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論文

2006年05月07日

ロシアはどこへ行くのか? Ⅱ(内政) - ロシアはまだリハビリ中

 この一年、ロシアの政治は暗から明に様変わりした。ただそれも、ソ連崩壊とその後という長い劇の、まだ二幕目くらいでの話しだが。2005年の1月、全国の老人たちは、これまでバスや地下鉄ただ乗りという「特権」を廃止して何がしかの現金支給に代える、という政府の新しい措置に抗議し、デモや集会へと立ち上がった。もちろん、これを扇動し利用しようとする勢力もあったが、この時の老人達の怒りは金で動員されたとかではなくて真正のものだったのである。プーチン大統領への支持率は、20%も落ちて50%周辺にまでなった。彼が大統領に就任して以来、最も低い支持率である。経済もさえなかった。10年間での「所得倍増」をうたったのはいいものの、2005年1月の成長率は前年同期比で4,4%に止まり、倍増計画実現は難しくなった。2004年12月のウクライナ大統領選挙では、プーチン大統領が内政干渉のそしりを受けながらも露骨に支援したヤヌコヴィチが、「オレンジ革命」を掲げた西側志向のユシェンコ大統領候補に無残に敗れた。ウクライナは旧ソ連2番目の大国、そしてロシアの軍需工業がまだ数多く立地する重要な国だが、それがその1年前のグルジアに続いて米国のNPOが主導する「民主化」運動のために西側寄りになってしまったのである。

 モスクワのパワー・エリートは‐――それは、現在権力の主流となっている諜報関係者、そして政治家、官僚、軍人、そして有力実業家のゆるい集まりである―――「包囲されている」というロシア人特有の恐怖感を高め、「プーチンではもたないかもしれない」と口に出す者さえ現れた。そして3月には、キルギスでの議会選挙をきっかけにして「チューリップ革命」が発生し、アカーエフ大統領はその地位から追放された。旧ソ連諸国での「民主化革命」は連鎖反応的症状を呈してきたのである。モスクワのマスコミは色めきたち、「ロシアにも『民主化革命』が近い。ウクライナのがオレンジ色だったのだから、ロシアでは何色の革命が起こるだろう」という面白半分の論議で論壇を賑わわせた。

 その頃僕は東京にいて、そうか、今のロシアをフランス革命後の情勢になぞらえれば、エリツィンはロベスピエール、プーチンはナポレオン、そして今は新興ブルジョア層による七月革命が起こるところにでも相当するのか、と思ったものだが、前回にも書いたように実際のモスクワは革命前夜のような気分には全然なかったのである。それどころか、事態は逆の展開を示し始めた。それはクレムリンの必死の努力が実ったと言うよりも、「タナボタ」と敵失のおかげなのだが、とにかくロシアは一息ついた。「タナボタ」とは、原油価格の高騰だ。以前からロシアの財政収入の20%以上は原油の生産と輸出から上がっていたのだから、ロシアは笑いが止まらない。政府は今や約300億ドルもの余剰資金を抱え込み、インフレを生みかねない過度の支出を懸命に押さえ込もうとするほどになった。「敵失」とは、欧米諸国のNPOが性急に「民主化」をしかけるものだから、権威主義的な中央アジアの指導者をすっかり警戒的にさせ、ロシアに向かせてしまったことだ。特に、これまで最も対ロ独立性を誇示していたウズベキスタンのカリモフ大統領までが、9.11テロ事件以後国内の基地を使わせていた米軍を追い出し、11月にはロシアと同盟条約を結んだことは、ロシア外交の大きな成果となった。これは、折りしも5月フランスでの国民投票でEU憲法案が拒否されてEU拡大へのモメンタムが後退し、アメリカではブッシュ政権がハリケーン災害への対応のまずさとイラク戦争をめぐる国内批判の高まりに指導力を大きく後退させていた時期と重なった。ロシアは、「上げ潮」であるかのように見え始めた。

