Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2005年10月08日

ハワイ、ロサンジェルス滞在記

Ⅰ・ハワイ

1.「帝国の肌は荒れている」

 ハワイで空港の外に出るのは、実に今回が初めてでした。ホノルルは思っていた通り、「アメリカ的」な街でした。緑の芝生の公園では、スプリンクラーが惜しげもなく水をまいていて、水路のほとりには路上生活者が寝転がっています。一見立派なコンドミニアムが立ち並んでいますが、近くに寄って見れば、建物のラインはどこかでこぼこで、ペイントの表面はつやがありません。「帝国の肌は荒れている」ことが普通なのです。おそらく、低賃金労働者を使って建設やペンキ塗りをやっているため、神経が行き届かないのでしょう。こんなことはロンドンでもパリでもモスクワでもそうです。しかしここは楽天的で、観光客用の木組みのバスが目の前ですごい音を出して加速したかと思うと、混血のアジア風の運転手がその加速に頭を後ろにそらしたまま走り去っていきました。

2.抹殺された王朝と観光資源と

 カメハメハ大王の名前は知っていましたが、これほど偉大な人とは知りませんでした。ハワイ諸島が彼に統一されたのはやっと19世紀の初頭。彼はオアフ島ではなく、溶岩と密林のハワイ島の王だったのです。彼の作った「砦」の跡を見に行きましたが、どこまでも碧い海の岸辺にまあ100メートルくらいでしょうか、割と原始的な組み方をした石垣が残っているだけです。まあ彼としては、白人の植民地主義がどんどん進みつつあるのを肌で感じ、ハワイの近代化と独立維持を何とか達成したかったのでしょう。

 で、オアフ島に「アメリカ唯一」だとアメリカの白人達が自慢する「王様の宮殿」(Royal Palace)-――イオラニ宮殿---というのが残っています。暑いハワイに赤坂離宮をこぶりにしたようなフランス風の瀟洒な石造りの宮殿が造られたのです。そこでは、アメリカによるハワイ併合の哀しい歴史が展示室で写真と説明つきで観覧に供されています。

アメリカ本土に無数にあるカジノは多くの場合、アメリカ・インディアンに利権が与えられ、そこには「何何族の歴史」が白人による弾圧の事実も隠さずに展示されているのと、よく似た現象です。少数者による権利の主張と、白人のうちの良心的な勢力の努力が合わさって、こうなっているのだと思います。

カメハメハ大王も街頭に立っている褌姿の英雄ではなく、きゅうくつそうに背広を着た写真を残していますし、彼以降の国王、女王は皆、まるで明治時代の日本のエリートそっくりの「最近欧化したばっかり」ルックで写真に収まっています。当時はイギリス帝国主義全盛期で、王族達もロンドンに留学するのが普通だったようですが、アメリカのインディアンと同じく、ヨーロッパの病原菌に免疫がなかったために、ロンドンでハシカ(!)にかかって病没したりしています。

 独立を守るための遮二無二の欧化、強い白人の文明に対するねじれた憧れと劣等感、これらは明治期の日本を想起させるものがあります。そして面白いことに19世紀後半のハワイのカラカウア国王は、一八八一年初めての世界歴訪で日本を最初に訪れ(日本にとっては最初の国賓来訪だったようで)、明治天皇と会っているのです。彼はそこで、日本とハワイが「太平洋同盟」を結ぶことを提案したのですが、日本側から拒絶されます。その代わり、「白人の持ち込んだ病原菌で人口が4万人にまで減ってしまった」ハワイを助けるためとして、日本側は移民を送ることを約束します(以上は、ガイドを無料で立ち聞きしていた結果。実は明治元年から移民は行っていたようです)。

 アメリカ人やフランス人たちは、「所有権」という概念を知らず、全島を入会地みたいにして共同体的な社会を作っていたハワイの原住民達をこけにして、島をどんどん侵食し、最後はアメリカ人がLikiulokalani女王を宮殿に幽閉までして、ハワイをアメリカに併合してしまいました。女王は、アメリカ資本と結びついて利益を上げていた地元実業界から裏切られたようです。そして幽閉された女王がやるせない思いを歌にしたのが、あの「アロハ・オエ」。

それをハリウッドの白人達がスチール・ギターなる奇妙な楽器で「ハワイアン」なるヨーデルの変形のような(ヨーデルにポルタメントをつければ、ハワイアンのメロディーになるでしょう)音楽を仕立て上げ、これもオリジナルとは全く違うセクシーなフラダンスの伴奏に使うようにしてしまったのです。今の「ハワイ」のイメージは、白人が「未開の地」に対して抱くイメージを自己演出し、誇張したものなのでしょう。

