Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2005年12月01日

冷戦後の世界と日本、日本経済の行き先

(05,12 亜細亜大学での講演)
 最近の若い人たちを見ていると、われわれのころよりは、自分たちの人生をどうしたらいいかを考えるようになったという感じがしています。われわれが大学を卒業したころには、どこかいい会社に入りたい、公務員になればいい、大銀行に入れば一生大丈夫、という感じでしたが、いまの時代は、自分の人生は自分で開くということを考えておられるのではないかと思います。

国がなくなるということ

 いま日本の景気がだんだん上向きになってきて、就職市場も学生にとって有利になってきました。これは皆さんにとってはいいのかもしれないけれども、生涯で考えるとそんなによくないかもしれない。就職が楽になったからということで、考えることをやめると、ある日突然会社がつぶれたり、もっと極端な場合には日本がつぶれたりします。そういうことがないように、いろいろ勉強されたほうがいいと思います。

 昔は、いい企業に入ればすごろくの上がりで、一生大丈夫だった。「地縁」とか「血縁」という言葉がありますね。たとえば長崎県から来た人たちが、長崎の何々村から出た人たちといつも一緒に助け合って生きていくのが地縁、親戚の人たちがお互いに助け合いながら生きていくのが血縁ですが、日本の社会では「社縁」が主流でした。これは僕のつくった言葉です。要するに、同じ企業に入っている人たちが助け合ったりじゃましたりしながら、一生何とか食べていけた。

 これはものすごく不自然な社会で、たとえば皆さんが鈴木とか田中という名前だったとすると、その名前を使わず、「三菱さん」とか「住友さん」と呼び合っていた。こんな社会が本当の社会であろうか。そういった社会がこれから復活しないようにしていこうではないかと思います。

 この世の中に確かなものは一つもありません。日本の政府で働いていると、公務員の中には、日本というのは磐石の国であって、絶対なくならなくて、自分たちの省も、日本の税金も絶対なくならないという強烈な自信を持っている人たちもいるのですが、そういうことはありません。国はなくなります。

 僕は1991年、モスクワで働いていました。その目の前で、世界で2番目に強く大きかったソ連という国が崩壊していったわけです。91年12月26日だったか、モスクワのクレムリンの屋根の上からソ連の旗が引き降ろされて、ロシアの旗が揚がりました。だからといって別に世界は終わらなかったし、モスクワの人たちの生活も終わりにはなりませんでしたが、ソ連の政府はなくなりました。ソ連の政府で働いていた役人たちも、職を失いました。

 どうなったかというと、91年10月ごろから、ソ連の政府には税金が入らなくなった。税金が入らなくなると、コネを持っている次官とか局長、課長といった上の人たちから辞めていく。最後まで残るのはコネのない秘書たち。そういったときにソ連の役所に出かけていくと、ほこりのたまった廊下の隅で秘書たちが集まってひそひそ話をしている。今日はあの局長がいなくなったわ、明日はあの課長がいなくなるそうよ、私たちはどうなんでしょうねと話をしていました。

 それが割と上品な国のなくなり方です。もっと大変なときのなくなり方というのは、もちろん戦争を伴って国がなくなるわけです。

 生活も磐石ではありません。たとえば92~93年の2年間で、ロシアは6000%のインフレになりました。日本の終戦直後にあったインフレもだいたい6000%でした。これはたとえば、600万円の貯金があったとすると、BMWの500シリーズが買えます。ところが6000%のインフレになると、それが10万円ぐらいの値になってしまいます。BMWを買おうと思っていたのが、ホンダのバイクぐらいしか買えなくなってしまう。それがインフレです。ですから、世の中に確かなものは一つもありません。

 この10年間、日本でもいろんな企業が破産してきたし、ある日突然上司から呼ばれて、あなたは明日から要らないから来ないでいいよ、と言われる。リストラです。そういう世の中でした。

 では、国として日本はいまどういう地位にあるかというお話をしたいと思います。この地図は普段見るのと違って、日本が置かれている地位をよくわかるようにするために、方角をひっくり返しています。

