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論文

2006年11月25日

アジア紀行(06年 カンボジア、ミャンマー)

10年ぶりのカンボジア、30年ぶりのミャンマー
―――印象記―――
                         平成18年6月21日
                       河東哲夫

4月下旬、カンボジアのプノンペン、ミャンマーのヤンゴンに行く機会がありました。以下はその時の印象です。
カンボジア、ミャンマーはASEANの中では後発国に位置づけられますが、現在の瞬間風速ではカンボジアの方が発展の勢いがあります。また、ASEANに入ったことから来る「学習効果」がかなり感じられる国でもあります。
誰も襲おうとしていないのに自ら甲羅にこもってしまったようなミャンマーの現状は、保守、野党双方の役者が代わるまでは、変わらないのではないかと思います。この国は5,000万人の人口と様々な資源を有する大国ですし、BRICSのインド、中国を地理的に結ぶ位置にもあります。ミャンマーとインドの国境の峠に碓井峠のようなトンネルを建設できれば、ミャンマーは物流の一大結節点ともなって飛躍できるでしょう。

1・カンボジア
(1)概観
○ 格段に整備されたプノンペン
プノンペンは10年ぶり。空港ターミナルは10年前とは様変わり、小奇麗になった。パスポート・コントロールは8列ほどあるが、そのうち3列くらいは「ASEAN市民」用で、これが一番多く、カンボジアがASEANにかける期待の大きさを表したものか。
荷物の処理は迅速で、着陸して20分でもう空港から出ることができた。
10年前、まだ内戦の収束してなかったプノンペンの街はごみごみしており、けばけばしいネオンで「夜総会」とか「大富豪」とか漢字で書いてあるカラオケバーが数軒目立っていた程度だった。
98年に内戦は終わり、プノンペンは高層ビルこそまだないものの、かつて「アジアのパリ」と呼ばれた瀟洒な趣を取り戻しつつある。プノンペン大学の窓にはすべてガラスが入っていた。但し、トンレサップ川の岸には、掘っ立て小屋がまだ林立している。アジアの経済離陸期を彩るモーターバイクの量はまだそれほどでもないが、プノンペンの街の様子は10年前のホーチミン市にかなり近い。
 ○街の寸景
自分が乗ったタクシーの運転手はまだ若かったが、月に80-150ドル稼いでいるとのことだった。彼は大学で建築学を修めたが、あまり役に立たないので、大学に入り直して観光学を学びたいと言っていた。
結婚しないのかと聞くと彼は、この頃の女性は「上を見る」ことが多く収入の少ない男は相手にしてくれない、自分ももっと稼ぎたい、と言っていた。案外このあたり、経済発展の原動力はリビドーにあることを物語っているのかもしれない。
    10年前、プノンペンの一角で、ロンノル政権の幹部達がポルポトに一網打尽で抑留され、最後に皆殺しにされたという昔の学校か病院のあとを見に行ったことがある。幹部達が縛り付けられそのまま撃ち殺されたベッドが置いてあって、発見された死体の写真が壁に貼ってある。怨霊が未だに徘徊しているような陰惨な建物だった。今回ホテルで新聞を見ていたら、最近タイのアイドル女優一行がやってきて、この建物を舞台にホラー映画を作って帰っていったという。聞けばカンボジア人とタイ人はお互いに好きではないようで、このような映画を作れば、カンボジア人は怒るだろう。
○ 徐々に育つ人材・ASEAN加盟のメリット
ポルポット政権が頭脳労働者を皆殺しにしたため、新生カンボジアでは長らく優秀な政府要員を欠いていた。亡命先から帰ってきた元官僚の多くも、腐敗体質を露骨に出す。
しかし僕が今回参加したシンポジウムでは、人材が育ってきていることが明確だった。シンポジウムの事務担当者はいずれも理解可能な英語を話し、事務処理能力も優れていたし、カンボジア人の報告者の中には原稿なしで理路整然とした(経済理論の知識も申し分なく、自国社会の分析も優れている)英語でのスピーチをしてのける者達が何人もいた。
「フランス語圏」だったカンボジアで英語が第一外国語になってきたのは(それはベトナムでもラオスでも同じのようだ)、経済的要因もさることながら、ASEANに加盟して年間300もあると言われる種々の会議に出ていることも作用しているだろう
○ アジア的DNA? 
カンボジアは儒教文化圏にはなく、むしろインド文明の強い影響下に推移してきた国だ。だが、空港の入国審査官がアメリカでのような写真機をスマートに使いこなしていたこと、10年前のアンコールワットでの土産物などは可哀想で涙が出てくるほど粗末な木彫りだったのが、今ではどこにおいても見栄えのする仕上がりになり、包装も整っていたこと等、どこか東アジア的な勤勉さと応用能力の高さをうかがわせるものがあった。
 


