Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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世界文明

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2010年12月18日

工業空洞化は「日本の経営」の魅力を失わせ、日本国家を空洞化させる

今週、国際大学関係など企業経営についてのセミナーに随分出た。日本におけるものづくりが空洞化し、BRICsが台頭するかに見えるなかで、本質的な変化が起きている。

1.「日本企業の経営」はもはや関心を引かない
これまでは、ロシアや開発途上国に行くと、日本経済はどのように発展してきたか、日本企業はどのように経営されているかを話せば、ずいぶん関心をもって聞いてもらえたものだ。
ところが今日ではそうはいかない。「日本はもう落ちた国」--それが通り相場になってしまった(それは事実ではないので、あまり元気を失う必要は毛頭ないのだが)。僕がモスクワ大学で教えてきた感触から言うと、そうした変化はこの2年ほどの短い間に急速に起きている。あれ、あれ、という感じだ。

「日本企業の経営」とは、多くの場合、ものづくり企業の経営に関わることだった。「カンバン」方式にしても「提案」方式にしても、労働者のやる気を励ます種々の制度にしても。ところが今の日本では、製造業ですら「組立・販売業」とでも言っていいものに変わってきたのでないか? 「みんな、下請けから部品を買いたたくことしかやらなくなった」と言う人もいる。商社も自ら物を売買するより、見込みのある部門・企業に投資することで、収益の7割をあげるようになった。つまり大企業は(政府機関もそうだが)アウト・ソーシング、投資会社的な業務に過度に偏り、自分の手で価値を創造することをやらなくなってきたのだ。

そのような業態なら世界中にあるし、今やアップル、サムスンのように日本企業の上を行く存在は無数にある。日本人から企業の経営について学ぶ意味がなくなったーーこれが世界の通り相場になってきた。

2.「日本企業の経営理論」の改革
だから、ビジネス・スクールで教える経営理論やケースも、ずいぶん変えていかないと。これからの企業戦略で重要なのは、①どの国に本社を置くか、②世界中の支社をどう組み合わせ組織していくか、③何かを自分で製造するのか、あるいはすべてアウト・ソーシングで、自分はブランドだけ勝負するのか、ということだろうし、企業の組織論で重要なのは、これまでの従業員モチベーション理論が機能しない国(企業への忠誠心がないロシアなどでは、従業員は高給を求めて企業を渡り歩きがちである)ではどうするかというような、立地ごとのテーラー・メード化だろう。

3.「ブランド」割拠の中に溺死する国民国家、そして「国民」
これからの大企業は真にグローバル化しないと、生きていけない。「国際化」はもうきれいごと、他人事ではなくなる。世界の中に、お人好しで草食系の日本人たちが「国」とか「会社」とかの殻なしに放り出されることを意味するようになる。

真にグローバル化するということは、最大の市場(例えばインド)に本社を移すことも意味しよう。そして大市場の国の人間が本社の意思決定にかかわらねば、その市場でのビジネスの切っ先は大いに鈍いものになってしまう。

それは何を意味するか? それは、例えば「スズキ」がインドに本社を移し、社長以外の幹部は「外国人」になってしまうようなことを意味する。スウェーデンの世界的な重電大企業ASEAがスイスの企業を買収してそこに本社を移し、ABBと改名したあとは、これをスウェーデンの企業と意識する人は少なかろう。さりとて、「スイスの企業」であるとも思っていない。ABBはABBなのだ。

あと10年もたてば、多数の有名ブランドが国や地域をまたいで活動し、その売り上げは並みの国民国家を上回るほどになるだろう。「ブランドが世界の主要なプレイヤーで、国民国家は中世の名残」というような時代が来るのだろうか?
こうなると、もとは日本の企業であっても、その名残はブランドに僅かに残るばかり、雇用、税金のほとんどは、日本以外の国家で実現されることになる。そして「日本」は、雇用と税収を大きく奪われていながら、国民の社会保障と安全保障を確保しなければならない(それは不可能だ。世の中は非常に暗いものになる)。

4.本当はどこまで変わるだろうか?
こうして頭で考えるかぎり、日本の将来は暗い。日本には、「国際化」に対応して外国に移住することもできなかった人たちだけが、ろくな社会保障も治安もなしに残ることになるからだ。

