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2008年07月12日

中央アジアにおける日本の政策――その推移

中央アジアは、日本が死活の利益を有する地域ではない。しかしロシアと中国の間に位置し、天然資源に恵まれているため、日本にとっては外交・経済の両面で重要な役割を持ち得る。日本は世界政治においては目立たない国と思われているが、中央アジアにおいてはその経済力によって、また中央アジアに対して歴史上何もやましいことを行っていないことによって、政治的な役割を果たすこともできる。欧米諸国が人権問題のために中央アジアでイニシャティブを取りにくい場合には、日本が中央アジアの国々に助力を与えながらも、より多くの改革と民主化を行うよう呼びかけることができる。この論文においては、日本と中央アジアの間の短い歴史を振り返るとともに、日本の現在の政策、そして今後の見通しを述べてみたい。

中央アジアにおける日本の外交―ーその初期
中央アジア地域は古代の日本に多くの文化的影響を与えたが、日本自身は中央アジアについて非常に無知であった。ソ連が中央アジアを支配していたために、この地域は日本人には遠いものに見えたし、中央アジア出身の人間をも「ロシア人」とみなしていた。日本人はソ連に好感情を持っていなかったため、その中でも遅れた地方とみなされた中央アジアは、益々軽んじられたのである。

1991年ソ連崩壊の直後、米国のベーカー国務長官はCISの新しい独立諸国家を短期間で歴訪し、支援を約束するとともにアメリカ大使館を開設することを宣言した。日本はそれには出遅れた。中央アジアにおける日本の最初の大使館は1993年になって、ウズベキスタンとカザフスタンに開かれた。それは、日本がこの地域に大きな関心を有していなかったためだけではなく、官僚的な制約が厳しいためでもあった。なぜなら、新しい大使館を開設するためには法律を改正する必要があるが、これは公務員の人数、予算の増加を厳しく抑えている日本では、非常に時間のかかる作業になるからである。ソ連崩壊の時のように、新しい独立国が同時に多数成立するような場合には、日本外交は非常に大きなハンディを抱えることになる。しかも大使館が開設されても、十分な数の人員と予算は提供されないのである。

1990年代前半は、キルギスタンが日本政府の一番大きな関心を引いていた。当時のアカエフ大統領は、CIS各国首脳の間では最も改革志向の強い指導者であると思われていた。それに、この国の経済規模は小さいので、日本が援助すればその効果は大きなものになるだろう。そしてキルギスタンを日本のODAのショー・ウィンドウにすることができれば、CISそして何よりロシアが日本との関係をもっと重視するようになるだろう。当時、外務省ではそのような目論見があり、結果としてキルギスタンは1992年、中央アジアでは日本外相が最初に訪問する国となった。

しかしながら、キルギスタンは経済規模が小さく、大規模な援助案件を実施するには向いていなかった。そのためもあって、日本政府の重点は、中央アジアで人口が最も大きいウズベキスタンとカザフスタンに徐々に移行した。カザフスタンは石油埋蔵量が大きく、ウズベキスタンはユーラシア大陸の中心部で重要な地政学的位置を占める。後者は中央アジアの人口の約半分を占め、アフガニスタン及び中央アジア諸国のすべてと国境を接している唯一の国である。ウズベキスタンの情勢が不安定化するとそれは隣国に容易に飛び火し、ユーラシア大陸の東半分における力のバランスに影響を及ぼしかねない。1995年、日本は中央アジアで初の大型円借款をウズベキスタンとカザフスタンに供与した。それ以来、日本は両国に対するODA供与額がほぼ同等のものになるよう、心してきている。

トルクメニスタンも、大きな天然ガス埋蔵量を有するが故に、日本の実業界の関心をつとに引いてきた。しかしながら、日本はこの国に大使館を開設しておらず、やっと2005年になって連絡事務所を開設したばかりであること等のために、両国関係の進展は遅々たるものであった。
タジキスタンにおいては90年代内戦の末期、日本はその戦後処理と復興の問題に関与した 。日本はこの国に利他的な支援を行うことで、自らの国際的地位を向上させようとしたのである。しかし同国における日本のプレゼンスが恒常的なものになったのは、2002年連絡事務所を開設してからであった。

