Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2006年11月25日

「意味が解体する世界へ」(草思社)より ロシア

はじめ

 もうあれから三十年になる。初めてみるアメリカの西海岸がそのその白い波打ち際,そしてその奥に延々と続く赤茶けた大地とともに,なんとなくエンジンがぶらぶらと動くか
のボ イング七〇七の窓にぐいぐいと迫ってくる。
 七十年代のはじめ,僕が生まれてはじめてやってきた外国。外務省にはいり将来のキャリア外交官としてアメリカに二年,ソ連に一年の留学に送りだされるまで二十二年,終戦後の日本の空気をあたりまえのように吸い,その実はひどく変わった時期の文化と社会をこれしかない当然のものと受けとめて生きてきた僕。アメリカに降りたってみれば,街を歩くのはなんと「外人」ばかり。いや実はこんどは自分が「外人」になったのだと納得するまでには,アメリカの生活にまだおぼつかなかった英語をもってただ一人放りだされるまで少々時間がかかった。
 アメリカ留学と言えば当時はまだ華々しい響きをもっていたものの,一人々々の身にしてみればこんな大変なことはない。アメリカの大学はとにかくめちゃくちゃに本を読ませ
るところ,日本の大学で英語の論文二十ペ ジでも読めと言われれば二ヵ月もののプロジ
ェクトのように感じていた僕も,ここでは一日百五十ペ ジ,いや二百ペ ジもの「原書
」を読まなくてはならないと計算してみてわかった時には,もう遅かった。助けてくれるものもなく,大使館など遠い々々ワシントンだし,こちらもはなから頼りにしようとは思ってない。毎日々々,寮と教室と食堂と図書館を往復するだけで,ロシア語を基礎から勉強し,ソ連の政治,経済,歴史の何から何までを勉強する曲芸のような時代だった。
 三十年前のアメリカはまだ白人優位の社会で,今のように多民族社会になっていなかっ
た。アメリカ人イコ ル白人ということだったし,外国人などというものがいるとは全然
知らないかのようなアメリカ人は,英語がうまくない者に対して冷たいことこの上なかった。よく憤慨しては,日本に帰ったらやつらには絶対日本語でしかしゃべらないようにしようじゃないか,とか仲間うちで話しあっていたものだ。
 戦後の日本に育った僕にとってはアメリカはたしかに豊かだった。アイスクリ ム。そ
れに,日本との質的な差は感じなかったものの,そのうちにどうも自分が奇妙に思えてく
る。というのは,クラシック音楽好きでコンサ トに通い,ジャズ好きでニュ ヨ クま
で行ったりするのが本当に「日本的」なことなのか,俺はいったい何者なのか,自分が「これしかない」と思ってごく当たり前に吸ってきた戦後日本の文化は,実はアメリカやヨ
ロッパから最近もちこまれたばかりの舶来品で,「アジア」であり「東方」にある日本
人には帰属しない,こういう思いが募ってきたのだ。
 である日,チャ ルズ・リバ の川原の芝に仰向けに寝ころんで,青い々々六月の空を
見ながら考えた。「日本はアジアなのか,それとも西側なのか」と。半日もそうやってご
ろごろとしていたが,面倒になってきたこともあるだろう。「え い,日本は東でも西で
もない。日本は日本なのだ。今あるがままの姿の日本なのだ」と悟ったような,やけになったような,半分わけのわからない結論で,これは今もそう思っている。
 日本は民族・文化的にはアジアの国にほかならないが,三十年前のアジアはまだマルクスの言う宿命論的な「アジア的停滞」のなかにあった。それに僕は子供のころから集団行動がきらいだったし,おとなの儀式や挨拶にいつも偽善と強制のにおいを感じとっては反発していた。だから,日本をすんなりアジアの中に位置づけてしまうのは嫌だった。日本は桂離宮や能などの美意識と,禅などの深い精神性,つまりいわゆる日本的なものに加え
て,サイモンとガ ファンクルやビル・エヴァンスなどの現代性,そしてなにより自由が
同時にあってもらわねばならなかった。それから三年,ロシア人女性と結婚していたある
老ビジネスマンがこう言った。「河東さん,日本はヨ ロッパに学ぶべきものがまだまだ
あります。なんと言っても,その個人主義,合理主義,そして人道性です」
 アメリカの大学には留学生のために「ホスト・ファミリ 」という制度があった。僕に
は,ある教授夫妻がそれになってくれた。「ファミリ 」というからにはアメリカでの僕
の家族のようなものかと思って,夫人にマザ と呼びかけると,彼女は怪訝な顔をして言
う。「私は,あなたの母親じゃありません。メリ でいいのよ」
 ここには,日本と欧米の人間関係の違いが典型的に表れた。日本にはどこか不自然なと
ころがあり,しかもそれが依存の関係だ。アメリカそしてヨ ロッパでの人間関係は,自
立した個人のあいだの平等な関係を基礎としている。で,僕がその六月川原で何を考えた
かというと,日本人の日本人としての特性はその独特の美意識 とは言え,その多く
が中国などからやってきたものであることは,その後いやというほど思い知らされる
に保存して,社会自体は経済が発展するのにあわせて,もっと個人主義的,リベラル,そして合理的なものに変えていくべきだ,東と西のあいだに日本という独自の確固とした存在を築くべきだ,ということだったと思う。
 その後帰国するたびに,日本は良くなっていくように見えた。いつのころからか,通勤電車のドアの前には整然と行列ができ,それまでの弱肉強食の情景は見られない。エスカ
レ タ ではなぜか突然(と僕には見えた),たとえばロンドンの地下鉄のマナ でもま
ねたのか,急ぐ人の追い越し用のスペ スをあけておくのが普通になった。そして市民の
政治参加も強まり,マスコミのニュ スも感情的判断を避けて微にいり細にいり,事件の
背景を詳しく解説する。それまでは街にでれば子供たちにハロ ,ハロ と囃したてられ
腐っていた外人たちも,今では当たり前の住人になったかのように,そこらのス パ で
乳母車をおしながら買い物をしている。まるで日本にあのいわゆる「市民社会」がやっとできてきたかのように見えたものだ。日本が北欧の社会にでもなったかのような。
 ところが九十年代,未曾有の不景気におそわれて生活が脅かされるや,社会はまた二,三十年あともどりしたかに見える。個人主義を確立する必要が叫ばれる一方で,集団主義的,感情的な糾弾がはばをきかし,マスコミは物事の幅広い背景を伝えるよりは,視聴率,販売部数の競争のため,大衆の感情を煽りたてる。価値観や行動様式は経済発展に応じて変わり得る,だがそれが皆に伝統として思想として意識的,無意識的に意識され,めっ
たなことでは変わらないようになるまでには時間がかかる。あのヨ ロッパでも,今日の
社会を築きあげるのに三百年以上をかけているのだ。
 と,こんな考えと,そこそこになった英語とロシア語の能力をもって,僕は留学の三年目,モスクワへと飛びたった。もとはと言えば,僕にとってすべては「比較体制」から始まったのだ。六十年代後半の日本はかの大学紛争の時代,大学構内には革マルとかブントとかよくわからない団体の立て看板が所せましとたちならび,そこらではなんとなくデカダンチックな自由と反抗の臭いをふりまく,ひどく大人びた学生たちが,「われわれはあ
,断固お ,糾弾するう 」と何時間でもハンドマイクでがなりたてていた。団塊の世
代には,今でも当時の語彙やら語尾を伸ばす癖がぬけていない者がいる。
 僕の家は資本家でも労働者でもなく,当然僕も根無し草でこうでなければ自分が困ると
いう政治的立場もなかったので,こういう議論を聞いていると当然ナイ ブにも「誰が『
