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世界はこう変わる

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2016年8月18日

ソ連反ゴルバチョフ クーデターも25年前 どんな感じだったのか

思えば、明日で1991年8月19日、「ゴルバチョフではソ連が割れる」として軍やKGBなど保守勢力がクーデターをしかけ、三日天下で滅びてからちょうど25周年。あの頃のソ連はロマンに満ちていた。疾風怒濤だった。だから僕はドクトル・ジバゴの現代版を志して小説「遥かなる大地」(筆名:熊野洋。ロシア語、英語でも出版した)を書いた。
ロシアのジャーナリストの目から、当時のソ連を描いた大河小説(のつもり)。その中で、8月19日の場面は特に印象深い。以下、抜粋する。

その年の八月十九日の朝早くから,クリン近郊のイリヤー(注:主人公) の別荘では,イリヤーと娘ユーリヤ,孫のイーゴリ,それに伯父イェゴールと伯母ヴェーラがお祭り騒ぎだった。この
別荘は,イリヤーが「モスクワ・イズベスチヤ」時代に購入したもので,土地の所有権は
相変わらず地元の農園にあったものの,実際はもう彼のものだった。

・・・・・
 別荘の中からはヴェーラ叔母が朝食の片づけをする音が聞こえ,イェゴール伯父は居間の椅子に腰かけて,日本のビジネス・マン盛田昭夫の「メー ド・イン・ジャパン」を読んでいた。共産党の崩壊に一時落ちこんでいたイェゴールも,この頃はオーリガ(注:長女)に刺激されて西側のビジネスのやり方を一人で勉強し始めていた。
 
・・・・・
 まるで十年前のように,生活は平静で幸せだった。モスクワでは相変わらず,連邦条約締結交渉,エリツィンのロシア大統領への選出,パブロフ首相の権限拡大要求など,相い矛盾する性格の動きが続いていたが,連邦条約は合意され,エリツィンの力が伸びている今,ゴルバチョフが再び改革派ににじり寄って来た気配があった。

 今日は,リューバが帰ってくる(注:イリヤ―の妻。イリヤ―がKGBの女スパイとの恋に落ちたため、南方の実家に帰っていた)。別荘を昔のように綺麗にして見せてやろう。リューバ。俺たちの一生は,このくり返し。離れたり,一緒になったり。イリヤーは屋根の上で,オーロラ(注:KGBの女スパイ)とのマドリッドでの一夜を,ちらりと思い出す。いや,あいつのことはもう忘れた。俺のことを探るために近づいてきただけ。今日は,リューバが帰ってくるんだ。

 だが,暴力は予想しない時にやってくる。ヴェー ラ伯母が大声をあげた。
 「あんた、おかしいわ。ちょっと聴いて。ユーリヤ、お父さんを呼んで。クーデターよ!」 
 イリヤーはペンキのバケツとともに,屋根から落ちそうになった。ぬかった,クーデター か。KGBか軍か警察か。それともルキヤノフ国会議長? 明日は新連邦条約調印の日。そうか,そう言えば,クーデターをやるとしたら今日しかない。ぬかった。すぐ(自分の)新聞社に行かねば。しかしリューバが来る。
 つけっ放しのラジオは,女性のアナウンサーの声を伝えていた。その声は,昔の官製ニュースのように,無機的で官僚的で不吉だった。昔のソ連が戻ってきた。ブレジネフ,チェルネンコ,延々たる安定の中の怠惰と偽善と凡庸。また手も足も出ない生活に戻るのか。

「不信と無関心と絶望が,初めの熱意と希望にとって代わりました。国家は事実上,無統制になりました。市場経済への無秩序で無組織な移行が,地方,官庁,個人のエゴイズムの爆発を喚起しました。その結果,国民の生活水準の急激な低下と,ヤミ取引とヤミ経済の繁栄が生起したのです」

 「誰だ。ク デタ をやったのは誰だ。ゴルバチョフはどうなった?」 
 「しっ,黙って」

「国家は暴力と無法の深淵にはまりつつあります。これまでに,これほどの規模の
性と暴力の宣伝が行われたことはありません」

 「無法に不法をもって代える,ってわけね」 ユーリヤが言った。

「ソ連の人間はつい昨日まで,自分を力があり尊敬される国家の市民であると見なしてきました。しかし今や,しばしば二流国民になってしまったのです。ソ連人の誇りと名誉を完全にとり戻さなければなりません」