中央アジアに対しては、日本の政官界で当初から特別の関心を示す人達がおり、彼らの尽力も日本とこれら諸国の関係を大いに進めた。キルギスタンに並んでウズベキスタンが、これらの人々の関心の対象となった。その一人が筆者に述べたところでは、彼らはウズベキスタンの地政学的重要性とそれが日本外交にとって有する意味に着目したのである。即ち、中国とロシアの間に位置する中央アジアはユーラシア東部における力のバランスと安定を維持する上で肝要な位置にあり、日本がここに地歩を有していれば外交上の大きな財産になるであろう、というのである。

1994年、ウズベキスタンのカリモフ大統領は日本を初めて公式訪問し、1997年までに日本から総額約5億ドルの円借款及び無償資金援助を受けた。ウズベキスタンはこうして、中央アジアにおける日本のODAの重要な受益国となったのである。
日本は、カザフスタンとの関係も推進した。渡辺外相は1992年この国を訪問し、1994年4月にはナザルバエフ大統領が上記カリモフ大統領より1ヶ月前に来日したのである。しかしながら豊かな石油資源を持つカザフスタンは日本の経済援助―-それは日本にとっては両国関係を推進するための数少ない手段の一つなのだが――を受けることに熱心ではなかった。日本の要人の関心は、サマルカンドなどの文化遺産を有するだけでなく、もてなし上手のウズベキスタンに向き勝ちとなった。

「シルクロード外交」
1997年、いわゆる「シルクロード外交」が発表されて、日本の中央アジアへの関与は第2段階を迎えることになった。1997年までには、日本外務省にもコーカサス及び中央アジア地域の地政学的重要性を理解し、ソ連崩壊後これらの地域に生じた力の真空を埋める競争で後れてはならないこと、そしてこれらの地域に日本が地歩を持てばロシア、中国そして中近東に対する外交カードとなり得ることを認識する者達が現れていた。外務省欧亜局は中央アジア外交における原則を検討し始め、これが後に「シルクロード外交」として結実する。

1997年6月から7月にかけて小渕衆院議員(その翌年には総理)は、約60人の政治家、官僚、実業家、学者から成る代表団を率いてカザフスタン、キルギス 、トルクメニスタン、そしてウズベキスタンを訪問した。この時、「ユーラシア外交」という言葉が使われた。同7月、総理官邸から外務省に対して、「ユーラシア外交」についての演説を起草するよう指示が下された。外務省は、かねて検討していた対中央アジア外交の諸原則 をこれに盛り込み、7月24日橋本総理が経済同友会でこの演説を行った。それは「シルクロード地域」に対する外交方針として、中央アジア諸国に対し政治的対話、経済協力、民主化と安全保障における協力を呼びかけるものであった 。

これは日本の「シルクロード外交」と呼ばれるようになり、コーカサス、中央アジアの諸国によって高く評価された。しかしながら1998年に橋本総理は、参院選挙敗北の責任を取って辞任した。シルクロード外交は、小渕内閣によって継続されることになった。北方領土問題が動き出した対ロ関係ほどではなかったが、中央アジアとの関係も着実に進展を続けたのである。

1999年5月高村外相がウズベキスタンを訪問し、連絡事務所が2002年1月タジキスタン、2003年1月にキルギスに開設された。JICA事務所が1999年タシケント、2000年ビシュケクにそれぞれ開設され、中央アジア諸国の経済発展と改革に向けて活発な支援を開始した。政府要人往来は多くなかったが、日本は中央アジアにおける 地歩を固めていった。日本はカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンにおいてODA供与額1位になり、2001年5月にはタジキスタンからラフモノフ大統領を東京に招いてタジキスタン支援国会合を主宰した 。

日本のODA
日本のODAのうち、円借款は中央アジアに対しこれまで約20億ドル相当が供与されており、無償援助は約6億ドル、そのうち2億6000万ドル相当が技術協力である。日本のODAは借款が多いのが特徴である。それは、返済しなければならない資金を受ける際には、受益国は対象プロジェクトを注意深く選ぶだろうからである。また借款であれば、インフラ建設のような大規模なプロジェクトを実現しやすい。

