Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2006年11月25日

「意味が解体する世界へ」(草思社)より ウズベキスタン


      アフロシアブの風に吹かれて
シルクロ-ド夢譚

                       河東哲夫

 ここはサマルカンド。西遊記の三蔵法師も通ったペルシア文明の古都。僕は農家でお茶を御馳走になっている。晩夏の豊かな太陽は乾いて澄んだ大気を満たし、木立の中のあらゆるものは印象派の絵を更に洗ったように美しい。黄色い無花果の実がたわわになる木々を見たこともない緑と青の尾長鳥が渡り、そよ風が繁った木の葉をさらさらと鳴らしていく。これこそエデンの園かとちらりと思う。
 その昔大帝チム ルの建てた巨大なモスクは青いタイルで覆われているが、その目もさ
めるような色はサマルカンド・ブル と呼ばれ、水そして空を表しているのだそうだ。だ
がそのサマルカンドの郊外にはアフロシアブという丘が広がる。ここはジンギスカンに滅ばされた昔のサマルカンドの跡で、日干しレンガで作られた壮大な建物の数々は泥の丘陵と化し、ヤギが草を食んでいる・・・

 シルクロ ド

 日本を出た飛行機が北京を過ぎてしばらくすると黄河の水もなくなって、砂漠、そしてはげ山が眼下に広がる。塩が白く干上がった湖の跡や、高く砂ぼこりを舞い上げる土漠が地平線まで続く中、隕石の落ちた跡か丸い水たまりが点在する。だがそんな光景が一時間もたつと砂漠がうねりだし、左側に山脈が見えてくる。あああれは天山山脈か崑崙山脈か、山の向こうに青く見えるのは湖かと思う間もなく、また全ては砂漠に戻る。草原と森と
川に彩られたロシアの大地と違うが、これもまたユ ラシアの大地だ。
 北京を過ぎて三時間もすると山脈は本物になってきて、夏の最中なのに雪山が白く輝く。でもここらの山脈は気まぐれで、ふと下を見ると山はなく平原が広がっていたりする。ここらあたりでは、まだまだ食糧が作れるのだ。山の向こうにはウルムチがあるのだとス
チュワ デスは言うが、靄がかかっていて見えない。新彊地方の首都ウルムチではもう漢
民族の方がウィグル人より多くなっていて、イスラム文化と中国文化が雑然と混ざり合った、でも「吉祥寺を三つ合わせたような」近代都市になっているのだそうだ。さっきから
眼下の山すそを、どう見ても四車線の立派なハイウェ が飛行機を追ってくる。後から聞
けば、遠くの連雲港から新彊のカシュガルまでハイウェ が本当にできたのだという。た
まげた話しだ。
 このあたりの山脈は言ってみれば、ユ ラシア大陸の東半分の文明の母だ。水は東に流
れて黄河、揚子江となって中国文明を育み、西に流れてアム川、シル川となってメソポタミア文明ほど古くはないがその流れを汲んだペルシア、中央アジアの文明を育てたのだ。それはオアシスという言葉から我々が連想する、池を囲んだ小さな村にヤシの木が生えているといったものではない。地平線まで広々と綿花、小麦、トウモロコシそしてリンゴの畑が続く光景は、どこに行っても珍しくない。フェルガナ地方だけで関東地方の面積に匹敵するのだ。そして点在する農家は白い漆喰作りで、モスクワ郊外の傾いた木造農家に比べれば、ここはやはり太陽と水の恵みで豊かなのだと思わせる。
 シルク・ロ ドというと日本では、どこか感傷的なロマンが作られている。やれ仏教が
伝わってきた道だ、やれギリシアの「進んだ」文明がアレクサンドロス大王のおかげでアフガニスタンやタジキスタンのような「僻地」にまでやってきた道だ、という具合に。確
かに文化はシルクロ ドを伝わって西から中国、そして日本にやってきた。だが西と言っ
てもその大部分は、ヨ ロッパのことではなくペルシアのことだ。つまり文化の発信源は
シルクロ ドの東と西のいずれかの端ではなく、エジプトとメソポタミアの流れを引いた
真ん中のペルシアにもあったのだ。僕はタジキスタンの美術館で、八世紀頃の女性像を見たことがあるけれど、透けた衣が流れるように垂れる様、竪琴を弾く白い小指がなまめかしく反っている有り様は、観音菩薩そのものだった。
 ペルシア文明はその頃、今のタジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、そしてインド北部までを覆い、ウズベキスタン、トルクメニスタン、そしてタジキスタンのあたりはペルシア帝国でも文明の進んだ地域だった。「イスタン」とは、ペルシア語で国という意味で、当時ペルシア語は今の英語のように国際語だった。安禄山のように、中国の宮廷に
入り込みペルシア語も使っていたペルシア系は多数いる。ブハラはサ マ ン朝ペルシア
の首都で、ル ダキ やフィルドゥシ といった詩人が文学の黄金時代を築いたし、マル
コ・ポ ロの父親は「ブハラはペルシアの最大の都市だ」と書き残した。正倉院に今でも
ある楽器の数々はペルシア、中央アジアのものと瓜二つだし、中国陶器の青花染付の技術や、天文学、航海術もペルシアから伝わった。あの広いインドのムガ-ル王朝も、サマルカンドに覇を唱えたチム-ル大帝の子孫が作ったもので、中央アジアの延長なのだ。
 何年か前、「麦と鉄」を手にした民族だけが発展することができたと書いて、評判になった本がある。麦は食糧増産を可能にして多くの人口を支え、鉄は強い武器で領土の拡張
を可能にしたというのだ。その伝で言うならば中央アジアもちゃんとそのパタ ンにはま
る。中央アジアは綿花とキャラバンだけで生きてきたのではない。小麦と鉄は昔から、はるか昔からこの地にあった。経済史の資料が十分ないこの地域についてあまり断言はでき
ないが、農業が盛んだったとしてもヨ ロッパであったような農業技術革命とそれに伴う
社会変動は起こらず、いつまでも専制的都市国家が続いたことは問題だが。
 ともあれシルクロ ドでは、文化もモノもヨ ロッパから東にではなく東からヨ ロッ
パ、それも当時はまだ「僻地」だったパリやロンドンではなく当時の西の中心コンスタン
チノ プル、つまりビザンチン帝国に運ばれていたのだ。だからこそ、十九世紀のドイツ
の学者リヒトホ フェンは「シルク・ロ ド」という名を思いつく。日本人がヨ ロッパ
への憧れをシルク・ロ ドに投射しているとしたら、それは歴史に反したことだ。