 太平洋が大きく見えますが、海というのは大陸よりはるかに便利なものです。大陸はえっちらおっちら鉄道で行かなければいけない。ウラジオストクからシベリア鉄道でヨーロッパのほうへ行くまでに1週間かかります。船で太平洋を横断するのも10日か1週間ぐらいだと思います。しかも一遍にたくさんの貨物を運べます。いまの時代ではもちろん飛行機もあります。そうすると実際の距離としては、海というのはほぼないに等しいのです。
 アメリカの貿易はいま、ヨーロッパとの貿易の量よりアジアとの貿易の量のほうが大きいのです。つまり、アメリカがアジアに依存する割合は、ヨーロッパに依存する割合よりも大きい。したがって、アメリカというのはアジアの一員だと言って差し支えない。ですからここに持ってきました。

 ここに持ってきたのはいいけれども、よく見てみると、これは大変だ、日本はこんなに小さい、アメリカや中国、ロシアといった大国に取り囲まれているではないかということに気がつくわけです。

 こういうものを見ると思い出すのは、ヨーロッパのスイスです。スイスの場合には、周辺にオーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、そういう地位にあります。日本はまさにそれと同じではないか。では永世中立国になって、小国として生きていくしかないような気になります。

 ところが、次の地図を見てください。これは拡大したのではなくて、GDPの規模で国のサイズを表しました。そうすると日本はアメリカの40%の経済規模を持っています。ロシアはあんなに大きいけれども日本の10分の1です。それから中国は、われわれは中国を非常に警戒しているけれども、経済の規模からいくと、いまでもまだ日本の4分の1ぐらいです。地図の上ではものすごく小さい韓国が、非常に大きな存在です。ここの数字ではロシア経済よりも大きくなっている。ロシアの経済はいま石油の価格が上がっているから、この数字より大きいんですが、それでも韓国と並んだぐらいでしょう。台湾がまた大きくて、韓国の半分という感じです。ですからアジアにおいては、経済から見ると日本は大国です。その大国が永世中立ということはありえないのです。

 しかし、この地図を見て、あまりいい気になるとろくなことはありません。これは経済の規模だけの話ですから、たとえば外交とか政治、安全保障上の力を取ると、日本はもっと小さくなるでしょう。物事はバランスを持って考えなければいけません。ただ、最初に見せた地図より、はるかにましだと言えると思います。

オリエント復権の兆し

 では、われわれはいまどういう時代に生きているのかということをお話ししたいと思います。いまの時代を特徴づけるにはいろんなことが言えますが、一つには、冷戦が終わりました。もう一つはわれわれが普段は気がついていないけれども、実は植民地時代が本格的に終わります。植民地時代とは、西ヨーロッパとアメリカが世界を支配していた時代ですが、中国の力が伸びてきたことによって、植民地主義の時代が本格的に終わろうとしています。それを別の言葉で言うと、「世界史における敗者復活戦」です。中国、インド、それから非常に大きな概念だけれども、われわれがいつもそんなに意識していないオリエントの復権が行われようとしています。

 オリエントとは何かというと、中国の裏側、インドも入っています。インドからイラン、サウジアラビア、北アフリカの端っこのモロッコまで、以前はスペイン、そしてトルコまで。このものすごく広い範囲がオリエントです。その発祥の地は、いまのイラクのメソポタミア、エジプトの二つがエンジンとなって、ものすごく広い範囲にほぼ単一の文明をつくりました。それがオリエント文明です。

 われわれのいまの理解は、世界にはヨーロッパと中国、インドぐらいしかない、中近東は遅れたバラバラの地域だと思っているけれども、世界史の上ではここらへんは全部まとまっている地域です。インドは昔、イランのアーリア人種、白人たちが入ってきてつくりました。その後1500年ぐらいに中央アジアのウズベキスタンから、仕事にあぶれた王様がやってきました。その王様はウズベキスタンでどこにも領地を求めることができずに、しかたなく南にどんどん下ってインドまでやってきて、新しい王朝をつくったのです。それが16世紀の半ばにできたムガール王朝です。ムガール王朝というのはインドの頂点です。しかし、それは中央アジアからやってきたモンゴル系の王朝がつくったのです。ですからここらへんまですべて一つの文明の流れを引いています。