日本の円借款により、中央アジアでは多くのインフラが建設された。それは道路、空港施設近代化、鉄道、光ファイバー網、橋、発電所、職業訓練学校(ウズベキスタンでは60以上の職業訓練学校が建設されている)、水道施設、下水道施設、鉄道客車・貨車修理工場等である。また無償資金援助で、留学生が招聘されている。

しかしながら、日本のODAは問題も有している。アカウンダビリティーを確保するための手続きが多いため、執行に時間がかかる。また資金のうちかなりの部分が日本及び第三国の人員によるサービス、コンサルタンティングへの謝礼として費やされている。これは、西側の諸国がそのODA支出において抱えている問題と同じである。だが日本の場合、これに加えてODA予算が恒常的に削減されている問題が加わるのである。

その中で、中国が中央アジアに借款を積極的に供与するようになっている。IMFと世界銀行が中央アジア諸国の対外借入額を毎年制限しているため 、日本その他の諸国は中国に押し出され、例えばタジキスタンで借款を供与できない状況が現出している。日本のODAはいくつかの中央アジア諸国において、外交の手段としての力を失うかもしれない瀬戸際に立たされている。

2001年9月11日事件以後及び「中央アジア・プラス・日本」の開始
9月11日事件とそれに続くアフガニスタンでの戦闘は、中央アジアに対する世界の関心を高めた。国連による対アフガニスタン人道支援物資の多くは、中央アジア経由で搬入された。この支援の多くは日本の出資によるものであった。

日本政府は同時に、2000万ドル以上の緊急無償支援をウズベキスタンとタジキスタンに供与した。この援助は、両国の経済発展と政治的安定を維持するために必要な資本財を輸入するために使われた。例えばタジキスタンは、ウズベキスタン、ロシア、ウクライナからコンバイン、トラクターその他の農業機械を購入したのである。タジキスタンの農園はこれらの国で作られた農業機械を一貫して使っており保守にも便利であること、安価で大量に購入できること、ウズベキスタン、ロシア、ウクライナでの経済回復にも資することから、これら諸国の農機が選ばれたのである。

2002年7月には杉浦外務副大臣がエネルギー・ミッションを率いてアゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンを歴訪した。これは外務省が日本企業の関心を中央アジアに向けさせるために音頭を取ったのである。だがこれはすぐには実を結ばなかった。中央アジアとの貿易額は2003年になっても日本の貿易額全体の約0,5%、4億4600万ドルにとどまった。中央アジアは内陸国であり、社会主義時代の体制が残ってビジネスを妨げることもあるので、日本企業は殆ど投資を行わなかった。

2002年7月カリモフ大統領は日本に2回目の公式訪問を行った。彼は同年3月に訪米して、「戦略的パートナーシップ」に関する文書に署名していた。ハナバード空軍基地を米国のアフガニスタン作戦用に供することを決めた同大統領は、外交政策の基軸を対米・対日関係に定めてきたのである。

カリモフ大統領は米国との間で結んだような「戦略的パートナーシップ」に関する文書に署名するよう日本に強く求め、同時に経済援助についての文書にも署名した。ウズベキスタンのインフラ建設に対する日本の援助は、同国の経済に貢献したばかりでない。カリモフ大統領は、そこに国際政治上の効果も見ていただろう。同大統領は、日本が中央アジアに対して帝国主義的野心を持っていないことを承知しており、日本との経済関係はウズベキスタンがロシア或いは米国に過度に依存することを防いでくれる要因だと見ていたものと思われる。訪日においてカリモフ大統領は、ペルシャ湾への出口を作ることにつながる新しい鉄道を建設する案件に円借款を得るべく、日本側に強く働きかけた。この鉄道からアフガニスタン領を経由することで、ペルシャ湾に達することができるはずであった。

しかしながら日本は、右鉄道建設円借款案件に速やかな対応をしなかった。外務省でも、中央アジア担当部署以外の大勢においては、中央アジアは得体の知れない新参者であったし、鉄道建設は一般に将来の収益性を計算しにくいものとして歓迎されていなかった。そのためもあり、ウズベキスタンの鉄道建設に対する164億円の円借款は、2004年8月にやっと認められたのである。