しかしこれは、日本が朝鮮を併合した時の経緯を想起させるものがあります。日本は千九百十九年、李朝の末裔、高宗を毒殺した、と物の本にはあります。

 アメリカ人がハワイに魅せられた理由の一つには、あの真珠湾があったようです。地図を見ればわかるように、真珠湾は大きな割には外洋の荒波から完全に遮断されていますし、当時世界中で鯨を殺しまくっていたアメリカの捕鯨船の寄港地、アメリカの西漸の基地としては理想的なものがあります。当時は、ロシアもハワイに色気を示していました。ロシアの荒くれ者はサンフランシスコ近くにまで、植民地化の企てをしていたのですから。日本も完全なシロではありません。併合の時に起きた住民の暴動の際、日本も軍艦を派遣しています。それにアメリカは一九九三年に「謝罪法案」と呼ばれる130-150法案を採択し、策謀の存在を公式に認めているそうです。
 昼下がり。イオラニ宮殿の横の公園には、”Royal Hawaian Band”と横腹に大書したトラックが止まり、近くにはブラスバンドの一隊が演奏前のウォームアップを始めています。Royalというのは、カメハメハ王朝を持ち上げているのでしょうが、このブラスバンドのメンバーは殆んど白人。皆、白いユニフォームで芝生の木陰で、ぶかぶか、どんどん演奏を始めます。

3.パール・ハーバーを覚えていますか?

 ハワイに来たのであれば、パール・ハーバーを見に行かない手はありません。ワイキキからタクシーで行ったのですが、地図で見るのとは違って随分遠くてメーターが上がり、気が気ではありませんでした。パール・ハーバーでは戦艦アリゾナが米兵の遺骨を抱えたまま沈んでいる上に作られた「アリゾナ記念館」に行きます。これは海上にあるので、船で行くのです。アリゾナ記念館の近くには、小学生の頃作った「戦艦ミズーリ」の模型によく似た船がもやっていましたが、後で聞くとやはりミズーリでした。記憶では十年くらい前まで現役で、今も完全に廃役になったのではないと思います。思ったより小さくて、戦艦大和や武蔵はあれより二倍弱も大きかったんだぞと思うと、妙に誇らしい気になりました。

 アリゾナ記念館は、人を本当に神妙な気持ちにさせます。日本攻撃の時亡くなった方々の名前が壁にずらりと記されています。浅い海底には、アリゾナが横たわっているのが見えるのです。こんなことは絶対繰り返してはいけません。自殺的な行為しかできないほど日本政府を追い詰めてしまった、一部の日本人の独善的な行為、そして世界情勢の複雑さをあえて無視した蛮勇には今でも反吐が出ます。アリゾナ記念館行きの船が出る建物だったかと思いますが、日本の真珠湾攻撃の模様が詳しく説明されています。しかしそこにはもはや、”Remember Pearl Harbor”とかそれに類するような敵意ある言葉はもはや見られず、聞かれませんでした。勝者の余裕だと言ってしまえばそれだけなのでしょうが、靖国神社の遊就館における「欧米植民地主義」への敵意に満ちた好戦的言辞と比べると対照的でした。僕の方が真珠湾のことを覚えておこうと思って、ゼロ戦の図柄にパール・ハーバーとあるTシャツを買ってきた次第です。

4.長閑さとセグリゲーションと

 バスに乗っていたら、小さな白人の老婆がリュックに犬を「つめ」、ミネラル・ウォーターのペット・ボトルと本を持って入ってきました。彼女が片手でカネを出し、のろのろとバスの後ろに歩いていって座るまで、運転手は発車せずに待っていたのです。発車すれば彼女は倒れると思ったのでしょう。

 あるタクシーの運転手は、サモアからやってきたというサモア人の女性でした。ハワイは米国であると同時に、太古の昔からの太平洋諸島との関係も相変わらず続いているのです。この女性はもう3回も夫を代えていて、「4人目のボーイ・フレンドはイラン人なんだよ。ご飯時になると携帯よこしてね。一緒に食べようってんだよ。優しいじゃないか」ということでした。タクシーの運転手にはなぜか韓国人が多かったのですが、彼らは韓国が未だ貧しかった時代にハワイにやってきて、韓国が良くなったと言っても今さら戻れない、と言っていました。ハワイに200人も親戚がいるが、一堂に集まる機会も滅多になく、次第に縁は薄くなっているようでした。

 ハワイ群島最大の島ハワイ島(キラウェア火山のある島)は大型の牧場がいくつかあることで有名ですが、日系人も多数いるようです。ハワイ島の西半分は乾いた溶岩地帯、東半分は密林地帯なのですが、我々夫婦は東のヒロといううらぶれた町に泊まりました。夜、これもうらぶれたファミリー・レストランに行きましたら、おそらく日系人が関係しているのでしょう、大きな力士の人形がおいてあり、メニューには「ワンタン・ヌードル」というのがありましたから、それを注文しました。するとまさに「ワンタン・ラーメン」そのもの。それも、麺は少し伸びてはいるものの、かん水の匂いがぷーんと漂う、まぎれもなく古風な場末のラーメンでした。

