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論文

2006年03月07日

瀬戸内経済

 昨年11月、倉敷、広島に出張したが、その際得た印象は次の通りである。網羅的な報告ではなく、元外交官の目で見た一種の「驚き」を記したものである。何に驚いたかと言うと、経済発展を連綿として育ててきた歴史、伝統、その足腰の強さに対してである。

1.産業集積の重要さ、そして文化的伝統

(1) ロシア、ウズベキスタンに在勤した際は、経済発展、経済開発という問題についてよく考えたものだ。

 史上、所有権の概念が確立しておらず、すべての資源が政府・党によって運営されていた右両国が、如何に市場経済化に苦労しているかに比べると、日本は室町時代の「惣村」(モンゴル迎撃戦争で困窮した武士は公家の荘園を簒奪するに至り、室町時代には土地の所有権は流動的になった。農民は名主を核に団結して土地への権利を守る。「七人の侍」の背景である)から始まって自営農家の伝統が綿々と続いている。

 そして、封建領主は地元を搾取するよりも産業振興に努めた結果、江戸時代から農工商の間ではかなりバランスの良い発展が進んできた。こうした日本の長所は、地方を回ってみると良くわかる。

(2) 江戸時代、あるいはそれ以前からの地場経済の発展が、いわゆる「産業集積」を生み、それがまた外部からの投資を呼び込むという好循環の一つの典型が岡山・広島地方に見られる。この地方は地震が少なかったことも、工場の立地に有利な条件だったようだ。

 この地方の産業集積は、①岡山・倉敷を中心とした地域(水島のコンビナート、三菱自工、三井造船など)、②岡山県西部と広島県東部にかけての「備後・井笠地域」(福山市がその中心に所在する)、③そして広島県西部から山口県の瀬戸内側に広がる工業地帯(岩国、周南、宇部のコンビナート。秋芳洞に見られる如く石灰岩の多い地方なので、セメント工業も育っている。宇部では石炭もとれたので、宇部興産ができた)の3つに分けることができる。

地方経済と歴史―――新潟の例

 地方の経済は、歴史を紐解くと多彩な姿を現してくる。

 たとえば1年前出張した新潟は、北海道のニシンを肥料として瀬戸内、大阪へ運ぶ北前船の寄港地、そしておそらく朝鮮との密貿易の拠点として発展したらしい。

 また県下の燕地方では江戸時代から釘を生産しており、これは江戸が大火にあうたびに復興需要で沸いたという。燕はその後洋食器生産で世界的地位を築いたが、韓国、中国に敗退し、現在はチタンなどの軽金属加工、金型生産等、先端技術に活路を見出している。

 世界を席巻したI-podの裏蓋はチタンであり、燕で一手に生産されている。

 新潟というと現在の我々には特に情緒もわかないが、実際には掘割の畔には白壁の商家が並び、桜の枝が水面に影を落とす瀟洒な街区もあった。これは現在、再建されようとしている。ところでこの「日本的」と思える景観は、よく考えてみると中国の蘇州のあたり、そして韓国には今でもあるのだ。倉敷にも同じような景観の旧街区があるが、日本はやはり一貫して中国文明圏の中で推移してきたのだ。そのことは、戦後すっかり忘れられてしまったが。

2.広島周辺、福山周辺の経済は対照的

(1)ベンチャー精神に富む福山周辺(備後・井笠地域)

○江戸時代、鎖国の自給自足体制の下、瀬戸内地方は日本における綿花生産の中心地となり、それをベースとした繊維工業も盛んだった。福山周辺は藍染めの「備後絣」で有名だった。また備後・井笠地域は譜代の水野家〔三河出身〕が治めていたが、あるいは農民の年貢負担が軽く、資本形成に資したかもしれない。

 さらに備後・井笠地域にはたたら製鉄と刀鍛冶等、金属加工技術の伝統があったことは、精密加工産業の誕生を助けただろう。こうしてこの地域は地場産業からスタートし、その後呉、広島を中心とした軍需に助けられて金属・機械、電気機械等の産業集積が実現した。

