Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2002年03月08日

「日本モデル」の盛衰 - 再生への方途

(原文はロシア語。2002年東洋学研究所発行の「日本年鑑」に掲載)

Ⅰ・はじめに

紋切り型の理解に囲まれた日本

日本は、多くの紋切り型の理解に囲まれている。例えば、日本の経済は遅れた封建時代から突如として興隆したとか、第2次大戦後の「奇跡」は労働者が企業に盲目的に服従していることによるものだとか、日本では政府があたかもソ連のように経済を完全に管理している、等である。

日本は、「非白人」国では世界で初めて大きな発展をなし遂げた国である。かつて日本は、西欧の植民地主義にならって領土拡張をはかり、戦後はその輸出の大幅な増加が欧米の産業に大きな打撃を与えた。このため日本は、先進国の疑惑と羨望を招くことになった。欧米諸国は、日本の経済発展において、何か「アンフェア-」で「後進的」な理由を見いだそうとし、それが日本についての数々のステレオタイプを生むことになった。

欧米によれば日本は、その社会の「後進性」を利用して発展した国である。つまり、過度とも言える集団主義、勤労熱心、女性の低い地位などである。欧米にとり、現在の日本の経済不振は、そうしたことの論理的帰結なのである。つまり、遅れた社会が「経済のグロ-バリゼ-ション」に対処できなかったというのだ。

しかし、日本の現実ははるかに複雑である。日本は、後進性の闇の中から「突然」起こったわけではない。資本、経営のノウハウ、そして工学的な技は、封建時代の終わりまでに既に蓄積されていた。そして第2次大戦の前までには、大都市においてはかなり大きな中産階級が形成されていたのである。

「日本モデル」の神話

「日本モデル」についてはよく論議されるが、その確かな定義はない。しかし殆ど常に そして時に否定的なニュアンスをもって 指摘されているのは、終身雇用、年功序列、企業内における「家族的」な関係、意思決定におけるコンセンサスの原則とそれに伴う徹底的な根回し、稟議制、そして政府による「厳格な」経済管理である。

しかしその際、肯定的な面が見落とされることが多い。それは、企業のメンバ-の間での情報共有度の高さ、恒常的なロ-テ-ションが社員に多くの経験を与えるとともに癒着と腐敗を防ぐこと、そして戦略的、またはオペレ-ショナルな決定策定における中間管理職の強いイニシャティブである(もっともこれは、企業によリ異なっており、企業の多くで官僚化が進行していることによって消えつつある) 。

言葉の定義の問題は別にして、日本が「日本モデル」のみによって経済的な奇跡をなし遂げたというのも、誤りだろう。戦後、重要な役割を果たしたのは、内需の爆発的拡大と、良好な世界景気であった。「日本モデル」について言えば、成長を促進したのは、整備された銀行融資程度のものである。「日本モデル」のその他の要素、例えば終身雇用と年功序列について言えば、経済成長の原因というより成果というべきだろう。

「日本モデル」は、工業化促進による高度成長という使命を既に果たした。成長の機関車 最初は内需、そして次に輸出 が弱ったことにより、日本は現在の水準を維持するためには別のモデルを必要としているのである。

しかし、不況から脱出するためには、次の「モデル」やイデオロギ-を探す必要はないだろう。それは、日本においてもロシアにおいても同様である。日本の抱える課題はプラグマティックなもので、それは政府、企業、教育そして社会全体の再編成と別の方向づけである。この作業はかなり難しいものとなるかもしれない。大企業に官僚制が根を下ろしている他、政府の資金への依存体質(特に建設部門で強い)が残り、教育においては「平等」に過度の重点が置かれて、児童の覇気を奪っているからである。

Ⅱ・資本、ノウハウ、手工業の蓄積(封建制の終わりまで)

産業革命までの主要な生産手段は土地であった。日本の歴史も、生産手段である土地の所有形態をめぐって、展開した。

大和朝廷は実質的に土地所有を独占し、農民に田畑を与えた(689年の班田制)。間もなく土地は貴族の手に集まり(荘園制)、それも間もなく次第に現地での運営を担当した地頭の手に移った。地頭は、荘園の安全を守った力の組織、即ち侍と組むか、自ら侍となった。

国家による土地所有が崩壊したことは土地所有権を不安定なものとし、中世における長期の不安定な時代を招来した。既に領主となっていた地頭達は互いに戦ったが、彼らは同時に高地を拡大し、高山を開発し、手工業を奨励した。

当時、中国はアジアのみならず全世界における貿易と工業の中心地で、明王朝が栄えていた。西欧は未だ後進地域であった。川勝平太他の学者の研究によれば、当時の日本は国際貿易に積極的に係わっていた。日本は世界一の金輸出国であり、砂糖輸入国だったのだ。そして明王朝の没落のため、日本は陶磁器の輸出も盛んに行うようになった。

17世紀から19世紀にかけての日本の鎖国は、日本経済の「グロ-バリゼ-ション」を止めた(鎖国の原因についての、確立した見解はない。自分の見解では、主要な原因は政治的なものであったと思う。一神教とも言える一向宗の信徒が起こした反乱の後、江戸幕府はキリスト教の影響力が日本で増大していることに警戒感を抱いた。しかしながら他面では、鎖国の開始はあたかも偶然であるかのように、日本の金銀の生産量の低下と時期的に一致しているのである)。奢侈品の輸入は続けられたが、日用品、つまり砂糖、綿花、食用油その他は自給する自給自足の経済を作り上げねばならなくなった(現在では、これらの農産品は日本で殆ど生産されていない。競争力を有していないからである)。

これらの産品、就中米の取引は、日本全国規模で行われた。日本の島々の沿岸には、航路のネットワ-クが張りめぐらされ、大阪では巨大な商品取引所が開かれて、そこでは世界で最初の先物取引が米をめぐって行われた。

大都市では大商人が現れ、手工業及び文化は最高の水準に達した。日本人は当時、現在程には勤勉でもなく時間に厳しくもなかったようである(時間厳守は、西欧の産業革命の産物のようである) が、多くの者が子弟を寺子屋に送り、読み書きと計算を覚えさせた。こうした寺子屋においては、伝統的な儒教的価値観を教えたばかりでなく、勤労の哲学も教えた。石田梅岩が神道、仏教、そして儒教を混合させた独自の勤労哲学を創始していたのである。このわかりやすい哲学、「石門の心学」は、その本質においてプロテスタンティズムを想起させる。つまり人間は、正直な行いと勤労によってのみ、社会における自分の存在を正当化できるというのである。

つい最近まで日本においては、江戸時代(1603年-1867年)の高い文化水準を再評価することが流行した。この点について、いくつもの学問的・一般的な著作が発表されている。これらの著者は、都市インフラの高い水準(江戸における水道システム、大阪における運河網等)、 広い階層に広がった文化(歌舞伎、浄瑠璃、大量の出版、そして新聞に相当する瓦版)、高度の手工技術(例えば、ねつけ)、 高い権利意識(都市における侍の地位は、その窮乏化もあいまって低下し、町人を理由もなく死傷させようものなら、糾弾された。農村においては農民はしばしば一揆を起こした)、特に天領における農民の所得水準の高さ(ここでは生産量が高くなったのに、年貢の量が長期にわたって改定されなかった) 等に注目している。