 「天元」のウズベキスタン

 中央アジアはユ ラシア大陸の真ん中にあって、中国、ロシア、インド、イランといっ
た大国にはさまれた戦略的要衝だ。碁盤の「天元」あるいはチェス盤の真ん中だと思えば、その重要性はわかっていただけるだろう。この地域が不安定になれば、周辺の大国も不
安定要因を抱え込む。この地域で一つの大国だけの力が圧倒的になれば、ユ ラシア大陸
全体の力のバランスが変わる。
 中央アジアはもともと遊牧民族国家、通商都市国家の渾然一体とした集合体で、今の国
境や国の名前はスタ リンが強引に作ったものだけれど、独立してもう十二年もたつとそ
れぞれに特色もはっきりし、日本や他の国で思っているほど「わけのわからない新興国」
ではない。人間が住んでいるリアルなパワ 、しかも古い文明を持つ国々なのだ。
 ウズベキスタンは一九九一年に独立して以来、十年そこらという短い間に国家機構を作り上げた。ソ連時代、「ウズベク共和国」にも「外務省」はあったが三十人そこらしかおらず、外国人の客の世話と監視がその仕事だった。それが今、三百人以上にもなり、世界中に大使館を持っている。各省、そして地方の統治機構も整い、一応官僚組織として動いている。人口の若い国なので、二〇五〇年までには人口が倍増して五千万人になると言う。
 首都タシケントは大きな都市だ。人口は二百五十万人で、大きな環状線の中の面積は山手線の中の四倍もある。古くからの商都の部分はくねくね入り組んだ通路と汚れた白壁の家が密集する旧市街として残っているが、大部分はソ連領中央アジア全体の中心として新しく作られたものだ。街の一角にはソ連時代の中央アジア軍管区本部が広壮な姿を見せているが、今そこはウズベキスタン国防省になっている。夏の暑さを凌ぐためか街はすっぽ
り木立に包まれ、その中にアパ トやオフィスビルや店が点在している風情がある。道路
は広く車はまだ少ないが、歩行者が飛び出してくるのでスピ ドはあまり出せない。
 第二次大戦の頃ウズベキスタンにはロシアから工場が疎開してきた。飛行機工場、電子
製品工場、化学工場、トラクタ 工場といった大工場が地方にも点在している。そしてか
つては軍需が殆どだったこうした工場は手厚い予算をもらっていただろうから、街も立派になるというものだ。それに一九六六年のタシケント大地震の後、復旧事業に参加すれば
アパ トがもらえるということでやってきた人達もいる。
 とにかくタシケントの街の構えはあまりに壮大で、ここには温かい南の地域へのロシア
人の憧れと野心も反映されていたのではないか。タシケントの新市街のアパ トには今で
もロシア、ウクライナ、ユダヤ、アルメニアといった白人が多く住んでいる。ソ連時代、大工場で働く者の多くはこうした白人だったのだ。タシケントは「パン籠」と呼ばれ、こ
こに来れば飢えることはないと信じられていた。エセ ニン、アフマ トヴァといったソ
連の文化人もここに長期滞在した。
 ウズベキスタンの経済はまだソ連時代の計画経済を止めていないが、流通やサ ビスは
もう自由化されているので、街には西側のブティックやインタ ネット・カフェが軒を並
べる。でも生活のテンポはモスクワに比べてずっとゆっくりしていて、四つ角で架線から
外れたトロリ ・バスのポ ルを運転手が懸命に引っ張っている傍で近所の主婦連が何事
も起こっていないかのようにお喋りにふけっていたりする。フェルガナ地方にある大宇の自動車工場で作られたNEXIAが何台も通りすぎる中、時には近郊の農夫がロバに荷車を引かせてタシケントの街にやってくる。夏の太陽がぎらぎらと照りつける中、まだ若くがっしりした浅黒い肌の農夫はさすがに疲れて半分うずくまり、手綱を持ったままロバより大きな口を開けてアクビをする。汗に光るその顔の回りには何匹もハエが舞っていた。