 僕は今日このネクタイをなぜつけてきたか。西陣織に見えませんか。実はこれはトルコのイスタンブールで買ったのです。驚いたことに、イスタンブールに西陣織みたいなものがある。トルコというのは文明の進んだ地域であるとちらっと思ったけれども、よく考えてみると、こちらのほうが先だと思います。トルコ民族というのは騎馬民族で、織物の文化をここまで持っていったわけです。その織物の文化というのはイランのあたりに発して、シルクロードを伝ってやってきて、最後に京都の西陣織になっている。ですから西陣織は後からできたものです。

 同じような織物は、ほかにもあります。インドのガンジス川のほとりに、川縁で死んだ人を焼いてお葬式をやっている、ベナレスという巡礼の町があります。そこがまた織物の一大中心地で、汚い小路に入っていくと、織物屋が無数にあり、テキスタイルデザインの宝庫です。織物というのは昔の先端技術だったと思います。その中に西陣織とか僕の着けているネクタイと同じ柄と技術のものを売っています。ですからオリエント、これはわれわれが記憶を呼び起こして研究しなければいけないものです。ここも世界史の敗者だったわけですが、復活しつつあります。

 というわけで現在は敗者復活ではないかと思うのですが、あまりいい気になっているとこけるので、非白人の力にはまだまだ限界があります。それはなぜかというと、世界のほとんどの力は西ヨーロッパとアメリカに握られています。別にヨーロッパ、アメリカと戦争しろと言っているわけではなくて、癪に障るから言っているだけです。

 何を握られているかというと、通貨です。これは世界中の皆がドル、ユーロを使うように仕向けられているからです。それによってアメリカ、ヨーロッパは、ドルやユーロを自分の必要なだけどんどん印刷してもある程度大丈夫な感じになっている。通貨の覇権です。

 それに絡んで金融市場も欧米に握られています。日本がアメリカから稼いだ大変な貿易黒字は、アメリカの政府の債権を買う以外には運用できる大きな市場がありません。ですから世界の金融というのは現在、ロンドンとニューヨークに握られています。

 もちろんエネルギーも欧米に握られています。世界の大きな石油会社のほとんどがアメリカとヨーロッパです。その中にロシア、中近東の国々も入りだしていますが、基本的には欧米支配です。

 マスコミも英語のメディアが世界を支配しています。われわれはいつもCNNとかBBCを見て世界がわかったような気になっているけれども、実際にはアメリカ寄りの見方を教え込まれています。

 それからもっと大きなものを、われわれはアメリカに握られています。それは軍事力です。物事はいろいろありますが、最後は結局、自分たちが安全でいられるかどうかですから、それを保障する軍事力をアメリカに握られているというのは大変なことです。

 では、アジアが敗者として復活してきたのはなぜかというと、それは小金ができてきたからです。われわれはちょっとしたお金を持って威張っているわけですが、その小金はどこから出てきたかというと、製造業です。日本とか中国、ASEAN諸国は一生懸命モノをつくって、それをアメリカ、ヨーロッパに輸出して儲けて、少しばかり偉くなったような気持ちでいる。

 こういう世の中の主要なものをほかの人に握られていて、モノばかりつくっていい気になっているというのはどこかで見たなと思ったんですが、よく考えてみると、昔、ギリシア、ローマで貴族がいいところを全部取って、モノをつくったりサービスをすることは奴隷にやらせていたのと似ています。奴隷は給料をもらえなかったからわれわれよりひどいけれども、もうちょっと頑張らないといけないという気がします。

 ヨーロッパ、アメリカは製造業をアジアにずいぶん取られてしまいましたが、その分、手だけではなくて、頭で稼いでいる。われわれも頭で稼ぐことができるようにならないと、これから中国に負けてしまいます。

ユーラシア大陸を理解する

 ユーラシア大陸はバラバラではなくて、一つにつながっているものです。われわれがいままで思い込まされてきたこと、高校で教えられてきたこと、教科書はなかなか変わりませんから、本当のことを知りたいと思ったら自分で勉強しないといけない。僕も勉強中ではっきりしたことは申し上げられないけれども、一つには中国は、中国人自身も万世一系の5000年ぐらいの歴史を持った漢族の国であると厳かにわれわれに言うわけです。しかし、いわゆる純粋な漢族がつくった王朝というのは、中国の歴史の中では割と少ないのです。