 「何もないのにどうやって? どうやってやるんだ。銃剣でか?!」 イリヤーが叫ぶ。

  「われわれはソ連の全国民に対し,国に対する責任感を高め,非常事態委員会にできるかぎりの支援を与え,国家を危機から脱出させる努力を行うよう呼びかけます」

電話が鳴りだした。チェ,今頃かけてきやがって。社の当直の奴,いったい何をしてやがったんだ。

 一時間後,イリヤーは車を運転してレニングラー ド街道からモスクワへ入った。途中,
警官による検問が数箇所あり,戦車や装甲車や兵員輸送車の列をいくつか追い越したものの,街の表情はいつもと変わることなく,モスクワ運河の港公園の脇では初老の老人がジョッギングをし,街道では自転車のロード・レースの練習が行われていた。シェレメー チエボ空港に着いた客を乗せているのか,外交官,外国企業,そして最近増えた合弁企業の黄色いナンバーをつけた車がいつものように,イリヤ のジグリーを難なく追い抜いていく。モスクワの表情は平静に見えた。ただ,食料品店や酒屋の前には普段より長い行列があるのが見えた。人々は突発事態に備えて,買い出しをしているようだった。

 イリヤーは別に支障もなく,ペチャ トニコフ通りの「新時代」社にとびこんだ。夏の休暇でスタッフは半分しかいなかったが,イリヤーの姿に皆歓声をあげ,口々に情勢の説明を始める。イリヤーは彼らをかきわけ,ガラスの壁で仕切られただけの編集長室に入ると,主だった社員を集めて緊急会議を開いた。

・・・・・
 わが社の方針をどこに置く? それはもちろんクーデター糾弾。昔に戻れば,俺たちの新聞は残れない。あらゆる手段を使って,自由を守る。核はエリツィン。しかたない,今,彼以外に非常事態委員会に対抗できる者はいないんだ。他紙の動きは? なに,皆で「共通新聞」を出すんだと? 結構,大いに結構。エリツィンが声明を出した? 何部ある?一部だけ?! 馬鹿,ゼロックスでも何でもいい,紙のあるだけ作って,皆で街に出てばらまくんだ。どうせ今,新聞は出せる状況じゃないだろう。
 情報を集めるんだ。情報もなしに,おしゃべりしてちゃいかん。「クーデター失敗の顛末」の特集を,今から作るつもりでな。スピードが勝負だ。サーシャにはVOAを聞かせ,グリー シャにはCNNを見させておくこと。ガーリャとコーリャは,電話をかけまくれ。ヴァーリヤは情報をどんどん英訳して,西側のマスコミにファクスで送るんだ。西側の支持が大事だ。費用? そんなものは気にするな。社運がかかっている。他の記者の配置は? 何,国会議事堂内部に張ってない? 俺の指示を待っていた? 馬鹿,それでも記者か? 価値のある情報は指示がなくとも自分で取りにいくものだ

 イリヤーは編集長室を出て,大声で人員配置を指図した。若い記者たちは,歓声をあげて仕事にかかっていった。イリヤーは仕事場を見まわると編集長室に戻り,やっとついたばかりのテレビでCNNを見始めた。早口の英語は彼にはよくわからなかったが,エリツィンが戦車によじ上り国民へのアピールを読み上げるのを見て,国際世論がクーデター を糾弾していることを確認した。

               「ロシアの市民へ」
 一九九一年八月十八日から十九日の夜にかけ,合法的に選出された大統領が,権力
 から遠ざけられた。この行為を如何に正当化しようとも,これは右翼反動による憲法
 違反のクーデターである。
   ・・・・・
  われわれは,そのような暴力的手段は受け入れてこなかったし,今も受け入れるこ
 とはできない。彼らは,全世界の前にソ連をおとしめ,国際社会におけるわれわれの
 権威を損ね,われわれを冷戦時代と国際社会からの孤立に押し戻している。
   これら全てに鑑みわれわれは,権力についたいわゆる「委員会」を非合法と宣言す
  る。従って,右委員会によるすべての決定と措置も非合法である
      ロシア社会主義共和国連邦大統領        ベ・エヌ・エリツィン
      ロシア社会主義共和国連邦大臣会議議長     イ・エス・シラ エフ
     ロシア社会主義共和国連邦最高会議議長代行 エル・イ・ハスブ ラ トフ
                    一九九一年八月一九日 午前九時