小泉内閣の下でも、外務省の中央アジア担当部署は、総理あるいは外務大臣の中央アジア訪問を実現しようと努力はしていたが、「もっと緊急性の高い」訪問を推進する他の地域担当の諸課にいつも先を越されていた。他方、中央アジアを担当する者達の間では、新しい構想が育まれつつあった。当時、在ウズベキスタン大使をしていた筆者は、日本政府及びウズベキスタン政府双方に対し、ASEANのような地域統合を進めることが中央アジア諸国の政治的地位と経済力を高めるのに有用であるとの提言をするようになっていた。中央アジア諸国における他の日本大使、本省における担当者達も、別個の経緯をたどって同様の考え方をするようになっていた。

2003年9月タシケントで初めての中央アジア大使会議が開かれた時、この考え方が具体的な形を取ることになった。本省からの出張者も交えて開かれたこの会議で、「中央アジア・プラス・日本」と称するフォーラムを作る構想が紹介されると 、全参加者が支持を表明した。このフォーラム設立によって、地域内の協力と調整を促進しようというのであった。
ウズベキスタンのサファーエフ外相が2003年12月に訪日した際、川口外相がこの構想を彼に公式に伝えた。同時に外務省は、他の中央アジア諸国とも、「中央アジア・プラス・日本」のフォーラムを立ち上げるための調整を開始したのである。

当時、外務省では、中央アジアにおける日本の関与のあり方について議論が行われた。一つの可能性は上海協力機構に加わることだったが、日本だけが非社会主義国として入っても利用されるだけに終わるだろうこと、この機構が十分機能するかどうか定かでないこと等の疑念が表明された。もう一つの可能性は、中央アジア協力機構(CACO)と共同会合を開くことだった。しかしながらCACOは確固とした組織ではなかったし、2004年5月にロシアがこれに加盟したため、この可能性も消えた。日本に残された唯一の可能性は、「中央アジア・プラス・日本」フォーラムを独自に立ち上げることだったのである。それはモデルを「ASEANプラス3(日本、中国、韓国)」に取ったものであり、将来の展開に向けての柔軟性も確保したものだった。当面は多数のメンバーの間を調整する面倒さを避けることができる一方、第三国の加盟を妨げるものではないからである。

この構想を実現するため川口外相は2004年8月、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、キルギスを公式訪問した。川口外相はタシケントでの基調演説で、同国要人と外交団を前にして中央アジアとの関係における3つの原則を明らかにした。それは、中央アジア諸国の多様性を尊重すること、中央アジア諸国は互いに競合しながらも協力を旨とするべきであること、そして「中央アジア・プラス・日本」フォーラムに第三国が加盟することにオープンであるべきことであった。川口外相は中央アジア諸国の一層の民主化と経済改革を強く呼びかけ、日本外交にしては珍しく率直なトーンでこれら諸国の保守的勢力が「伝統」という美しい言葉に隠れて自分達の既得権益を守ろうとすることを戒めた。

8月28日、川口外相はカザフスタンのアスタナで、トルクメニスタンを除く中央アジア諸国の外相と一堂に会合した。これら外相は、アスタナでCACOの定期会合を行うために集まっていたものであるが、CACOの枠とは別途、川口外相と会合したのである。その場で出された共同声明は、日本と中央アジア諸国(トルクメニスタンを除く)が「中央アジア・プラス・日本」という新しいフォーラムを立ち上げるべく合意したことが謳われていた。当時の小泉外交の特徴として、「小切手外交」と呼ばれるようなODAの大盤振る舞いは行われなかった。

この訪問は、経済協力面での成果が限られていたこともあって日本マスコミの関心はそれ程引かなかったが、日本が中央アジアで政治的な動きを示したものとして中国、ロシアのマスコミの強い関心を引いた 。そのことは、中央アジアにおける日本のプレゼンスは経済的なだけでなく、政治的な意味も持ち得ることをよく示していた。しかしながら日本では多くの関心は示されず、「中央アジア・プラス・日本」構想は確固とした基盤を持つには至らなかった。中央アジアは、日本においてはマージナルな存在に留まったのである。

アンディジャン事件と中央アジア政治情勢の変化
2005年5月13日、一団の武装侵入者がウズベキスタンのアンディジャンで監獄を襲い、囚人を解放した。これを鎮圧する際、多数の非武装市民が巻き添えを食ってウズベキスタン政府側によって殺された。EUと米国はこれを非難したが、ロシアと中国はウズベキスタン政府の行動を公に擁護した。日本政府は慎重なアプローチを取り、ウズベキスタン政府に対する公の非難を避けつつ、事件の原因と経過について納得のいく説明を求めた。