○ この地域で発祥した有名企業と先取の気風

 この地域に生まれた有名企業の一部をあげてみる(順不同)。

①リョービ: アルミダイカストのトップ企業

②ローツェ: 半導体ウェハ搬送装置で世界トップクラス

③カイハラ: ジーンズのデニム生地生産で国内トップ。そもそもは明治時代に備後絣の機屋として創業。当時から市場を全国に求める。

④洋服の青山商事

⑤ディスコ: シリコンウェハーを切断してチップにするダイシングソー生産で、世界シェアの7-8割。1937年呉で、軍需用の工業用砥石メーカーとして創設(但し海軍には買って貰えず、民需で生存)

 等々、枚挙に暇がない。いわゆるニッチ企業が多い。こうした先取・冒険の気風は、移民が多いことにも表れている。例えば北米・南米への移民については、1899年から1923年までの累計で広島県が全国で1位である。これは、優秀な華僑を生んだ、福建省の客家を髣髴させるところがある。

○そして倉敷は文化が素晴らしい。江戸時代の倉庫街が有名だが、これは考えていたより規模の大きなもので、「作り物」ではない。茶店では、昔話の桃太郎の「故郷」(の一つ)として、名物「黍団子」を売っている。

 また大原美術館には、本当に圧倒された。倉敷紡績を設立した庄屋出身の地元実業家、大原家の孫三郎が個人で作った美術館であるが、世界のどこに出しても恥ずかしくない程のコレクションと規模を有している(画家小島虎次郎を世界に派遣して収集させたのである)。紡績や繊維というと「女工哀史」を思い浮かべるのだが、大原は工員の福祉に意を用いたらしい。彼は明治30年頃、東京で学生生活を送り、放蕩三昧の末に大借金を作って故郷に連れ戻されている。倉敷紡績を設立したのは彼の父親なのだが、孫三郎は父に反抗するように、女工の待遇改善に努めたのである。

 そして、倉敷文化ホールのポスターにはプラハ・オペラ劇場がフィガロの結婚を上演すると書いてあった。街中にはコペンハーゲンのTivoliをそっくり再現した、上品なテーマパークもある。文化は産業集積のあるところに花を咲かせる一例である。

(2)一味違う広島

○広島は、元々は毛利家が築城して開かれた街である。平成4年にアジア大会を開いた際に、街を大々的に近代化し、モダンで瀟洒な街並みになっている。但し、この時以来、広島市財政は赤字に悩んでいる由。

 また広島は典型的な「支店経済」の街でもあるため、バブル崩壊による支店縮小のあおりで、街の空室率は現在でも13%に及んでいるし、現在計画されている再開発案件で収益の上がりそうなものはない由。

 広島は山が迫っている街であるため、地代が高い。これが県外の銀行、企業の進出を難しくしている。

○広島は軍都だった。日清戦争の際には大本営が置かれて兵站の拠点となったし、その後も第5師団が置かれて陸軍兵器工廠もあった。また第二次大戦末期には第2総軍司令部が置かれていた。広島の宇品港からは、大陸、朝鮮半島に向かう軍が出港していった。大陸進出のロジ拠点だったのである。

 そして呉(江田島などに遮られており、たとえ瀬戸内海に敵艦が侵入しても呉を砲撃することはできない)には敗戦まで海軍鎮守府が置かれ、ここの海軍工廠は呉地域の経済を支え、地元企業のインキュベーターの役割も果たしていた。

○軍需の周りに育った企業が多いためか、広島県においては今でも、鉄鋼、一般機械、造船などの重厚長大産業が製造業全体に占める割合が、全国平均より1割強高い。また広島東部の西条は灘、伏見と並ぶ「全国三大酒どころ」と言われている由だが、西条での造酒は軍需に依存したところが大きい。