 ・・・・・

 その日一日イリヤーは,ジャーナリストとして現場に行きたい本能がうずくのを感じていたが,編集長としての責任を考えて社屋に止まっていた。親友サフロンチュク(ゴルバチョフの側近)は国会議事堂にこもり,イリヤーに頻繁に電話をしては近況を教えてきた。

 ・・・・・
 二十日の昼は,エリツィン側と非常事態委員会の間で交渉が行われたが埒はあかず,夕方になるにつれて再び緊張が高まった。オフィスで情勢を追うことに完全に飽きたイリヤーは,二十一時のニュース「ヴレーミャ」で不吉な顔をしたカリーニン・モスクワ軍司令官が二十三時以降の外出禁止令を発表したにもかかわらず,とうとう指揮を副編集長にゆだねると,国会議事堂のサフロンチュクを訪ねていった。

 スモレンスカヤ駅で地下鉄を下りると,サドーヴォエ通りをふさぐトロリー ・バスのバリケードが目に入る。しかし回りには兵士がいるわけでもなく,沢山の野次馬ともおぼしき群衆が酒が入ったと思える勢いで気勢をあげていた。そのなかを黄色い法衣を着た東洋人の僧が,手に持った太鼓をたたき,大声で平和を叫びながら歩いている。

 国会議事堂のまわりは,戦車や装甲車,そして鉄パイプや柵の一部で作られたありあわせのバリケードや,護衛のために駆けつけたタクシーの群れに囲まれていたが,雰囲気はあたかも野外ロック・コンサートのようだった。若者たちは焚き火で暖を取りながら,ラジカセや仲間のギター で時をつぶしており,その中を中年の女性が自分で作った山のようなピロシキを配って歩いていた。戦車や装甲車の兵士は市民たちと話しており,市民からエリツィンのアピールをもらっては読む将校もいた。一人の酔っぱらった失業者風の男が,シャツの胸をはだけて戦車の兵士に叫んでいる。
 「撃ってみろ! 撃てねえだろう,俺もお前もロシア人よ!」

 急ごしらえの演壇では,喜劇俳優ハザーノフが,ゴルバチョフをからかい,ヤナーエフ(注:クーデター側の気の弱い代表者)の手の震えをまねては大喝采を受け,詩人のエフトシェンコが若者からのやや冷たい反応を受けながら,抵抗勢力を讃える自作の詩を不安げな表情で朗読していた。民主ロシアのチェゴダーエフ議員たちがメガフォンを手にがなっている中に,イリヤ はアリルーエフ(新手の実業家)のダミ声を聞きつけて思わず苦笑した。あの男,こんなとこまでやって来てポーズを取ってやがる。
 「アリルーエフだ。俺は,ケチなことはやらねえ。さあ,持っていけ!」 と彼は叫び,手に持った百ルーブル紙幣を皆にばらまいた。

 イリヤーは国会議事堂の入口で厳しい誰何を受けたが,サフロンチュクに事前に電話をしてあったので,入ることができた。アリルーエフたち新興の成り金は,自分の将来をエリツィンに賭け,旧アフガニスタン出征兵を中心にしたガードマンを,豊富な資金をつぎこんで警備会社から大量に送りこんできていた。警備員たちは自動小銃を手に,エレベーター ・ホールや階段のわきに陣取っていたが,目に恐怖と狼狽の色を浮かべた者も少なくなかった。

 サフロンチュクは,目のしたに隈ができていたが,両手をひろげ嬉しそうにイリヤーを迎える。
 「今夜が山だ。奴らは分裂している。誰も,流血の責任を取るのを怖がっている。ここで俺たちが勝てば,保守の奴らはもう終わりだぜ」
 「エリツィンの天下か」
 「そういうことだ」
 「お前,どうするんだ」
 「ゴルバチョフは多分戻ってきて,最後の努力をするだろうよ。それにつきあって,それからやめるんだな。お前拾ってくれるか」
 「喜んで。給料は大したことないけどな。そんなことより,サーシャ,今度のクーデター,本物なのか」