7月5日、上海協力機構はアスタナで年次首脳会議を開き、全参加国が共同声明において米国はいつまで中央アジアの基地を使用する意図であるのか明らかにするよう要求した。アフガニスタン情勢は安定化に向かっており、米国軍の展開目的は成就されたように思われたからである。その後7月29日、ウズベキスタン政府はタシケントの米国大使館に素っ気無い口上書を送り、6ヶ月以内に全ての米軍をハナバード空軍基地から引き上げるよう要求した。11月までに全ての米軍兵力はハナバード空軍基地から立ち去り、その後間もなくカリモフ大統領はモスクワに飛んで相互安全保障条約を結んだ。ウズベキスタンの外交政策は大きな転回を行ったのである。

しかしながらアンディジャン事件の前から、ウズベキスタンはその対米・対ロ関係を変化させつつあった。中央アジア諸国にとって、米国は当初解放者、そして寛大な援助をしてくれる国と見えた時期もあったが、この頃までには米国が民主主義と改革の名の下に自分達の政権を覆すのを恐れるようになっていた。2003年グルジアにおける「バラ色革命」の後、ウズベキスタンもそうした危険を感ずるようになり、ロシアへの傾斜を始めていたのである。ウズベキスタンが対ロシア自立政策を取ったにもかかわらず、そして一連の経済改革を行ったにもかかわらず、米国は十分の支援を同国に行わなかったと同国政府が感じたことも、対ロ傾斜の動機となった。当時ロシアは原油価格高騰で経済が回復しつつあったし、それより重要なことは政権を転覆させるようなことはしないということだったろう。

ロシアはこの好機を喜んで利用し、時には政治的な自由と経済改革の旗手としてさえ振舞った。ソ連時代に獲得した自分達の地位を保持したがっているウズベキスタンのエリートは、ロシアの復帰を歓迎した。彼らにとってロシアは、相変わらず世界文明の中心なのだった。
中央アジアの一般大衆にとっても、ロシアは魅力的だった。アメリカがいつかは大規模な援助をしてくれるだろうという期待は実現しなかったし、アメリカ発の文化、価値観は自分達のものとは相容れないように見えたからである。中央アジア諸国民はロシア語やロシアの価値観をよく知っている一方では、英語やアメリカ的考え方にはついていけなかった。西側社会では中央アジアの諸国民は知られていないが、ロシアでは知られていた。

中央アジアにおいては、中国もその地歩を向上させている。アンディジャン事件から間もなくして、カリモフ大統領は前から予定されていた中国公式訪問を以前からの予定通り行った。中国はウズベキスタン政府のアンディジャン事件での対処ぶりに対して、公に支持を表明した。前記の2005年上海協力機構首脳会議の共同宣言では、中国も中央アジアにおける米軍駐留に反対を表明した。
中国は中央アジア諸国にとって、経済援助供与国としても魅力ある存在となった。2004年の上海協力機構首脳会議において胡錦涛国家主席は、中央アジアに対して9億ドルの低利借款を供与する用意があることを表明した 。中国の石油・ガス企業の代表者達が中央アジア諸国を頻繁に訪問するようになり、多数のプロジェクトに対する融資を約束するようになっていった。

「グレート・ゲーム」の再来なのか?
この数年間、世界のマスコミは中央アジアにおいて「グレート・ゲーム」 が再開したと書き立てるようになっていた。しかしながら実際には、ロシア以外の大国で中央アジアに死活的利益を有している国はないのである。ソ連崩壊直後ロシアの影響力が限られていた頃は、中央アジアは権力の真空地帯になっていた。どの国も真剣な対応をしない中で、中央アジアは世界の孤児になりかねなかった。中央アジア諸国は、自分達の既得権益は脅かさずに政治的・経済的な保証を提供してくれるような保護者を懸命に探していた。

米国は当時、中央アジアに対して明確な政策を有していなかった。米国政府の頭の中ではカザフスタンの石油とか、アフガニスタンでの作戦のために軍事基地が必要であることとかの事情の他に、民主主義と市場経済を広めたいという欲求もあり、これらをどうバランスさせて一つの政策とするか、十分な検討は行われていなかった。