○大阪、名古屋、東京の陸軍工廠と同様、呉の海軍工廠(戦艦大和を建造。大阪の陸軍工廠に比べて爆撃による破壊は徹底的でなく、現在でもドック、工場社屋のかなりは昔のままであると思われる。そのうちの一つでは、ロケットを製造している)も、その優れた技術とノウハウを周囲にスピン・アウトし、いくつかの有名企業を生んでいる。呉の海軍工廠は、佐世保や横須賀の海軍工廠に比べ、大砲などの兵器を開発する設備と装甲板などを開発する製鋼所があったことが違う由である。

 五洋建設は呉の造船ドックの建設に携わることで海洋土木の技術力を磨いたし、中国化薬は江田島の火薬処理会社からスタートしている。海軍工廠の跡地の払い下げを受けて発展した企業には、中国工業(高圧ガス機器、建材の製造)などがある。話は若干違うがセーラー万年筆も欧米帰りの海軍将校が持ち帰った万年筆をまねて作ったところから始まった(しかも先を二つに割ったペン先を発明する)。

 こうした伝統は、地元企業の一部に官需依存の風潮も生んだようだ。今でも、業容をなかなか変えようとしないらしい。

○広島発祥の有名企業

 広島で発祥した有名企業をいくつか挙げる〔順不同〕。

①マツダ: そもそもは呉の造船所で艦船内装用のコルクを納入してスタートしたのである。1930年には国産初のオートバイ用エンジンを製造、1938年には陸海軍共同管理の工場になっている。今では一辺7kmという巨大な敷地の中にある。工場は原爆の被害をほとんど受けず、戦後間もなくオート三輪の生産を再開している。

 フォード傘下での再建(バブル時代に販売網を2種類設けるなど、手を広げすぎていたのである)はほぼ終わった。2005年には「ロードスター」がカーオブザイヤーに選ばれた。南京に工場を建設しつつあり、ロシアでもマツダ車の人気は高い。

②ディスコ: 砥石メーカーから半導体製造装置メーカーに。

③パンのアンデルセン・グループ: 元々はタカキベーカリー。日本政策投資銀行から20億円の融資を受けている。パン生地を冷凍して配送し、味の均一化と生産性を確保。

④蚊取りのフマキラー

⑤オリコ: 日本で初めて消費者向けクレジットカードを発行。

⑥カルビー: ポテトチップの最大手。現在の本社は東京。

⑦モルテン: バスケット・ボールやサッカー・ボールで世界大手。

 いずれもアイデアに長け、ベンチャー精神に富む点が共通している。

○他方、広島から近い呉周辺の企業は、海軍工廠の下請け時代からの伝統が抜けず、イノベーションの気風には欠ける由。もっとも呉近くの工業団地に立地している企業は進取の気風に富んでおり、「中国木材」などはその典型だった。社長の堀川氏は一代でこの大企業を作り上げたのである。プレファブ的な建物の三階に彼の事務室はあるのだが、建物の外部についた剥き出しの階段を、既に70歳を越える彼が猛烈なスピードで上がり、若い部下達は息を切らせてついていく。この企業は木材を蒸すことによって短期間で乾燥させる他、コンピューターによって大工の注文通りに削り、穴をうがって出荷する業容では日本随一。現場では組み立てるだけでいいことになる。

(3)地場産業発展における軍需の重要性とインキュベーターとしての呉の海軍工廠

 呉のあたりを車で走っていると、軍都の名残は今でも見られる。数々のインフラが軍需に関連して作られている。つまり戦前の軍需は戦後の公共事業とよく似て、地元民の経済の支えであり、またそれ故に歯止めが利きにくくなっていたのだ。

 岩国、大竹のコンビナートも、元は軍需工場からスタートした由。

戦艦大和のふるさと

○広島から車で南下し呉に近づくと、「大和のふるさと」という看板が目に付く。江田島と呉の間の狭い入江に、進水した大和がその巨大な姿を浮かべたときには、さぞ壮観だったに違いない。

○「ヤマト・ミュージアム」が開館して間がない。真新しいコンクリートの博物館の向こうには、大和のように巨大なショッピング・センターがそびえる。その「船腹」には英語で「You me」と書いてある。ミュージアムの前には錨と、なぜかギリシアの海神ネプチューンの像がある。「海軍さんの麦酒」という紙片も目に入る。軍国主義のかけらもない。