 こうしてこの一年間に、情勢はロシアにとって大きく好転した。しかし、だからと言って、ロシアでの経済改革や民主化が進むわけではない。5月ウズベキスタンのアンディジャンで、テロ事件のあおりを食った市民が何百人も官憲に殺され、西側の非難を浴びた時、ロシアは中国と共にカリモフ政権を100%支持する姿勢を直ちに見せた。現在のロシアは復活しつつあるその力を背景に、むしろ以前の権威主義的政治スタイル、そしてニヒルなパワーポリティクスを復活させつつあるのではないかとさえ見える。

 90年代前半、ロシアは自らの共産主義時代を罵り、自由・民主主義という言葉に酔ってみせたはしたものの、仲間になったと思った西側からは説教と嘲りだけで、貧困から救い出してくれるはずだった援助はもらえなかった。ロシアがソ連時代の対外侵略を反省しておとなしくしているうちに、アメリカは絶対的優位に立つ軍事力をフルに使って外国の政権を倒して恥じない。ロシア人が、「この世界はやっぱり力だ。目には目を、歯には歯を。でなければ、次にやられるのは俺達ロシアだ」と思い、人権やモラルは二の次にして冷徹な打算を前面に出すニヒルな行動をするようになっても不思議はない。経済の市場化が所得格差ばかりを生んでしまったロシアでは、民主主義も共産主義とともに「まがいもの」というレッテルを貼られ、地に踏みにじられてしまったのだ。

「ロシア人というのはもともと―――」という宿命論の誤り

 その昔、僕がアメリカの大学でソ連研究を始めた時、一番驚いたのはロシアも昔は民主的だったということだ。ロシアというのは、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルとバルト地域を結ぶ河川商業路の上に築かれた、一連の都市国家から始まったのだが、その都市国家の中にはキエフやノブゴロドのように、大商人達から成る「市会」(ヴェーチェ)が市長を選び外部から将軍を雇って自治を行う、共和民主制を取るものがいくつかあった。東ローマが衰退せず、またモンゴル軍が東から攻めて来なければ、こうした都市国家ではイタリアの諸都市と同じルネッサンスの華が咲いて不思議はなかった。だから僕は、「ロシア人はもともと人種的に民主主義とは縁遠いのだ」というようなバカげた宿命論は、取らない。

 ロシアの現状は、ロシア人の遺伝子ではなく、その歴史に大きく起因している。12世紀の西欧に農業生産力の急上昇とそれによる商品経済の再興をもたらした三圃制耕法はロシアに伝わらず、農民は生産性が低いまま土地に縛り付けられ、実に19世紀半ばまで農奴のままだった。西欧ではローマ教会からの独立は新興ブルジョア階級にも支持され、個人の精神を教会による支配から解放したが、ロシアではコンスタンチノープルの東方正教会からの独立-――それは17世紀に決定的になった‐――は皇帝の権力を強化しただけだった。ロシアにも修道院はあったが、早い頃からその財産は君主に没収されたためか、西欧でのように勤労精神、学問、先進技術の発信地になるよりも、退嬰的な神秘主義にふける場合が多かったように見える。

 ロシアでも「ゼムスキー・ソボール」と呼ばれる議会の走りが16世紀からあったが、それは恒常的なものでなく、しかもその性格は皇帝に対する翼賛的なものだった。それは、英国の議会のように国王の専横を抑制するものではなかった。そして英国議会のメンバーたるジェントリー達が農業・工業・海運などにわたる殖産に励み、ついには産業革命を起こしたのに比し、ロシアの貴族達は皇帝の絶対的権力の庇護の下に大土地所有に安住するだけの者が多かった。19世紀の西欧が近代的な国民国家を作り上げていく中で、ロシアは実に1905年の第一次革命まで絶対主義を貫いた稀有な国なのである。西欧は、植民地帝国と産業革命の富の中から国民国家を作り上げていったが、ロシアは絶対主義国家が植民帝国を作ったままで推移したため、その性格はササン朝ペルシアや中国の唐のような古代国家に似ることになった。