正しい』ことを言っているのだろう。あれだけ言っているのを聞くと,資本主義が悪いのは常識だとしても,共産主義ははたしてそんなにいいものなのか」と考えはじめる。そこでソ連の経済体制の勉強を始めたのが,僕のロシアとのなれそめなのだ。もちろんトルス
トイやドストエフスキ やらは読んでいたが,彼らよりロシア文学にとり重要だったプ
シキンなどろくに知らず,別にロシア文化や文学にいれあげていたわけじゃない。その魅力がわかったのは,ロシア語を十分勉強したあとのことだ。
 比較体制論・・・もうこんな学問はなくなった。ソ連もなくなり,それまでは米ソ関係
などグロ バルな問題をあたかも自分の問題であるかのように語れた「ソ連専門家」たち
は,僕も含めてなれないリ ジョナルな立場からしか発言ができなくなっている。でも,
そのソ連専門家たちがまだ終えてない仕事があるだろう。それは,ソ連崩壊があれほど赤裸々に示した「大国の崩壊」という力学,そしてその改革,いやある意味では革命の過程の総括と,他の国での革命との比較なのだ。
 自分の住んでいる国がほろびる,政府がなくなる・・・これは誰でもができる経験では
ない。でも本当にどこでも起こって不思議でない話で,どの国のエリ トも俺の国は絶対
大丈夫と奢る心を抑え正しい危機意識を持っているためには,大きな他山の石だ。
 アメリカとロシア・・・。昔,ドイツのマルクスなるユダヤ人の学者は言った。「二十世紀はアメリカとロシアのものになる」と。その予言を真に受けすぎたか,ロシアはそのマルクスさえ考えつかなかった「計画経済」なるものを発明し,途中までひどく調子は良かったものの,それも十九世紀の帝国主義の政治的・軍事的拡張主義の世界に伍するための話で,大衆消費社会に応じた経済には改革することができなかったがため,つぶれてしまった。等しく資源と土地に恵まれたアメリカとロシアが今日のようにその運命をわけたのは不思議としか言いようがなく,その原因を調べれば労働者の質に与えた農奴制の影響とか,ロシアには本当の自営農が少なかったこととか,万巻の書が書けるだろうが,ここでは第一次,第二次の両大戦でアメリカは本土を戦場とされず,経済を浮揚させた効果が大きかったことでもあげておこう。原因をいくらし調べてみても,学問的な興味の対象以外になり得ず,それよりも二十一世紀初頭の今の主要な関心は,アメリカと中国の力のバランスがこれからどう変わっていくか,だからだ。これこそが日本,西欧,そして世界を覆う,なんとなく不透明な将来への不安感のおおもとのひとつだろう。
 中国の台頭と言えば,すぐめくじらをたてる人がいるが,これは歴史ではじめてのことじゃない。むしろ中国が阿片戦争で無理無体に痛めつけられるまでは,アジアでは普通のことだった。中国の地位が次第に昔に戻ってきただけだ。阿片戦争までと違うのは,アメリカ,日本がアジアにおいて確固たる地位を築いてしまっていることであり,日本が中国を含めたアジアのGDPの五十五%を依然として占めており,しかも中国からの世界への輸出のかなりの部分が日本企業によるものであることだ。
 だが,人口の圧倒的な差はどうしようもない。これに加えて,最近のアメリカをめぐる世界世論の動向も,見通しを不確かなものにしている。あの圧倒的な軍事力と回復した経済力を背景に,アメリカはなんでも一国でできるのではないか,と人は言う。だが,そうしたアメリカの政策を国内で作っている連中はアメリカ全体,そして世界全体の利益をはたしてわかっているのでろうか。アメリカは一部の利益団体にその政府,そしてその世界一の軍事力を乗っ取られてしまったのではないか,そして回復したかに見えた経済も,やはり基幹産業を欠くがゆえに長期凋落に陥るのではないか。そして世界は歯止め役,目付
役のいないままにコントロ ルのきかない時代に入っていくのではないか,といった危惧
が人々の心にわだかまりだしている。
 僕はモスクワにまだ留学していた頃,ヨ ロッパをはじめて訪れた。教会の鐘の音,小
奇麗な公園,美しくしかし素朴で優しい人たち。ある国を理解するためにはその国の言葉を話し,その社会に少なくとも数ケ月は暮らしてみなければならない。さもなくば,得られるものは絵はがきの本物を見たという思い出と,グッチのハンドバッグだけになってし
まい,ヨ ロッパ,ロシア,そしてアメリカやらの社会を動かしている原則やら習わしや
ら,それらの日本に比べての優劣などはわかりはしない。
 クリスマスから新年にかけてのヨ ロッパは,とても寛ぎ,かつ華やいでいる。僕の家
内の実家はデンマ クで,父親は造船所の熟練労働者だったが,そのアパ トは百五十平
米はあろうかという広さ,居間には書棚がたちならび,娘たちのかいた絵がかかっている。家内の妹は学校の教師で,郊外の農家を改造した住宅に一家で住んでいた。ここにはアメリカとは違った本当の豊かさ,知的な伝統と静けさが感じられる。
 ヨ ロッパはアメリカ新大陸の金銀,アジアとの貿易の利益によって今の富の多くを築
き,そのあとは保護主義で社会を守っているようなものだが,ここには確かに花園のように個人主義とリベラリズムと合理主義と人道性が深く々々根づいている。イスラム教の者などに言わせると,欧米では年長者を尊敬せず,家族を大事にしないそうだが,それは大きな間違いだ。欧米の社会には不自然で半分強制された尊敬はないものの,自然な友情,愛情によって家族関係は維持されている。年金制度もなく,コネなしでは食っていけない途上国の社会では,尊敬とか何とかのメカニズムが必要なのかもしれないが,欧米ではそうした経済的打算よりは自然な愛情が人間関係を支えていることが多い。
 ところが,欧米の白人は固定観念にこり固まっている者も多い。彼らにとって,日本は遅れた集団主義的な社会で自由はなく市場も閉鎖的といった全否定から,最先端の科学技
術をマスタ しながらも伝統文化を捨てず,毎日生け花,茶道,禅にいそしむ素晴らしい
国といった全肯定が両極にあり,その中間はなかなかないのだ。だから,西側と接する政治家や役人は神経をすり減らす。外国で日本まるだしで行動すれば,白人たちから冷笑されて,日本で欧米の合理主義をふりかざせば「あいつはけしからん。外国かぶれだ」と切
り捨てられる。だから常にいくつもの価値観の体系を頭のなかにコンピュ タ ・ソフト
のようにセットして,時と所と会う人によって対応を変えないと相手を怒らせてしまうのだ。
 外交官も,日本は欧米の白人の固定観念とは違う国であることを,講演やらマスコミの
インタビュ やらで言ってまわるが,時にはたまに帰る日本が期待ほど変わっていなくて
がっかりしたり,アメリカ人相手に受けるものの言い方が日本人の神経を逆撫でしたり,疲れることこのうえない。考えてみれば,人間関係,そしてそれが集積したものである国
際関係などというものは,固定観念(パ セプション)によって動くこと大のものなのだ
。「あの人はああだから,あの国の国民は何を考えているのかわからないから,この国は
閉鎖的だから」というパ セプションが,人間関係や国際関係において人や政府を動かす
大きな要素になっている。そして今の世界は,われわれにとって悪いことに,こうしたパ
セプションが主に英米のメディアによって作り上げられてしまうのだ。彼らが「日本の
市場は閉鎖的だ」,「日本は湾岸戦争に貢献していない」と一言言っただけで,国際世論
はわっとそうなってしまい,日本もこのごろは英語で国際テレビ・ニュ スを流したりし
ているものの,多勢に無勢,一度作り上げられたパ セプションを変えるのは,ほとんど
不可能なことになる。
 だからわれわれがある国を知りたいと思ったら,そうしたパ セプションを点検し,誤