 そのハワイ島は、変化に満ちています。南の果てに行きますと、そこはマウナロア山。アメリカ人は「海の底から測れば、エベレストをしのぐ世界一の高さだ」と、変な威張り方をしていました。山腹にはキラウェア火口があって、噴火を続けています。溶岩が流れる様子は見えず、暗くなってから行くと、赤く光るのが見える程度ではありましたが、風ふきすさび船影もない不吉なほど蒼く白い太平洋と、草木一本生えていない月世界のような溶岩原がほとんど地平まで、人気もない中にのびていき、その向こうで溶岩が海に入る時上げる水蒸気が高く高く上っているシュールリアルな光景は、忘れることができないものです。

 ハワイ島の北東の端のWaipioという海岸には、深く内陸に切れ込んだ谷がいくつかあります。外房のような崖の海岸を思い浮かべてください。海に突き出た崖の間では黒い砂浜に白い波が打ち寄せ、小川の流れる緑麗しき野原が内陸の密林にまで伸びています。折りしも西日を受けて、この開発の手の入っていない地はまさに桃源郷のような趣をたたえます。この谷に下りていくと、ハワイの原住民達が昔通りにタロイモを栽培して暮らしているのが見られるのだそうで。

 折りしもこの崖の上にはちょっとしたテラスがあって、その飲み物売り場からはラジカセのロックと若者の大声が聞こえてきます。行って見ると、この谷に住む原住民達の子弟が、週日はヒロで働いているのが週末になるとここで集まって騒いでいるところでした。曙のような体型の青年が、しかし髪は茶髪に染めて、コーラ片手に親達の生活を解説してくれます。わかりにくい英語。まだアメリカ本土に行ったことはない、と言うと、秘かな惧れに誇り高い顔をゆがませました。でも、「ここにはいい奴らRight peopleしかいないからな。またいつでも来てください」ということでした。

 ここから素晴らしい舗装道路を1時間ちょっと走ると、西岸のリゾート地コナの空港に着きます。ここの空港ターミナルはこぶりの建物がいくつも並んでいて、それぞれが藁葺きの原住民の住居のスタイルを模した、面白いものなのです。でも、ここに来ると、乗客は不思議なことに白人が圧倒的になります。それも、何故か北欧系の金髪、碧眼の人達が。Discriminationとは言いませんが、Segregationの世界が始まったようです。彼らに囲まれ、ロサンゼルスに向けて飛び立ちました。

Ⅱ.ロサンゼルスと白人の栄華

1.ロサンゼルスには僕の友達がいて、歓迎してくれました。アメリカ人と結婚している日本人の画家・写真家で、夫の引退とともにそれまでいたボストンを引き払って夫の故郷カリフォルニアに戻ってきたのです。このカリフォルニアは面積は日本にほぼ等しく、人口は三千六百万人で米国の州では最大、そしてGDPは世界で5位だそうですから、一州だけでフランス、イタリアなみの経済力を持っているのです。ロサンゼルスは人口四百万人で、全米第二の大都市、スモッグに包まれ広い盆地に果てしなく広がっています。地元の人達は、ここを「内陸帝国」(Inland Empire)と呼んでいます。乾いた砂漠に栄えている全米第二の都市。水の供給を考えるだけでも、大変なことです。

 で、僕の友人夫妻はロサンゼルスから南へ一時間ほど下ったラグーナ・ビーチというリゾート・タウンに居を構えています。ちょうど熱海のようながけの中腹に、アメリカで言えば中産階級の上以上、日本で言えば上流階級そのものの人達の家が、様々の意匠で並んでいます。日本の標準では大きいものですが、住み込みの女中などがいなくてもやっていける程度の規模で抑えてあり、お城のような大邸宅はこのあたりではありません。全体の印象は贅沢というよりは、質素なものです。それでも、友人夫妻は自分のアトリエを持ち、家を様々のアートで飾り、毎日太平洋に沈む夕日を満喫できるのですから、その生活はちょっとしたものでしょう。僕達夫妻は、友人が近くに借りてくれたホテル式コンドミニアムに寝泊りし、友人のセカンド・カーであるBMWのオープン・カーを下駄代わりに使って三日間を過すことになりました。

(これまでは、日本での生活水準もなかなか上がったものだ、それも格差が小さいのだからたいしたものだ、と思っていたのですが、このカリフォルニアから帰って来ると、日本の生活水準はアメリカに持っていくとやはり中流の下ぐらいだろうな、それでも全員が同じようなレベルだからそれでもいいかな、と思った次第です。アメリカに比べると人口密度が大きいことは一目瞭然で、それをこれだけの水準に維持しているのは大変な業績です。)