 たとえば漢の王朝は漢族がつくった国であろうと思われています。それから宋。ちなみに宋というのは、いつもわれわれは軽視するけれども、実際には日本の伝統文化といわれている室町時代の文化のほとんどが宋からやってきています。あとは明です。この三つぐらいが漢族としての純粋性が強い王朝だといわれています。

 唐がそうではないかと言う人もいますが、唐というのは西暦700年ぐらい、聖徳太子の直後のころですが、中国を広く囲んでいる地域には遊牧民族が住んでいました。畑を耕さずに、家畜を飼って、羊の肉を食べ、乳を飲み、ヨーグルトを食べている人たちです。彼らはしょっちゅう中国の中に入ってきては、中国の歴史を一緒につくっていきました。

 たとえば中国を初めて統一したのは秦の始皇帝ですが、ところが、秦の始皇帝の目の色は青かったといわれています。現在、中国の女優のチャン・ツィイーが日本の芸者を演じた映画「SAYURI」では、彼女の目も青くなっていますが、あれはコンタクトレンズを入れているからです。秦の始皇帝のころにはコンタクトレンズはありませんでしたから、なぜ青かったかというと、西のほうからやってきた遊牧民族の流れを引いていたからです。

 それから唐の王朝をつくった兵力はかなりの部分が遊牧民族の兵力に依存していましたし、唐の皇帝にも遊牧民族の血統が混ざっていた可能性があります。

 そういうわけで中国には遊牧民族の歴史がいつも絡んでいます。唐の時代、王様が妾の楊貴妃にうつつを抜かして政治をしなかったから、国が乱れて、安禄山の乱が起きた。安禄山というのは絵を見るとずいぶん恰幅のいい人ですが、ソグド人とウイグル人の混血です。ウイグルというのはいまでは中国の新彊地方にいる民族、ソグドはもう名前はほとんどないのですが、ウズベキスタン、キルギスタンのあたりに展開して、小麦をつくったり、シルクロードの運送業をしたりして栄えていた人たちです。

 あと遊牧民族が中国の歴史に密接に絡んだのは、もちろんモンゴルの元の王朝です。北京は元の王様のフビライが人工的につくった、ものすごく広壮な都市計画に基づいた街です。北京の特徴は、街の中に大きな湖があることです。いま中南海といわれているところですが、その湖までずっと運河が掘られています。その運河をたどっていくと揚子江まで出ることができます。この港から船が出て、南のほうへマラッカ海峡を通って行きました。要するに、イスラム商人とかペルシャ人たちが握っていた通商路につながっていたわけです。モンゴル人はユーラシア全部の人たちをうまく使って儲けていた。

 ですから中国という国は非常におもしろくて、決してここで孤立していた大帝国ではありません。ユーラシアの一部として栄えていた国です。われわれはもうちょっとユーラシアに対する理解を立体的にしなければいけないと思います。

ヨーロッパの植民地政策と日本

 次にヨーロッパですが、われわれはいまでもロンドン、パリというと非常に憧れて、世界の先進地域に行くような気でいるわけですが、そうなったのはせいぜいこの200年のことですから、彼らはいつまでも進んでいるわけではありません。もともとヨーロッパの人たちは、ゲルマン系が多いんですが、ヨーロッパ全体を覆っていた深い森の中に住んでいました。いま彼らは全部切り倒して畑にして、ほかの人たちに森を切り倒すな、酸素がなくなるじゃないかと言っていますが。

 彼らは12世紀ごろ農業の仕方を変えて、三圃式農業を発明し、経済力が飛躍しました。イタリアが昔のローマ帝国の本拠地ですから、お金が少し入ってくると、自分たちのルーツを知りたいということで、ギリシア・ローマの古い学問を勉強し始めました。ギリシア・ローマの古い学問というのは、イラン、現在のペルシャとかウズベキスタンのブハラ、バグダッドといったところに保存されていた。それをイタリア人たちは持ってきて一生懸命勉強して翻訳し、自分たちこそギリシア・ローマの本当の後継者であると名乗るようになりました。それがルネサンスです。