これらの著作は、日本では封建制の終わりにかけて実質的に市民社会が形成されつつあった、との結論に達している。絶対的権力が不在であったこと(権力は江戸幕府、天皇、そして地方の藩の間に分散されていた) も、その一因であったろう。このように多少とも平等主義的な社会の雰囲気は、井原西鶴の作品や落語に反映されている。

しかしながら彼らの主張については、バランスをもって見ることが必要である。なぜならこれらの論者は西側の文明に幻滅し、明治の産業革命の中で易々と捨てられてしまった「素晴らしい」過去を振り返りたいという、社会の雰囲気に影響され過ぎているからである。

Ⅲ・日本の産業革命と「日本モデル」の生起

第2次世界大戦まで

「日本モデル」は、150年の間に形成された。この「モデル」の様々の要素は、それぞれの源泉を持っており、何か単一の戦略の結果ではない。

明治初期、政府は「富国強兵」のスロ-ガンの下に、急速な産業革命に取りかかった。西側列強による植民地化を防ぐこと、これが当時の統治者の第1の課題だったが、当時の事情としては西郷隆盛に率いられた侍の不満分子の反乱、そしてあり得べき朝鮮との戦争に向けて軍隊を養成する目的もあった。工業化の資金の主要な源泉は農民だった。彼らは当時、殆ど唯一の生産手段、土地の所有者だったからだ。年貢は一律の地租に代わって貨幣で納められることになり、実際の負担は江戸時代よりはるかにきついものとなった。政府は工場を建て、次第にそれを江戸時代から存在していた住友、三井、鴻池のような大商人に払い下げていった。ここから、日本における財閥が形成されたのである。

このようにして、「日本モデル」のうち二つの要素が形成された。つまり、政府と財閥による主導の下での経済成長である。財閥や政府の工場(特に軍の工廠) の周辺には一連の中小企業が現れて、大企業の注文を過酷な条件で引き受けるようになった。高い税負担のため、農民の大部分は窮乏化して貧農や単なる小作人と化し、土地を失った。

しかし、日本の経済自身は急速に成長していった。時として内需が不足してデフレを招くことはあったが、一連の戦争は需要を刺激した(1894年の日清戦争は、莫大な賠償金をもたらし、1904年の日露戦争は生産を刺激し、1914年の第1次大戦では脇にいたことで欧州諸国から大量の注文を受けることになった)。戦争は、良い方向にであれ、悪い方向にであれ、常に経済の分水嶺を成す。例えば米国が関係した三つの戦争、つまり南北戦争、第1次大戦そして第2次大戦はその都度、大きな経済成長をもたらしている。

封建制終結から第2次世界大戦までの70年弱の間に日本は、重工業を創出し、都市化を実現し、多数の中産階級を形成した。これらは、当時の映画を見ればよくわかる。

しかし日本の経済はそれでも、後進的な性格を脱却していなかった。日本の輸出の主要な品目は絹であり(1940年、全輸出の13%)、機械部門は未だ低い水準にあった。家電製品(掃除機、冷蔵庫の類)の普及は、米国で始まったばかりだった。日本が大きな役割を果たすようになる大衆消費社会は、まだごく初期の段階にあったのである。

工業化の進展とともに、「日本モデル」の他の要素、就中、終身雇用と年功序列が現れた。ここで気をつけておくべきなのは、終身雇用は法律ではなくただの習慣であったということである。これは、日本に特有のものではなく、同様の習いは高い能力を有する社員と労働者を必要とする社会においては、米国、西欧も含め、どこにでも存在しているものである。しかも、日本で終身雇用がもっとも盛んだった時期でさえ、この制度が全社員と労働者に及ぶことはなかった(この点については、小池和男の「仕事の経済学」が貴重な国際比較デ-タを提供している) 。

終身雇用は生活の安定を保証するが、それが過度な性格を帯びると社会全体を官僚化させ、イニシャティブとアイデアの欠如、そして過度の服従を生むものである。

戦後の日本においては、ある企業で長い間働いたあとでは、他の企業への転職が実質的に不可能になった。他の企業から高給で転職してくる者は、その社内で嫉妬と不満を助長させるからである。株主と取締役会の力が弱いことも、こうした傾向を助長した。

第2次世界大戦後

第2次大戦における敗戦は、日本にとり悲劇であったが、いくつかの「日本モデル」の要素をその後に残すことにもなった。戦時中の経済の統制強化は、政府が経済活動に介入する可能性を高め、年功賃金制も全経済に普及することになった。

現在、ロシア経済が軍需の民需転換に苦しんでいることに鑑みると、日本の軍需産業が強制的に完全に撤廃されたことは、皮肉にもそれ以降の経済発展のために理想的な基盤を創り出した。民需品を生産するための条件が現れ、しかもそれは、米国、西欧、そして次いで日本に大衆消費社会が始まりつつある時に、起こったのである。

日本経済の回復と高度成長の理由については、多くの神話が存在している。日本人自身、時として大げさな理論の虜となって、「日本モデル」を持ち上げる。

しかし、終戦と朝鮮戦争の間の期間を振り返ってみると、日本が政府の単一の一貫した戦略によって再建されたのではないことがわかる。実際には、日本政府、占領軍による様々の政策、そして社会における時には相矛盾した動きや流れが合わさって確固たる基礎を形作り、朝鮮戦争が高度成長への引き金を引いたのである。

しかしながらそれでも、日本政府が取った措置の中で、次のものは実効を上げたと思われる(思われると書いたのは、この問題についての実証的な分析を見たことがないからである)。

(1)電力・製鉄部門への傾斜生産。

これは、1947年から48年にかけて行われた。この間、これら分野での投資に政府資金が占める割合は、最大65-87%に達した。これら部門の生産は回復した(しかし、これが傾斜生産によるものであったか否かについては、十分な証拠はない)。

(2)政府による、外貨の集中管理(1955年まで)。

この措置は、1992年以後のロシアと異なり、外貨を消費財の輸入に浪費することを妨げ、先端技術の輸入を促進した。日本は、魚ではなく釣り竿を購入したのである。

(3)政府による厳格な管理と、活動分野のしっかりした仕分けの下に、銀行システムが再建されたこと。

日本の銀行は、戦前、戦後に失われた、市民の信用を取り戻すことに成功し、企業は銀行による短期・長期の資金を使って急速な拡張を始めた。

(4)税制を長期にわたって安定させたこと(いわゆるシャウプ税制) 。

(5)日本に有利な円レ-トの設定(1949年)。

そして、占領軍が存在したことは、社会の安定維持(1947年には、ゼネストが禁止されている。マルクシズムの影響は、労組の間に非常に強かったのである) と改革の促進(農地改革、財閥解体、企業指導部のパ-ジ)に大きな役割を果たした。しかし、米国が日本に供与した経済援助の額については、誇張された考えが見られる。日本は、西欧がマ-シャル・プランによって得たような、寛大な無償援助は受けなかった。無償援助は人道的なものに限られ、日本は主として低利借款を受けたのである。それは、資金あるいは現物供与の形で、1945-1952年の間に計24億ドルに達した。これは、当時の日本のGDPの平均4、5%に相当する。それに加えて世界銀行は、日本に860億ドルの借款を供与した(IMFは当時、長期貸し出しは行っていなかった)。