2.Segregationと繁栄

 ロサンゼルスでは、アメリカ社会の多民族化の実態とそれがピューリタン的な価値観に及ぼしている影響について調べたいと思っていました。ところが、今回滞在したオレンジ郡は名うての白人居住地帯。それも裕福な白人達の居住地帯だったのです。海を見下ろす高台には十億円もする、成金のお城がたっていますし、コンドミニアムでも白人しか見かけません。そして彼らはあのファスト・フードと脂っこいポテト・チップの食べすぎで風船のように膨れ上がった一般アメリカ人とは違って、すらりとした北欧タイプなのです。よくアメリカ、イギリスのことをアングロサクソンと言いますが、本当のアングロサクソン人達はイギリスがノルマン人に征服された時に山の方に追いやられてしまい、イギリスの支配階級はそれ以来実際にはスカンジナビア人(デンマーク人は今でも、イギリスには特別の思い入れを持っています。ちょうどイギリス人がアメリカに対して持っているのと同じような)だったのですから、アメリカの上流に北欧タイプがいて不思議はありません。

 ビバリーヒルズのホテルでセミナーでも終わったのか、客がぞろぞろ出てきて別の会場に移動していきます。それぞれ自信たっぷりの白人ばかりで(もっとも日本でも、こういう時には自信たっぷりの日本人しか目にすることはありませんが)、稀に黒人が混ざっています。白人二人に黒人の若い紳士が一人、連れ立って歩道を行きますが、黒人は話の輪に入れてもらえません。彼は一生懸命会話に耳をすましつつ、時々立ち木が行く手を遮るのを背の高い彼は身をかしがせて避けますが、連れ合いの白人はそんなことにはお構いなしです。白人中心の経済団体などに、黒人が申し訳のようにメンバーとして加えられているのはよくあることで、これもそうしたケースだったのでしょう。

 アメリカによくあるようなショッピングセンター「モール」を戸外にばらけたような、ビバリーヒルズの目抜き通り。一見瀟洒なしかし個性のないブティックが並び、判で押したような同じ香水の匂いが漂ってくる、典型的なアメリカ風景。ヨーロッパ人が見たら、吐き気がしてくることでしょう。そしてその中を、現在の繁栄、自分の豊かさが永遠に続くと確信して疑ったこともない、といった風情の連中が歩いていきます。惨めな生活にあえぐ途上国の人達が、何か不公平なものを感じてアメリカに憎しみを感ずるようになるのは、一つにはこうしたことがあるからでしょう。

ロサンゼルスの街中に行くと、そこは全く多民族の社会で、市の人口の五十二%が「ヒスパニック」(中南米系、ここでは主としてメキシコ系)ですから、どちらがどちらに同化するのかわからない状況になっているのです。ところが、白人はロサンゼルスのヒスパニック居住区には中々行きたがらない。危ないというのです。こうなると、事態は「多民族化」と言うよりは、良く言われている「サラダ・ボール」現象を呈してくるのです。

 こうした差別化は、人種差別(Discrimination)というよりは人種住み分け(Segregation)と呼ぶ方がふさわしいでしょう。白人以外の者が引っ越してくると周辺の地価が下がるので、デベロッパーは意図的に人種毎の居住区を「設定」しようとします。僕の知っているボストン近郊でも、ユダヤ人が集中的に住んでいる区域や、黒人中産階級が集まっている地域というように、住み分けが行われていました。こうした世界では、趣味の世界でも「住み分け」が行われていて、好みのスポーツも違っていたりするものです。クラシックのコンサートは、今でも白人が聴衆の殆んどを占めています。

 ただ、こうした住み分けが人種のラインに沿ってだけ行われているかというと、そこは段々変わりつつあります。白人だけが住んでいた郊外の住宅地に黒人やベトナム人が引っ越してくる例もちらほら出ています(但しここでは彼らは絶対少数派ですから、価値観、挙動においてWASP化が求められます)。つまり住み分けは人種よりも所得水準、つまり所属「階級」に沿って行われる場合もあるようです。それでも、「ヒスパニック系の人が金持ちになっても、白人居住地区の高級レストランには行かない」という言葉が示すように、そのプロセスはのろのろしたものでしょう。

 ワシントン中央政界にもWASP以外の人材が進出しています。ロサンゼルスの市長には今年、史上初めて「ヒスパニック」がなりました。それでも、全米レベルでは人口の50%以上が白人である現状では、それ以外の人種が政治家に選ばれる機会は相対的に小さなものがあります。少数民族出身の政治家が社会全体の利益を調整しようとすると、別の少数民族が反発することもあるでしょうから、WASPはここではアメリカ社会の最大公約数のような存在になってきたのかもしれません。あたかも政治はWASPの天職であるかのような