 「個人」をローマ教会から解放し、主権国家、そして自由な個人を生んだルネッサンスや宗教改革は、ロシアではなかったのである。ロシアでは18世紀初頭のピョートル大帝の時代になって初めて、産業革命前夜の西欧の息吹が伝えられ、19世紀になって初めてロシアなりのルネッサンス、宗教改革と称していいようなものが起きたのだ。それは、マルクシズムやアナーキズムに根ざした革命思想であり、打倒するべき権威はローマ教会ではなく皇帝の権力そのものだった。それは、外部の者による支配から個人を解放するというよりも、自国の権力を暴力で倒すことを目指したものだった。農奴が人口の大半を占める国としては、それはまた当然のことだったろう。悲劇的なことだ。

「集団所有権」の伝統と共産主義

 「ドクトル・ジバゴ」の映画を覚えておられるだろうか? ジバゴがある日岳父の家に帰って来ると、広かったマンションは一部屋ごとに見も知らぬ貧しそうな家族に占拠されていて、肝心の持ち主だったジバゴ一家は自宅の一室に押し込められてしまうのである。1917年のロシア革命は、こうした大衆の占拠行動を野放しにしたらしい。工場も銀行も労働者や従業員が相次いでその「所有」を宣言し、次いで「国に捧げて」しまった。こうしておけば、彼らは絶対に解雇されることがない。レーニンは経済の最も重要なセクターや企業を国有化することだけを考えていたが、彼が当時の日記で「後れたロシアの大衆には運営できるはずがないではないか」と嘆くほどのスピードで、経済は「国有化」されてしまったのである。

 西欧や日本では早くから自営農家が生産の主流だったが、ロシアでは農奴は「ミール」という村落共同体に属し、耕作する畑は地味の不公平がないように毎年振り替えられるところもあった。つまりロシアでは所有は大衆による集団的なものであり、貴族はただそこから年貢を取っていただけとも言える。欧米の個人主義は個人の所有権で裏打ちされているから、「所有的個人主義」と呼ぶことができるが、ロシアのは「所有的集団主義」とでも呼ぼうか。

 こうしてロシアは国民国家の段階を飛び越え、絶対主義から一気に直接民主主義の国になったかに見えた。それは、「ミール」が耕地をローテーションしていたのと同じく、資産をすべて公のものとして平等に分配しようとしたのである。そのためには他人と違ったこと、新しいことをして「不当な」利益を上げようとする者は、力で押さえつけられなければならなかった。大衆の主権は共産党に授権され、共産党員は特権を享受しつつ、秘密警察を使って大衆の意思を代行した。「少々貧しくてもいいから、今ある富を皆で平等に分ける」プロレタリア独裁の体制が作られたのである。

共産主義体制の破壊―――改革のつけは一般市民に

 ゴルバチョフは、この共産主義を破壊しようとはしなかった。彼は、一種の規制緩和、つまり制度の手直しで共産主義を再活性化しようとした男である。だが彼はそのやり方に失敗し、むしろ共産主義を一層破綻させた。それを決定的に破壊したのが、エスタブリッシュメントに逆らって台頭してきたエリツィンだ。彼は共産党の資産を強制的に没収し、国営企業の民営化を進めることによって旧エリートを根絶しようとした。