(2)経済的将来性
○カンボジアの経済は、人口が1,300万人で市場として小さいことが難点だが、腐敗が減少する可能性(下注:)、タイと中国南部(特に自動車産業の集積している広州)の間で水平分業が進んでいるが、タイと中国の間に位置するカンボジアもシアヌークビル港周辺を整備すれば、低賃金で向上意欲に燃えた労働力は外資にとって大きな魅力になるかもしれない。
   (注:3月の憲法改正で、議会の半数以上の票で組閣できることになった[それまでは3分の2]ため、フンセン首相の人民党[官僚機構をベースとする]が腐敗したフンシンペック党[亡命帰りが多く、国民の間に基盤を持たない]と組まずに組閣できることになった。フンシンペック党のラナリット党首は3月、国会議長を辞してフランスに脱出している。)
○またホーチミン、プノンペン、バンコクを結ぶ道路が整備されつつあることも、沿線の開発を促進するかもしれない。但し、中国南部ーハノイーダナンーヴィエンチャンーバンコクと、カンボジア領内は通らない自動車道路の整備の方が先行しており、物流の実需も大きいと見られている。
  ○カンボジアに日本企業が直接投資できる条件のいくつかは揃っている。10年前、この国における日本語教育はまだ緒についたばかりだったが、今では日本語に堪能な新卒者が多数いる。JICAはプノンペン大学の一角に、非常に立派な「日本センター」を建てたばかりである。
しかし日本企業は、法整備が未だしであること、汚職がひどいこと、電力・通信代等が割高であること等の理由を挙げて、投資を控えている由。カンボジアに対して食わず嫌いのところが見られる。
他方現在、カンボジア沖にかなりの石油が埋蔵されているとの観測があり、右開発が成功すればカンボジア経済にとってはプラスとなるかもしれない。

(3)中国との関係
  ○プノンペン人口の20%は中国人だと皆が言っていた。10年前のプノンペンではベトナムに対する歴史的な敵愾心が感じられたが、現在は中国人がその代わりになっている感があった。
  ○最近温家宝首相がこの地域を来訪し、600億円相当の融資・援助を約束したことが大きな反響を呼んでいた。

3.ミャンマー
(1)30年前との比較
○この国に自分が来たのはもう30年前になる。小さな平屋の空港ターミナルを出るとそこはもう田園で、2車線の田舎道の脇に大木があり、その根本に白い牛が寝そべって草を反芻していた。
今回空港ターミナルは大きくなり(つつある。未だ建設中)、飛行機を降りるとまだ未完成のターミナルの一角に連れて行かれる。パスコントロールの係官はほとんど若い女性だが、事務は結構手っ取り早く、権威主義的なところはうかがわれない。
ところが荷物が出てくるまでに時間がかかる。横にはサムスンの液晶テレビが壁にかかっていて、コマーシャルばかり流している。タイやシンガポール程ではないが、結構垢抜けたスタイルだった。なぜか富士山と桜をバックに、地元のジュースを宣伝する場面があった。「日本は高級品」というイメージなのだ。
○30年前、「ビルマ」にはソ連が進出の構えを見せていた。都心近くにインヤレークという池があってそのほとりのインヤレーク・ホテルがソ連の支援で作られていた。自分も30年前にはそこに泊まったが、「フルシチョフ書記長がここに泊まった時、イモリが天井から落ちてきた。彼は椅子の上に上がってがたがた震え、『おい、このドラゴンを早く捕まえてくれ』と怒鳴った」という伝説がホテルには語り継がれていた。今もこのホテルは昔と同じたたずまいであるが、今では日航ホテルなど5つ星ホテルがいくつかある。