 ルネサンスというのは一つにはカトリック教会の締めつけから逃れようとする、個人を解放しようとする動きでもありました。教会から個人を解放する動きのもう一つは、1517年のルターの宗教改革です。ルターが言ったことは、お前たちは教会に行って牧師さんの言うことを聞かなくても、神様の前で心の中で反省すればそれでいい、それが信仰だと。
 ちなみに、ローマのカトリック教会こそが西ローマ帝国の後継者です。西ローマ帝国というのはヨーロッパの広い範囲にわたっていましたが、それを西ローマ帝国が滅びた後も行政機構として残していたのがローマのカトリック教会です。これの権威を打ち破ったのです。ヨーロッパは個人というものを解放したわけです。

 同時に経済力がたまってきたこともあって、1492年、スペインはイスラム勢力を国から追放してアフリカに追い落としたばかりでした。インドには香料がいっぱいあって、それをヨーロッパ人はトルコを経由して高い手数料を払って輸入していたけれども、トルコは憎いから、インドを発見しろという命令を渡して、イタリアの商人コロンブスを送ったのです。古い言い伝えに基づいて、コロンブスは「西に行けばインドがある」と。とにかく西に行けばインドはあったけれども、途中で止まってアメリカを発見したことになっています。ところがアメリカには金と銀がものすごくありました。インカ帝国の金のマスクなどがありますが、大変な金と銀がヨーロッパに流れ込み、これがインフレを起こしたりしながら、ヨーロッパの近代化につながりました。

 もう一つは1498年、ポルトガルがヴァスコ・ダ・ガマにお金と船をあげて、お前もインドに航路を発見しろということで、派遣しました。ヴァスコ・ダ・ガマは南下して、アフリカの先端の喜望峰を通って、イスラムの船と戦いながら、インドに行く航路を開発した、というよりもイスラムの船にくっついて、案内されてインドまで至りました。その後ヨーロッパ人は鉄砲と大砲、策略を持って、アジアを征服しました。

 それまでのアジアはどうなっていたかというと、中国とインドが製造業の中心地でした。中国は陶器、絹織物、要するに当時の生活必需品をつくっていました。陶器は先端技術だったでしょう。インドは綿織物をつくっていたし、香料が取れました。ですからアジアというのは、中国を中心にした大きな経済圏でした。

 この大きな経済圏とヨーロッパの間の仲介をしていたのがイスラムの商人たちで、イスラムの連中自体も栄えていました。彼ら自身、経済単位であったわけです。700年ぐらいにマホメットがイスラム教を発明します。キリスト教を少し変えたのですが、彼は砂漠から発生したのではなくて、商業都市に住んでいました。マホメットの奥さんはビジネスウーマン、商社の社長でした。ですからイスラムというのは、いま思われているような遅れた宗教ではなく、当時の進んだ商業文明を代表する宗教、モラルでした。

 話が脱線しましたが、要するに、三つの経済中心がありました。ここらへんとここらへんと、ちょっと劣るけれどもヨーロッパ、そういう感じだった。

 日本は、アジアの通商圏の中に入っていました。1600年ごろには、一部の研究によると、日本は世界で最も金をつくっていた国だったそうです。佐渡の金山ですね。それから当時の日本は、砂糖を世界で最も多量に輸入していた国だったそうです。ですから日本人というのは、あちこちに日本人町をずいぶんつくっていたし、タイには山田長政という人が雇われ侍として働いて、最後には殺されてしまいましたが、いまと同じように当地の商社の人たちがたくさんいたわけです。

 そういうところを、ヨーロッパが征服しました。日本は植民地主義に対抗しないと自分たちが植民地にされてしまうというので、明治維新をやって近代化に乗り出しました。ただ、日本は当初から割とアグレッシブなところがあって、江戸時代の末期から、日本は朝鮮をやっつけなければいけないという論議も出ていました。ですから明治の初期から、征韓論が出てきました。そういった論議は、当時の職を失ってしまった侍の不満も吸収して、一時は韓国に攻め込むかという感じになりました。けれども、そのときは踏みとどまって、結局、侍の不満については薩摩を中心にして起こった西南戦争で処理されてしまうわけです。とにかく日本は近代化に乗り出して、自分を守ろうとした。