しかし、成長へのより大きな要因は朝鮮戦争だった。米国は日本に、11億ドルにおよぶ様々な軍需物資・武器を発注した他、日本国内で22億ドルの物資を消費した。これらは、当時の日本のGDPの6、2%に相当した。1949-51年に、日本の鉱工業生産は倍増したのである。

高度経済成長と、その動因としての内需と投資

日本の発展の理由として、「日本人の特殊な国民的性格」が挙げられることがある。これには、いくつかの肯定的、そして否定的な意味がこめられている。それが、日本人の意識の中にかなり深く定着している勤労道徳を意味するものであればまだしも、時として「我々ヨ-ロッパ人はそれ程の苦労もせず経済発展をなし遂げたが、日本人はその盲目的な程の勤労によってしか我々に追いつけなかった」と言わんばかりのト-ンが窺われるのは、感情的でナイ-ブな見方である。

なぜなら第一に、日本人も怠惰なことがある。1960年代、植木等の「サラリ-マンとは気楽な稼業ときたもんだ!」という流行歌があったことを想起したい。この歌では、特に向上意欲もなく終身雇用を満喫しているだけの会社員の勤労態度が、正確に描かれている。彼らにとって会社での生活とは、いい加減に働いて、社用で飲むことを意味したのである。

第2に、欧米人も非常に働くことがある。

第3に、日本人は戦後非常に熱心に働いたが、それは自分の企業がうまくいけば、次の年の給与が上がり、ボ-ナスも上がったからである。日本人は自分の会社に盲目的に奉仕しているのではなく、働くことに自分自身の利益を見、また立派な仕事によって同僚の尊敬を勝ちえたいから、働くのである。

それでは、一体何が経済発展の原動力となったのか? 外国の多くの論者は、日本は輸出によって「奇跡」をなし遂げたのだと考えている。しかし、日本が輸出大国になるまでには、かなり時間がかかったのだ。例えば、日本の自動車と家電製品が米国で大量に消費されるようになったのは、1960年代後半である。

第1表から明らかになることは、日本経済の輸出依存度は長期にわたって同じレベルにあったが(例えば、西独より低い)、高度成長が終わり石油ショックがあった頃、次第に高くなり、1985年のプラザ合意で円が上がると再び下がっている。

別の言葉で言えば、日本経済にとって輸出とは、経済成長の基本的な原動力と言うよりは、不況の際の救命具のようなものなのだ(但し、外貨の入手は、先端技術と原料輸入のためには不可欠だった) 。

経済成長の基本的な原動力は内需と、常に増大していった投資であり、それは第1表から明らかである。それに加えて、1950年代後半の日本では「消費ブ-ム」が始まり、電気掃除機、冷蔵庫、テレビ、そして次には自動車という、全く新しい商品への需要が高まった。それは、未来への希望に満ちた明るい時代だった。

また投資が常に増大し、「加速償却」制度も相まって先端技術の輸入を促進したことは、労働生産性を急激に引き上げ、重化学工業の形成を促進した。それは、軽工業よりはるかに大きな影響を、他の分野の成長に及ぼした。なお、投資においては、外国による直接投資の比重が取るに足らないものであったことも、注目に値する(但し、この点についての完全な統計は存在しない)。

大きくなる分け前

 今あるもの全てを分けてしまえば、経済は成長しない。人口が増大すれば、そのような社会は窮乏化するだろう。投資するためには、貯蓄が必要なのだ。そうしてこそ分け前は大きくなり、社会全体がそれから利益を得ることになる。

 戦後の日本は、この単純な真理に従った。確かに労働者は常により多くの分配を求めたが、自分の企業の可能性を越えたものは受け取ることはできなかった。そして官僚であれ企業の幹部であれ、大多数のエリ-トは社会全体の福祉と自分の企業の発展のために働き、質素な給料に甘んじていた。

 1970年頃の時代は、当時の日本人にとり、何か信じられない時代となった。賃金は、急速に発展している分野ばかりでなく、サ-ビスのように相対的に遅れている分野においても、一貫して上昇した。筆者には当時、多くの部門が根拠もなしに高賃金を得るようになったと見えたものだ。サ-ビス等の部門においては、仕事の仕方や生産性は、以前のままだったのだから。しかしこれら部門は、労働力の流出を防ぐためには、賃金を挙げざるを得なかったのだ。この賃金上昇は、サ-ビスの価格を引き上げることによって、賄われた。

 こうした賃金上昇は、ヴァ-チュアルな性格を有していたかもしれない。しかし、第2表が示すように、当時の価格上昇率は殆ど常にGDP成長率を下回っており、これにより生活水準の実質的な上昇が可能になったのである。つまり、高い生産性を持つ諸分野が、社会全体の水準を引き上げたのだ。

 このような「平等な」所得配分を可能にしたものの一つは、「春闘」である。会計年度が終わるたびに、労組の殆どは会社の経営陣と厳しい交渉を行い(それは次第に儀式的な性格を帯びるようになったが)、しばしば激しいストライキも行った。筆者は春ともなれば毎年のように、交通機関のストライキでひどい目にあったことを覚えている。

 しかしこうしたことによって日本は、95%以上の者が自分を「中産階級」と見なしているような社会を築くことができたのである。

成功の原因は政府による経済計画?

  ロシアの一部には、日本の経済発展は「計画的に」、即ちソ連時代の国家計画委員会のように中央が資源を厳格に配分したことによって実現したと考える者がいる。それは、馬鹿げた考えだ。確かに経済企画庁は毎年、経済成長の見通しを発表した。企業はこの数字をそれぞれに解釈して、自分の年度計画を作成した。しかし企業は、これらの年度計画によって法的に縛られていたわけではない。景気が予測より良くなれば、企業は増産するために国の内外の市場で原料や生産用の機械を自由に購入できたのである。

 経済企画庁の経済見通しは主として、年度の予算作成において使われた。別の言葉で言えば、この見通しに基づいて大蔵省は税収見積もりを行ったのだ。経済企画庁に大蔵省から出向している官僚はしばしば、経済成長見通しの数値を低めに抑えようとした。こうすれば諸省庁の予算請求を削りやすいし、歳出増大を求める政治家からの圧力もかわしやすくなるからである。他方、通産省からの出向者は、経済成長見通し数値を高めに設定しようとした。こうすれば、予算歳出も増えて経済を刺激するだろうし、企業の行動はもっと前向きになるからである。こうしたことのため、経済企画庁の「計画」は、実績と一致したためしがなかった(第4表を参照)。

 これに加えて、GDPに占める予算の割合は他の工業先進国と比べてかなり低かった(2000年においてさえ、地方予算を含めても29、4%にしかならない)。防衛予算がGDPの1%を上回ったことがなかったことも、こうした傾向を助長した。しかも政府はこの頃には、価格維持のための補助金を廃止していたのである。終戦直後においては、価格補助金は予算の27%を占めていた。

 時として、日本政府は新技術開発のために「巨大な資金」を投入した、と言われることがある。しかし、多くの場合において政府の役割はシ-ドマネ-の供与、または関連企業を一定の期間、特定の研究活動に向けて調整することに限られていた。そして研究・開発費用の大部分は、企業が支払ったのである。また、他の多くの先進国においては、先端技術開発は多額の国防予算によって賄われていることも、忘れてはならない。ダニエル沖本の著作「通産省とハイテク産業」は、これらすべてを明確に説明している。