だが僕の頭のなかでは、まさかそこまではいくまいという声がささやく。日本からのものづくりの流出には、一定の歯止めがきくのではないかと思うからだ。BRICsの売り物は低賃金で、賃金水準が上がってくると、輸出も下がり、内需も伸びず、結局成長率が低下するだろうからだ。

コメント

投稿者: 松宮 正浩 | 2011年1月 8日 13:25

40年前の日本は高度成長経済の真っ只中にあり、大企業は他社に先んじて有能な人材を確保するため、大学生の「青田刈り」を行い、人手不足の零細企業にあっては「手足が自由に動けば合格」の雇用状況でした。
社員も将来への不安は全く感じず、誰もが結婚して家庭を築き、やがて「家」持つことは当たり前のことであり、現在の若者には信じがたいことかも知れません。
何故、現在の状況になってしまったのか?その原因は極めて明瞭1985年の「プラザ合意」にあるのです。
つまり、急激かつ、急速な「円高政策」は企業に努力する時間を与えず、自社がいくらがんばっても競合他社が海外生産すれば、コストでは全く太刀打ちが出来ないために、海外に生産をシフトせざるを得なかったのです。
一方中国は、鄧小平による「改革開放経済策」
により、1980年「自由港」であった香港の隣接地であるシンセンに「経済特区」を造り、道路を整備してその両側に面積100~200坪程度の2~3階建ての工場棟を続々と建設したのです。
つまり、中国は安くて豊富な労働力を武器に、企業の工場誘致ならぬ「生産誘致」を行ったのであり、円高に苦しむの日本の中小企業は、雪崩を打って中国へ生産のシフトをしました。
この時「産業の空洞化」が心配されたのですが政府の無策により、4半世紀経た現在、現実となって「マンガ、アニメ」で世界を席巻したとうそぶいている間に、韓国にもすっかりお株を奪われてしまったのです。
円高政策自体は良かったのですが、ソフトランデイング、つまり10年とは言いませんが、少なくとも5年程度の期間で誘導すれば、国内には多くの製造業が残ったはずであり、中国の経済発展の速度にもブレーキを掛けられたはずと思えば、残念でなりません。
しかし、死んだ子の歳を、いくら数えても意味が無く「今後の日本をどうするか?」の問題であり、以下を提言するものです。
1.農業の活性化
地球の人口はまだまだ増え続け、食料の供給能力を凌駕しつつあり、近い将来の「食糧危機」は現実の問題となります。
日本は国土狭しと言えども、水と気候に恵まれ最新の技術を駆使すれば、100%の食料自給率は可能であり、事実一昔前までは他国に頼ることはなかったのです。
政府は農票をあてにせず、農業の活性化のため農地法や、遺産相続の改革を行い、人間の生存権である「食」の不安を無くすべきです。
2.エネルギー改革
「脱石油」が叫ばれてから久しいのですが、近年やっとその可能性が見え始めたようです。
中でも、自動車の電化は効果が大きく、国家政策として15年後くらいには「ガソリンの消費ゼロ」を目標にするべきであり、世界規準としてモデル化される位の取り組みが望まれます。
ハイブリット自動車は最後の真空管であったブラウン管TVと同様過渡的な存在であり、内燃機関の歴史を閉じてEVに特化するべきです。
現状、使い勝手においてはまだ十分ではありませんが、やがて克服される問題であり、少々の不便を乗り越え世界をリードしなければ、他国との競争にも置いてきぼりになります。
3.教育改革
明治期における急速な近代化に貢献したのは、日本独特の「寺子屋」制度にあり、わが国の資源は実に国民の頭脳であることから、近年の電子化を活用して更なる教育改革が望まれます。
そろばんは電卓に代わり、辞書は電子化され、いまどき「百科事典」を購入する人はおらず
コンピューター誕生以来言われてきた「ペーパーレス社会」が現実となりつつあります。
電子化教育に対する反対論も根強いのですが、書籍に郷愁を覚える暇は無いのであり、知識はコンピューターに任せ「知恵」の創造教育に転換するべきです。
電子教育は好むと好まざるとにかかわらず、世界的な潮流であり、すでに韓国、シンガポールではかなり進展しており、日本としても遅れをとってはならず、学年制度をも乗り越えた教育改革が望まれます。

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