サフロンチュクはいつものポーカー ・フェイスを崩さなかったが,その中で彼の表情に一瞬驚きと躊躇が走ったのをイリヤーはすばやく目にとめた。

 「本物かって,決まってるじゃないか。でなきゃ,俺もこんなとこじゃなくてクレムリンにいる」
 「サーシャ,お前もっと何か知ってるな? 俺は,贋物に命を賭ける気はしないよ」
 「イリューシャ,俺だって,そうだ・・・。うん,これは贋物が本物になっちまったのかもしれん。ソ連を強めるべきクーデターが,ロシアとエリツィンを強めることになっちゃったのかも」

 「どういう意味だ? ジャーナリストとしてではなく,友人として聞いている」
 「俺だって全部を知っているわけじゃない。ただ,七月上旬ゴルバチョフは,KGBの予備将校数十人をクレムリンに配属させる命令書にサインしている。これが,何のためなのかは,よくわからない。それに十八日には知人にわざわざ一般電話回線を使って,『用心しなさい』と言ったらしい。何か,どこかおかしいんだ」 

 半開きになった窓が突如音をたてると,湿った冷たい気味の悪い風がレースのカーテンをさっとそよがせた。

 「一体何なんだ,それは?」
 「俺もそこを知りたい」
 「やれやれ。何てことだ。しかし,起こったことはしかたない,か。いずれにしても,思いがけない方向に動いているな。共産党とソ連は,これで崩壊するぜ。守ろうと思ったものを,自分で崩してしまったんだ」

 イリヤーはサフロンチュクの部屋を出ると,出口を探して歩いていった。広い薄暗い廊下の向こう,レーンコート姿の上に帽子から流れでた長い金髪を揺らせた,均整のとれた若い女性の姿が浮かびでる。オーロラ! 彼女は立ちどまり,ためらった。彼女の目には涙が光り,イリヤーにすがりつくような表情だった。

 「イリヤー ,イリュー シェンカ。私の太陽,私の英雄。会いたかった。とても会いたかった。最後に。最後によ。私を許して,イリューシェンカ。子供のために,私を許して」
 「子供だって? 俺の子供なのか?!」

 イリヤーは思わず大声をあげたが,オーロラは答えることなく,イリヤーにただしがみつき,涙を流しながら彼の唇をむさぼった。かたわらを武器を持った警備兵や,書類を持った役人たちが,急ぎ足に通りすぎていく。

 「敵の攻撃が迫っています。敵の攻撃が迫っています。女性は館の外に退避して下さい。男性はガス・マスクを配りますので,各階の係りのところに出頭して下さい」 

 急迫したアナウンスの声も,二人には聞こえなかった。だが二人の横では,いたたまれずにイリヤーを追ってサフロンチュクのところまでやってきたリューバが,案内係りの横で凍ったように二人を見ていた。気がついたイリヤーを見ようともせず,リューバは静かに,しかし足早に出口にむかい,イリヤーはその後を追った。オーロラは涙を浮かべたまま,魂が抜けたようにただ立ち尽くしていた。

 国会議事堂の前の人ごみで,イリヤーはリューバを見失った。リューバはほとんど走りだしていた。汚らわしいものから,できるだけ速く離れたいかのように。キーエフ駅方面で乾いた銃声が数発上がる。イリヤーは,リューバの先を越してスモレンスク駅でつかまえようとして,全速力で走りだした。彼には,夜の空気を装甲車のエンジン音とキャタピラの無機的な音が満たし,その不吉な音がますます近くに迫っているのも,もはや聞こえなかった。今リューバをつかまえなければ,すべては終わり。誤解,誤解なんだ。リューバ!

 カリーニン通りとサドーヴォエ通りが交差する橋は,夜間外出禁止令を無視した群衆でごったがえしており,イリヤーは橋の手前で右に折れて,サドーヴォエの歩道の上の群衆をかきわけだした。轟音と自動小銃のけたたましい音が聞こえると,トンネルから装甲車がすごい勢いでとび出して急停車した。

 「どけ,どけ,危ない! どうした!? 人殺し。人殺し!」 

群衆から声があがった。血だらけの雑巾のようになった若い男が,装甲車の前に倒れている。イリヤーは群衆に押されて,車道の上に出た。イリヤーは,装甲車の前に倒れている男のかたわらに,片手にぼろ切れを持った若い男が肩を押さえ蒼白な顔でよろめいているのを見た。その顔には,見覚えがある。ロマン(娘ユーリヤの恋人。しがない労働者の息子)じゃないか! 行方不明の娘婿。こんなところで!