 政府の役割は、おそらく金融面において最も大きかったであろう。大蔵省と日銀は、各種の銀行、その他の金融機関の役割を明確に定め業務を厳格に監督することによって、銀行に対する市民の信用を回復することができた(戦前の日本の銀行は、現在のロシアの銀行に似ている。大銀行は主として自分の財閥に奉仕し、中小銀行は水準が低かった)。こうして、国民の貯蓄が企業に回るようになった。政府自身が、国内最大の銀行網、つまり郵便貯金を運営し、開発銀行をはじめとする様々の機関を通じ、資金を私企業部門に還流させていた(郵便貯金は、自分で融資を行うことはできなかったのである)。

 それでも第5表が示すように、資金の還流に政府が占める割合は、高度成長の間でもかなり限られたものだった。しかし日本興行銀行を含めると、様相は変わってくる。日本興行銀行は特別法により長期債券の発行を許されており、それによって企業への長期融資を行った。同様の機能を有していた他の2つの銀行も含め、これら銀行は企業投資の金融に大きな役割を果たした。

 政府予算、財政投融資、地方予算、長期信用を行う3つの銀行を合わせると、これらによる資金の還流は、GDPに大きな比重を占めていた(第7表)。第7表からは、高度成長の後、この比重が過度なものになっていたことがわかる。

 政府による経済への干渉には、別の手段もあった。税制は、経済活動に影響を与える手段として使われた。例えば、戦後の加速償却制度や、環境汚染の少ない機器購入への減免税措置等である。

 経済活動をコントロ-ルするために、諸規制や標準も使われた。特に銀行、運輸、電力・ガスが、こうした規制により過当競争から守られていた。統計を見ると、これら部門の従業員は、他の部門よりも高い賃金を得ていたことがわかる。しかし、これら諸規制や標準は時とともに、政府と企業の癒着を招き、保護主義的措置として批判も招くようになった。

 法的な根拠を持たない干渉、つまり「行政指導」も行われたが、これも統制経済的な性格を持ったものではなかった。つまり、企業の間の盲目的な設備拡張競争を抑えるため、官僚が企業に電話をして投資抑制を働きかけるとか、外国からの批判を避けるため自動車輸出の抑制量を調整するとかのことである(自動車については、競争が厳しいために、企業は自分たちでは輸出量に合意できなかったのである) 。

 そして最後に、日本は十分の時間をかけてから外国に市場を開放したことを、指摘しておきたい。日本がGATTに加盟したのは1955年のことであり、外国による投資の自由化プロセスを開始したのは1967年のことだった。これに加えて、円レ-トが低めに設定されていたことは、市場を保護する効果を持っていた。

 これら全てから言えることは、資金の還流においてこそ政府の役割は大きかったが、日本の戦後の経済発展においては民間部門における競争は維持され、むしろ激化する環境にあったということである(但し、銀行部門は例外かもしれない) 。

発展の成果 その光と陰

  経済発展は、国民の生活を均等化した。日本経済は世界2位を占め、ほとんど世界の工場と言っていいほどになった。貿易、海外投資、そして大規模な経済援助により、国際場裡における日本の地位は高まった。

 しかし、こうした明るい面の陰では問題が生じつつあった。つまり、大きな企業や組織において、慢心と思考の官僚化が生じたのである。多くの日本人は、好奇心と企業家精神を失った。学校教育は時には過度とも言えるほど「平等」に重点を置き、そのため「国際化」とグロ-バリゼ-ションの挑戦に答え得る人材の育成に支障を来すことになった。

 政府と政府系機関による資金の還流は過度に大きな比重を占めるようになり、おそらく資金利用の効率を下げた。こうした還流の機構なしには、収益性の低いプロジェクトに資金は回らなかっただろうが、他方で明らかにあまり必要でない目的にも使われることになった。現在、日本の海岸の多くはコンクリ-トで護岸され、農道も舗装されている。予算に多くを負っている建設部門は、経済において過大な地位を占めるようになった。日本では建設部門に労働人口の10%が働いているが、米国ではわずかに5%なのである。

 日経によれば、1998年、国と地方の予算、そして37の特別会計を合算すると、二重計算分を除いて240兆円、つまりGDPの48、3%を占めていた(財政投融資を入れると、約52%に達する)。

 ここには、大規模になった経済を人工的手段によって維持せんとする側面が見られる。別の言葉で言えば、内需と投資が限界に達したがゆえにたまる一方の貯蓄が政府によって経済に還流されていたのである。

Ⅳ.「日本モデル」の減退 膨脹の限界

  「日本モデル」はグロ-バリゼ-ションの時代には不適格であり、日本経済衰退の原因となった、とよく言われる。筆者には、これは俗な議論に聞こえる。不況の原因は、別のところにある。

危機の接近

  この問題を議論するため、1980-1995年にかけてのいくつかの特徴を挙げてみたい。第1に、これは貿易がグロ-バル化した時期であった。冷戦の終了とともに、世界経済は地理的に拡大した。かつての社会主義圏は西側の商品の輸出市場になるとともに、低賃金ゆえの生産基地にもなった。これら諸国に、改革を行った中南米諸国が加わった。「メガ・コンペティション」の時代が到来し、西側と日本は新しい工業国と競争を強いられる羽目となった(但し、多くの場合において、西側諸国と日本自身がこれら諸国に生産を移転したのであるが)。

 1980-95年には世界全体の輸出が2、5倍になったが、日本の輸出は円ベ-スで1、4倍にしかならなかった(但し、ドル・ベ-スでは3、4倍に増えている。ドル・レ-トの急下降が原因である)。 第2に、80年代終わりにかけて日本では、市場の飽和が如実に感じられていた。日本の家やアパ-トは、様々の電気製品、ピアノ、そしてあろうことか毛皮外套でいっぱいになり、人々は2、3年たつと車を買い換えた。

 バブル経済の時期には、国内需要は高い水準にあった。しかし、バブルがはじけるや、市場の飽和状態が景気に影を投げるようになった。しかも、人口が老齢化するという見通しは税金が上がるという予想を招き、日本人はますます財布の紐をきつくしばることになった。

 従って1990年にかけて、経済の三つの原動力のうちの二つである内需と輸出が下降傾向を見せ、投資の下降も招いたのである。

レ-ガンの経済政策の余波

  1985年にかけて、レ-ガノミックスの「成功」がヴァ-チュアルなものであることは、益々明らかになっていた。米国のGDPは1984年、7%伸びたものの、財政・貿易赤字は急速に膨らんでいった。

 レ-ガン大統領は税率を下げたが、同時に国防支出を増大させ(これは、ソ連にとって最後の打撃となったのだが)、巨大な財政赤字を生むこととなった。この赤字は、国債の大量発行によって賄われた。日本政府と企業は、これに警戒感を抱くことなく米国債を大量に購入し、外国のバイヤ-としてはナンバ-1になった。これは、米国からの圧力を受けてのものではなく、利回りが高いために最も有利な投資対象だったからである(それに、日本の外貨準備のように巨大な「鯨」にとっては、他に泳げる「池」はなかったのである) 。

 日米両国の経済はこうして、癒着することになった。日本は米国への輸出で利益を得るとそれで米国債を購入して資金を米国に還流させたので、米国での金利水準はさらに上がらずにすんだ。この結果、米国経済は更に成長を続け、更に多くを輸入した。日本からもである。