 入ってくるのは小中学校からの見学者、そして車椅子の旧軍人とおぼしき方々である。

 ミュージアムに入ると零戦が陳列してあって、「零戦は翼の一部が布張りなどたいへんデリケートな構造で壊れやすい資料です。決して手を触れないで下さい」と注意書きがしてあった。

○岡山の方には、最近封切された映画「男たちの大和」の撮影に使った原寸大の大和のセットが残っていて、観光名物になっている。小生も子供の頃は大和の模型を作ったものだ。

3.道州制について

 道州制については財政面からの数字合わせのような議論が多いが、①歴史のしがらみ、②地域経済の実態、③人的資源の有無といった重要な要素が十分議論されていない場合も目に付く。瀬戸内地方に即して述べると、次の諸点が道州制の阻害要因であろう。

(1) 歴史のしがらみ

 東京育ちの自分には全くわからないのだが、歴史のある地方における諸都市間の張り合い、恨みつらみの度合いは想像を超える。例えば新潟方面では新潟、長岡、上越がそれぞれ「覇」を唱えていて、道州制の下に新潟の風下に置かれるようなことがあれば、長岡はむしろ長野県、上越はむしろ富山県と一緒になる途を選ぶであろうと、半ば真剣、半ば冗談で言われている。現に長岡近辺に行った際には、長野県の田中知事が演説会に来るというポスターが目に留まった。

 瀬戸内地方においては、岡山と広島の間の張り合いが強く、どちらが将来の「州」の首都になっても、恨みは長年にわたって続くことになるだろう。また道州制を導入するのであれば、瀬戸内地方は四国、山陰地方と統合して適正な経済規模になることを求められる可能性が高いのだが(中国地方だけでは日本全体GDPの6%程度。四国と合わされば8,5-9%になる)、四国は四国で愛媛と香川の間の関係が悪い。

 もっとも、廃藩置県の際にも異質な藩が一つの県にまとめられることもあったろう。広島県においても、安芸(広島。外様の浅野家)、備後(福山。譜代の水野家)という異質な地方が一つにまとめられている。

(2) 地域経済の実態

 山陽、山陰間を南北に結ぶハイウェーは2本しかなく、両者の連絡は悪い(なのに、海岸部の山陽道に加えて、なぜか真ん中の山間部を東西にハイウェーが通っている。地元では、これは地元政治家の腕力によるものと言われている)、広島は四国と橋でつながっていない。特に鉄道で四国に入ることができるのは、岡山からの瀬戸大橋のみである。そして、広島から西の諸都市は、瀬戸内よりむしろ九州経済圏の方に顔を向けている。

(3) 人材の問題

 上記のような状態だから、財政上の都合で州を作ってみても、「州」全体をにらんで物を考えたこともない人材ばかりでは、州を動かすことはできまい。財務局等、中央政府の分部局の人員を州に取り込めば事態は少しは変わってくるだろうが、それでは地方への権限委譲という錦の御旗に反することになってしまう。地元財界は現在でも、中央政府の分部局を敬して遠ざけているという話を今回聞いた。

日銀は地方で何をしているのか

 今回、地方の日銀事務所はどのようなことをしているのか好奇心を発揮して聞いてみた。小生に関心のあるところだけ抜粋すると、こうなる。

○日銀は都銀、地銀のための銀行でもある。従って地元の地銀は日銀に当座預金を持っている。なお、地方の日銀事務所は紙幣の印刷・発行はしていない。そこは米国のFRB地方支部と異なるところである。

○地元の地銀が赤字になると、日銀は担保(現在は、地銀保有の国債を担保として使用)の範囲内で貸し出しを行う。

○日本では、税金の収納事務、予算の交付も日銀を通じて行われている。

 (ところがその日本の政府は例えばウズベキスタンでは、国庫と中央銀行システムは峻別するよう指導している。)


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