ったものは全部こそぎ落とさなければならない。でなければ,外交交渉でチャンスをつかみそこねたり,交渉を徒に難しいものにしてしまうだろう。と同時に,ある国についての
パ セプションをうまくあやつり,自分にとって有利な立場を作れることもあることを忘
れてはならない。つまり交渉の前の宣伝合戦で,自国を国際世論に良く印象づけ,相手国を悪く見せるということだ。
 これは,古来から外国に囲まれて海千山千の連中のやり口なのだが,日本は悲しいかな,この点純情で,宣伝戦のあとけろりとして握手することができない。では,日本国内での宣伝戦は控え,もっぱら外国でだけ,と思っても,情報の発達した現代のこと,外国で外国人向けに言ったことは日本でも報道されて「何を馬鹿なことを言ってるか」ということになる。
 とまあ,こんな思いを持ちながら方々で勤務してきた。この二十一世紀の初頭,なにか
行方がいっこう読めない,なにか巨大なパワ シフトが起こっているようで起こっていな
いようなこの時代。時代の方向と目標を見失わず,不毛な相対主義に陥らないためには,「リベラリズム」という礎石を心のなかにしっかりと据えつけておきたいものだ。いくら社会が豊かになっても皆がリベラリズムを享受できるわけではなかろうが,どれだけの数の人間が「個」をしっかり持ちながらも他を侵さず人生を楽しめるのかが,どの社会でも究極の目標だと思うからだ。
 こんなことを考えながら,この時代,僕の歩いた各国の諸相を書き留めたのが,この本だ。肩のこらない随筆のつもりで読んでいただきたい。


                 朝の詩

 都会の朝には詩(うた)がある。
といっても,あまり人影もない日曜日の朝の地下鉄。通路では前掛けをした職人風の男が売り物の花にバケツで水をかけていく。掃除もろくにしていない構内は,どことなく荒れた風情。地下鉄ならどこの国でも共通の,あのすえた埃と鉄の臭いがほのかにたちこめる
。モスクワの地下鉄は深いので,百メ トルはありそうな長い々々エスカレ タ がゴト
ゴトと音をたて猛烈なスピ ドで見えもしない地底から軍人,ジャンパ 姿の労働者,黒
か灰色の中年女性たちを,まるで十年前までのソ連時代のまぼろしのように次から次へと光の中に運び出す。
 昨晩遅くまで入り口にたむろして,ギタ をひき酒をあおり,キスをしあっていた若者
たちの姿はもうない。たまに青いスカ フ姿の金髪の若い女が,清涼剤のように地底から
上がってくる。あの二千一年,無理無体の「経済改革」からほぼ十年たったモスクワだ。この一世紀,革命だ,社会主義だ,ペレストロイカだ,資本主義化だと,ロシア人が自嘲して「最初に犬に実験したらよかったものを」と言う大変な改革・・・それもみな上からの改革だ・・・をモルモットのように実験されてきたロシア人たち。おもだった白人種のなかではただひとり,剥き出しの暴力と抑圧の恐怖を身に沁みて覚え込まされてしまったロシア人たち。
 こうした事実の前では,「アジア人は専制的,白人は民主的」などという似非遺伝学的宿命論を意味をなさない。でも歴史上は実際そうだぜ,と言う者がいるかもしれないが,専制かリベラルかは統治単位の大きさにも比例してくる。古代ギリシアの都市国家や中世
ヨ ロッパの商業都市はリベラルだったが,同じ例なら専制的とされているロシアや日本
にもある。ペルシアや中央アジアの帝国は専制主義的だったが,同じく力で異民族を統治
する必要のあったロ マ帝国の皇帝のあり方は,専制主義そのものだったではないか。
 一九九四年僕がモスクワを前回去った時,ロシアはまだ絶望の底にあった。新しい店は街のそこここにできていたが,まだ珍しく,売り場の女の子たちも慣れないスマイルを客に見せることにとまどっていた。ところが一九九八年,再びモスクワに着いた僕が目にしたものは様変わり,僕はあの「懐かしい」時代の面影を求め,すっかり変わってしまった
目抜きの商店を歩き回る。店はどれもヨ ロッパのよう。ということは,粗末なパッキン
グがあるかないかのやたら不細工なソ連製の商品を売り子に指さし,「チェック」なるものを書いてもらい,店の反対側にあるレジに行って金を払って「チェック」にチェックをしてもらって売り子に見せると,やっと目当ての商品をもらえる・・・というシステムはもうなくなっていたということ。こういうシステムは売り子不信からできたものだろうけど,以前はパリの本屋などでもこうだったので,ソ連で発明されたものでもないかもしれない。
 薬局でビタミンCを求めると,白衣の優美な薬剤師がにっこり笑ってビタミンCの効能,飲み方をすかさず涼しい声で説明してくれる。引っ越し会社の作業員も,アメリカのようにがさつで荒々しいこともなく,丁寧でしかも能率がいい。夏の暑さにたまらず・・・
その年は熱帯夜がまる一月も続いたのだから・・・ク ラ をつけようと,見積もりを頼
むと次の日にはファックスで送りつけてくる。金を払い込めば,その次の日にはもうク
ラ が自宅に据えつけられているという寸法。このごろやたらと「納期」とやらで待たせ
る日本のサ ビスに比べても,いいのだ。このごろのロシアのサ ビスは。もっともク
ラ をつけてはみたものの,アンペアを電力会社が上げてくれない。ここは電気がいつも
足りないので,電力は「売られる」というよりはまだ「配給される」,昔の感覚が残っているのだ。
 でもロシア,特に大都市では大衆消費社会がやってきた。この十年,小型のス パ ,
ブティックを出しては様子をうかがってきたフィンランドの資本は,外務省の真ん前にデ
パ ト,オフィス,アパ トの複合大ビルをオ プンしたし,トルコの財閥も時こそいた
れりとばかり,アメリカ式の大ショッピング・センタ を次々に開店し,スウェ デンの
組み立て式家具「イケア」は郊外に歩いて回るだけで三十分はかかろうという家具ショップを開いて空港行きの道路は渋滞。
 平均賃金が■ドルでしかない今のロシアで,こんな店を開いてどうするのかと思ったものだが,実はモスクワの中流家庭の収入は月に800ドルはあるだろう。その数字を見るならば,時代は七十年代初めの日本にけっこう近いかもしれないのだ。一九七一年にアメ
リカに発った僕は「ス パ マ ケット」なるものをそこで初めて見たものだったが,七
四年に日本に帰ってみると昔はなかったそうした店がそこら中にできていた。そして僕の
給料は,そのころ丁度十万円くらいだったろう。だから今のロシアでス パ が次々に増
えていくのも不思議じゃない。どこも駐車場は満杯だし,近くの団地からは人々がぞろぞろ歩いて買い物にやってくるのだから。
 九十二年,九十三年の頃も,あちこちに「ス パ 」ができたが,その客は毛皮で着飾
る成り金,特権階級だけで,その殆どは徒花のようにもう存在していない。今やモスクワ
には「ヨ ロッパ一」の大きなショッピング・センタ があるそうで,そうとわかるとま
たあのロシア人のつまらない虚栄心が頭をもたげる。「俺たちはやっと昔に戻った。ヨ
ロッパをまた追い越したんだ」と。ちょっと待ってもらいたい。石油やガスを輸出して,
その金でス パ を建てるだけなら,どこの誰でもできるだろう。ス パ で売るのが外
国製品ばかりでは,中近東の消費経済と変わるところはないだろう。
 それに中流の家庭でも,まとめた買い物は西側の店ではしやしない。市のはずれ,そして郊外には「ルイノック」と称する露店市場があまたとあって,コンテナやバラック,テント作りの露店が迷路の両側に延々とならぶ中,市民は電化器具でも洋服でも靴でも肉でもなんでも安く買えるのだ。だから外国からの留学生でも,一月百ドルでなんとか生活できてしまう。ルイノックはベトナム人,中国人,アルメニア人と縄張りがちゃんと決まっ