 ところが日本のいけないのは、自ら植民地勢力になろうとしたのです。というのは、当時はそうやらないと生存できなかった面もあります。たとえばイギリスはアメリカ、インドを手に入れて、自分の経済を果てしなく膨らませていきました。そうなければイギリスが、蒸気機関とかコークス製鉄法、石炭で鉄をつくる、要するに何でも無制限につくれる産業革命の結果、どんどんつくられるようになった綿織物とか、その他の製品を植民地市場なしにはけることはとてもできなかった。ですからイギリスは植民地主義の中で超大国になりました。そういう国々と対抗するためには、日本も植民地を持たざるをえないと、当時の人たちは考えたわけです。

 しかし植民地というのはいけないことですから、植民地にされた国々にとってはたまらない。それによって日本は自分の原罪をつくってしまったと思います。それからもちろん日本よりも古い植民地勢力、ヨーロッパ諸国やアメリカ、アメリカは中国を何とか自分の市場として取っておきたいと思っていましたから、日本が中国を押さえようとしたけれども、それはまかりならんと。日本は最後にはベトナムのほうまで軍を送りましたから、アメリカはアメリカの中の日本の資産を全部差し押さえたし、アメリカから日本に石油が輸出されないようにしました。それで太平洋戦争が始まって、日本は完全にこてんぱんにやられてしまったということです。

中国が日本に落とす影

 話は突然飛んで現代ですが、1991年、これはくしくもソ連が崩壊した年でもあるけれども、同じ年に同じくらい重要なことが起こっていました。台湾はそれまで、中国にお金を持っていくようなことはまかりならんと言っていたけれども、1991年、本土に投資してもいいというラインを打ち出しました。

 僕は統計を調べたのですが、1993年になると、台湾から中国に対する投資が急増しています。数字が3単位ぐらい飛んでいます。香港から本土に対する投資も急増していますが、そのかなりの部分が、実際は台湾から来ているお金です。われわれが中国の急成長に気がついたのは1994年ぐらいです。ですから、われわれは日本の円借款とか直接投資が中国の発展を助けたように思っていて、それは確かだけれども、それよりもはるかに大きな役割を果たしたのは台湾の資本だと思います。もちろん台湾は日本との商売によってかなり資本を貯めたのですが、とにかくこれによって中国は完全に復活してきました。1812年、彼らがイギリスに対してアヘン戦争で負けて以来、トレンドをひっくり返してきたわけです。

 これは日本にとってもアメリカにとっても大変なことです。アメリカというのは東部から始まって、どんどん西部のほうに広がってきました。ですから彼らには、西の自由なところに行って、自由に働いて、自由に儲けるというマインドがあります。西部の開拓は100年前に終わったけれども、その傾向は続いているのです。ですから日本をやっつけたと思ったら、今度は中国という、日本よりはるかに大きな存在に突き当たっているのが、現在のアメリカの状況だと思います。

 中国については、われわれは戦後ほとんど考えてきませんでした。僕は外務省に35年いたけれども、その中で中国のことを意識していたのは、最後の2年間ぐらいではないか。これだけ近いところにあるけれども、韓国も中国も遠い存在だった。日本はアメリカとの安全保障条約で安全を保障されていたし、その中でぬくぬくと経済的に稼いでいればいい国でした。ところが、いまはこの二つの大きな国に直面しています。それからASEAN諸国に対する政策も活発化させなければいけない。

 ただ、戦後、中国を忘れていたと言いましたが、それは日本の歴史においてはものすごくまれなことでした。日本はいつも中国の影の中で生きてきたと言っても差し支えないと思います。冊封体制というのがありますが、これは中国が2000年以上にわたって持っていた、世界を支配する体制です。中国の安保条約と言ったらいいでしょうか。たとえばベトナムとか朝鮮といった中国の隣の国々は中国ににらみを利かされて、中国にずっと従います、中国さんのほうが偉いんです、中国の一番偉い人は皇帝ですが、われわれの一番偉い人はただの国王です、と文書で誓う。要するに中国に従属、服属しているという従順の意を表明する。そうすると、安全を保障してくれることになっている。それが冊封体制です。ベトナムは1000年の間、冊封体制どころか、中国に直接支配されていた国です。朝鮮も何回も中国に侵略されています。

 日本は中国のすぐそばにあるけれども、海があるおかげで冊封体制に入らなかった唯一の国です。実際には聖徳太子のちょっと手前ぐらいまで冊封体制に入っていました。九州で見つかった中国の皇帝からもらったといわれる金印、あれには「漢委奴国王」と書いてあった。天皇とは書いてなかった。これは日本が冊封体制の中に入っていた証拠です。