(2)街の様子
○ヤンゴンの街角でふと、東京の西部に走っている「関東バス」を見たかと一瞬思い、いやそんなはずがない、しかしもしかすると中古バスを輸入しているのかも、と思って後で大使館員に聞いてみると、まさにそういうことだった。小田急バスから横腹の銀色の犬を除去したような塗装のバスも走っていた。
○ミャンマーで目立つのは、他の東南アジア諸国では経済成長の予兆の如くに「湧き出てくる」、あの雲霞のごときバイクの大群が見られないことだ。規制も関係しているかもしれない。
○ヤンゴンはまだいいのだが、地方に行くと開発が行き届いていないことは否めない。大使でも20センチほどのドブネズミが夜になると出てくるホテルに泊まらされたり、泥水の水溜りを革靴で歩かざるを得なかったり、座席の半分は破れていてスプリングが突き出ているような車に乗せられたりする由。
○30年前は都心から少し外に出ると、掘っ立て小屋が道路わきに並んでいた。しかしそこに住んでいる人々の表情は明るかったことが印象に残っている。周りがすべて自分と同じように貧しいからだ、というのが、当時聞かされた説明だった。
今ではこのような掘っ立て小屋は郊外からも追いたてられた由。市内には外資製品の華やかな広告や高層ホテルもあるから、自分も最初はその発展ぶりを喜んだのだが、更に都心に入ってみるとその有様はオールド・デリーによく似た貧困ぶりで、30年前と変わるところはなかった。あるとすれば、心なしか人々の表情には疲れと不満が見えたことだ。以前は皆が同じように貧乏だったが、今では格差がある、広告されている品物は自分達には買えない、テレビで見ると、昔は貧しかった他の東南アジアの国々もはるか先に行ってしまった、ということではやはり不満が出てくるのだろう。

(3)現政権の性質
○今のミャンマーは、軍司令官独裁体制下にある。民政移管に向けて7段階の「ロードマップ」があるのだが、第一段階の「憲法制定のための国民会議」を既に10年もやっている有様である。
○ミャンマー軍は今でも国境の少数民族地帯で実戦を行っている。野戦司令官は論功行賞で、中央政府の要職に任命されてくる。経済のことはあまり知らないそうだ。但し韓国もインドネシアも軍人が政府を牛耳る中で発展してきたのであり、決定的なマイナス要因ではないかもしれない。
○軍部の要人は経済について助言されることを嫌うそうで、彼らにとって経済政策とは「橋をかけたり学校を作ったりすること」で、立派にやっているではないか、と自負しているらしい。
○首都移転
首都をヤンゴンのきた300km程のピンマナに移転したことは、内外で種々揶揄され、またその動機につき憶測がかまびすしい。ヤンゴンでの多数意見は、「権力の中心は国の地理的中心部に置くべきだ」というタン・シュエ議長の説明(因みに、移転は彼の一存で決まったと言われる)を額面通りに受け取るべきなのではないか、ということだった。
米国による攻撃を避けるためという説明も行われているが、ピンマナという場所は、東西は山に遮られているものの南北は平坦である由。従って米空軍や巡航ミサイルによる攻撃は容易だろうから、この説明も成り立ちにくい。

(4)経済状態
○ヤンゴンにいると、ミャンマーという国の潜在的な豊かさ、発展可能性が何となく直感される。王朝の伝統が感じられるのだ。つまり一つの国として存在した期間が長いということである。それに、イギリス植民地であったから、英語ができるものは多く、なまりが例えばタイ人よりも少ない。
○ヤンゴンの店には、西側の商品は何でもあるそうだ。割高であるにもかかわらず店は混んでいるそうだから、中産階級(この国では上流なのかもしれないが)に相当する人達はかなりいるのだろう。もっとも、既に30年前もラングーンのマーケットは有名で、アメ横のような狭い通路の両側では「何でも」売っていた。
○天然ガス収入は毎年6億ドルに上っているはずだが、それがどのように使われているかは不透明である。ヤミの為替レートが公定レートの200倍になっていることもあり、政府予算もドル換算が難しい。
○公務員給与を十倍にしたこともあり、最近はインフレが進んでいる。