 究極の多民族国家・ウズベキスタン

 どの国も実は単一民族国家ではなく、「国民国家」という言葉はどこかフィクションの臭いを漂わせているのだが、大陸の真ん中中央アジアでは多民族性はもう宿命のようなものだ。ウズベキスタンも古来、ペルシア系、トルコ系、モンゴル系、そしてロシア、ユダヤ、アルメニアと入り乱れ、今では日本よりやや大きいだけの面積の国に百二十もの民族が混住している。
 だからタシケントの街を歩いていると、アメリカの都市を歩いているのと同じように訳のわからない気持ちになってくる。街行く人の顔と肌の色がまちまちで、「これぞウズベク人」という顔がどんなものなのか、いっこうに正体がつかめない。肌の色は黄、茶、焦げ茶、白、髪も黒、茶、栗色、ブロンドとまちまちだ。
 ある日、知人のタタ ル人の結婚式に招待された。ホ ルの入り口では、中央アジア特
有のあの細長いラッパが穂先を天に向け、ブ ブ とやたら大きな単調な音を出す。会場
はウズベク、タタ ル、ロシアと、あらゆる人種、言葉が乱れ、バンドの指揮者が「イン
シャ ラ、ハレル ヤ!」とイスラム教もキリスト教もごったにした挨拶の後、蛇のくね
るような中東のメロディ からロシア民謡、そしてポップを奏で、ウズベク人もロシア人
もペルシア風に黙々と手をひるがえしておとなしく踊る。髪を染めたロシア人の中年歌手が歌うのは日本民謡そっくりで、白人がアジアのメロディ-を歌うとどこか哀れさが漂う。新婦は弁護士の娘、新郎は外資系企業に勤めている前途有為の青年で、モスクワにいる親戚一同からの祝電が読み上げられる。
 一口にタタ ル人と言っても、カザンの方からやってきたイラン・ロシア系タタ ル人
とスタ リンに追い出されてクリミア半島からやってきたモンゴル系のタタ ル人は仲が
悪いのだから複雑だ。式も盛り上がってくると、さっきから天井につりさがっていた大きな木綿の袋の口が開いて、中から無数の風船が宙に舞う。その袋のひもを引いたのは、カジモドよろしくさっきから天井にはいつくばっていたロシア人だ。
 中央アジアと言うと我々は、ずいぶん貧しいところなのだろう、今でも遊牧生活をしているらしいなどと漠然と考えているけれど、ウズベキスタンの実態はもう開発途上国ではない立派な中進国で、都市に住んでいるのは中産階級の人達なのだ。だからアフガニスタンやその南の方からタシケントにやってきた外国人は、その整然とした街並みと貧民があまり見えないことに驚く。
 タシケントにはボ リング場がいくつもあって、中は若者でいっぱいだ。入り口では顔
の形が崩れたマフィア風のロシア人が見張り、カウンタ の女の子もロシア人で、プレ
をするのはウズベク人だ。ボ リングは日本では、六十年代の末にブ ムだった。あの頃
の我々の生活水準が今よりはるかに劣っていたとは思わないが、考えてみれば僕の初任給
も当時のレ トで七十ドルしかなく今のウズベキスタンと大同小異だ。つまりタシケント
のウズベク人の生活の実感は、六十年代の日本人のそれとそれ程変わらないのかもしれない。
 地方の都市に行ってみても、最果ての地に来たというようなことはなく、例えばアメリカなら中西部のちょっとした町くらいの近代的体裁を十分に持っている。ウズベキスタン
の西部の中心ヌ クスまでは、タシケントから飛行機で二時間程かかる。この間は殆どが
砂漠で、砂漠というのは人を陸地に飽食した思いにさせるものだが、ヌ クスに近づくと
アム川の流れ、そして緑が目に飛び込んでくる。そして規則正しく四角に区切られた水田が眼下いっぱいに広がり、水の張っていない田は吹き出た塩分で真っ白になっていたりする。アラル海にもう近いこのあたり、世界地図で眺めれば最果ての秘境としか思えないが
、きちんと開発されていて、ヌ クスは工場や団地や操車場を備えた大きな近代都市だ。
ここには何と、ソ連アヴァンギャルド美術の大コレクションがひっそりと眠っている。
 昔三蔵法師はサマルカンド、ブハラを経て岩山を越え、テルメス経由でアフガニスタン、パキスタン、そしてインドと旅をした。そのテルメスも大きな近代都市だが、周囲には豊かな農村が広がる。麦畑がなだらかな起伏を見せながら地平まで続き、その彼方には雪を頂く山脈が屏風のように聳える。畑の周囲の水路には桑の並木が影を落とし、入道雲の浮かぶ湖の岸辺では馬が草を食んでいる。白壁の農家はどれも手入れが行き届き、農民の服装はタシケント近在の農民より良く、農家の周囲の私有の畑には様々の野菜がびっしり
と植えてある。まるでヨ ロッパの農村に来た趣がある。
 でももちろん、うまくいってないところもある。タシケントの東アングレンという工業都市は、ソ連時代は金、石炭、発電、そしてゴムの生産で栄えたが、今は不振で白人のエ
ンジニア、労働者が去った後のアパ トが窓枠やガラスまで盗まれコンクリ トだけの残
骸をさらしていたりする。フェルガナは関東六県にも匹敵する面積の豊かな農業地帯で、地平線まで続く畑にポプラの並木が梢を風に揺らせ、牛や馬の傍らを日焼けした農夫がチュベチェイカというあの黒っぽい帽子を頭にのせて歩いていく長閑な景色が広がっているが、ここでも水がなくて農業ができなかったり、反対に地下水位が上がりすぎて地下の塩分を地表に吸い上げたり、農家の庭先を水浸しにしたりといった問題は沢山ある。