 ロシアは、大混乱に陥った。秘密を握る共産党幹部達は検察の追求から自分の名誉と家族を守るためか、相次いで自殺をはかり、公用車を使い放題だった党事務局のエリートも鞄を小脇に満員の地下鉄で通勤することになった。6,000パーセントに達したインフレは市民の貯蓄を紙くずと化し、それまで共産党が差配していた流通網には「マフィア」と称される非合法分子がはびこった。利権争いは熾烈を極め、モスクワの街路では昼日中から撃ち合いが繰り広げられた。僕もその頃のモスクワを車で走っていて、道路に転がる死体を見かけたことがある。公権力が弱体化したために犯罪は町にはびこり、普通の市民が街頭や自宅で強盗に遭うことも日常茶飯事となった。モノやサービスが足りないソ連社会では、コネが市民の大きな資産だったが、「改革」はそのコネをずたずたにし、誰が誰より偉いのか、誰に何を頼めばうまくいくのか、二,三年は誰にもわからない状況だった。そして、何かと言えば西側に援助を要請するばかりになってしまった、ロシアの国際的威信も地に墜ちたのである。ロシアは、国民国家の最低要件である治安、安定した生活そして国際的威信のどれも提供できない国家となった。

 その混乱の中から、オリガルヒと呼ばれる新興の大資本家達が現れた。彼らのうちある者は共産党の若手幹部、またある者は路上でカン入りのガソリンを売って金をためた「たたきあげ」だったが、いずれも石油を輸出する利権、国家予算を自分の銀行で扱う利権などをコネで手に入れ―――明治初期の三井、住友などと何と似ていることか‐――、急速に成長した。1996年の大統領選挙では、エリツィンの再選はほぼ絶望的な状況だったが、彼は大型国営企業の株をオリガルヒに売り渡して選挙資金をひねり出し、逆転当選を遂げた。オリガルヒは隆盛を極め、マスコミは彼らの下に系列化された。中には自前の諜報機関を備えて大統領府を盗聴する者まで現れ、彼らの車列は時には大統領の車列と覇を争って、ボディーガード同士が殴り合いの騒ぎになったことまである。そして、大衆の生活は中々に楽にならなかったし、上との格差は広がる一方だった。大衆の間には、「俺達の資産を勝手に奪い取って私利をあげている」オリガルヒに対する憎しみと恨みがどすぐろい黒雲のように渦巻くようになったし、「経済改革」という言葉も完全に信用を失った。

「改革の悪」矯正を期待されるプーチン

 プーチンはこのような状況の中で、エリツィンから政権を禅譲された。エリツィンとその周辺の既得権益には手をつけずに社会の安定化をはかることのできそうな人物、として目をかけられたのである。国民も、治安、生活水準と国際的威信の回復への輿望をプーチンにかけた。プーチンが清廉に見えたことも期待を高め、大衆はこの人物なら憎きオリガルヒ達を退治して富を自分達に「返してくれる」のではないかと思った。

 それは禅譲ではあったが、自由な選挙の洗礼も受けなければならなかった。かつてあらゆる生産手段を国家が独占していたがゆえに、今でも大多数の利権が政府の手中にあるロシアでは、政権の交代は経済を支配する者達の交代、つまり革命のような変動につながりかねない。ソ連崩壊以後何とか新しい統治・利権構造を作り上げたエリート達は、そのような変動は金輪際見たくない。できれば、選挙のようなリスクは冒したくないのだ。そもそもロシア帝国やソ連の歴史では、民主的な政権交代はそれまで起きたことがない。だが、ゴルバチョフのペレストロイカ以来定着してしまった自由な選挙を一夜で覆せば、国の内外に批判の声が満ちるだろう。

 だからロシアのエリート達は、せめて選挙をできるだけ自分の描くシナリオ通りに運ぼうとして、秘術の限りを尽くす。民主主義より権威主義が未だに強いあの社会で、「PR会社」なるものがモスクワにも地方都市にも林立し、選挙の時ともなれば彼らに多額の資金が流れ込んで―――というのはテレビが民営化されているために放送料金がかかるのだ‐――、「政治はロシアの主要な産業」という状況を呈する。そこは、「何でもあり」の世界だ。政権側は野党議員に郊外の一軒家を提供したりして懐柔するし、政権側の候補者には選挙のずっと前から政府とマスコミ、そしてPR会社が一体となって「ラスクルートカ」(イメージ作戦)を施す。