 別の言葉で言えば、ドル紙幣がどんどん刷られることにより、世界経済はどうにかこうにか成長していたのである。皆、こうした図式の危険性を理解していたが、自力で経済を刺激しようとせず、米国のヴァ-チュアルな成功への依存を続けていた。ドルへの信頼が失われれば、この図式のヴァ-チュアル性は直ちに明らかになり、世界の貿易と経済は崩壊するであろう。

 こうした危険性は、1985年に既に実感されていた。米国の財政赤字は、前記のように手当てされていたが、貿易赤字はふくらみ続け、ドルへの信頼を下げていた。当時、好景気と財政赤字によって米国の金利は上昇していたが、これは外国からの投資を誘い、ドル・レ-トを益々押し上げることになった。これにより、米国からの輸出はますます困難になり、貿易赤字を増やすことになった。

 このような状況にあった1985年、G7の蔵相会議がニュ-ヨ-クで開かれ、ドル・レ-トの徐々の引き下げについて合意した。しかし、これら諸国が金融市場で有する力は、世界の市場を自由に動き回る資金の巨大な量に比較すると、限定的なものでしかないことが明らかになった。ドルは、急激に下降したのである。円はドルに対し、1984年の257円から1987年には122円に急上昇した。

 米国の輸出は、1984-91年に1、9倍になった。それに対し日本の輸出は円ベ-スで、0、5%の増加しか見せなかった。この時までに日本は既に安定成長の時期に入り、高度成長の時期に比し国内市場は飽和状態にあった。こうして日本は、成長の原動力としての輸出を失ったのである(1978-84年には、日本の輸出は92、6%伸びていた)。

 日本政府は、財政支出を拡大し(1984-90年に34、6%の増大)、公定歩合をほとんどゼロに下げて、内需と投資を刺激しようとした。

 当初は、すべてがうまくいくかに見えた。GDPは、1984-91年に51、8%上昇し(時価ベ-ス)、日本の「黄金時代」が訪れた。日本はほとんど「世界の工場」と化し、一部の日本人はもはや欧米に学ぶものはないと豪語するほどになった。米国とEUは、日本が経済成長を実現して世界経済を支えてくれるよう、頼み込んできた。米国の輸入は、1985-1990年に46、7%しか伸びなかったが、日本の輸入は80、4%伸びたのである。

 国際政治においても米国は、日本が「大国としての貢献」を行うよう求めた。日本は、経済援助の最大の供与国となり、自国領土における米軍配備費用の4分の3を負担するようになった(今やこうした時期は終わりつつあり、経済援助の最大の供与国は再び米国になっている)。当時、英国の「エコノミスト」誌は、「サンキュ-、ジャパン」と題する記事を掲載したほどである。日本は、おとぎ話のあの可哀相なカエルのようにいきみ、自分を膨らませていった。

 しかし筆者は覚えている。当時、ある大企業に勤めていた友人がこう言ったのだ。「大変なことになるぜ。今は何とかもっているけど、早晩、大量解雇をやらなきゃならない。そうしなきゃ、アジアと到底競争できない」 そして、大変なことになった。カエルはおとぎ話のように、破裂したのである。1990年、日本銀行が公定歩合を上げたことが、破滅への引き金となった。不当に上昇した地価、株価は短期間のうちに下落し、銀行融資の抵当の価値を下げた。そのため「不良債権」がたまり始め、銀行は融資を減らすようになった。そしてそれは、経済不振をますます悪化させた。景気悪化-融資削減-景気悪化の悪循環が生じたのである。

 BISによる決定も、事態をさらに悪化させた。この時点までに、日本の銀行の海外業務は西側の銀行に脅威を与えるようになっていた。国内での低金利を利用して、日本の銀行は海外においても低金利の融資を提供し、日経によれば世界全体の銀行融資の3分の1を占めるまでになった。1992年、バ-ゼルのBISに集まった西側の中銀の代表達は、新しい融資基準を採択した。

 それによると、自己資本比率が8%に満たない銀行は、国際業務を行ってはならないことになった。当初日本人は、ほっとしていた。銀行の保有株を、時価で自己資本に算入することを認められたからである。

 しかしながら、日本の株価が際限なく下降する状況においては、このBIS決定は日本に不利なものとなり、日本の銀行は資産を縮小 即ち融資を削減する動きに出たのである。

 破局の規模は大きかった。失われた株価は5兆ドルに及び、地価下落も5兆ドル分に及んで、合わせてGDPの2年分が失われることになった(しかし、大多数の日本人の生活はほとんど被害を受けなかった。ただ「バブル」から受けていた利益を失ったのみである) 。

 これは一体、どうしたことなのか? 西側が成功した日本を妬んでしかけた陰謀なのか? しかし筆者の見解では、日本に対して様々な ある時は中立的な、ある時は悪意を持った ことがしかけられたことは事実としても、この破局は自分の経済を過度に膨らませたことの論理的既決に他ならないのである。別の言葉で言えば、これはレ-ガノミックスの時期遅れの余波なのである。レ-ガン政権が財政赤字によって経済を膨らませたことは、日本からの輸入をも急増させることになった。1994年には、米国債の累積額は5兆ドルに及んでいた。つまり、日本も米国も、何年先の分まで前借りしていたのである。日本は、需要を膨らませることによって経済を回していた。現在にいたるまで遊休設備が全体の25%に及んでいることは、驚きではない。1996年には米国は危機を脱したが、1人で放り出された日本は、国債発行と米国への輸出増大によって、何とか呼吸をしている状態である。カエルが以前の自然な状態にもどるのは、大変なことなのだ。

失われた10年?

  日本では、1991-2000年を、「失われた10年」と呼んでいる。本当にそうなのだろうか? 日本のすべてが崩壊しつつあるかのようなマスコミの暗い報道にもかかわらず、日本の社会は外面的にはかつてないほど平静で繁栄しているように見える。街路や建物は手入れが行き届き、ゴミの散らばった米国の都市と比べると見て気持ちがいい。人々も、相変わらずいい服装をしている。一見すると日本は、社会保障を完備しプライヴァシ-に過度に介入しない、北欧型の市民社会の段階にやっと入りつつあるように見える。現在の日本での生活は心地よく、便利で、しかも面白いのである。

 国が「崩壊」するとの戯言の一方では、国民一人当たりの実質所得水準は、1990-1998年に20%も上昇している! 個人金融資産は、この期間に50%増加して、1998年には12兆ドルに達した。70年代半ばから20年間、平均実質賃金が年間45、000ドルの水準で足踏みしていた米国に比べて、この日本の「不況」は成功そのものではないのか?(当時の米国は、輸入の急増と、雇用の喪失の過程にあった) 。(以上、日経より)

Ⅴ・やるべきことと、できること

  もろもろの問題にもかかわらず、日本は相変わらず世界第2の経済大国であり、中国を含むアジア全体のGDPの55%を占めている。しかも、日本は米国の2分の1のGDPを生産しているのに、エネルギ-資源は5分の1しか使っていないのである。日本の外貨準備(2001年9月現在、3970億ドル)、そして個人金融資産(約12兆ドル) は、日本経済の腰の強さを保証しているかのように見える。そして日本の輸入(1999年に35兆円に達し、世界の輸入全体の5、2%を占めた。しかも、日本の輸入の44%は高付加価値の工業製品であり、これは輸出国側に有利なのである) 、巨額の資金の海外への投資(1999年、直接・間接投資により、ネットで22兆円が海外に流出した)は、世界の景気に大きな影響を及ぼしている。