 イスラムも同じ人間

 イスラム教というと、西側の連中もそして日本の我々も何か違和感をもって薄気味悪いもののように思う。だがウズベキスタンではイスラム教は生活の一部となってはいるものの、原理主義者はおらずそれほど厳しく戒律が守られているわけではない。ペルシアの昔から酒と踊りは人生になくてならないものだったし、今ではロシアの影響だろうが何かというとウォトカで乾杯だ。偉い詩人が僕に言った。「この地では、女性は神を、バラは女性を、ウグイスは恋する男女を象徴し、酒と音楽は欠かせないのだ」と。
 食事では豚肉を食べる者もいる。でもメッカの巡礼というと、昔江戸っ子が伊勢参りに目を輝かせたように行きたがる者が多いし、季節々々のお祭りもきちんと祝われる。十一
月頃のラマダンが明けるとポトハ という日本の盆のような祭りがあるが、この時ウズベ
キスタンの人達は親族一同が集まってしばしコ ランを唱えたあと、一緒にピラフ・・・
プロフと言う・・・を食べるのだ。これは法事もかねていて、土間に立てたテントに民族衣装を着た家族が並び、弔問者が来るたびに僧侶が短い祈りをあげる。その僧侶は普通の人と同じ服装でちょっと見にはわからないが、かぶる帽子が違っているのだそうだ。
 で、この国でイスラム教は社会の脅威になるどころか、助け合いとか正直さといった価値観の源泉、社会の安定の源泉になっている。人間は結局どこも同じで、それはイスラム帝国華やかなりし頃のバグダットの繁栄を描いた「アラビアン・ナイト」をちょっと読めば、すぐわかる話しだ。今ではウズベキスタンの国民的詩人とされている十五世紀のナヴ
ォイ・・・その墓はアフガニスタンのヘラ トにある・・・の詩集を読んだことがあるけ
れど、それは何百人もの女性への愛をうたった詩が次から次へと続くもので、この人は一体どういう生活をしていた人かと思ってしまう。
 でも中近東や旧ソ連の人達は、時々どうしてあんなにアメリカを憎むのか? あの憎しみには、何か尋常でないものがある。まるで十字軍との戦い以来の千年もの怨念を引きず
っているかのように。そしてこれに引き換え、キリスト教が良かったのか、ロ マ法が良
かったのか、それともゲルマン系白人の資質が優れているからなのか知らないが、「キリスト教的世界」が発展への活力をこの千年近くも保っているのは、これも驚くべきことだ。
 なぜこうなったのか? 「アラブが見た十字軍」という面白い本を僕は見つけた。マア
ル フというレバノンのジャナリストが最近フランスで出した本で、十字軍当時の資料を
漁ってアラブの側から見た十字軍について書いているが(牟田口義郎、新川雅子訳。ちく
ま学芸文庫)、この終章に面白い箇所がある。要約して言えば、「ヨ ロッパの連中は法
治主義で、それは刑法だけでなく所有権のような民事の部分にも及んでいる。彼らの支配に入った地域に住むイスラム教徒でさえ、その畑の所有権は保証されている。専制君主の恣意にさらされているイスラム教地域に住む同胞より、はるかにいい」ということになる。これを見て僕は、考え込んでしまった。
 イスラムの没落は、アジアとの通商路をヴァスコ・ダ・ガマに取られたためだけじゃない、ここでは個人の財産の権利、そしてそれとも絡むが歴史とか風土とか相続制度とか経済形態とか民族性とかの総体が問題になっていて、その背景には深い深いものがあるのだ
。例えば相続制度について言えば、封建制度を経た日本、ヨ ロッパでは長子相続が確立
したが、遊牧民社会では相続のル ルが不明確で相続争いが頻発した。中国の元朝の衰退
を早めたのも、この相続争いなのだ。
 アメリカを異常なほど憎む人達を見ていると、こうした深い長い歴史は無視して、とにかくアメリカの「豊かさ」が憎くてたまらないようだ。自分達はアメリカ人と同等だ、なぜ同じくらい豊かになれない、という思いがそこにある。普通のアメリカ人がどんなに苦労して稼いでいるかを、彼らは全然知らない。アメリカは力づくで他人から富を取り上げているから豊かなのだ、俺達もあやかりたいのに肝心のアメリカが邪魔をする、という思
いも彼らにあるのではないか? イスラムとキリスト教の長年の対立は、イデオロギ よ
りモノと富をめぐってのものではないかと僕は思っている。

ウズベキスタンのタイム・カプセル
        
 ある日銀座でノスタルジックなフォ クの歌声に足を止めると、路上の台にCDを並べ
て売っている。脇に置かれたブラウン管のアニメには、鄙びた木造の店、医院、そしてオ
ト三輪車までが映されて、この懐かしい五十年代の日本の町を買い物籠を下げた少女が
歩いていく。小さい頃の思い出をかき立てられた僕はたまらず、CDを手に取った。宮崎
駿プロデュ ス、歌は上條恒彦の「お母さんの写真」。
 僕の思い出などどうでもいいかのように若い店員はレシ トを両手で突き出すと、「お
客さま、くじ引きは如何ですか?」と言う。で、昔ながらのあの丸いくじ引きをガラガラっと回すと茶色のタマがポロっと出てきてカランカランと鐘が鳴らされ、店員が路上に響く大きな声で「おめでとうございます。映画『××』への御招待券を差し上げます」と言う。僕の小さい頃の思い出は、安っぽい茶色のタマとカランカランという鐘にすり替えられてしまった。
 タシケントでは不思議なことに、例のデジャ・ヴュ、既視感覚によく襲われる。僕の住む家は街外れの住宅街にあって、そこには大邸宅が次から次に増えているのだけれど、狭い道は舗装の幅も揃わず所々穴があいている。そして近くの学校からは、ランニングシャツにランドセルのようなものを背負った小学生達が楽しそうに連れ立って下校してくる。不揃いな恰好の民家、家の前の生け垣も手入れが悪く電信柱も真っ直ぐに立っていない。だが、そうしたもの全てがここを訪ねる年配の日本人に終戦間もない日本を思い出させ、ノスタルジアをかき立てる。
 僕の家を出たところの四つ角には近くの民家が小さな小さな果物屋を出していて、ひょうたんみたいなものをいくつもぶら下げ、売っている。ある日その脇に男が一人後ろ向きにしゃがんでいた。不審に思って彼の前をふと見ると、なんと朝顔! 夏の朝、ほこりっぽい道端に白と青の花が清々しく咲いていた。
 こうしたことは偶然の部類に入るのだろうが、はるかな昔日本が中央アジアの文化を受け入れたことは確かだ。元々ペルシアで統一国家ができたのは中国の秦より三百年も早い
し、ササン朝ペルシアがアラブに征服された六四二年、ペルシア人のエリ トは中国に大
挙して移住したらしい。そしてペルシア、トルコ、モンゴル系などが混血した中央アジア
のソグド人はユ ラシア全体の商権を握って、唐の安禄山のように歴代の中国王朝に食い
込んでいた。元朝は、モンゴルの軍事力とソグド人の経済力が癒着して中国を支配したようなものだったという。
 ペルシアの商人は古くから海路の商売にも乗り出していたから、日本にも来ていないはずがない。大和絵にはペルシアの細密画の影響があるかもしれないし、伎楽もペルシアから伝わったものだろう。ウズベキスタンの民俗音楽を聞いていると、日本の声明の節回しを聞きつけはっとすることもある。楽器ともなると、日本との関係はますます明白だ。中央アジアの楽器は本当に多種多様な形をしていて、なかには雅楽のしちりきのようなもの、能楽の鼓のようなもの、能笛にそっくりのもの、胡弓、琵琶そのもの、そして琴に似たものがある。古代の楽器はエジプトやメソポタミヤでできたものが、多くはペルシアを経
由してヨ ロッパのバイオリン、マンドリン、リュ ト、そしてウィ ンのツィタ にな
り、ロシアのバラライカになっていった。逆ではない。