3.資本主義と原罪と

 ところが日本人や中国人は、こうした住み分けを意識してかしないでか、白人の居住区、白人のスポーツ、白人の趣味の世界へ平気で踏み込んでいきます。まるでTrickstar(いたずら好きの妖精)」であるかのように。いや、それも「近代化」、経済発展の必須条件だと思い込んでのことかもしれません。まあ、単にテニスが面白いからという人が大半でしょうが、我々があえて見て見ぬふりをしていることが一つあります。それはどの先進経済も、他の国、他の民族からの収奪を行うことで、その経済発展の端緒を築いているということです。アメリカはインディアンを殺し、今まで誰も住んでいなかったような居住区に追いやり、ハワイを併合しました。

イギリスはリバプールのジェントルマン達が奴隷貿易で巨万の富を築いたあと(奴隷に反対したことになっているアメリカ、ボストン界隈の大資本家も、実は奴隷貿易で大枚の利益を上げているのです)、背後のマンチェスターに大紡績工業地帯を築き、インドの綿織物工業を強制的に壊滅させ、更には中国にアヘンを強制的に売りつけて栄華を築きました。日本は、日清戦争や義和団事件での賠償金で工場を築き、収支勘定については論争があるにしても朝鮮、満州などの地域に自分の経済を無理やり拡張しようとしたのです。

 つまり資本主義社会の栄華は、決して勤勉とか競争力とかだけで築かれてきたものではない。他者を収奪して財を築いた、あるいは今でも時々力で収奪している、こういった「原罪」を持っています。製造業の競争力で正直に食べているつもりの我々ですが、戦前はひどいことをしましたし現在でも、かつてひどいことをしたことのある、あるいは今でもしている国々に自分の製品を売りつけて生きているのです。

 インドの人力車の車夫はこの上なく勤勉です。でも彼らの生活は走っても走っても良くならない。力で他者を収奪することなしには、経済を飛躍的に発展させることはなかなか難しいのです。平和な時代に、安い賃金で競争力を高め世界市場を制覇しようとしても、ブランド力や販売網のない新しい企業ではなかなかうまくはいかないのです。資本主義は、あるいは資本主義も、ですから最後は力と力のぶつかり合いがものごを決める、「肉食獣の世界」なのでしょう。日本のビジネスマンも何とかやっていますが、それは羊に牙をつけたようなもので、アメリカ人やヨーロッパ人の迫力にはなかなか敵わない。

 長年マルクシズムと付き合ったおかげで、物事の本質を見破ろうといつも心がけているロシア人達も、この辺は最初から十分心得ているようです。マフィアも交えての資産の奪い合い、撃ち合い、殺し合いの世界から勝ち上がってきたロシアの若手実業家ほど、肉食獣を彷彿させる人種はないでしょう。彼らは忙しい仕事のかたわら何人もの女性を囲い、レーシング・カーをぶっとばし、空手や射撃をたしなみ、アフリカのサファリに出かけるのです。明日をも知れない生活では、刹那の快感を求める気持ちが強くなるのです。
 
4.地方の政党組織

 ここらへんでの政党組織はどうなっているのか、一言で言うと次のようになります。共和党、民主党それぞれに地域毎の議長というのがいて、ほとんどボランティアの職員を使っては集会などの日常活動を組織しています。それとは別に、上院議員、下院議員達も自前の事務所を持っていて、これはこれでまた別の活動をやっています。まあ、日本でも同じようなものではないでしょうか。

 他方、インターネットは新しい政治運動の胎動を感じさせつつあり、例えばMove onというネット上の組織(会員数はまだ三百万人ですが)がこれからどのくらいの力を得るか、その力をどのように使っていくかは面白いところです。

5.アメリカの宗教過激派?

 「ネオ・コン」の基盤の一つにキリスト教原理主義があると言われて久しいものがあります。進化論に反対してみたり、隣近所に教条的な布教をして怖がられたり、これまで自由や合理主義の根城として我々が考えてきたアメリカを根こそぎ変えてしまうのではないか、と危惧させるものがあります。ことは、アメリカの「ソフト・パワー」、つまり他者から見たアメリカの魅力にかかわってくるのです。ですから、今回の旅では地元のPomona College(全米で七番目の評価を受けているカレッジ)の社会学者、心理学者数人とだべって、そこらへんの感触を聞いてみました。
 その結果、現在の原理主義活発化の背景には、この三十年以上アメリカが経済的には日本などに押されぎみ、国内的には黒人や女性の権利が高まるにつれて白人男性が押され気味であったこともあるのではないかということでは、意見が一致しました。また合理主義が社会の主流を占める中で、無神論に近い人達には精神分析が牧師への告白に代わる役割を果たしてきたのが、最近精神分析やカウンセリングの有効性に疑念が呈されていることも、宗教的関心を増大させるもとになっているようです。

 他方、今回初耳で面白いと思ったのは、米国では教会が国家から分離していること、つまり国家が教会を財政的にも支援している一部ヨーロッパ諸国(例えば戸籍を教会が管理していたり)に比べると、「教会が民営化されている」とでも言える状況にあることが、多くの現象を解く鍵になる、ということです。つまり、教会各派はサバイバルをかけて趣向をこらしては必死に布教せざるを得ないのです。そうすると、宗教が時には「ポップ・カルチャー」的な性格さえ持ってくるのです。