 日本の海外投資は、2001年には6、7兆円の利子・配当・利益収入をもたらし(但し、この中で直接投資からの利益は10%に過ぎない)、貿易黒字額(6、4兆円)を初めて上回った。海外からの特許収入も増加し、2000年には初めて1兆円を上回った。この面で日本は、第1次世界大戦後の英国のような、成熟した経済大国としての様相を見せている。しかし、当時の英国と異なり日本は、世界の金融センタ-ではなく、円も国際通貨と言えるほどではない(1998年3月、日本の輸出の僅か36%、輸入の22%のみが、円ベ-スで取引されており、このことは日本の経済をドル・レ-トの変動に対して脆弱なものとしている)。

 金融資産の額は大きく、これはマクロ経済の安定を保証するが、社会的安定まで保証するわけではない。なぜなら、個人金融資産の70%は、50歳以上の年配者が所有しており、400兆円という少なからぬ割合が僅か56万人(人口の0、4%。この多くは農民で、土地を売って豊かになったのである)の手にある。もっと若い普通の市民は、それほど危機に強いわけではないのだ。

 従って日本は、海路に日和を待つようなことはしていられない(たとえば、株価が上がればすべての問題は解決されるのだ、というような)。日本は、本格的な構造改革の必要性に直面しているのである。不良債権は、経済停滞の原因ではなく、経済の構造改革が未完に終わっていることの結果であると言った方がいい。また、留意するべきなのは、日本にはもはや高度成長は必要でないということである。個人の所得水準は十分に、あるいは過度に高く、競争力を阻害するほどなのである。これに加えて、人口もあと数年もすれば下降を始めるのである。

 このような状況においては、たとえ1%のGDPの伸びであっても、それで十分なのかもしれない(これは、ロシアの年間予算の約半分に相当する)。しかしこの1%でさえ、大きな努力なしには達成できない。なぜなら工業生産は急速に海外、特に中国に流出しているからである。経済産業省の統計によれば、1990年には日本企業による製品の6、4%のみが海外で生産されていたのに対し、2001年にはこれが23%に達している(2004年の予測は、30%である) 。自動車の3分の1、カラ-・テレビの92%が既に、海外で生産されている。1995-98年に、海外における設備投資は、国内設備投資の7、2%に相当する額に上っている。別の言葉で言えば、この間、日本のGDPの1、1%相当が、その波及効果も伴いつつ、海外に「流出」してしまったのである。

 日本の海外投資により相手国の所得水準は向上するが、日本の国内では雇用が失われつつある。多くの高年の日本人が、年金生活までまだ間があるにもかかわらず、辞職を余儀なくされている。その多くは再就職するものの、給料は以前より下がることが多い。青年達は、もはや終身雇用をあてにすることはできないことを感じており、既に頻繁に職を変えるようになっている。

  「雇用の創出」ないし、新たな成長分野を創り出すことが、日本経済にとっての第一の課題になった。米国クリントン政権の初期とちょうど同じように。日本の構造改革においては、先端技術における優位を是非とも維持しなければならない。クリントン時代の米国は、情報技術、バイオテクノロジ-、医療機器、そして金融取引の分野における先端技術によって、危機から脱することができたのだから。

「不良債権」

  競争力の喪失、内需の停滞(そしてもちろん、投資の減少)は、地価の下落を招き、それは「不良債権」額を一貫して増大させている。その償却は緊急の課題ではあるが、新しい成長分野が現れないかぎり、かなりの期間を要する可能性がある。 問題の本質は、わりと簡単である。1991年のバブル崩壊によって生じた不良債権は、既に償却されている。現在の不良債権は、その後も続いた不況によって生じているものである。2001年、銀行の不良債権は、43兆円に達した。その3分の2は、中小企業への債権である。しかし、これに対処することは可能である。なぜなら、すべての企業が同時に破産するわけではないからである。銀行にとって深刻なリスクになっているのは、ゼネコン30社、ノン・バンク、そして流通企業であり、これらに対する不良債権は1000億ドルを超えている。念頭に置いておかなければならないのは、日本の全銀行の年間利益は5兆円を下回り、不良債権を償却するには不十分であるということである。

 従って、不良債権処理には時間がかかり、その間、危機的状況が生ずるたびに対症療法を取らざるを得ない。これは、貸手の銀行にも借り手の企業にも、本格的な構造改革なしに生き延びていく機会を与えることになる。このような状況で公的資金を銀行に注入することは、補助金の性格を帯びかねない。他方、一気の解決、つまり銀行と企業の倒産を伴うような荒療治は、これら銀行、企業と緊密な取引関係にある他の銀行、企業に連鎖倒産を起こしかねない。それに、たとえ荒療治を行ったところで、現在の不況においては、不良債権は再びたまるだろう。

成長の次の原動力は何か?

  日本経済の現在の水準を維持するためには、新たな原動力をみつけなければならない。そのようなものは、いくつかの「ニッチ製品」に見いだすことができる。例えば、ハ-ド・ディスク・ドライバ-(世界で70%のシェア) 、液晶スクリ-ン(世界で100%のシェア)、 自動車の排気ガス測定・分析装置(80%のシェア)、リチウム電池(100%) その他である。

 これではもちろん不十分であるが、地平線の彼方にはより大きな新しい展望が見える。それは、ナノ・テクノロジ-(経団連の予測によれば、2010年の市場規模は27兆円に及ぶ)、医療機器(同じく5兆円)、IT家電製品(8兆円)、 コンピュ-タ-・ソフト(11兆円)、ロボット(3兆円)、住宅のリフォ-ム(5兆円)、 そして何よりも規制緩和による住宅建設(1998年には21兆円だったが、関連分野を入れると、45兆円の規模である) 等である。これに加えて、バイオテクノロジ-も重要な役割を果たすだろう。

 しかしそれでも、これらが海外に流出した生産の規模と雇用を埋め合わせることができる保証はない。競争力をさらに高めるためには、過度の賃金水準上昇を抑えることが不可欠である(もっとも、高い付加価値を持った製品の多くにおいては、賃金は比較的小さな比重しか占めていない)。統計によれば、平均賃金水準は1998年から下がりはじめている(これは、価格水準の下落によって実質水準の低下をあまり招いていない) 。もしかすると、一人あたりの実質賃金水準が長い間動かなかった20年前の米国に似た時期が、日本にも訪れるのかもしれない。

 しかし、これも競争力を大きく引き上げることにはならず、ましてや経済を刺激することにはならないだろう。そのために今日では、生産を刺激する手段として、「管理されたインフレ」論議が盛んになっている。

 この点については、意見が別れている。ポ-ル・クル-グマンは、市場に大量の資金を放出することによって、実質金利水準がマイナスになるほどまで公定歩合を下げさせ、「緩やかで管理された」インフレを創出するべきだとしている(「中央公論」02年1月号) 。他の処方によれば、インフレによる価格上昇への期待は生産を刺激するはずだというのである。

 しかし、市場に資金をあふれさせることだけでは事態を救うことはできない、とする論者も多い。なぜなら、銀行はそれでも企業への融資を控えるだろうし、内需は飽和状態にあり続けるだろうからである。そのような状態では、大量の資金は国債の購入に向けられるか(2000年9月現在、都銀には75、5兆円の国債が保有されている)、米国での債券購入に向けられるだけだろう。つまり、資金供給を増やしても、期待されるほどのインフレは生むことができないのである。