 中央アジアから世界を見れば

 タシケントの家で夜遅くワ グナ を聴いていると、隣の家のニワトリが僕の教養主義
を嘲るかのようにコケコッコ と時を告げる。僕はそれで一時すっかりくさって、クラシ
ック音楽の限界をタシケントの鶏に教えられた気になった。このあたりの伝統音楽を聴いていると複雑なシンコペの末にリズムが半拍失われたまま先に行ってしまったり、いきなり無理やり半音下がったかと思うと西洋音楽では考えられないぞっとするような、しかしその反面ぞくぞくした快感を覚えさせる転調をあっけらかんとしてのけて、そのまま先に進むような瞬間に会って、ああ西洋のクラシックは何だかんだと言っても理屈だな、結局一人の作曲家が全てを作ることの限界は、次に何が起こるかよく見えてしまうような気持ちがすることに現れてしまうんだなと思う時もある。
 でもクラシック音楽も拍子を気にせず息づかいや間で聴いてみると、新鮮で深いものに聞こえてくる。我々素人は足でドタドタ拍子を取りながら音楽を奏でたりするけれど、プ
ロはフレ ズを大事にするとはこういうことなんだなと納得した。
 僕がウズベキスタンにやってきた時、これまでアメリカやヨ ロッパやロシアしか知ら
なかった自分のものの見方に何か大きな変化、パラダイムの変化といったものが起きるのではないという期待があった。五十五歳にもなれば、一つのところだけにいると物の見方が固まってしまい、いいことにはならないのだ。
 でもタシケントに来てみれば、ここもついこの前までソ連の一都市、それも大都市だったのだから当然だけれど、ちょっと見には驚天動地のことなどありはしない。市場経済をとりいれようとしている旧社会主義の大都市共通の様相があるだけだ。こうした中で僕がああこれかなと思ったのは、これまで大国の辺境のわけのわからない蛮族と思っていた昔
の遊牧民族が、東は中国、西はヨ ロッパの歴史にまで直接介入し、ユ ラシア全体の主
人公として長く振る舞っていたことの意味を考えるようになった時だ。
 遊牧という生活形態がいつできたのかは、誰にもわからない。農業地帯から追い出された者達が仕方なくなったという説もある。彼らの生産力は飛躍的上昇をとげることはなく、いつもその機動力に優れた軍事力にものを言わせて農耕民族を侵略し、商業を支配してその上がりで国家を運営したのだ。
 中央アジアからは、中国を見る目も大分違ってくる。中国は、気の遠くなるような長い時の中を連綿として漢民族独自の文化を発達させてきたように思われているし、中国人自身も固くそう思い込んでいるけれど、実際には安禄山や詩人李白がペルシア系だったように、周辺の遊牧民族そしてペルシア系民族と渾然一体となってその歴史を進めてきたのだ。純粋の漢民族が作った王朝は漢、宋、明くらいのものと言われているし、また漢以降の漢民族は随分混血したから、「純粋の漢民族」などという定義自体あやしいものだ。
 中国で初めて国家らしい形態を備えた秦の始皇帝は遊牧民族出身で、目が青かったとの言い伝えも残る。陶器と言えばもっぱら中国で発達したことになっているが、例えば景徳鎮の染付に使われたコバルト染料はペルシアから来たもののようだ。そして元の時代、モンゴルによってペルシア系人種は中国に深く引き込まれ、国家の財政や金融、流通で腕をふるう。当時のモンゴル支配地のほぼ全域にわたってペルシア語は今の英語のような国際語だったらしい.この時代、遊牧民族モンゴルは、自分の軍事力とペルシア系人種の商売
の能力を使って、中国を含むユ ラシア東半分を支配したのだ。してみれば、あの中国も
実は連綿として多民族社会だったのであり、それはもう世界中がそうだったのだ。そうした多民族社会のベ-スが国民国家という一つ一つの小さな単位に切り取られていったのが、世界史の実体なのかもしれない。
 中央アジアの歴史を見ると、経済偏重の我々は認めたくないのだが、軍事力が時として世界を変えることがよくわかる。青銅器文明は鉄器文明に征服され、その鉄器文明は鉄器と騎馬を組み合わせた遊牧民族に征服される。スキタイ人が採用したこの武器体系はペル
シア人、トルコ人、モンゴル人が採用し、彼らは千年以上もの長さにわたってユ ラシア
大陸に君臨する。馬は今で言えば戦車、装甲車、戦闘機の役割を果たすス パ 兵器だっ
たのだろう。中国の馬は小型で高く、比較的大型の馬を大量に安く飼育できる大草原を持つ遊牧民族には敵わなかったらしい。
 モンゴルが西欧を征服しなかったのは、ハンガリ まで攻め寄せていながらモンゴル本
土での後継争いに加わるため軍が引き上げたことによるが、モンゴルがヨ ロッパに伝え
ただろう中国の火薬が皮肉なことに、鉄器と騎馬を組み合わせた武器体系による長い々々支配を終わらせる。これを杉山正明氏は「陸と騎射の時代」から「海と火器の時代」への移行と形容しているが、その火器、大砲の時代が西欧植民地主義をもたらした。
 これを西欧の原罪のように言うのは間違いだろう。こうなる前はモンゴルによる植民地
主義がユ ラシアを支配していたのだから。そして今、兵力展開と戦闘状況のリアル・タ
イムでの把握を可能にしたアメリカの電子戦能力が、新しい武器体系として世界に絶対的優位を打ち立てている。武力だけでは今の世界はもう到底渡っていけないけれど。
 遊牧民の社会はいくつかの特徴を持っている。彼らは一年の間に集住と散住を繰り返す。そして軍隊は百、千の単位で構成された厳しい上意下達の原理で貫かれている。家畜を追って散住している時や軍隊を率いる時には個人としての高い能力と瞬時の判断力を要求される一方で、集住の時には集団主義が前面に出る。そしてモンゴルの相続は分割相続だったから、家長の死後、子の間で相続の取り分をめぐって争いが起きることも多く、モンゴル帝国崩壊の一因となっている。
 遊牧国家は宗教には寛容だが、国家機構が軍隊組織とだぶっているためかその統治は家父長的で専制的だ。古代の昔、ギリシアもペルシアも経済力は同じようなものだったろうが、ギリシアでは民主政治、共和政治が生まれたのに、アジアではペルシアも含めてずっ
と専制支配が続いた。中央アジアでは今でも、リ ダ は専制的でないと務まらないと言
われている。アメリカ帰りの青年が、「お前、ここじゃ部下をどなり叱りつけなきゃ、奴らは言うこと聞かないんだよ」と友人に忠告されたと言ってくさっていた。
 なぜこうなのかはわからないが、中央アジアでは昔からずっとこうだった。遊牧民族の影響なのか、灌漑設備を差配するには専制的でなければならないのか、それとも単に生産力が低くて富を少数の者が独占してきたからそうなのか、僕にはまだわからない。
 ともあれ中央アジアは国際政治の舞台に復活した。ユ ラシアの中央にあって、インド
とほぼ同じ広い面積を持つこの地域は百五十年間、ロシア、ソ連によって分断されていたが、それがまた独立した国家群として蘇った。かつてはペルシア、トルコ、あるいはモンゴル文明の一員として中国、インドとも並ぶ力を持ったことのある地域だ。ロシア、中国、イランといった現代の大国に対しても、それは少なからぬ意味を持つだろう。