 プーチンの場合、それは1999年12月のエリツィン大統領辞任の半年前から行われた。彼は1999年8月に首相に任命され、知名度の飛躍的向上への切符を手に入れた。それから間もなく、モスクワなど一連の都市で大衆のアパートが深夜爆破されて崩壊し多数の死傷者を出す事件が続発した。当局は、これをロシアからの独立を策すチェチェン共和国のテロリストの仕業だとして、チェチェンに軍隊を差し向ける。モスクワの識者の大半は、軍隊はチェチェンをロシア本土から隔離するところで止まるだろうと予想していたが、進軍は続き、遂には首都グローズヌイ制覇にまで至ったのである。

 チェチェンについて強持ての発言を続けたプーチン首相は、この強硬策のシンボル的存在となり、チェチェン人のテロを恐れるロシア人大衆からの支持はうなぎのぼりになった。エリツィンからの「禅譲」は、その真っ只中で行われた。モスクワのパワー・エリート達は、プーチンの「ラスクルートカ」に見事成功したのである。

「未だリハビリ中の国家」、ロシア ---「人民独裁」の復活? 

 プーチンは、エリツィン時代に出来上がった統治・利権体制の手直しをしている。市場経済・民主化の看板はまだ下ろしておらず、エリツィン時代の「行き過ぎ」を是正していることになっている。エリツィンはゴルバチョフを追い出すために地方に独立をけしかけ、「欲しいだけ主権を取れ」と言っていたが、これの後始末が行われた。地方の法令は連邦の法令と合致させられ、地方の知事もエリツィン時代の公選制から大統領による指名、地方議会による承認制に変わった。様々の利権を国家からせしめ、その利益でマスコミを買い占めて国政に過度の介入をしていたオリガリヒ達は、ベレゾフスキーやグシンスキーのように海外に追いやられるか、ホドルコフスキーのように僻地の収容所に押し込められた。今や財政収入の30%程度を稼いでいるだろう石油部門では、再国有化の動きが進んでいる。

 このような一連の動きは、西側であれば社会から大きな反発を受けるだろう。だがロシアの大衆は、これを歓迎している。「指導者が『鉄の拳』で権力をふるい、国の富をくすねていた悪者を退治して我々の手に取り戻してくれた」というのが、彼らの気持ちだ。それは、数々の世論調査からも見て取れる。そしてプーチン政権は一連の人気取りの仕上げ‐――それは2007年の総選挙の準備でもあるだろう―――として、原油価格高騰のあがりを大衆にばらまく姿勢を明確にした。2005年には歳出の5%相当の補正予算が組まれ(日本であれば4兆円ほど、という感覚)、2006年には40%(!)もの歳出増(日本であれば35兆円程度、という感覚)が予定されている。

 ロシアはまた、共産主義時代のような「人民独裁」を復活しつつあるのではないか? 新しい富を作るよりまず、手元にあるなけなしの富を皆で分配してしまおう、一人だけで儲ける者、他人と違うこと、新しいことをやる者、言う者は、公平な分配を阻害するから暴力で叩き潰してしまおう、というのではないか? だが、この広い国に真の富は天然資源しかない。だからサッカーに例えて言えば、ロシアという国ではフォワードもハーフもバックも全員が血眼になって広いコートの上を利権、あるいは富という名の一つの小さなボールを追って走り回っているのだ。

 経済構造は脆弱なままである。インフラは老朽化して、建物崩壊、停電、漏電火災があとを絶たず、重化学工業の設備更新は遅々としているし、耐久消費財の市場は西側企業に抑えられている。だからこそ、微妙なバランスの上に成立している現在の権力・利権構造というボートをできるだけ揺らさない国家運営が求められているのだ。ボートが揺れれば水が入り、社会は再び90年代の大混乱に陥りかねない。ロシアは未だリハビリ中の国家なのである。