 円の下落はもしかすると、インフレを起こすにはもっと効率的な手段かもしれない。エコノミストたちは、様々の「理想的な円水準」を提案している。確かに既に示した通り、高水準の円は輸出後退の主因であった。だから、これらのエコノミストたちは、円が下落すれば輸出が増え、円ベ-スでの輸出収益が増え、輸入は減少して、国内生産が刺激されるというのである。

 しかし、現代の経済においては、どんな国家でも自分の通貨のレ-トを操作することはもはやできない。私的な資金はしばしば、政府の意図とは逆の方向に動く。しかも、ロ-・テクの製品の生産は既に、中国と東南アジアに移転されていることを考えなければならない。日本の企業は既に、為替レ-トの変動がその連結利益に与える影響を防ぐための措置を取っている。つまり、円が下落しても、生産はもはや日本に戻ってこないのである。従って、円の下落は輸入品の価格上昇をもたらすのみで、国内生産の刺激は特にもたらさないことになりかねない。

 従って、「管理インフレ」理論は、主客転倒の議論である。内需、輸出、そして従って投資が不足している時には、不良債権はなくならないどころか、常に増加する。ここで資金量を人為的に増大させることは、日本経済ではなく米国経済を刺激することとなる。そして、円の下落は起こったとしても、それほど大きな効果をもたらすことはないだろう。

破局は不可避なのか?

  では、破局は不可避なのか? 働き口はあるにもかかわらず(低収入で社会的地位の低い仕事であるが) 、大都市における路上生活者の数は一貫して増えている。それでも日本経済は当面、「優良企業」と国債発行のおかげで、何とか回っている。上場企業の3分の1の大企業は、銀行融資に依存せずに自己資金のみで操業している。1999年、企業の直接金融(つまり、利潤と株式発行)額は初めて、銀行融資額の362兆円を上回った。僅か30の大企業に、全輸出の52%が集中し、これら企業の生産額はGDPの12%に及ぶ(日経) 。これら大企業は日本にとって、ロシアにとっての石油・ガスと同様の役割を果たしている。

 日本の国債価格の急落の可能性を警告する声が多い。しかし、日本国債の購入者のほとんどは外国人ではなく、日本人である。日本には、1、400兆円の個人金融資産がまだ残っている。しかも日本には毎年、海外投資から10兆円の利益と配当収入が流入しているのである(2001年、日本の海外資産は、150兆円と見積もられた)。

 これに加えて、何と言おうと、日本には巨大な消費市場(EU,米国につぐ世界3位) があり、工業生産、科学技術、そしてサ-ビスにはまだ強固なものがある。他方、現在の日本で進行していることの本質は、国内需要と輸出が下落していることに鑑み、過剰生産から脱却するとともに新たな成長分野を創出すること、つまり構造改革なのである。

 経済構造改革のためのポテンシャルは大きい(その一部には、既に言及した)。 日本ではサ-ビス部門がGDPの60%だが、欧米では70%に上っている(1992-2000年に、日本でのサ-ビス部門就労人口は300万人増えたが、同期間に鉱工業では200万人減少している)。人口の急速な老齢化は、医療機器や介護のための巨大な市場を創出するかもしれない。間もなく年金年齢に達する戦後のベビ-・ブ-ム世代は、その多くが働き続け消費全体の水準をあげるであろう。彼らは、気前のいい消費に慣れており、歳をとってもその所得の大部分を消費に回す可能性がある。NPOの数が増えているが、これも特に青年層における雇用を創出するだろう。

 しかし、これらすべての可能性は、労働生産性が上がるかどうかにかかっている。鉱工業とサ-ビスが十分な利潤をもたらさなければ、老齢者もNPOもやっていけなくなるだろう。

 日本が、国債の大量発行と対症療法的な政策によって連鎖倒産を防ぎつつ、漸次の改革に成功するか、それともいくつかの不運の重なりによって大量解雇を余儀なくされるか、それはまだこれからの問題だ。しかしいずれの場合においても日本は、グロ-バル経済の積極的な参加者であることをやめないだろう。なぜなら日本は、天然資源を持たないために、自分の労働で外貨を稼ぐしかないからである。現在の世界経済においては、大きな資本力と技術的可能性を有する巨大企業しか、生き延びることはできないが、日本にはそうした巨大企業がいくつかある。さらに、日本経済の崩壊は全世界の経済と金融に打撃を及ぼし得る。以前は日本の繁栄が世界の嫉妬を呼んでいたが、今ではアジア、米国、西欧とも、日本の経済情勢を真剣に心配し、日本の景気維持努力を助けようとしている。なぜなら、世界の経済は分業によって成り立っているが、その分業は「垂直的」なものばかりでなく、ますます「水平的」なもの(高付加価値の高度技術製品の交換を言う。経済が発展するにつれ、どの国も外国の先端技術部品を交換することなしには、製品を生産できなくなる)になっており、また株式のやりとりと直接投資も、世界経済の不可欠の要素となっているからだ(現在、外国人は日本の株式市場における主要なプレイヤ-になっている。例えば、sonyの株の約半分は外国人が所有している。1998年、外国人は70億ドルを日本株の取得に投資した)。 つまり、今日、先進工業国は、その経済規模においてはもはや天井に達したのである。これら諸国の共通の課題は、絶え間ない構造改革とともに、現在の水準を維持することである。日本にとって、この問題は特に先鋭である。なぜなら日本は、80年代からその経済を人為的に膨らせてきたからである。戦後の日本は、経済発展のための巨大な構造であった。この目的が達せられた後、過大な銀行セクタ-等、その構造の多くの部分は不要なものになった(既に、3の長期信用専門銀行が廃止されており、他の都銀は合併している)。

 以上まとめると、当面の日本経済については、次のことが言えるだろう。

(1)大きな資本・技術力を備えた大企業は、これからも成長の原動力と外貨の獲得手段であり続ける可能性があるし、そうでなければならない。

(2)ロ-・テク部門の工業は、ますます海外に移転されるだろう。日本国内では、既に述べた諸部門が発展させられなければならない(「何が次の原動力となりえるか?」参照) 。ここにおいては、規制緩和による住宅の建設増進が大きな役割を果たさなければならない。

(3)より多くの国民が、サ-ビス部門で働くようになるだろう。ここでは、所得水準と労働生産性は工業におけるより低いものとなろう。サ-ビスの分野では規制緩和を行い、企業の創設や拡大を可能にし、より利益の上がるものとしなければならない。

(4)当面、政府系機関による資金の還流は、大きな割合を占めたままで推移する可能性がある。なぜなら現在、民間金融機関にとって十分利益の上がるプロジェクトが十分ないからである。しかし、政府による融資の方向は、経済における新しい方向を創造し拡大する方向で変革されていかなければならない(例えば、これら新しい方向の中で、銀行融資に適さない低収益な部分等) 。時がたつにつれ、個人金融資産額は減少し(所得が減少するとともに、住宅・医療等への支出が増大するからである) 、政府系機関による資金の還流機能の比重も次第に下降するだろう。