 しかし、日本は冊封体制から脱しました。それが607年に聖徳太子が派遣した遣隋使です。その国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書いてあった。聖徳太子は「天子」という言葉を使いました。この言葉に隋の皇帝は烈火のごとく怒って、生意気だ、国王に過ぎないものが天子という言葉を使っている、日本はけしからん国だと部下に言ったそうです。言っただけで、当時、隋は朝鮮とけんかするので夢中でしたから、日本に手を出しませんでしたが。

 それから、中国の影がもっと日本に直接感じられたときがあります。それは唐ができたばかりのころで、663年、朝鮮半島の白村江という海岸で戦争がありました。唐が朝鮮の新羅と組んで、日本が朝鮮の百済を支援して戦ったのが白村江の戦いです。これは船と船の戦いで、日本・百済連合軍はこっぴどくやられて、日本は朝鮮半島から最終的に手を引きました。それまでの日本は、朝鮮半島と不即不離の関係にあって、多くの支配者が朝鮮半島からやってきてエリートになった。たたら製鉄の技術も百済のあたりから来ているはずです。これが白村江の戦いによって断ち切られた。

 当時、日本では大変な危機感が支配して、唐の大軍がやってきて大和朝廷を襲うのではないかという恐れがあった。ですから瀬戸内地方、九州の一部には海岸に砦が築かれました。その砦の跡、土塁はいまでも残っているそうです。それから『万葉集』に防人歌があります。この防人というのは日本の海岸地方に派遣された農民兵士のことですが、来るかもしれない唐の海軍から、彼らは日本を守っていました。われわれはそういうことを学校ではっきり教えてもらわない。意味のわからない日本史、世界史を教えられている。はっきり教えるとほうぼうからいろんなことを言われたりするから、なかなかはっきりしたことを教えられない。

 というわけで、日本は冊封体制から早い段階で脱出したけれども、常に中国の影で生きてきました。平安時代というのは平仮名の女流文学が栄えた時代ですが、あの平安時代でさえも、男たちの教養の主なものは漢文で、漢詩を書かなければいけない。江戸時代までもそうです。漢詩を書いて、詩吟とか称して、中国語でもない変な言葉で大声でうなるのが日本の男子の教養でした。

 そして忘れられていた中国がまた大きくなってきたわけです。

国境を越えた東アジア文明

 皆さんに聞きたいのですが、この中で大きくなってきた中国が怖いと思う人は手を挙げていただけますか。

 それでは中国は割と親しみを感じて、顔も似ているし、友達ではないかと思っている人は手を挙げていただけますか。

 僕は後ろのほうです。怖がってもしょうがないので、中国はあるんだから、仲よくしなければいけない。

 いま中国に行ってみると、上海とか北京はある意味で東京よりも進んでいる。上海にある高層ビルディングの数は日本全国にある高層ビルディングの数を上回るそうです。どこへ行ってもコンクリートと鉄だけで息が詰まるような感じですが、とにかくすごい。ところがそれは表面だけで、もうちょっと中を見なければいけない。もちろん農村は遅れているけれども、それだけではありません。中国人と話してみると、中国人自身が「中国はまだまだです」と僕に言います。なぜまだまだかというと、中国には何もありません、石油も足りないし、鉄もなくなってきている、資源はありません、先端技術も足りません、やっていることは外国から部品を輸入して組み立てているだけですと言うわけです。これはちょっと大げさな言い方だけれども、ものの本質を突いている見方だと思います。

 中国の経済は現在、年間8~9%の率で伸びているわけですが、伸びの内容が問題で、割と脆弱な感じです。なぜかというと、8%伸びているうちの3%、40%ぐらいが建設です。建物をつくるのは経済成長につながるからいいじゃないかと言われればそのとおりですが、どういう建物をつくっているかというと、新しいマンションなどをつくっています。上海や北京に行くと、高層のマンションが林立しています。ところが、夜になると明かりが全然ついていなかったりする。上海はまだ停電が多いからかもしれないけれども、実際に住んでいないマンションも多いそうです。彼らはマンションが建つ前から買って、そこに住むことなしに、すぐ高く売るのです。ですから建設というのは、中国では投機の面がかなりあります。