て,そこを少しでも越えるなら,血の雨が降りかねない。モスクワの西郊にはガルブ シ
カというルイノックがあり,昔の工場の大きな建物が一面,これは秋葉原もまっさおの電気製品,海賊版CDなどの売り場になっている。ヒムキにあった電気製品市場では,携帯電話の電波をキャッチ,その番号でいくらでも電話のできる魔法の機械も売っていたそうだ。
 九十年代はじめのモスクワでは,「キオスク」と称する金属製スタンドの露店が市内の目抜きの歩道にずらりとならび,酒,煙草,CD,靴から時計,はては麻薬まで何でも商っていたもの。だが改革の当初から街じゅうの建物の一階が商店になったベトナムのハノイとは違って,その頃のモスクワの建物の一階はソ連時代からのいろいろな研究所,事務所,団体が占拠して,商店はまばらにしかなかったものだが,民営化の波を経て,モスクワでも通りに面する建物の一階はほぼ商店,レストラン,カフェになってきた。
 ソ連時代の本と言えば,二十万部,三十万部といった部数はざらで,指導者の演説集な
ら労組がまとめて購入したし,プ シキン,トルストイといった文学作品ならば,文化に
飢える市民が発売前から予約して,あっという間に売り切れてしまったものだ。それもざら紙のような安手の紙に,ろくになめしもせず夏になればべとべとと悪臭を発する革でそ
っけなく装丁されたようなものばかりだった。それが今では出版社にはデザイナ が雇わ
れて,表紙には抽象画,シックな布での装丁,なんでもござれ,紙も値段に合わせてザラ
紙から上質紙までよりどりみどり。優しい線と自由奔放なイマジネ ションで際立っては
いたもののザラ紙に印刷されていた絵本は,今では艶やかに輝く滑らかな紙に印刷されて,ソ連時代はぺらぺらの「共産主義の諸問題」とか「新しい世界」とか文字だけがびっし
り並んだ無数の雑誌は,今ではプレイボ イ,エスクワイヤ,ペントハウスから始まって
,広告収入目当ての「ピカピカ雑誌」に淘汰される。基本給二百ドルの駆け出し記者も,仕事をなくした老記者も,こうした雑誌に雑文を書き,一本二百,三百ドルで糊口をしのぐ。そして駅のキオスクなどには恥ずかしげもなく,性交体位の解説が写真つきの表紙でずらりとならんでいたりするのだ。
 以前なら,この広いモスクワにガソリン・スタンドは数えるほどしかなかったもので,
九十一年のク デタ の失敗直後なぜかにわかに増えた自動車はスタンドの前に列をなし
,たびたびの値上げの前には大混雑。割り込み,怒鳴り合いの修羅場だった。子供らは道端で罐をならべてガソリン売り。気の弱い外国人を捨ててはおけぬと,外務省の外郭団体
ウポデカは駅のはずれでタンクロ リ からじかにガソリン販売。
 でも以前はブリキ細工のような給油塔,中の見えないガラス戸の中の怒れるおばさんに料金を払ってから自分で給油したガソリン・スタンドも,今では赤,青,黄,白のペンキで塗り立てられたモダンな場所に様変わり。ガラス張りの事務所のレジでは,金髪の若い
店員がにっこりスマイル。だがモスクワを東に行くヴラジ ミル街道がモスクワ大環状線
と交わるあたり,「アパゲ イ」という看板かけたうらぶれた給油所があるのを知ってい
る人は少なかろう。アパゲ イ・・・頂点,エクスタシ のこと。なにか物語の始めを告
げるような,いわくありげなガソリン・スタンド。
 つい数年前までのロシア人の外国旅行フィ バ といったら,ソ連時代のうっぷんの堰
が切れたかのようだった。スイスでスキ ,ドイツで買い物,アフリカでサファリ,ロン
ドンで商売,フランスでグルメ,イタリア,スペインで海水浴というように,まさにロシ
アはヨ ロッパの一部であることが実感できた。安いトルコの避暑地には,ロシア製ジャ
ンボのチャ タ 便が次から次と飛び立っていく。この頃ではヨ ロッパ,アメリカは見
飽きたとばかり,日本,中国旅行が人気で,札幌の大倉山でスキ をしたあと,銀座の寿
司屋にとびこんで,憧れの「本場の寿司」を十万円ほど食べつくした実業家もいたものだった。だから暗い,汚い,のろいで有名だったロシアの空港も,変わってきた。モスクワ
東部,国内線向けのドモジェ ドヴォ空港ビルは西側なみに改装されて,ここに来ただけ
で「ああ,これからドサ回り」と思った雰囲気はもうない。北欧を思わせる洗練されたロ
ビ をしゃれた身なりのカップル,そして幸せそうな家族連れが次々とゲ トに急ぐ。八
歳くらいの女の子の手をひく親は,あの一番難しい時代に子育てできた恵まれた仕事のものか? 以前ならダブルブッキングも珍しくなかった国内便に,一刻も早く乗り込もうとあせってみても,今は乗客も列を作り,順番を守る。と思って飛行機に乗れば,僕の席には上品な中年婦人。席を移るよう丁重に頼めば,「席なんか,どこでもいいじゃないさ。あんた本当ににぶいんだね!」だと。
 というわけで,ここロシアでは大衆消費の時代が到来したのだ。あの工業生産の六十パ
セント以上が何らかの形で軍需に関連していたロシア,それゆえに軍需工場を民需に転
換しようにも資金も技術もなく,一気に縮小してしまったロシア経済。それが,軍需から大衆消費に経済の根幹が切り替わったのだ。食品や家具には国産品も多いものの,耐久消費財の多くはまだ外国からの輸入品だ。つまり,以前は軍需に回っていた資金が耐久消費財の輸入にまわっていることになる。だから,まだまだ脆弱な経済で,石油や天然ガスの値段が下がればまた問題続出の経済なのだが,それでもみんなが消費の味をおぼえたということは,大変な意味を持っている。これはロシアを再び帝国主義化の方向に突っ走らせない最も有効なつっかえ棒になるだろう。
 九十八年夏までのモスクワは華やかだった。これを見てきたハ ヴァ ドの教授たちは
,まだボストンにいた頃の僕に向かって,「もうロシアは大丈夫だ。成長の軌道に乗った」と言ったものだ。確かにその後来てみれば,街を行き交う女性たちはみなエレガントで
シックなモ ドで身を装い,新しいビジネスマンとおぼしきダンディと連れ立ってさんざ
めき歩いていく。こんな豊かなで幸せな連中に島を返してくれと言っても,聞く耳を持たないんじゃないか彼らは,と僕は途方にくれたものだ。九十二年頃,困っている頃のロシアは,「ちょっと待ってくれ。日本の言うことはよくわかるけど,領土を渡すような恥の上塗りをすることには国民が耐えられない。ロシアが少し強くなるまで待ってくれ」と言ったものだ。ところが少し回復してきただけでこの有り様だから,人の心は難しい。
 でも,九十八年のロシアの繁栄はバブルだった。今の日本が聞けばひやっとするかもしれないが,国債バブルだ。ロシア政府はIMFに勧められて国債を出したら売れるのに味をしめ,国債を内外の銀行に売りつける一方で,国債を担保に西側からの借り入れを増やすという(■),国債のネズミ講のようなことを始めたわけで,当時のロシアは一大借金マシンと化した。このバブルは九十八年八月に破裂して,僕はすわとばかりに九十二年当時の大混乱が来ることを想定し,ロングライフの牛乳を外国から大量に注文までした。
 でも失業者が増えはしたものの,高級レストランが一斉にからになりはしたものの,ロ
シアは崩壊しなかった。国民と外国への借金を踏み倒したあとは,ル ブルが三分の一に
切り下がったのを利用して,軽工業の生産を大きく伸ばし,そしてまた石油価格が高くなったことにも助けられて,九十八年当時より少し質素に,少し地に足がついた形だが,とにかく表面的には繁栄を取り戻す。
 もちろんこれは,石油の高価格に咲く徒花のような,もろい繁栄だ。石油,天然ガスの
生産はGDPの■パ セント,輸出額の■パ セント,そして国庫歳入の■パ セントを