(5)世界政治において日本が中立を維持したり、世界経済において日本が孤立したりすることは、考えられない。経済の観点から言うと、日本は他の国とあまりにも緊密に結びついている。政治においては、日本がその経済の繁栄を支える一つの基礎であるアジア太平洋地域の安定維持に貢献することがなければ、世界政治における責任を果たしたことにはならないであろう。

米国の経験

日本経済の先行きを予測するためには、経済停滞を克服した米国の経験が有用だ。クリントン政権の半ばまでは、米国経済はまだ停滞した状況にあったことを指摘しておきたい。ドルの下落は米国の輸出を急速に増大させたとは言え、全体としては経済を直ちに回復させたわけではない。兵器調達の大幅な減少は、たとえばニュ-・イングランドの経済を疲弊させた。クリントン政権の初期においては、「雇用の創出」がスロ-ガンになっていた。それが1996年にかけて、米国経済は「突然」伸びだしたが、現在までこの成功の原因を十分説明した者はいない。

 米国が経済の構造改革に成功したことは、確かであろう。特にIT,金融取引、バイオテクノロジ-、遺伝子工学、新しい医療機器、そして弁護士とコンサルタントの大量の創出は、確かに新たな地平を開いた。

 企業は従業員を大幅に減らし、利益率の低い部門を売却し、日本のものも含めてより合理的な経営手法を進んで取り入れた。労働生産性は、特に鉱工業において90年代半ばに伸びはじめた。

 しかしながら、こうしたことで米国経済の成長がすべて説明できるわけではない。なぜなら、金融取引について言えば、株式相場の上昇は証券会社の手数料収入を膨らませることによって、その生産性を「上昇」させるし、流通面では高額・奢侈商品の販売が増えれば同じく、労働生産性は上昇したように見えるのだから。

 しかも、従業員の数が大幅に削減されたことは、特にサ-ビス部門で顧客に不便をもたらすことになっている。米国の空港ではインフォメ-ション・ビュ-ロ-に人がおらず、店のレジや銀行の窓口では長い行列ができている。

 経済におけるいくつかの脆弱性も克服されていない。蓄積された政府の財政赤字額は1994年に5兆ドルを超え、個人の債務も6兆ドルも蓄積している(もっとも、その大きな部分には、土地の担保がついているが)。株式・債券市況を支えているのは、外国からの大量の資金流入である(1999年、その額は600億ドルに達し、これは貿易赤字の2倍に達する) 。個人金融資産額は2000年末に約40兆ドルと巨大なものがあるが、人口の僅か10%に70%の資産が集中し、資産のほとんど半分が株式で保有されて、不景気の際には脆い構造になっている。

 1995年、当時のGE会長のウェルチは、米国経済復活の70%分はドル下落による工業の活性化によるものであると述べた。おそらく、ここには一面の真理があるだろう(第12表参照) 。しかし、すべての真理ではない。この他に隠された要因、即ち人口の増加、特に移民の増加がある(第11表参照) 。

 最近になってクォ-タが減らされたとは言え、移民の大量流入は直ちに消費を増やすとともに、低賃金の労働力を提供する(どの国の経済も、低賃金で社会的地位の低い部門では、低賃金労働を使っている)。 しかし、米国経済の成長には、より内発的な要因もある。それは、ITである。IT部門は1990年まではGDPの5%しか占めていなかったが、90年代、毎年30%成長している。

 まとめると、米国は経済の構造改革と、新しい分野の創出、そして国際通貨ドルを有していたことによって、国際競争に立派に対処できたということになろう。移民の流入、輸出増加、ITの発展等が与えた効果は、次第に尽きつつある。だが、日本にとっては、「米国モデル」の諸要素、特にIT部門の経験は、成長へのエネルギ-を約束するものである。

日本の未来は中国にある?

世界貿易、特にアジア太平洋地域の貿易は、急速に伸びつつある中国の工業力をめぐって、歴史的な再編成の時代を向かえている。これは中長期的に、日本の経済ばかりか、外交にも大きな影響を及ぼすだろう。

 今までも、日本とアジア諸国の間の経済的相互関係は大きなものがあった。1999年日本は、その輸出の30、2%(香港を除けば24、9%)を台湾、韓国、香港、シンガポ-ル、タイ、マレイシア、フィリピン、インドネシアなどの国に向けていた(米国には30、7%)。同年、日本の輸入の40、7%(香港を除けば33、6%)は、これらの諸国から行われた(米国からは41、4%) 。別の言葉で言えば、中国との貿易を含めると、アジアは日本の貿易において、米国よりも大きな比率を占めているのである(但し、輸出は日本のGDPの僅か10、0%でしかないことに留意) 。

 第13表から明らかなように、日本の貿易における中国の比重は一貫して上昇している。世界銀行の予測によれば、中国のWTO加盟によって最も恩恵を受けるのは日本であり(日本は、中国にとっては第1位の貿易相手なのである) 、2005年までに日本の対中輸出は610億ドル伸びると言われる。これは、日本にとって中国がまもなく米国と同等の輸出市場になり得るということを意味している。

 日本の中国からの輸入では(香港を含む)、機械機器の割合が1999年には23、9%に及び、その多くは中国における日本企業の工場で製造されたものであった。日本と中国の経済的な「共生」が、将来の姿になりつつある。日本の富は現在、中国に移転されつつあるが、その一部は戻ってきている。かつて、日本と米国の間で見られたような関係である。中国には、日本経済の一部が移転しているのである。但し、それとともに、日本国内での雇用が失われているが。

 米国、西欧そしてアジアに所在する日本企業の生産と輸出を合算してみれば(難しい計算だが)、日本経済の没落などあり得ないことがわかるだろう。つまり、日本の大資本は成長を続けているが、国の財政収入と雇用は被害を受けているということなのだ。これが続けばいつかは、日本の社会で上下格差が増大するか、スウェ-デンのように高水準の社会福祉と高水準の税金型の国になるか、どちらかになるだろう。

アジアにおける米国の地位

  アジアと米国の間の経済関係にも、共生関係がある。アジアは米国に安くて高品質な商品を提供する一方、米国はアジアに先端技術と資本を提供する(日本と米国の間の分業は、より「水平的」なものである)。経済と技術が進歩するにつれ、新しい商品と部品の数は急速に増大する。ある国は商品Aの生産で、他の国は商品Bの生産で優位を樹立しており、それらを活発に取引することなしには最終製品を組み立てることはできなくなってきた。まさに、そのような状況が日米の間ではできているのである。

 筆者がボストンに勤務していた1996-1998年、日米貿易紛争を自ら体験したのは僅か1回だけだった。米国政府が、NECのス-パ-コンピュ-タ-(当時、ボストンに本部が置かれていた)はダンピング価格で米国に輸入されていると声明したのだ。他の場合においては、どの米国企業を訪問しても、どの貿易ブロ-カ-と話をしても、日本は輸出においても輸入においても彼らの最も大事な顧客(第1位-第3位)であるとの話しかでなかった。日本は米国に多くの工場を建設し、当時は70万人分の雇用を提供し、これらの工場からの輸出は米国の全輸出の9%を占めていたのである。

 現在でも、米国の対アジア貿易の額は、対西欧貿易の額を上回っている。他方米国はアジアにとっては、政治的・経済的自由のモデルであると同時に、先端科学技術と資本を提供してくれる国でもある。米国はアジア経済において、重要なプレ-ヤ-の一員であり続けるだろう。

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