中国は中央アジアのエネルギー資源に大きな関心を有している一方で、政治的野心はさほど持っていないと思われる。上海協力機構が安全保障の分野にその協力範囲を拡大することに、常に抵抗してきたのは中国である。中国はロシアよりはるかに多くを米国との経済関係に依存しているために、中央アジアで米国に大きく楯突くことはしたがらない。中国にとって政治的に微妙な新疆 とチベットに隣接する中央アジアが政治的に安定していれば、それがロシアの影響下であろうが、米国の影響下にあるよりははるかにましだというだけなのである。しかも、中国は中央アジア地域で軍事的行動をするだけの能力を欠いており、その文化とメンタリティーは中央アジアのものと大きく異なる 。

EUは文化、経済そして政治分野における勢力範囲を拡張しようとする性向を有しており、中央アジアにおいてもそれは例外でない。そのためもあって、中央アジアはアジア開発銀行と欧州復興開発銀行の双方が操業している地域となっている。EU諸国は中央アジア諸国に、かなりの経済援助とアドバイスを与えている。しかしビジネスにおいては他の勢力との厳しい競争にさらされている他、権威主義的な政府を援助することを糾弾する国内の世論に手を縛られている。

インド、イランそしてトルコも、中央アジアと強い歴史的つながりを持っている。ソ連崩壊後、これら諸国はそうしたつながりを復活させようとしているが、彼らの力はまだ限られている。日本の経済援助はキルギス、タジキスタン及びウズベキスタンでは大きな役割を果たしているが、日本が中央アジアに関与することは日本社会の中で広い理解と支持を得ているわけではない。それに日本は、中央アジア地域の政治・安全保障の問題では大したウェイトを持っていない。

従って、ウズベキスタンとロシアの間の再接近が中央アジアの政治地図を大幅に書き換えた後でも、中央アジアでは「グレート・ゲーム」と呼ばれるに値する現象は起きていない。この地域では、中央アジア諸国自身がパートナーを選ぶ権利を保持しており、参入は自由である。

小泉総理の中央アジア訪問
2006年6月、「中央アジア・プラス・日本」の第2回外相会議が東京で開かれた。トルクメニスタンは参加しなかったが、今回はアフガニスタンが参加した。これは上海協力機構の首脳会議のわずか1週間前に開かれたため、日本の積極性はいくつかの外国マスコミの関心を引いた。

それからして間もなく、小泉総理は外務省に対し、中央アジア訪問を準備するよう指示を下した。当時、彼の米国への送別訪問が迫っていたが、ほぼ同等の重要性を持つ中国、韓国へは靖国神社問題で行くことはできなかった。他方、日本の総理がまだ行ったことのない中央アジアは国民の目には新鮮に見えるだろうし、親日的な中央アジア諸国で歓迎されることは確実だった。中央アジアを彼の最後の外遊地に選んだのは、理由のないことではなかったのである。

小泉総理の訪問自体は8月28日から30日までにアスタナ、タシケント、サマルカンドを訪れただけの短いものだった。小泉総理はウランを含むエネルギー資源への関心を表明し、日本の企業が既に行っている諸案件への高い評価を口にしたが、「小切手外交」はしなかった。それでもこの訪問は、「中央アジア・プラス・日本」が体現する政策の頂点となった。

小泉訪問の1ヶ月前、8月初めには米国のリチャード・バウチャー国務次官補がウズベキスタンを訪れていた。その訪問から間もなく、05年5月のアンディジャン事件の際、米国に亡命していた難民がウズベキスタンに返された。彼らは故郷で何も迫害されなかったようである。EUも8月末にハイレベルの代表団をウズベキスタンに送ってきた。これらの動きは別に緊密に調整されていたわけではないが、西側諸国の対ウズベキスタン姿勢が微妙に好転していることを示していた。

小泉総理の訪問は、もう一つの前向きな動きと時期的に一致した。それは2006年9月2日にカザフスタン、キルギス、タジキスタン及びウズベキスタンの指導者がアスタナでCACOの非公式首脳会談を開き、地域内協力増進のテンポを速めることを発表したのである。CACO首脳会議は2004年、ロシアを加盟国として以来、開かれていなかった。この会合後、カリモフ大統領はカザフスタンを公式訪問し、ナザルバエフとの個人的な友情をプレーアップしてみせた。