占めていて,この富が社会のすだれを雫のように伝わって,流通,サ ビス部門に金を落
とし,なんとか中流階級の一部にまで届くのだ。ロシア経済の本当の成長をになうべき重化学工業は,軍備偏重を脱却できず,そしてまたこれら大企業の企業城下町である多くの地方都市の景気もまだ停滞している。とにかく,今の世界では耐久消費財の生産は西側の大企業の間でもう縄張りが決まっていて,輸出はおろか国内の市場でさえロシアの企業が取り返すのが難しいのだから。
 そしてモスクワの地表に石油の徒花経済が咲き誇っているなら,地下鉄にはソ連時代そ
のままに地味なジャンパ の労働者風の者ばかり,ソ連の時よりもっと疲れた顔をして黙
って運ばれていく。酔いつぶれて床に伸びている者さえいて,その近くにたまたま座った人の良さそうな中年の軍人はいたたまれないように席を立つと,別の車両に移っていった
。だが,不良のような青年がたむろする駅の出口からほんの百メ トルほどの道路脇には
,昔の薬局を十九世紀風に改造した・・・ひびの入った漆喰壁などをプラスチックで再現
したのだ・・・カフェ 「プ シキン」が店開き。昼休みともなれば付近のエリ ト,オ
フィス・レディがビジネス・ランチを囲んで華やぎ,夜ともなればカルテットがヨハン・
シュトラウスのワルツをなぜかハイテンポで奏でる中を,そこここで開かれるパ ティ
やディナ を終えたカップルや恋人同士が二次会で入ってきては,夜おそくまでワイン・
グラスを傾ける。ここはパリかウィ ンかベルリンかと見紛う夜は果てしなく,カフェ
「プ シキン」は二十四時間営業なのだ。所得の差がどうであれ,工場の操業度がどうで
あれ,今のままでいったらば,モスクワは遅かれ早かれヨ ロッパでも最も華やかな都に
なることだろう。「共産主義万歳」の寒々とした黄色いネオンに代わって,赤,青,白,
黄のイリュミネ ションとネオンを背景に氷砂糖のように妖しく輝く幻想と悪徳の都とし
て。

幻想の都,モスクワ

 夏のモスクワ。夜十時ともなれば,さすが北国の白夜も暮れて,クレムリンは足元から
のイリュミネ ションに中世からの力の幻想のように闇の中に浮かびでる。モスクワがロ
シアの歴史ではない。ロシアはもともとビザンチン帝国と,いやシルクロ ドと北ヨ ロ
ッパを結ぶ通商河川の上に栄えた都市国家群で,そこでは後の専制主義より共和主義の方
が勝っていた。モンゴルに対抗するため,そしてその後出てきたドイツ,スウェ デンに
対抗するため,そしてそうこうするうちに征服した異民族を統治するため,イワン雷帝,
ピョ トル大帝,そして近きはスタ リンの手法はますます専制的になっていったのだ。
そしてモスクワは,ヨ ロッパへの窓として運命づけられ,ソ連崩壊から十年たった今と
なってはもうごく自然にヨ ロッパを呼吸している風情のサンクト・ペテルブクとは異な
り,ロシアの中にあるいわゆる「東方の」「アジア的な」・・・いやな言い方だ。日本も入るかのような言い方をしないでほしい・・・顔を象徴するものなのだ。
 その力の象徴クレムリンの脇を通り抜け,モスクワ川の■橋を渡るともう一つ■運河に
橋がかかって,水の中には噴水が三つ四つ,これもイリュミネ ションに照らされ夜気に
まぶしくしぶきを上げる。イリュミネ ションは,ある照明会社がモスクワ市長に売り込
み,現在のモスクワの夜をすっかり幻想的なものとした。クリスマスともなれば,モスク
ワ川の橋には豆電球が幾重にもかかり三色電球をきらめかせ,ノ ヴィ・アルバ トに立
ち並ぶ高層ビルには雪の結晶を象った黄色いネオンがかかって,この世のものとも思えない美しさとなる。
 さて噴水のたもとには,ソ連時代何があったかもう覚えていないが,いつの頃かエル・ドラドというレストランができた。エル・ドラド・・・青と黄色のネオンに輝くこの世の楽園,いや高級レストラン。だがこの建物の上の方には,伝説がある。ここは例のあの,泣く子も黙るKGBの後身FSBの「接待所」があるというのだ。一九九九年(■)の冬
,モスクワはスクラ トフ検事総長のスキャンダルで持ちきりになる。いやなに,多分お
偉方たちの「間違い」の処理を誤ったのだろうが,当局の逆鱗にふれたスクラ トフ検事
総長が,こともあろうに売春婦とおぼしき女性数人と裸でじゃれ合っている姿がなんと夜
のゴ ルデンアワ のテレビ・ニュ スで流されたのだ。
 この種の陰謀やスキャンダルやマスコミの悪用には驚かないロシア人でも,これは少し度が過ぎた。やれあの歳で二人の女を相手にするのはすごいとか,口さがない噂の対象に
一しきりなったあと,このスクラ トフに「とてつもなく似た」人物 というのは,
最後までスクラ トフ自身はこれが自分の姿だとは認めなかったから がビデオに撮
られたところはこのFSBの接待所だったんだ,というのが噂の落ちで,なぜかレストラン「エル・ドラド」までがすっかり有名になった次第。
 いや,レストランはものすごく増えた。日本料理はハイソサエティの定食として今のモ
スクワではすっかりえたぶってしまったが 座敷で和服姿のロシア人女性がお酌して
くれるのから,居酒屋風の手軽なものまでピンからキリまで ,グルジア,中央アジ
ア,イタリア,フランス,中華料理の店までが,よくもまあと思うほど,それぞれの趣向
を凝らして妍を競う。床がガラス張りになっていて,その下の深い水槽には一メ トルほ
どの大きさの蝶鮫が悠然と泳いでいるレストラン「シレ ナ」。扉をあけて足を踏み入れ
るや水に踏み入れる錯覚に,女性は思わずきゃっと叫ぶ者もいて,そこがまた面白い。
 一九八〇年モスクワ・オリンピック とは言ってもソ連がアフガニスタンに侵攻し
たため西側にボイコットされたいわくつきのものだった めがけて,レ ニンの時代
からソ連の要人に取り入って財を築いたアメリカの資本家ア マンド・ハンマ が,ソ連
のために建ててやった「国際貿易センタ 」。ソ連時代には売春婦の集まるバ で名高く
,ペレストロイカになってからはすぐ横のモスクワ川の岸辺に横付けされた客船のカジノ
がにぎわい,その高い吹き抜けをガラスばりのエレベ タ が何台も上がり下りするロビ
では大晦日のソ連版紅白歌合戦も収録されたことのある,その大コンプレックス。そう
因みに九十三年十月,近くの議会に保守派がたてこもった時には,そこからこの貿易セン
タ が狙撃され,外国人たちは床に伏せていたものだ。
 その大コンプレックスから道路を隔てた向こうは,古い工場と倉庫のレンガ造りの建物が半分捨てられたようにたっていたが,ソ連崩壊から間もなくたって皿洗いから身をたてた(?)男が手を入れて,何軒ものしゃれたレストランに改造してしまった。そのうちの一つウクライナ料理の店「シノック」は,店の真ん中がガラス窓でしきられた中庭になっていて,そこはウクライナの農家の庭先のよう,山羊やロバや鶏がいて,農婦が編み物や乳しぼりまでしている凝りようなのだ。ここも二十四時間営業だから,動物たちは交代の
時間になると まだ見たことはないのだが レストランの中をどやどやと横切っ
て,近くの小屋で眠るそうだ。
 こうしたレストランは金持ち用だが,家族で行ける手軽なものも,最近では増えている
。イタリア料理のチェ ンに休日の夕方行くと,そこは家族連れやアベックでいっぱい。
コックが目の前でアラカルトのグリルを作ってくれる米国式のものからサラダ・バ まで
あり,ウェイタ やウェイトレスは西側のように文句一つ言わずにてきぱき働く。ここま
でメンタリティ が変わるまで,どんなに大変だったことか。このレストランも開店早々
は閑古鳥が鳴いていたのだから。

 花盛りのライブ・バ

 大通りサド ヴォエに面する入り口の厳重なセキュリティ を通り抜けると,四方を粗