 「国民国家」は永久か?

 今の歴史学では、原始時代、奴隷制の古代、農奴制の封建主義、近代そして現代という時代区分が幅をきかし、次の時代への移行の原因となるのは生産力の上昇ということになっている。中でも農耕社会こそが技術の進歩による生産性の上昇で時代の転換を引っ張ってきたと思われているけれど、中央アジアのように小麦を手にしていながら専制的な都市国家のまま停滞したところもあるし、産業革命を自力で始めたのはイギリスぐらいのものだが、議会の力が強かったイギリスでは西欧ではどこでもあったことになっている絶対主義の時代を殆ど経ていない。
 だから歴史というのは相対的なもので、それは西欧諸国が十九世紀頃初めて確立したことになっている国家形態「国民国家」または「民族国家」とやらについても言えるのではないか? 国民国家とは絶対主義下での国内市場の単一化、産業革命による生産力の上昇を受けてできたものだとか、産業革命後の市場獲得競争の中でそれを賄える財政・軍事力
を得るためにできた、つまり戦争マシ ンだとか、いろいろ説明されている。
 でも国民国家は単一民族の国なのだという説明はフィクションでしかなく、西欧の国民国家の大多数は多様な民族、複数の言語を抱えている。それに、国家、つまりわりと民族的に同質で財政力、軍事力をつけるため一つにまとまり、強力な政府、軍隊、諜報機関を持つという国家は十九世紀西欧の専売特許ではなく、古代にさかのぼっても史上いくらでもある。大体中国がそうだし、ササン朝ペルシアあたりも民族的同一性の度合いは高かったのではないか。
 十九世紀にできた西欧の国民国家が、国家の究極の形態であるわけではない。一つの民族だけによる国家などというものは歴史上珍しく、多くの国は実際には帝国で、わりと小さな国だけが国内の少数民族を文化的、言語的にも同化して国民国家を名乗るに至っているのだ。だから、これからの国家、いや統治の形態としては、昔いくつもの中央アジアの都市国家をモンゴルという軍事権力が一つの市場に緩く統合していた例や、EUが目指している政治統合のような例も十分あり得るということだ。
 アジアやアフリカの新しい独立国は、国民国家を今になって作ろうとしていて、もう始まってしまったこのプロセスを止めることはできないが、その国家機構は経済発展に主として使われるべきで、国内の一部族が他の部族を抑える道具として使ったり、ましてや十九世紀の西欧のような強い軍隊、諜報機関を持ったら、それはアナクロニズムというものだろう。