(5)止まった改革
○90年代初期には「民営化」が進んだ。しかし1990年の選挙で勝利した野党がそれまでの軍事政権関係者を糾弾する姿勢を示した途端、民政化の動きは止まって現在に至っている。
○野党系の者達は政府に抑圧されているが、政治に無関係の者と外国人の間の付き合いは自由である由。
○ヤンゴンで30年前と違うのは、西側製品も含めた広告が多いことだ。しかし改革もここで止まっており、一律10%の輸出税がかかること、そして米国制裁措置の影響で外資の直接投資も止まっている。
5,000万人という大市場、英語ができる者が多いこと、親日的であることに注目した日本企業も、現在では困惑しているところが多いそうだ(一応80社が進出していることになっているが、ローカル職員だけ残して開店休業状態のものも多い由)。

(6)「民主化」運動は純正なのか?
○アウン・サン・スーチー女史に会ったことのある人達には、同女史のことをよく言わない者が多いらしい。「自分でしゃべってばかりいて、イギリスかぶれで、イギリスがどんなにいい国かばかり言う」という評価がある。これが事実かどうかはわからないし、事実だとしても、それは盗聴を意識しての演技なのか本音なのかはわからないが。
○ミャンマー人は特に米国では故国のことを悪く言い、ミャンマー大使館の前で投石、デモもすると「反体制派」と見なされるようになる。こうなると「ミャンマーに帰れば必ず弾圧される」ということになって難民認定され、アメリカでの地位も安定してくる。

(7)ミャンマーは「中国に席巻されている」のか?
○ミャンマーは、ベトナムのように1000年にもわたって中国に直接支配されるようなことはなかった。しかし朝貢国ではあった。北東の国境が中国の雲南地方への出口となっており(北部は双方の領土がヒマラヤ山脈)、今では自動車道路(国境からミャンマー中央部の大都市マンダレーまで6時間程の由)が通り、天然ガスパイプライン建設が計画されている(インドもミャンマー沖で採取される天然ガスをパイプラインで輸入する計画を持っている由)。
これは戦争中の援蒋ルートであり、現在の中国にとってはマラッカ海峡を通ることなしに中近東に至ることができる、貴重な代替運輸ルートになっている。
○かつてミャンマー、タイ、中国、ラオスの国境が入り組むこの地域は「黄金の三角地帯」と呼ばれ、麻薬の大産地だったが(元々は国民党の残党が持ち込んだ由)、現在の生産量はかつての2,000トンにははるかに及ばない年間300トン程度に落ちている由。ミャンマー、中国の間の関係が良好な現在は、ケシ栽培に好都合な力の真空状態がないのだろう。
○ミャンマーには古来インド人もいるが、経済的プレゼンスはやはり華僑の方が上手のようだ。華僑がGDPの40%を占めているという説もあるが、これは身近の流通などに限定された、やや大げさな話ではないか。
因みにここの華僑も中国語を話せる者が小数になっており、中国本土との関係は希薄である。
○中国は最近、ミャンマー沖の天然ガス開発で3鉱区の権利を落札した由。また陸上の油田でも3鉱区を獲得した由。
こうした大型開発への参加については米国が監視の目を光らせている。
○ミャンマー人は独立心が強く、米国などに対して中国を当て馬として使っているが、他方中国人やインド人を好いてもいないそうだ。3月に軍事政権ナンバー2のマウン・アイ副議長がロシアを訪問したが、これはミャンマー側が主導したもので、米国や中国に対してロシアを当て馬として使う動きだったのだろう。
○ミャンマー沖、インド洋のアンダマン諸島の一つココ島にはレーダー、通信施設があり、これを中国が租借しているとの報道が行われている。確かにこれによって周辺海域での艦船の動きを把握できることは確かだが、中国がそのような情報を現在必要としているのだろうか? インド洋でSLBMを装備した原潜でも運用しているのだろうか? いずれにしても今回懇談した相手はすべて、ココ島のレーダー施設を中国が使用しているかどうかはわからない、多分そのようなことはない、という感触だった。