麻生外相の「自由と繁栄の弧」構想
安倍内閣の麻生外相は2006年秋、「自由と繁栄の弧」構想を打ち出した 。それはブッシュ政権の第一期に使われた「不安定の弧」という表現を裏返したものである。この構想はバルト諸国からバルカン、コーカサス、中近東から中央アジア諸国までの地域、つまりオスマン・トルコ、オーストリア・ハンガリー帝国、ソ連邦が崩壊した後に生じた力の真空に位置する国々を対象とするものだった。米国は、これらの諸国はテロの温床になりかねないとして、特別の注意を向けるよう求めていた。

麻生外相は、この概念をネガティブなものから肯定的なトーンを持つものに変えた。日本はこれら諸国との関係を強化することによって、これら諸国の政治的安定性と経済開発を助けようとしたのである。 日本は当時、この構想の目的として3つのことを挙げていた。ひとつは、日本は性急なアプローチを取るものではないとしても最終的には民主主義と自由をこの地域に実現すること、2番目は「不安定の弧」を「自由と繁栄の弧」に変えることによって対米協力の実をあげること、3番目は自由と民主主義の価値観にまだ欠けている中国と日本の対比を際立たせることができるということだった。
安倍内閣が早期に崩壊した後、この概念は使われなくなった。しかし、日本の対中央アジア外交の本質は変わらなかった。

中央アジアの独立、安全、発展の強化に向けて
現在、中央アジアの情勢はおおむね安定している。これら諸国の経済は国際商品価格の高騰やロシア、カザフスタンへの出稼ぎ者からの送金で成長している。しかしながらアフガニスタンでタリバン勢力が再び伸張していることと、中央アジア諸国でインフレが昂進していることは、不安定化の兆候として懸念される。しかも中央アジア諸国の政府は権威主義的なままで、自由化の兆候は示していない。

このような状況下、中央アジアについていくつかの中期的な目標を示してみたい。まず何よりも、「グレート・ゲーム」はもう必要ないということだ。関係諸国は中央アジアにおいて過度の支配欲を発揮するべきではない。中央アジアの独立と安定が維持されていれば、全ての関係国の利益は満たされるのだから。第二に、アフガニスタンの安定が切に求められているということである。これが実現されない限り、国境を接するウズベキスタン、タジキスタンそしてトルクメニスタンは外部の勢力に依存して安全を確保しなければならない。

日本と他の諸国は、中央アジア諸国に対する経済援助を続ける必要がある。経済の発展は、民主化、経済改革等の基盤となる。現在、すべての主要国が「中央アジア・プラス・日本」、「中央アジア・プラスEU」、「中央アジア・プラス米国」、あるいは上海協力機構のような中央アジア諸国との集団的な協議の場を有するようになっていることに鑑みると、これらフォーラムが共同会合を開き、中央アジアの重要性を世界に印象付けることも一案だろう。
現在、石油景気で短期間にGDPを急増させ、世界のウラン埋蔵量の20%を有しているカザフスタンに対する、日本経済界の関心が高まっている。政府はこれを側面支援すると同時に、中国、ロシアとも良好な関係を有し、2010年にはOSCEの議長国ともなるカザフスタンの政治力にも着目していくべきである。また、円借款を使ってのインフラ建設を更に推進するべきである。

ウズベキスタンについても、ほぼ同様のことが言える。アンディジャン事件以後、若干後退した両国間の関係を再活性化する必要がある。トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスとの関係も常に前進をはかっていかなければならない。

欧米諸国民はともすると、中央アジアを軽視しがちである。だが中央アジアの文明は欧米文明よりはるかに古く、文明の起源の一つでさえあるかもしれない。中央アジアと日本の利益は、この地域の独立と発展を促進するということで完全に一致する。日本は中央アジア諸国の歴史と文化を尊敬しつつ、これからも関係を促進していくだろう。そしてそれは、世界全体の利益にもかなったことであろう。
      2008,7
                                                  河東哲夫
                                                        (了)

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