのだ。数字で証明することはできないが、中世、地中海経済圏から北部経済圏に流れた資本の量は大きいものがあるだろう。

現代の冷戦が終わった時、中国などが西側経済に加わることで世界経済は大きく伸びたが、西欧の中世初期というのは、それまでの経済の中心であった地中海経済圏がバルト海・北海周辺の経済圏と結びつくことで、大きく伸びたのだろうと思う。両者を結びつけたものは最初は内陸の通商路、そして次には新型帆船を開発したジェノヴァやオランダによる海路である

中世のプレーヤーとしてのローマ法王

西欧中世はハプスブルクやヴァロアのような有力王家がしのぎを削った時代だが、ローマ法王はその中で、「欧州全域への権利(特に徴税権)を主張するイタリア国王」的存在として、君主達が作りだすゲームの主要な参加者であった。ある時はハプスブルクと提携してフランスと対抗し、また次の瞬間にはフランスと手を結んでハプスブルクと敵対、またある時にはハプスブルクに抵抗するドイツ諸侯に担がれたり、マインツのような自由都市の庇護者になったりと、その役割は刻々と変わった。そしてローマ自身が有力貴族の争いの中に常にあり、ローマ法王の座は彼らの奪い合いの対象でもあった。だが、この複雑なゲームの中で、ローマ法王になった者は一貫してカトリック教会の権益を維持・拡大することに努める。ある意味で、当時のローマ法王は現在のEU委員会が置かれている立場と似たところがある

「カトリック教会からの独立」が西欧の国民国家と個人主義を生んだ

 西欧中世後期は、有力王家がローマ教会からの独立、別の言葉で言えば領内のカトリック利権の収奪を進めた時期である。典型は英国のヘンリー8世で、彼は離婚にかこつけ「国教会」を設立、つまり聖職者の任命権を自分の手に収めると同時に、カトリック教会の不動産を没収、これを新興のジェントリー層に売却して国庫を潤したのである。同じことはデンマークでも起きている。1536年、デンマーク王は宗教改革で教会の土地を没収し、全国の土地50%を所有するに至る。これからの税収、海峡通過料で財政を賄うが、17世紀央には30年戦争での敗戦の結果、財政赤字で王所有地の3分の2を売却し、家産国家(一種の国有経済)から課税国家(民有経済)に移行している。

 カトリック教会からの独立は、個々の人間においても進行していた。ルネサンスは、禁欲的・ドグマ的なカトリック教会から、個人の理性を解き放つものであったし、宗教改革ではルターが、個々人が教会を経由せずに神に直接向かうことを提唱した。

 つまり西欧中世後期においては、カトリック教会からの独立が個人においては個人主義を成立させたし、国家においては国家の個人主義とも呼ぶべき主権国家論、国民国家を生起させたのである。この時代、個人と国家はしばしば同じ方向を向いており、個人にとっては自分の国家が強力になることと、自分の自由が拡大することは、同じカトリック教会への抵抗ということから生じたのである

19世紀末のロシア、あるいは20世紀初頭の清帝国においては、自由を求める個人は自分の国の政府の破壊をめざした。個人と国家のベクトルは別の方向を向いていたのである。これに比べて、西欧の中世はカトリック教会=「ローマ帝国なるもの」からの脱却に向けて、国家と個人のベクトルが同方向を向いていた稀有な時代だと言えよう。

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