 それかあらぬか、あるいは社交の場としてか、アメリカでは週末になると教会に行く人がヨーロッパに比べて圧倒的に多いようです。「アメリカ人が宗教的である」と言われる時の指標としては、この「教会出席率」が主なもののようです。でもこれは、別に心の中まで測って言っていることではないのです。例えば北欧では人々が教会に行くことは稀ですが(教会は国家の支援を受けています)、バランスの取れた敬虔な宗教心を持った人はアメリカより多いでしょう。

Ⅲ・多民族化はアメリカの価値観を変えるか? ‐ーー国境の町ティフアナへの旅


 
近年のアメリカの多民族化には目を見はらされるものがあります。これまでは価値観が似ているヨーロッパからの移民が主であったのが、今ではヒスパニック系の移民が増えていることが特徴です。米国国勢調査によれば、ヒスパニックの人口は一九九〇年の二千二百万人から二〇〇四年には四千百万にほぼ倍増し、総人口に占める比率は十四%強で既に黒人を超えています。ハワイ、ニューメキシコ、カリフォルニア、テキサス州では、白人がマイノリティになっています。つまりアメリカと言えばマッカーサーのような高圧的な白人を思い浮かべていた我々も、根本的な意識の転換を迫られているということです。我々の話しかける「アメリカ人」が一体どういうメンタリテイを持っていて、我々のすること言うことをどう捉えてどう反応してくるのかは、予測が非常に難しい時代になりました。

全米で最大のヒスパニック人口千二百万人を持っているのはカリフォルニア州です。ロサンゼルスは四百六十万と、郡としては最大のヒスパニック人口を擁しています。アジア系についても事情は同じで、カリフォルニアは全米最大の五百万人、ロサンゼルス郡は郡として全米最大の百四十万人のアジア系市民を抱えています。
そのロサンゼルスに来た以上はメキシコとの国境も見て置こうというわけで、友人夫妻に頼んで国境のメキシコ側の町ティフアナ(Tijuana)に、往復四時間かけて連れて行ってもらいました。そして途中のサン・ディエゴでは友人のそのまた友人である、メキシコ出身の画家と食事をともにしてメキシコ出身者の心象風景を教えてもらいました。

1. ティフアナで

ティフアナという町は元々は牛の牧場だったようですが、アメリカが禁酒令の時代から自由に酒の飲めるところ(今でも高校生たちが年齢制限に関係なく自由に飲めるところとして、大挙してやってきます)、女性や麻薬を楽しめるところとして発展したようです。ですから、一部には罪悪の町、Sin cityとも言われていて、今でもその体質は残っており、町の奥まで入っていくと治安は保証されないようです。

ここにはシーザー・ホテルというのがあって、そこで出したサラダがシーザー・サラダの発祥なのだそうです。その後、カリフォルニア住民のためのショッピング・センターとして発達し、紛いのブランドものとか、アメリカでは処方がないと買えない抗生物質を安く自由に買えることで人を集めていたようです。今でも松本キヨシのような大きな薬品スーパーが軒を並べています。その後カーター政権の時代にNAFTA(北米自由貿易協定)ができますと、米国への輸出を狙って日本などが工場を作り、今のような大都市に発展したようです。

ロサンゼルスから海岸沿いのハイウェーを突っ走ることほぼ二時間、国境に着きます。車でメキシコに入ると、またアメリカに帰って来る手続きが大変なので、ほとんどの人は国境の駐車場に車を置き、三々五々徒歩でパスコンを通ります。旅券を見せてくるくる回るバーを押すと、何のことはない、そこはもうメキシコ。タクシーはアメリカと同じあの黄色の大きいゴキブリみたいな車体なのですが、カーラジオから流れ出てくるのはスペイン語の流行歌です。そして初乗りは六十円で、アメリカのほぼ十分の一になります。物価は安いのですが、あたりの様子はアメリカとは歴然たる差があります。サン・ディエゴが整然とした街であるだけに、その活気はあっても雑然とした様子は余計に目に付くのです。

帰りのハイウェーには、「人間が横切るから注意」という標識がありました。これは、国境をくぐって密入国が盛んなところで、夜間入国してきたばかりのメキシコ人がハイウェーに飛び出すこともあるからなのだそうです。国境は三メートルほどの高さの金属板で延々と仕切られ、所々に監視塔が見えます。この金属板は、一九九一年の湾岸戦争の時に臨時滑走路として使われたものを利用しているそうです。