(8)対インド関係
○今回の「発見」は、ASEANはインドと国境を接している、ということだった。戦争の時、日本軍はインパール作戦でビルマからインドへ出ようとしたのだから、ミャンマーとインドの間には国境がある。但しそれは密林に覆われた山岳地帯だそうだ。昨年末の東アジア首脳会議ですったもんだの挙句、インドの首脳も招待されたが、インドはASEANと異質な文明ではない、中国と同じくらい近く、また中国と同じくらい遠い、ということだ。
○将来、中国、インドの経済が首尾よく発展すれば、ミャンマーは中国とインドの運輸面での結節点となる。
○インドは最近までミャンマーの「民主派」を支援し、軍事政権とは疎遠なものがあったが、ミャンマーへの中国の進出を見て政策を転換させた由。

(9)対ロシア関係
○ミャンマーはロシアから戦闘機ミグ29を30機ほど、既に購入している。ウクライナからは戦車を購入している。かつて同じ社会主義国だったから、人脈も残っていようし、ロシアの兵器はコスト・パフォーマンスが高い。但し、アフターサービスが問題である。
○また天然ガスで政府歳入が増えたため、10メガワット級の研究用軽水炉をロシアから購入する話も進行している由。

(10)ミャンマーは「親日的」か?
○ミャンマーは昔から、「親日的」であるということで通ってきた。日本軍に占領されたにもかかわらず、敗戦で逃走する日本兵(30万人が10万人に減った由)を自宅に匿ったりしたと言う。これは日本がビルマの独立運動を助けたこと、英国を追い出したことによると言われている。
○ミャンマー人と話してみると、「富を他人に奪われる」ことへの恐怖感が強く感じられる(資源の豊かな国に共通したメンタリティーだろう)。だから彼らはイギリス人が嫌いだと言うし、現在進出が目立つ中国人への警戒心が強いのだ(イギリスによる支配の以前は、中国への朝貢国であった)。
しかし台湾の若い世代と同じで、ミャンマーの若い世代には日本について特に思いいれはないようだ。
○ODAについては、日本の手はかなり縛られている。制裁措置のために新規円借款供与ができない上に、以前の円借款の返済が軒並み滞っている由。債務帳消ししようとしたこともある由だが、野党弾圧が始まったために、それもできなくなったと言う。

(11)ASEAN効果
ASEAN諸国はミャンマーの「民主化」が一向に進まないことに業を煮やし、ミャンマーの加盟を認めたことを後悔していると言われるが、ASEAN加盟の効果はミャンマーにとってはボディーブローのように、確実に利いてきていると思う。今回懇談した相手の全ては、ミャンマーの現状を弁護しその潜在力を強調しつつも、他のASEAN諸国との格差が開くばかりであることは切実に認識していた。
これは「ASEAN関係の国際会合は毎年300回を超え、外務省だけではなく、全省庁関係者に及んでいる」と言われる活発な交流のおかげであり、「ASEAN効果」と名づけていいだろう。           (了)

コメント

投稿者: ASEAN | 2009年08月16日 17:37

大変興味深く、現在のミャンマーの現状を読まさせて頂きました。民主化運動のスーチーさんについて、実際に現地の国民からは批判の声が多いというところに、私も同感するのです。民主化を薦める運動において、彼女の一人語り、特に英国や、白人社会に洗脳され、一般のまだ、貧しい庶民にとっては、彼女のような高学歴で、輝かしい職歴、また、外国人との国際結婚などの実際の彼女の経歴は、過去のイギリス植民地時代の国民の痛手を逆撫でさせるのだと感じます。彼女の生活は一般の庶民からすればお姫様のような生活で、もっと庶民の立場、インドのマザーテレサのように貧困者に尽くすことを実際にはしていないのが、現地の人によく言われない理由ではと感じました。皆が同じ貧困で貧しい者同士であった時の方が、人としての心の豊かさがあったと記されているように、彼女のような民主化を進めるにあたり、今後もっと貧富の差がでてくることは間違いないですし、国の守りに入る軍事政権も歴史的観念から必要であるから今の現状のような感じを受けました。民主運動は大変良いことだけれど、スーチーさん自身のキャリアステイタスのような、もしくは、私こそ我が国の救い主というような彼女の微笑みの内に隠されたエゴさを感じます。

(河東より:本当に他人のためにやっている人は、どこか違いますよね。無名の人に多いですが)

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