削りの板で囲んだトンネルがくねくねと続き,突然ロックバンドの騒音が闇をつらぬく空
間に放り出されるライブ・バ 「B9」。文化大革命で■した中国人がなぜか「中国の操
縦士」と銘打ってなんとソ連共産党の昔の本部の真向かいに開店したライブ・バ 。若者
たちが小卓を囲みわいわいがやがや。小さな舞台ではバンドが演奏する。夜も遅くなって夜食でも思って少しばかり車を走らせれば,そこはオブラスツォフの人形劇場。人形遣いの天才オブラスツォフが情熱を傾け,たった一代でソ連当局に作らせたその人形劇場の裏
にまわれば,そこには夏の庭になにやら大きなヨットの帆のようなインストレ ションが
白くそびえ,建物の中は超モダンはイタリア・レストランになっている。白いキャンバス
に映し出されるヴィデオ・ア ト。宇宙をさまようかの照明。ここの極めつきはもちろん
アルデンテのスパゲティ だけれど,トイレも絶品。緑一色できめた個室に入れば浮遊感
がみなぎり,まるで夢の中で用を足しているかの錯覚におそわれる。たった十年前まではあの灰色の共産主義だったモスクワで,今では六本木や新宿に勝るとも劣らない夜が過ごせるようになったのだ。
 こうした夜の最新の世界をある日案内してくれたのは,高名な音楽評論家トロイツキ
。この人はソ連時代からロックやジャズにかぶれて,学生時代はディスク・ジョッキ も
やっていたけれど(?),卒業してからは定職がないとして当局ににらまれて,どういうツテがあったのかは知らないがロンドンに亡命するかのように転げ込み,■,。功なり名とげた後は,大劇場コンプレックスの差配を夢見るものの,こればかりは資本家の胸先三
寸でどうにもできず,半分趣味のようにして外国からポップやロックのミュ ジシャンを
よんでは,ハイ・ソサエティの客に聞かせている。彼は日本の音楽シ ンにも詳しくて,
当時モスクワにいた日本人もほとんど知らなかったピチカ ト・ファイブをFM放送です
っかり有名にした後,メンバ を招待もした自由人。まだダンディ で,パ ティ では
女性はみんな彼のまわりに群がってしまうので,男どもは鼻白む。
 で,このトロイツキ は面白半分,今モスクワに展開している「文学カフェ ・チェ
ン」O・Г・И・■のコンセプト作りを手伝った。プッチ ニのオペラ「ラ・ボエ ム」
さながら,今時の若者たち,文化人,マスコミ人種が思い思いに集まってはだべるボヘミアンな場O・Г・И・。
 モスクワの城壁をこわした後に作られた「浄ケ池」。ここでは昔,トルストイの「アン
ナ・カレ ニナ」の主人公レ ヴィンがフィアンセのキティを見初めてスケ トに興じた
(■)名所。などと言っても,フィクションを名所だなんだと言っても始まらず,それに今時の若者たちはフィクションだろうが史実だろうが,他人のことはとんとかまわない。で,この浄ケ池を横に見て大通りを右にまがると,そこはたちまち閑静な十九世紀風。しばらく行けば道は三つに分かれ,右に行けば音楽好きの精神科医ビリジョが地下に開いた
レストラン「ペトロ ヴィチ」,左に行けばOГИという寸法なのだ。だが,知らない人
はただ通りすぎるだけ。何の変哲もない,十九世紀のお屋敷風の門を入ると,そこはがらんとした中庭になっていて,カフェのカの字も見えはしない。だがそれとおぼしきボヘミアンのあとに続いて庭の隅の,まるで地下の物置への入り口とも見えるブリキの扉を開けてみれば,階段が下に通じ,狭い通路にわけのわからぬ若者たちがたむろしている。かまわず通路を進めば奥はタバコの煙が濛々とたちこめる中,ミシン机を改造したり,思い々
々の安手のテ ブルに客とも店の仲間ともつかぬ者たちが,ある者は一人で煙草をふかし
,ある者は連れの女性と顔を寄せてささやきあい,ある者は三,四人でワイン・グラス片手にさんざめく。音楽とタバコの煙をついて,ウェイトレスが忙しく立ち働き,その中にはおへそ丸出しルックの目のさめるような女学生がいたりする。世界一と言われるモスクワの物価の中で,ここは学生食堂とも思える値段でものが食えるのだ。
 帰ってきた自由の幻影! ヨ ロッパ以上にヨ ロッパ的な知的で自由でイマジネ シ
ョンに満ちた世界! この十年,こんな空間はモスクワに,いや全ロシアになかった。仕
事柄,僕は多くのジャ ナリストや評論家たちと付き合ってきたけれど,七十年代以降に
大学で勉強した世代のロシア人は最高の教養とリベラリズムを兼ね備え,こうした連中が
ゴルバチョフのペレストロイカのスピ チライタ ,推進者となったのだ。ゴルバチョフ
の下,リベラリズムと改革の夢を実現できるかに思った彼らは,その後の混乱にすっかり翻弄されて,人間のエゴイズムと業を他人にも,また自分の中にもかいま見て,すっかりシニカルになったものの,今でも自由への思いは心の中で熱くたぎっているだろう。で,彼らに続く世代はどうだったかと言うと,まるで失われてしまったかのよう。この十年の困窮と屈辱と,戻ってきた保守的な連中からの締めつけは,彼らの顔と心を歪ませて,ただ唯々諾々,のろのろと仕事をこなすだけの人間に変えてしまった。
 だからこそ,OГИのような店に出入りする若者たちを見ていると,ああ戻ってきたな
,ロシアの知的な伝統がいい形で戻ってきたな,と思うのだ。このカフェ から階段を上
がると,そこは狭い一室が書店になっていて,ハリ ・ホッタ や探偵ものやエロ本にあ
ふれる町の書店とがらりと変わって,純文学や映画や哲学や東洋の宗教の本が天井までぎっしりとつまっているのだ。日本の短歌や俳句の翻訳にまざって,今人気の村上春樹の本も何冊かならんでいる。
 村上春樹 今モスクワを風靡する「日本文化ブ ム」の最先端。なんでこんなに日
本がブ ムなのか,誰にもその理由はわからないが,とにかく「カッコいい」から流行し
ている。月並みに理由を探せば,それはある。たとえばソ連が崩壊したあと新しい価値観
を探していることの表れだとか,欧米でも今や日本文化が「ク ル」なことになっている
ので,最近では猫もしゃくしも外国旅行にでかけるロシア人がそれを見て,日本文化をス
テ タス・シンボルと考えたか。いや実は,優れた翻訳者やテレビマンのおかげで,ソ連
の時代から日本の文学と現代の技術はロシア人の間で大変な関心を呼んでいたのだ。七十年代に大学にいたインテリなら誰でも,芥川龍之介や阿部こうぼうや大江■を大まじめに論じだす。
 しかし理由はともかく,日本文化は実際にそうした関心に値するものなのだ。別にわれわれ一人々々にとぎすまされた美的感覚,精神性が備わっているわけではなく,大工が作ってくれた家,職人や企業がデザインしたものを使っているだけなのだろうし,味もそっ
けもない蛍光灯,ガ ドレ ルに歩道橋,リノリウム張りの床を見れば,われわれがヨ
ロッパ的な美的感覚はまだ身につけていないことがわかる。とは言え,漢字一つを取ってみても,略字化され過ぎた中国の漢字とは違って日本の漢字はまだ美術として鑑賞するに耐える深い精神性と言葉としての呪術性を失っていない。工芸品の出来ばえは,同じ伝統を持つ中国のものに比べても,簡素でありながら趣味は良く,仕上げも上等だ。江戸時代
の日本は経済的にはヨ ロッパの絶対主義の時代にあたり,農業をベ スに全国レベルで
栄えた商業で,都市文化は頂点に達した。産業革命なしの市民社会ができていたようなもので,瓦版というマスコミさえ発達していたのだ。今,外国で重宝されているのは,この頃の日本文化の産物だ。博物館を作る伝統のなかった日本人は,こうした工芸品を二束三
文で外国人に売るか,捨てるか,燃やしてしまい,今ではアメリカのピ ボディ 博物館