2. メキシコ出身者の心象風景

 メキシコ・インディアン系の画家と食事を共にしました。名をラウル・ゲレーロと言って、その端正なヨーロッパ的な顔立ちは、ハリウッドの映画に出てくるインディアンの酋長にそっくりでした。一般にメキシコ以南の原住民(インディアンと言われていますが)達は我々にも似てモンゴル系の血を思わせるのですが、北米のインディアンはどこか我々と違う形質を感じさせるものがあります。これは、白人と混血した結果かもしれないし、あるいはもっと古い時代、ユーラシアからやってきたケルト人あたりと混血した結果かもしれません。ボストンから車で一時間くらい北に行った林の中には、ルーン文字を刻んだケルトの石作りの大遺跡があるのですが、これはまだ発見が新しくアメリカ史の中にきちんとは位置づけられていないのです。

 ラウルの家は、祖父母の時代にメキシコから移住してきたそうです。彼は、未だにメキシコとアメリカの社会の間で、悩んでいました。要するに、双方の社会のどちらにも居場所がない、ということにその悩みは尽きます。メキシコ系アメリカ人に対する呼び方からしてデリケートなものがあって、Mexicanと言うと差別用語なのだそうです。だから彼自身は嫌っているのですが、チカーノという言い方が今では通っています。

ここで、彼の話を紹介します。「メキシコでは肌の色によって社会的地位が決まる。スペイン系、スペインと原住民の混血、そして純粋な原住民の間では歴然たる差がある。そして、自分の生活を握っているボスに対してはいつも卑屈にふるまっていないと生き残れない社会なのだ。芸術の世界も学歴主義だ。だから個人主義的なアメリカの社会とはそぐわない。キューバ人はもっと自己主張が強くて、同じスペイン語系でも違うところがある。
メキシコを捨てて移住すると、裏切り者と思われてもう帰ることはできなくなる。自分はカリフォルニア美大とカリフォルニア州立大バークレーを卒業したし、自分ではアメリカ人だと思っている。インディアンの血を引くと言ってもその考え方はもうわからない。ところが自分はメキシコの歴史に関心を持っていて、それを作品にも反映させているのだが、メキシコ・モチーフというものはアメリカ社会では受け入れられない。

 ロサンゼルスでは、駐車場、レストラン、バス、あらゆるところで、スペイン語を話すと扱いが良くなる。それは、こういうところで働いているのは殆んどヒスパニックの人達だからだ。彼らの集団主義的な価値観がアメリカ全体の価値観を変えていくかどうか、それはまだわからない。もしアメリカが帝国主義的な国になってしまったら、それもあり得るだろうが。

ああ、ところで俺はもっと霊感が欲しいと思って、この前ナヴァホ・インディアンの居住地にいるMedicine Man(まじない師)のところに行ってきたよ。彼のテントの前にはジープが沢山並んで、皆順番を待っていたな。」

3. 価値観の同化は可能か?

 日本では意識されていませんが、アメリカがこれまでのリベラリズム、合理主義、個人主義を保ち続けるかどうかは、世界全体の運命にかかわってくることです。アメリカがこうした価値観を放棄して他人を力だけで押さえつけるような国になってしまったら、友好国はなくなってしまうでしょうし、例えば日本も国内におけるこれまでの素晴らしい自由度を維持することは難しくなるでしょう。だから、異なる価値観を持った新しい移民達をアメリカが同化できるかどうかに、僕は大きな関心を持っています。

 アメリカ自身、そのことをちゃんと意識していて、だからこそ真剣な努力を払ってきました。例えば学校ではバイリンガル教育と言って、スペイン語でも全ての教科を学べるようにしたのです。ただ、このようにしますと、生徒が一向に英語をマスターしないという問題が起こります。ですから、この頃では授業は英語だけでという方向にまた変わりました。

 そこにいくと、黄色人種は一応素直に同化してしまうようです。サン・ディエゴのカリフォルニア大学では、学生の四十五%がアジア系ないしアジアからの留学生なのだそうですが、彼らはアメリカの価値観を身につけていて摩擦は起こっていないそうです。

そして黄色人種はなぜか教育を重視します。一概には言えないのでしょうが、ヒスパニック系の若者はそれほど教育を重視していないそうです。彼らは移住してきたばかりの親達が小さな商店を苦労して切り盛りしてきたのを見ていますが、大学で学位を取ってもっといい生活をしようとするより、商店より「もっと儲かる仕事」を見つけようとする安易な態度が勝っているそうです。

 それは、「最初から諦めている」(ポモナ・カレッジの学者談)ためかもしれません。メキシコからリスクを取って移住してきた一代目は企業家精神を持っているが、二代目はそれに劣ることがある(同右)ためかもしれません。三世になるとさすがにスペイン語は忘れるそうですが、価値観、振る舞いには集団主義的なものが残り、いつも自分達だけで固まっているそうです。それでも、生きるために英語やWASP的な価値観、振る舞いを身につけ、いわば両刀遣いとして生きる者が多くなるそうです。