 「ローマ,どうした?」
 「あ,イリヤー ・イヴァノヴィッチ」 ロマンは立ちすくむ。

 「イリヤー ・イヴァノヴィッチ。やられました」
 「馬鹿。こんなところに来るものじゃない。ユーリヤとイーゴリをどうするつもりなんだ。傷を見せろ」 イリヤーは,リューバを追うのを諦めて,目の前のロマンを救うことにした。孫のイー ゴリが,また父なし子になるなんて(注:イリヤーも父なし子)。
 イリヤーは,傷ついたロマンを背負って,サドーヴォエを歩きだす。車を止めるんだ。早く病院に担ぎこまねば。

 二十一日になって,クーデターは失敗が明らかになった。二十日深夜の時点から軍・KGB内部の分裂は決定的となり,クーデター側は主導権を失った。

・・・・・
 イリヤ は,一九日からの疲れが一度にでてきた。ゴルバチョフがモスクワに帰ってきた時,これからの情勢はどうなるかとちらと考えもしたが,昨日リューバがイリヤーからの電話にでようともせず黒海のスフミに帰ってしまったこと,ロマンの負傷を聞いたユーリヤの錯乱,ロマンの父イヴゲー ニー の冷たい反応(注:息子ロマンが身分違いのユーリヤに入れ込んでいるのに怒って、ロマンを勘当),オーロラが言った「私たちの赤ん坊」という言葉,これらが潮のように押しよせて,頭の中をぐるぐるまわり,次の瞬間には意識が切れてふっと気が遠くなるのだった。

 夕方になり雨はあがり,雨に洗われた建物の赤い煉瓦に,夕日が新鮮な光を投げかけた。近くの交差点では,黄色いショート・パンツにTシャツ姿の若い娘が,ローラー ・スケートですべりながら,クーデター失敗のビラを通行人に微笑みながら渡している。今は,道ばたで物乞いのひくアコーディオンの悲しい音さえ,なぜか弾んだものに思われた。
 街をいく人々の顔は晴々とし,自分たちの力で新しい時代が開かれたことへの誇りが見られた。ロシアの大衆は,エリツィンの下で,自由と改革の女神との束の間の新婚生活を味わっているようだった。
何か,心にポッカリ穴ができたような,それでいて晴れがましく,新鮮で奇妙な気
分,新しい時代なのだ

 次の日の夜明け,「地獄の狼」(注:暴走バイクの面々)はオーロラを先頭にコムソモーリスキー通りをレーニン丘まで進むと反転し,隊列を横に整えた。眼下に眠るモスクワの東の空が次第に赤らみ,新しい時代の太陽が姿を現す。

 「地獄の狼」は,一斉にクラクションを鳴らして,女親分に別れを告げた。オーロラは,「みんな,元気でね,さようなら!」と叫ぶと,アクセルをふかす。赤いBMWのバイクは,レーニン丘の深い森から飛びだして,空中高く舞いあがる。

 あらゆる欲望と絶望,そして希望が眠るモスクワは眼下に横たわり,その向こうにはロシアの大平原が青く無限に連なっていた。金髪を太陽にきらめかせ,真紅のオートバイとともにモスクワ川へと落ちていくオーロラ。子熊座につながれていた犬は解き放たれて,この世の終わりがやってくるだろう。

 「狼」たちは頭を深く垂れ,女親分を見送った。
旧き体制と人間の業の罪を一身にひきうけて,凛々しくあの世に旅立つ,俺たちの女親分。これまで不思議な力で俺たちを警察から守り,数々の夢をかなえてくれた。

彼らには,なぜかスタ ラヤ村のボズネセンスキー教会のマリア像の目から,赤い涙が流れ落ちるのが見えた気がした。

ああ,イリヤー。私はあんなに待っていた。
   遅すぎた,遅すぎた出会い。
   罪にまみれたこの私は,神の裁きを受けるため・・・

    あなたは私の大地,私の父,私の母。
   あなたの子供を残していきます。
   もし罪の子だとしても,同じロシアの大地から生まれた子供


(今読んでも涙が出て来る。随分感情をこめて書いたから)


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