とかオランダのライデン博物館くらいにしかコレクションは残っていないが,こういうところに行ってみれば,美術館というものは当時なかったにしても,日本人の日常生活は美術品に囲まれていた,日本人の日用品は美術品だった,煙草盆,そして八百屋の看板にいたるまで,手のかかった工芸品,美術品だったことがわかるだろう。
 ということは,ロシア人,そして欧米の白人たちは,「日本文化」に現在の猛々しい資本主義的競争の時代にはない安らぎ,それでいて高度の文明を思わせる何かのにおいをかぎつけているのではないか? アメリカでは,それほどの精神性は感じられない。あの国はもともといろんな国の文化が集まっていて,そのどれも鉄板焼きやスキヤキのようなわかりやすいものに還元された「エスニック」なものにされてしまい,物珍しさをこえて精
神性を追求する者は少数だ。ところが今のロシアでは,日本文化を世界のメジャ 扱いし
てくれている。日本文化もどこまでが独自のもので,どこまでが中国,朝鮮などから入ってきたものなのか,元をただせば良心に忸怩たるものがないでもないが,雅楽にせよ水墨画にせよ,伝わってきたものを最良の形で保存しているのは日本なのだ。日本は論理の国
,哲学の国ではなく,世界を変える大原理を発明したメジャ な文化でもないが,その美
的感覚と感情のたゆたいの表現ぶりには秀でていて,それは短歌や俳句を見れば一目瞭然だ。ロシア人は理屈好きだ。ただ彼らは感情が横溢し,直感を重んずる。十九世紀末から二十世紀初めには,■,■,■といった思想家たちが輩出したが,「ロシアの本質」を探った彼らは大理論体系を打ち立てるよりは,宗教的・神秘的な思考に傾きがちだった。だからこそロシア人は,ことによると日本文化になにか自分たちに共通するものを本能的にかぎつけているのかもしれない。
 思えば日本とロシアは,産業革命が始まるのが欧米に遅れ,それゆえに感情を豊かに残しているのかもしれない。最近まで民話が地方に生きて残っていたのも,日本とロシアだ
。ヨ ロッパでも中世は,深い々々森のなかで育まれた数々の迷信や民話が層をなし,呪
術と情念のうずまく世界だったのだろうが,今のヨ ロッパの人間たちはまるで無菌の世
界に生きてきたように,本当に言葉と論理にこだわる。ゴルバチョフがかつて「民主主義をソ連に」と言えば,彼らはソ連がまるでその瞬間,自分たちと同じになったように錯覚して歓呼する。経済改革とエリツィンが言えば,「すぐ何でも自由化すれば,市場がうまくやってくれる」と素人じみたことを言い,ロシア経済の墓穴堀りを助ける。なぜか純粋
培養で机上の空論が多いヨ ロッパの人間とは異なって,ロシアの人間,日本のわれわれ
はそれでもまだ,混沌たる現実そのものの中に生きているのか。
 で,村上春樹に話を戻そう。彼の作品はモスクワで大人気。書店は平積みにしてあるほどだ。売れない作家でもある僕にとっては嫉妬の種,数冊しか売ってない「遙かなる大地」の一冊をその平積みの上に置いて店を出てきたこともある。でなぜ,彼は人気があるのか? それは,ロシアの若者の心をつかんだからだろう。日本とロシア,物質的な豊かさでは対極にあるかに見える二つの社会も,若者にとってはそれほど違わない。どちらの国
の青年も,買うCDは同じ,見る映画は同じ,そしてMTVを見てブレ ク・ダンスに興
ずる。だから,物質的にも実は彼らは同じ環境の中に生きている。そして精神となると,ここにはもっと似た面がある。両者とも自分たちの「存在の耐えられない軽さ」と無意味さ,言うなれば信ずるに足るべき価値の不在に,意識的にせよ無意識にせよ退屈しているのだ。虚しいのだ。
 戦後の日本ときたら,太平洋戦争の原因と責任についてなにか重たいふたで口をふさがれたような感じの中で,不完全燃焼の議論が時々思い出したように起こるだけ。「じゃ,一体全体なんなのだ。戦争のことはもう置いといてもいいから,生活も豊かになった今,俺たちは一体何をめざして生きたらいいのか教えてくれよ」という根本的な問い掛けへの答えにはまだろくなものがない。(著者の答えは,リベラルな市民社会という,歯の浮くようなインテリの題目しかない)
 ロシアの青年も,その点では似たようなものだ。「ソ連のことはもういいから,共産主義のことは駄目だということでわかったから,でもこの資本主義とやらには息がつまるぜ
。ビジネス,コンピュ タ ,英語,会計,競争,これが俺たちの人生? かと言って教
会を見れば,ソ連時代はKGBの尻をなめてた連中が,今じゃ煙草や酒の商売で大儲けしては,俺たちだけに懺悔をと言いやがる。いったい何を目指して生きりゃいいんだ」 心
の中は,そんなものだろう。で,村上春樹がはやる。「ヴァ チュアル寿司」というホ
ムペ ジを開いた青年がいて,これは日本についてのホットな情報の交換の場になってい
るのだが,彼がここで村上春樹を宣伝したのもおおいに効いたようで,うらやましい限り
の話です。で,ある日,文学カフェOГИの地下室で,その青年コヴァレ ニンが主宰し
て,村上春樹のセミナ が開かれた。五十平米ほどの狭い地下室には青年男女で足の踏み
場もなかったそうだ。
 先程の「浄ケ池」から右に入った■通りの三叉路を右に行けば,さっき言ったとおり,
音楽好きの精神医学者ビリジョが開いたレストラン「ペトロ ヴィチ」が,薄汚いビルの
中庭に素っ気ないブリキの扉を見せている。ビリジョとは,なんとなく正直で温かい人柄にひかれてよく付き合ったものだが,彼の身の上について詳しい話を聞いたことはない(■)。彼は民放「独立テレビ」が当局からまだ本当に独立していた頃,時局をおちょくる
風刺番組「イト ゴ」(■)に毎週,白衣に精神病院の鍵をもって現れては,「モズゴベ
ット」(「脳研究者」)と称して,リベラルな見地から精神的に病んだ社会を風刺してみ
せた。彼は同時に美術家で,古い建物の地下室を改造して作った「ペトロ ヴィチ」の内
装を,ソ連時代のアパ トやもろもろの生活を思い出させる剥き出しの水道管やら戦闘機
のプラモデルやらでキッチに飾って店開きした。ここの料理は文学カフェOГИよりワンランク上だけど,値段はそれほど変わらず,OГИより一世代,二世代上の文化人,ボヘミアン,ビジネスマン,要するに三十代,四十代,五十代の自由人たちの溜まり場となっている。
 「ペトロ ヴィチ」は,ビリジョの父親の名前から取った,ロシア人に特有のミドル・
ネ ム,つまり父称なので,このレストランのウェイタ は全員ペトロ ヴィチ,ウェイ
トレスはその女性形のペトロ ヴナという凝りようだ。このビリジョはパ ティ 好きで
,何かというとすぐ仲間をよぶので,「ペトロ ヴィチ」も商売なのか趣味なのか,よく
わからない域をさまよっている。ある日,現代ロシア文学の旗手,エロフェ エフ,プリ
ゴフ,ソロ キンの仲良し三人が,頭文字を取った「ヨ プス」とかいう筆名で一冊の
ほんものしたとかいうことで,祝いのパ ティ が開かれた。外交官の息子のエロフェ
エフはそつがなく,詩人,作曲家などあらゆるものを兼ねる才人プリ ゴフはギョロ目を
ギラつかせながら大詩人プ シキンの物語詩「エブゲ ニ ・オネ ギン」の冒頭をモン
ゴルの■の奇妙な歌い方で朗誦し,ソロ キンはエログロ作家として名を売った男とは露
とも見せぬ,内気で言いよどみがちの挨拶を壇上でする。ニコノフという「農村派」の作家が挨拶にたち,「この三人についてはいろいろ言いたいけれど,ここでは悪口はよします」と冗談めかして祝辞を述べる。そして元KGB幹部と紹介された眼鏡の男が壇上に立
つと,「この三人には早くから目をつけて,路上で酔いつぶれたソロ キンが警察にパク
られて無職であることを咎められないように,この才能を保持するために,酒飲み収容所に入れてやりました」と,これも冗談半分,祝辞を述べる。