 ここにいくと黒人というのは、アメリカ社会で本当に興味ある存在です。彼らの多くはアフリカのどこから祖先が連れてこられたかわかりませんので、実は「最もアメリカ的な」(ポール渡辺教授の言葉)存在なのです。意識の上でも彼らはアメリカを自分の国と思い、白人だけの国とは全然考えていません。我々を帰りのロサンゼルス空港に送ってくれたのは黒人の運転手でしたが、大学中退の彼の英語は本当に格調が高く、アメリカ政治についても深く見据える姿勢が印象的でした。

彼によれば、「カタリーナ・ハリケーンによる大被害の後、ブッシュ大統領がカリフォルニアで遊説を続けていたのは非常に大きな過失だった。ニューオリンズの市長が民主党であることは報道されていないが、ワシントンが当初冷たかったことに大きく関係しているだろう。今回の被害はニューオリンズばかり報道され、ブッシュ政権も黒人票を失わないために百億ドル兆単位の支援を約束しているが、ハリケーンで壊滅的打撃を受けたのは実はミシシッピー州なのだ、とにかく今度のブッシュ政権の対応が悪かったために、南部の黒人達は次回の大統領選ではもっと投票に来るだろう、そして共和党を南部から追い出すだろう」ということでした。

 黒人は、アジア系とは違ってハリウッドの映画にはほとんどいつも登場してきます。白人と黒人の間の違和感は、三十年前に比べると比べ物にならない程小さくなった感じがします。三十年くらい前から始まったスクールバスでの黒人・白人の同乗(バシングと言います)などのような意識的な努力、法制面での縛り、労働組合からの圧力等、多くのことがあってここまで来たのです。立派なことです。

 違和感があるかないかという観点から言えば、アジア系アメリカ人と白人との関係も、昔よりはるかに自然になったでしょう。特に日系人はどこか高潔なところがある上に、アメリカ的にオープンで自由闊達な気風も身につけていますから、その高い能力もあいまって非常に立派な市民になったと言っていいでしょう。ロサンゼルスでは黒猫ヤマトの宅急便のトラックも走っていますが、外見はアメリカ的なデザインになっています。

Ⅳ・ポモナ大学での講演

 ロサンゼルス北郊のClaremontという町には、Pomona Collegeという大学があります。ここは元はレモンの積み出しをやる町だったのが、デベロッパーが地価を上げるためにカレッジを誘致し、その後いくつか別の大学やカレッジも立地して、大変な学園都市になったのだそうです。

Pomona Collegeは、カレッジとしては全米第七位の評価を受けているそうで、芝生と深い緑に包まれたそのキャンパスは天国のようでした。友人の紹介で、僕はここで「中国は世界をどのように変えたか」と題する講演をして、次のことを言いました。

① 物事を見るには、縦横の視点が必要だ。縦は歴史であり、横は周囲の状況、他国との比較を意味する。

② 中国の歴史は、中央アジアからモロッコまで広がるオリエント文明(今ではイスラム文明と言われているが、元はメソポタミヤ、エジプトの流れである)、モンゴルやトルコのような遊牧民の歴史、そして中世までのヨーロッパの中心であったビザンチン帝国との相互関係において見られなければならない。

  中国は実際には多民族国家であり、ソグド人、ペルシア人、遊牧民族はその軍事・経済・政治に常に参画してきたのだ。

③ 現在のアジアに米国は大きなプレゼンスを持っており(米国自身にとっても、対アジア貿易の方が対欧貿易より大きくなっているように、アジアは不可欠な存在になっている)、アジアでのStatus quoを維持するためにも引き続き重要な地位を有している。  太平洋を捨象して考えれば、米国がアジアの一員であることは明白である。
(等々まだあるのですが、長くなりましたのでこの辺で)

 講演をするといつも得るところがあるのですが、今回は次のことを感じました。

① アメリカ人は競争とか力比べが非常に好きな人達です(勝てれば、の話ですが)。彼らは大衆レベルでは、どうも日中が張り合っているのを楽しんで見ている気味があります。特に石油をめぐって日中がデス・マッチを繰り広げるだろう、というのが最近のニューヨークタイムズが広めている見方だそうで、ここらあたりアメリカ人の頭にも、自分の頭にも少し冷水を浴びせる必要があります。

② アメリカ人は、中国の方が日本よりはるかに大きいと思っています。ところが中国では日本が非常に大きい存在に見えるわけで、そこらへんの感触がアメリカ人にはわからないのでしょう。僕がGDPを基にして国のサイズを変えた世界地図を示しつつ、中国のGDPは日本の約五分の一であると言いましたら、聴衆から嘆声がもれていました。

③ 日中関係をめぐっては、客観的なピクチャーを常にアメリカ人に広報していかなければなりません。昔MITのダウアー教授に、パール・バックの「大地」がどんなに戦前のアメリカ世論を中国に対して同情的にしていたか、その中国を襲った日本をどんなに憎んだかを聞かされたことがあります。

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