 ここも改革

 ウズベキスタンの春は足が速い。三月末まだ寒い中、桜によく似たアンズの花が街じゅうに咲き乱れたかと思うと、四月のある日突然夏のように晴れ上がり、若葉がたった一日で吹き出たかのように何くわぬ顔で風に揺れている。
 そのウズベキスタンも旧ソ連諸国のご他聞にもれずまだ改革中、いや実はこれから本格的な改革に着手しようとしているところだ。でもこの改革はウズベキスタンの春のように足早に進むかどうか。

 ある日曜日テニスを終わって公園を歩いていくと快晴の中、木もれ日が躍る。家族連れ
がブランコなどで遊び、広いサッカ 場にそびえる手入れのいい白い建物からは流行歌が
スピ カ で流れ出る。僕は、ソ連時代モスクワ川のほとりのル ジニキ公園を思い出す
。夏の木もれ日、スピ カ から流れ出る哀愁を帯びた流行歌、テニスのパコ ン、パコ
ンという長閑な音・・・・。猛烈になつかしい。タシケントにはあの頃の安定した生活
が、まだ壊れていなかった頃のソ連の生活が残っている。ロシアもあんな無茶な改革をしなければ今でもこうだったのでは、とつい思う。
 ウズベキスタンは、ソ連時代にすっかり綿花栽培に特化させられてしまったこの国を、独立以来何とか自分で食べられるようにしてきた。綿花を減らして小麦を増やし、石油と
ガスを自分で掘って、食糧とエネルギ は自給できるようになったから偉いものだ。だが
、ソ連的な計画経済の体質は根強く残る。綿花や小麦は播く種も作付けの面積もお上から
指示が出るし、集団農場は自営農に分解されるとは言え、トラクタ やコンバインは高く
て買えずお上から借りるしかない。そしてこれだけ国家のグリップがきくのは、土地がすべて国有だからだ。農民は自営農ではなく公務員のようなものなのだ。
 経済の基本は市場経済であれ共産主義経済であれ、実はあまり変わらない。共産主義経
済でも、マ ケティング、簿記、そして利潤計算は必要だ。だが市場経済は私有、共産主
義経済は国有に基づくことが、両者の決定的な違いをもたらす。前者は生産手段を所有する人間達の欲望を満たすため、放っておいても大きくなっていく。ところが共産主義経済は、国全体が政府予算システムにどっぷり浸かってしまったようなもので、自分で新しい価値を作るより、上部の指令を遂行して自分の地位を守ることの方が大事になる。そして社会の富を少しでも、自分や自分の企業のために「分捕って」こようとするのだ。
 あるウズベク人の政治家がこぼしていた。「集団農場を分解して自営農を作りたいと思っても、なり手がない。めちゃくちゃに働いてまで生活を良くしたいという意欲がないんだ」と。要するに共産主義社会では、国全体が一つの会社になったみたいなもので、驚く程多くの権限と決定がトップに集中する。このような社会では、いくら民主主義を導入したいと思っても難しい。全国民が生きるすべをトップに握られていれば、思ったことも言えなくなるからだ。
 で、共産主義社会は刑事罰への恐怖で社会の秩序が維持される。それがなければ、社会には盗みがはびこる。何しろ僅かの私有財産を除いては、そこらにあるものは無主物のようなもので、目はしのきく者はこれを盗み売り飛ばしていい目を見る。資本主義社会にも刑事罰はあるけれど、それよりも人々は社会的制裁を怖がっているから、不正に手を染めない。信義を破ればもう商売してもらえなくなり、雇ってももらえなくなるからだ。資本
主義社会はクレジット・カ ドの番号のやり取りに見られるように、信用によって成り立
っているけれど、共産主義社会から出てきたばかりの人間にはこれがナイ ブそのものに
見え、つい不正に手を出す。
 特権や不正はあるにしても安楽な共産主義社会を一度味わった人間は、市場経済の厳しい競争には中々なじめない。指導者が改革を叫んでも国民は、それは他人のことで自分のことじゃない、改革が実現されれば自分の生活は良くなるのだと思い込む。だが国民が期待する改革とは大抵、「自分達の暮らしを悪くした張本人」を見つけて処罰し、今までの体制の中で甘い汁を吸ってきた悪者達の財産を没収して皆で分けることなのだ。改革のために苦しむのは自分達だと気がついた時、国民は指導者に牙をむきかねない。だからどこの国にとっても、民主主義の中で経済改革を遂行するのは至難の業だ。
 普通の人間には、国家がアパ トの配分から年金まで何でも面倒を見てくれる共産主義
社会の方がよほどいい。ウズベキスタンの農村で経済援助の案件に署名したりする時、周りの農民が僕に向ける真摯で素直な期待の眼差し、これはロシアの地方都市で講演する時、聴衆が向けてくる眼差しと似通っている。つまり豊かな外国の政府は、彼ら自身の政府に代わって「自分達の面倒を見てくれるお上」に見えるらしい。
 この安穏から国民を引き剥がし、新たな経済成長に向けて駆り立てるには、どうしたらいいのだろう? さもなくば、共産圏に住んでいた者達は一向に良くならない生活に業を煮やし、ある日一斉に立ち上がって国全体を保守化させ、先進国に支援を強要するようになるかもしれない。そして、旧共産圏だけではない。この世界では、富の分捕り合戦と妬み、嫉みに終始して、経済はいっこうに良くならない国の数は先進国よりはるかに多い。 ウズベキスタンはこれから五十年の間に人口が倍増して五千万人になる。今の平均収入は国民一人で月四十ドルくらいだろうが、二〇五〇年にはこれをせめて五百ドルにはして
おかねば国民はおさまるまい。ということは五十年間でGDPを実質ベ スで二十五倍に
するということで、それは戦後日本の半分のペ スで伸びるということだ。
ある日僕は、タシケントの空港に着いて荷物が出てくるのを待っていた。向こうのソファにはマフィア風のまだ若い一団がたばこの煙をもうもうとくゆらせて、のべつまくなししゃべっている。二言目には四文字言葉、馬鹿野郎、そして次には乾杯の繰り返し。酔いのまわった男が目をすえて何度も同じ言葉に戻りながら、乾杯をしたいと言う。「この難しい改革の時代に、俺達の子供がしっかりした基盤に立てるように。俺達が自分の両親を好きなように、俺達の子供も俺達を好きでいてくれるように、乾杯しよう。この時代を子供達に説明してもわからねえだろう。そして、俺達が何をしていたかが子供達にわかれば、親と子の間は切れちゃうかもしれねえんだ」 いや、この男が真剣にそう考えているんなら、子供達も父親をわかってくれることだろう。