 そのあとは「ご歓談」で,肘と肘が触れ合う大混雑の中,方々でテレビ局ディレクタ
,インテリア・デザイナ ,文芸評論家,映画人,テレビ局のパ ソナリティといった面
々が,所々に途方に暮れた表情の欧米の外交官もまじえて話に花を咲かせる。奥の部屋で
は,酒のこぼれたテ ブルをソロ キンとその家族,友人たちが囲んで,「よく来てくれ
た。さあ,一緒に飲もう」と声をかけてくる。そこにみなの歓声を受けて入ってきたのは
,なぜかあの「セサミ・ストリ ト」の黄色い羽毛のビッグバ ドを思わせる,奇抜な服
と若干ひしゃげた顔をした,三十がらみの陽気な女性。深夜番組の司会で名高い■と知れる。
 こんなことを書いていると読者から,外交官とは毎晩こんなわけのわからない生活をしているのか,と言われるかもしれないが,とても毎晩こんなことはしていられない。一月に二回,三回あるかないか。だいたい外交官というのは人脈作りを商売にしているみたいなもので,任国の社会に深く々々根を張れば張るほどに,情報も集まるし,万一起こる難
しい問題の解決も容易になるし,日本とのいろんな交流のプロデュ スもできる,日本の
イメ ジをそれとなく良くしていくこともできる,といった仕事だから,世論を作る上で
ものすごく力のあるこういった文化人やマスコミ人士との付き合いは欠かせない。
 そしてそれはそれで,ものすごく時間と労力とスタミナと語学力を求められることなのだが,それも月に二,三回のことで,あとは昼も夕も政治家や役人や学者や評論家や新聞記者やらを毎日々々招んでは,政治,経済,社会,文化について意見を聞き,こちらの意見も言い,日本とロシアの関係の真相を説明して,いろいろな報道から起こる誤解を正し,北方領土問題解決の必要性を説得し,とこういうことをやっている。「じゃ,食事の時以外は何やってるの? 食事の時だけ仕事してるの?」と聞かれるかもしれないが,オフ
ィス・ワ クというものはどこもかしこも似たりよったり,書類を読み書類を書き,電話
を受け電話をし,人に会いに行き人の訪問を受け,そしてシンポジウムやセミナ や展覧
会の開会式にでかけて発言や挨拶をし,時には任国のテレビやラジオに出演し 言う
ことは全て出たとこ勝負の即興だから大変なのだ 新聞記者のインタビュ に答える
。そして日本からの出張者や館員が入ってきてはだべっていき,そうかと思うと情勢や政策についての打ち合わせが入る。それに「書類を読む」と一口に言うけれど,これは外務省の「電報」というやつで,交渉ごと,国際会議の記録,任国の政治家の考えていること,経済情勢,その他もろもろ世界じゅうの森羅万象が世界じゅうの日本大使館と総領事館の書いた「電報」となって本省とも間,そして主な大使館の間を毎日何百も行き交っている。ITの時代になにを姑息な「電報」なのかと思うだろうが,正式の訓令や報告は組織全体として責任の取れる形(ということは上司による修正やコメントをいれて書き直してからということ)で,しかも高度の暗号で送らなければならないので,ファックスや電子
メ ルというわけにいかない。ロシア大使館に毎日来る電報を積み上げれば,五十センチ
にはなるだろうか。だから本省にやってくる電報は,毎日優に一メ トルを超えているだ
ろう。これを一人で読める人はいない。このうち重要で急ぐものを整理して上司に迅速に報告するために,組織というものがある。
 さて,モスクワのナイト・ライフに話を戻し,その案内をしてくれたトロイツキ 氏の
助言に従って,僕は面白いという「スタニスラフスキ の家のそば」劇場に行く。僕の家
は東京で言えば六本木の裏手のようなところにあって,道路を隔てた真向かいは国立演劇
大学,言ってみれば俳優養成所,その隣には消防署があって夜遅くプ プ ,サイレンが
鳴ると大型の消防自動車のエア・ブレ キの音があたりに何回も響き,出動していく。僕
の家は十九世紀,さる高級官僚が妻の名義で建てたとかいう豪邸で,その昔ロシアの文豪
ツルゲ ネフが一年くらいどこかの部屋に居候していたそうだ。そして当時の上流生活で
はおきまりの,あのトルストイの「戦争と平和」にも出てくるサロンというやつ,要する
にスノッブの集まったパ ティ がこの豪邸では開かれて,かの作曲家チャイコフスキ
もその常連だったそうだ。で,消防署の前を通っていくと家内が「あら,チュバイス!」と嬉しそうな声。チュバイスとはエリツィン時代に副首相まで務めた改革派の強腕政治家で,国営企業を二束三文で新興資本家に売り払ったとして大衆に憎まれている男だ。そこ
の角にはチュバイスやらユマ シェフやらプリマコフやらお歴々の子弟が通うエリ ト小
学校があって,そのためかこの界隈の小路はみな一方通行になって不便極まりないのだが,そうか,チュバイスが自分の子供でも迎えに来たかと思いきや,消防署の前のチュバイスは大型の茶色の野良犬だったのだ。毛色が似ているためにチュバイスと名付けられ,近所の門番,運転手たちにチュバイスの身代わりで石でもぶつけられているかと思うと,結構みんなに保護されていた。このチュバイスは「夫人」の■に頭が上がらず,食物も鼻先
から取られてしまうのだからますますおかしい。そんなこんなでこのマ ルイ・キスロフ
スキ と改名されたソ連時代のソビノフスキ 小路を行くと,左手に赤煉瓦のマヤコフス
キ 劇場の前を,半分とけた雪をはねのけ,お偉方,金持ちたちのベンツ,BMW,アウ
ディが次々と劇場通いのご主人やその家族を下ろして道路を占拠する。
 マヤコフスキ ・・・革命に憧れ,革命を歌い,そして革命に絶望して■   大詩人
。その詩はまるで鉄のように硬くて僕の歯には合わないのだけれど,その名を冠した老舗の劇場。そしてその隣には,「ゲリコン・オペラ劇場」。ゲリコンとはギリシア語のヘリコンで,■   。このオペラ劇場はソ連崩壊後のブルジョワ文化の華,いやつぼみのよ
うなもので,わずか二百人入れるか入れないかの小劇場でオ ケストラつきのオペラをや
るのだから,これほど贅沢なことはない。今のモスクワにはオペラと言えばボリショイ,
ネミ ロビチ・ダンチェンコ,そしてオペレッタ劇場の三つが老舗で,ソ連が崩壊してか
らは新オペラ劇場とこのゲリコン・オペラがいずれも(?)その頃大統領の座をうかがっていたモスクワ市長ルシコフの人気取りの一環か,支援を受けて現れた。これに加えてかのチェチェン人テロリストの襲撃ですっかり世に知られることになった,かのモスクワの
ミュ ジカル・ブ ムが加わって,夜のモスクワはそこらじゅう歌って踊っているのだ。
 いやまったく,経済が苦しいのならもう少し質素にやったらどんなものかと言いたくなるが,政権が代わり,大臣が代わり,担当者が代わるたびに猫の目のように変わる情勢,法律,規制に振り回されて二,三年先の見通しなどおかしくてたてられなかったロシア人は,すっかり刹那主義になり,「えい,宵越しの金はもたねえ」とばかり消費にうつつを
ぬかす。「ヘア 」,「メトロ」,「ノ トルダムのせむし男」,「レ・ミゼラブル」,
「ドラキュラ」,「カジノ」,「ノルト・オスト」,その他,その他,今や本場のアメリ
カじゃ下り坂のミュ ジカルが,アメリカ文化を毛嫌いし,「アメリカの一方的な行動」
を批判しているはずのロシアで大人気とは,よくわからない。それも一枚二千円見当の切符は大学教授の給料の半分近くになるはずなのに,劇場の前には中産階級の乗るジグリやモスクビッチの車がずらりとならぶ。                   

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