 静かに体力をつけるには、不満分子や異分子をできるだけ抑えつけておかなければならない。影響力の小さな雑誌では何を書こうと勝手だが、テレビ・ニュースは自主規制・他主規制の下で野党的コメントは滅多に聞かれなくなった。企業でも政府の干渉を免れているのは、元からあまり盛んでない中小企業であり、彼らでさえも常に役人から賄賂を求められ搾取されている。

 そして今の政権では他ならぬ大統領をはじめ、諜報機関出身者が幅をきかす。彼らは人民独裁の司祭としてロシアの静かなリハビリを差配しているのだが、そこには理想とか情熱の炎はない。あるものは人間の業に対する醒めたニヒルな目であり、ロシアのマスコミは彼らも時には自ら利権に手を染めていると報じている。プーシキンの詩で言えば、「閃きもなく、命の輝きも愛もなく」(「あの奇跡の時」より)といったところか。

民主主義は根付くのか?

 この前の大統領選挙はつい昨年の2004年だったが、世間は気の早いもので早くも2008年の大統領選挙を話題にしている。11月に大統領府長官だったメドベジェフは第一副首相に横滑りさせられたが、これを左遷と見るか、次の大統領候補含みと見るかで、モスクワの論壇は見方が分かれている。まだ時期尚早のようだが、前期の事情に鑑みれば、パワー・エリートの側は現在の利権構造を維持したまま円滑な政権交代を如何に実現するか、既に策をめぐらせ始めていても不思議ではない。僕が6月モスクワに行った時には、一部の者がプーチン大統領三選―――憲法では二選までしか認められていないし、プーチン自身三選は求めないと言っている‐――の方向を推進していた。たとえそれが駄目でも、1964年ソ連エスタブリッシュメントがフルシチョフを追い出してブレジネフを後継として担ぎ出した時と同じく、「今のエリートの一員であれば、誰が大統領になっても大丈夫なのさ。国民は政治に飽きているし、理念とかヴィジョンとかは信じない」とモスクワっ子が僕に言う状況だから、原油価格の暴落やハイパー・インフレでもなければ―――来年度の財政支出が40%も増加するのが心配だが‐――大きく崩れることもあるまい。

 ロシアの政治は、ソ連時代に比べると透明性が一見、はるかに増した。政治家、官僚、マスコミ関係者などとのアポイントメントは、欧米諸国でよりも取りやすい。問題は、重要な政策・人事の決定が少数の者の手に握られているため、「真の情報」はソ連時代と同じくらい取りにくい、ということだ。たとえクレムリンに乗り込んで実力者に話しを聞いても、本当のことはなかなか教えてくれまい。

 現在のロシアの政治スタイルは、多くの点でソ連時代のそれを思い出させる。この国を動かしているものは下からの民主主義などでは毛頭なく、相変わらず上からの指示、つまり権威主義なのである。日本の会議を支配するものは官僚的形式主義だが、ロシア政府の会議を支配するものは凍りついたような軍隊的規律、上司への絶対的服従である。それならば「鶴の一声」で全政府が効率よく動くかと言えば、そうでもなく、省庁間の熾烈な争いは予算配分を総花的なものにして政策の重点をぼやけさせてしまう。そして、実に多くのことが賄賂で決まっている。国全体のことを真剣に考えている者は、どのくらいいるだろう?

 ロシアはまだリハビリ中だ。しかし本当に回復できるかどうか、また回復したとしても近代的な民主主義国家になれるかどうか、そこはまだわからない。もし今手元にある富を分配し尽すだけの国になるなら、西側的な民主主義は成立しないだろう。富の配分を公平にするには強制力が必要だし、そうなれば権威主義もなくならないだろうからだ。最近ますますリベラルになって一見欧米と見分けがつかないロシアの現代青年達も、一時のベンチャー志向は消えて大企業への就職志望者が増えている。来年のロシアという舞台は更に明るくなるのか、あるいはまた暗転するのか、それはまだ誰にもわからない。(了)

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