 それから経済成長の中のかなりの部分が輸出の伸びです。これもいいではないかと思うけれども、輸出の内容を分析してみると、その半分ぐらいは日本やアメリカといった外国の企業が、中国からアメリカとか日本に輸出している。中国の企業による輸出ではありません。これもずいぶん脆弱な性格を有しています。

 ですから中国の経済というのはまだまだこれから伸びなければいけない、しっかりしなければいけないと思います。中国もそれを知っているからこそ、いま中国にとって一番必要なものは経済建設である、だから中国は周りを侵略することは全然考えておりません、中国は日本も含めて朝鮮半島、台湾、東南アジア、すべてが平和で安定していることを望んでいますと言います。僕もそれはそのとおりだと思います。それがいつまで続くかわからないのが困るけれども、あと10~15年はそうであろうと思います。

 たとえば朝鮮半島では、韓国が北朝鮮と統一したがっているようだとわれわれの多くは考えがちですが、韓国に行っていろんな人の話を聞いてみると、実はそんなに統一は急いでいない。なぜだと聞くと、統一すると貧乏になるからだと言うんです。彼らはドイツが1990年に統一したころのことを覚えています。このとき西ドイツは東ドイツの経済を支えるために大変な財政支出をしました。いまでも何兆円の単位の支出を毎年やっていて、それもあってドイツの失業率は高いのです。韓国はその例をよく見ています。いま彼らが北朝鮮と統一すると、自分たちの生活水準が30%は下がるだろうという計算をしています。ですからすぐには統一したくないと言います。

 中国のほうはどうかというと、中国にとって北朝鮮はバッファーです。韓国、それから韓国にある米軍と、中国が衝突する可能性を和らげてくれるのが北朝鮮です。ですから中国も朝鮮半島の情勢が安定しているいまのままのほうがいい。日本もそうです。

 台湾については、われわれは中国がいま台湾を武力で取ろうとしていると思っている人がたくさんいるんですが、そんな徴候は全然ない。中国軍の力を分析しても、台湾を武力で取れる力はまだ持っていません。台湾も本気で独立しようとは思っていません。両方とも平和で経済が発展できる環境があるのが一番です。台湾は独立を宣言すれば、中国がしゃにむに攻めてこざるをえなくなることを知っているから、独立を宣言するところまではいかない。中国は、日本とアメリカが安全保障条約で安定を維持してくれることが、台湾の独立を妨げる唯一の要因だと思っている。ですから台湾の現状を維持するためにも、日米安保はあってくれていい、むしろ歓迎するべきものだと、中国の専門家は僕に言いました。

 というわけで、中国はいまのところ過度に恐れる必要はありません。恐れれば恐れるほど、彼らを敵にします。

 実際、中国に行ってみると、日本にものすごく似ています。上海から南のほうに杭州という大きな街があって、そこまで時速150キロぐらいの電車で2時間ぐらいかかりますが、その電車に乗ると、中の情景はまるで日本の東海道線とか新幹線とまったく同じです。中年のおばさんたちが四人掛けのボックスにどっかとあぐらで腰掛けて、ミカンの皮をむいて、ピクニック気分ではしゃいでいる。いや本当に彼らは上海から杭州へピクニックに行くんだから。そのおばさんたちの横で、まじめそうな若い労働者風の青年が英語の教科書を広げて勉強していたりするのが、中国の現在の都市の風景です。要するに中国でも中産階級が育っていて、彼らの生活スタイルも、好きなものも、われわれと驚くほど似ています。

 たとえば日本のJポップは中国でも台湾でも韓国でも人気です。Jポップの日本のプロデューサーたちは、中国とかあらゆるところに出かけていって、コラボレーションをやっています。プロダクションもやっています。

 上海の新しい浦東という街に行くと、街の感じが何となく東京に似ています。たとえば植わっている並木とかデザインが東京に似ていると思うと、そのデザインをやったのが日本のデザイナーだったりします。それから何といっても中国、韓国、台湾、東南アジアの青年たちは外見からは区別できなくなっている。服装だけではなく、話しぶりとか、自由なんです。そこがまたいいところです。

 僕としては新しい東アジア文明みたいなものができていくといいと思っています。どうもありがとうございました。

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