 アフロシアブの丘の上で

 サマルカンドの漆黒の闇。チム ル大帝のモスクが聳えるレギスタン広場がイリュミネ
ションに照らしだされると、古代の夢が繰り広げられる。モスクのタイルのブル 、金
の飾り、そして衣装の黒や黄色が色彩の交響楽を織りなす中で、ペルシア風の舞姫は古の胡弓と鼓のささやきを背に、裾を翻し頭飾りを振り立てて静かに舞う。二年に一度の、サ
マルカンド国際音楽サマ ・フェスティヴァル。これは豪華で、歴史そのものを感じさせ
る・・・

 アフロシアブの丘の遺跡の博物館には、発掘された大きな壁画が飾ってある。ラクダに乗ったキャラバンが砂漠を行く図柄で、その中には黒人が一人まざっている。赤はどこか柔らかく、青は涼しげに澄み、その色合いはクレタ島やポンペイで見た壁画を思い出させる。どちらが先なのか。文明の発祥地がエジプト、メソポタミアなら、この色彩はそこから来たのか? どうであれ、北インドから中央アジア、イラン、イラク、シリアまでは単一の文明圏で、中近東とか中央アジアとか南西アジアとかに分けて考えるのは、ものごとの理解を妨げる。
 だが近世になってこの地方はイランやトルコからは切り離され、「ロシア文明」、「ソ連文明」に組み込まれてしまった。ロシア文明・・・、これは中央集権、専制のビザンチン帝国を模倣することから出発し、モンゴルの軛を振り払うため、自らモンゴル並の専制主義を取り入れて成立したものだ。ロシア民謡にはアジア遊牧民族の音階がそこはかとなく入り込み、女声が時々裏声に引っ繰り返るところもそっくりだ。だが十九世紀のロシア帝国は、ペルシア湾に南下するための橋頭堡として中央アジアに攻め込んだ。
 ウズベク人が今言うように、中央アジアはロシアの植民地以外の何物でもなかった。経済のインフラは作ってくれたし、女性の社会進出を実現してくれたにしても。中央アジア
の人達はモスクワに出ていくと、「サヴェ ツキ 」つまり「ソ連人」と呼ばれて蔑視さ
れていたのだ。でも長い間超大国ソ連の中で暮らしたことは、ウズベキスタンの人の心を変え、彼らは今でも「ロシア文明」の中に生きている。ロシアのテレビは地元のテレビよりはるかにナウだし、モスクワは今でも世界の学術と文化の中心地なのだ。それにモスクワに行ってウズベキスタンと言えば皆知っているが、西側に行くと自分達の居場所はないのだ。
 だから、ウズベキスタンはまだ戸惑っている。今の国境で独立国となったのは史上初め
てのことだから、無理もない。統一のシンボルとしてチム ル大帝やその孫で学者のウル
グベクを掲げてみせても、ウズベク民族がこの地にやってきたのは彼らの後だし、チム
ルの帝国は今のウズベキスタンよりはるかに大きな国だったので、どうもぴんと来ないのだ。
 ウズベキスタンのある友人がいい加減酒に酔った時、僕にぽつんと言った。「君、この国にいて退屈じゃないかね?」 で、僕がそんなことはないと言うと、彼は頷き自分で自分を納得させるように力強く言った。「カリモフ大統領はもぐりじゃない。この国は二流の国なんかじゃない」
 この国では多くの学生の目は燃えている。でも戦後独立したアジアの国に比べるとどこか後ろめたいというのか、自分の国に自信を持ちきれていない様子が見える時がある。それはウズベキスタンの独立は戦って得たものではなく、エリツィンのロシアにむしろ捨てられて得たものであるからかもしれない。
  ウズベキスタンでは九十年代初期のロシアで起きたような、エリ トの急激な若返り
は起きていない。ソ連時代の古いエリ トが今でもエリ トのままでいる。だから考え方
も古く、法律と規格を変えれば経済は変わるものだと思い込んでいたり、日本製品の品質が高いのは軍需生産に傾斜していたためだなどと、したり顔で言ってみせたりする。
 でも学生達は現代的で、その考えは宗教的戒律に縛られているわけでもない。日本から生け花の師匠が来て花を生けたりすると、手伝いのウズベク女性はいつも何かやることはないかと見ていて自分で動きまわるのだ。旧社会主義圏の若者は指示がなければ動かなか
ったり、尊大に構えて動こうとしない者がいるかと思えば、スタンドプレ で取り入ろう
とする者がいたりするが、ウズベクの若者にはこれが少ない。チ ムワ クと個性がうま
くバランスしているのかもしれない。ロシアで七年暮らした僕の娘は、ウズベキスタンを見て言った。「この国、もしかするとロシアより発展しやすいかもしれない」

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