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世界文明

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2019年6月10日

日本が米国の 属州 になったらどうなる ―ローマ帝国における属州の地位―

(これは、5月22日発行のメルマガ「文明の万華鏡」第85号の一部です)

この頃は、米国が製造業を自国に取り戻すためにWTOの規則を無視したり、外国の企業を米国法に従わせようとして制裁をするなど、勝手気ままの行動が目につく。残念ながら外国はこれに対抗できないので、ものごとは米国による世界統一の方向――少なくとも経済関連の法制面では――に進むだろう。日欧等、米国の同盟国は、ローマ帝国の属州にも似た地位に追い込まれていくのではなかろうか。

それでも平和で、生活が成り立つならそれでもいいのだが、英語がぺらぺらでないと、一人前の市民とは見なされず、ろくな仕事にありつけなくなるだろう。ここで一つ、ローマ帝国の時代、ローマ人はどう振る舞い、属州や同盟国はどんな地位に置かれていたかをまとめてみよう。

目次
 (ハード・パワーとソフト・パワーの併用)
 (多民族性)
 (市場経済)
 (「同盟国」と「属州」)
 (搾取とポピュリズム)
 (ローマ帝国の崩壊)

(ハード・パワーとソフト・パワーの併用)

ローマは、伝説ではトロイで滅亡した貴族が建国したことになっているが、実際には流れ者、ならず者のたまり場であったはずだ。現代で言えば、それはイスラム国家ISISに似た成り立ちのものとなる。ならず者集団の常として、ローマも紀元前8世紀建国間もなく、隣接のサビニ族の女性を集団拉致する事件を起こしている。

その後のローマは、一時王政のあと、原初的民主主義・共和制で律せられた武人国家として500年の長きを過ごす(その後、皇帝を戴く帝国として、西ローマ帝国消失まで約480年間、東ローマ帝国=ビザンチン帝国滅亡まで実に約1450年間存在した)。
これは17世紀後半の共和制(国王はいたが)軍事国家としての英国にも似て、ローマの強味であったのだろう。そこでは「ローマは元老院(貴族)と市民で成り立つ(S.P.Q.R.=Senatus Populusque Romanus)」という概念が染みついていた。元老院は武人の集まりであり、そこでは公共精神、「祖国」擁護意識、名誉心が大事にされた。このあたり、米国のピューリタン精神を少し髣髴とさせる。

ローマ帝国の全領域は現在の米国のハイウェー全延長7,7万キロと匹敵する規模の「軍道」でカバーされ、属州も含めて人間の移動は自由だったから、商業、手工業は栄えた。中央の政府の陣容は推定で300人ときわめて小さく、経済は「市場」に委ねられていた(「古代ローマを知る事典」)。

この表面的にはしまりのない帝国は、辺境を守る軍=ハード・パワーと、「ローマ」ブランドの文化・経済の魅力=ソフト・パワーで維持されていた。更に面白いことに、シーザー以来、皇帝は大神祇官、つまりシャーマン長、あるいは法皇的な地位を兼ね、宗教的権威を独占していた。種々の点で、それは現代の米国と酷似している。

そして「ローマ市民権」が、辺境地域の人間達をローマになびかせるための道具として活用された。市民権があれば属州にいても地方税(収入の10%。これが中世のカトリック教会の10分の1税につながっているのだろう)を免除され、後には兵役も免除されるようになった。

もっともローマ帝国初期は、属州の人間は兵役を務めないと市民権を取得できなかった。これは米国の低所得層が、軍役につくことで大学入学優先権や生涯の社会保障を得るのに似ている。後出のように、属州の人間にもローマ市民権が無差別に与えられるようになったことで、兵士の徴募は難しくなったようだが、そこは高い給料でつっていたのだろう。その給料を払えなくなった時、ローマ帝国は瓦解する。

(多民族性)

 ローマ帝国と言うが、現代の米国に「アメリカ人」という人種はいないのに似て、「ローマ人」という人種はいなかった。元々は現代のISISのような寄せ集めの国だから、最初から雑種、あるいは多民族性を持っており、だからこそ周辺の都市国家を貪欲に取り入れていけたのだろう。古代ギリシャの都市国家による海外の植民地建設と、そこは違うところである。アテネは純血性を重んじて、市内の奴隷は比較的容易に解放したものの、外国人の身分しか与えなかった。ローマは212年のアントニヌス勅令で、全属州民にローマ市民権を付与している。

ローマ帝国内部での移動と職業の選択は3世紀の末まで自由だったし、紀元前167年以降、ローマ市民は直接税も免除されていた(「地中海世界とローマ帝国」)。ローマ帝国の元老院は、3世紀にはヒスパニア、ガリア、オリエントの諸民族が幅を利かしていたし、2世紀末には元老院メンバーの3分の1がアフリカ出身であった(「古代ローマ帝国」)。トラヤノス等、ヒスパニア出身の皇帝は何人もおり、セウェルス朝の時の皇帝たちはアフリカ出身で、皇妃たちはシリア人であった(「中世西欧文明」ジャック・ル・ゴフ)。将軍にも、異民族を取り立てた。

(市場経済)

 中国では古くから政府が経済活動に介入するところ大だったが、武人国家ローマ帝国は商業を蔑視し、民間に委ねていた。元老院議員とその子息は公共事業を請け負うことを禁じられていたし、中型以上の貨物船の所有も禁じられていた。彼らは大土地所有者になるのを目指すことが多かった。その様は、中国の科挙官僚の生き様に類似している。

 前述のように、ローマ帝国にはりめぐらされた「軍道」は全長8,5万キロで、現代の米国の幹線道路の延長に匹敵する。これは軍の移動だけでなく、商品の交易を大いに促進した。他方、経済発展のために必要な「単一の法空間」はなかったようである。後世11世紀あるいは12世紀、イタリアでローマ法典への注釈集Pandektenが発見され、それをベースに欧州初の大学がボローニャに誕生、ローマ法の諸概念(例えば西欧の資本主義の基礎を成す「私的所有権」保護は、ローマ法によるもの)が欧州に普及し、法空間の統一に大いに貢献したのだが、このローマ法は6世紀東ローマ帝国のユスティニアヌス帝時代のもの。ローマ帝国が東西に分裂する前には、領域、都市ごとに異なる法律が適用されていて、単一の法空間はなかったようだ。

(「同盟国」と「属州」)

 ここで日本、あるいは欧州諸国のような米国の「同盟国」にとって、一番切実な問題、つまりローマ帝国の「同盟国」、あるいは「属州」はどのような服属関係に置かれていたのかを見てみる。もちろん時代によってその様は推移していて、しかもその推移の様は連続的にはフォローできないのだが、わかっている点は次のとおりである。

 ローマは打ち負かした相手に自治権を与え、同盟国、あるいは友好国として遇することがあった。これは、「ローマ軍はその国を襲撃しない」という保証のようなもので、同盟国の方は一定の貢物をするとともに、有事にローマに兵力を提供する等の義務を負ったらしい。エジプトやアルメニアがこの地位を享受した時期がある。

詳しいことはわからないが、同盟国・友好国とローマの関係はケース・バイ・ケース。いくら支払うか、兵をどういう場合、何名供出するかを中心とする権利義務関係はその国、時期毎に違っていただろう。それは、現在の日英独仏等の間で、米国との間の権利義務関係がそれぞれ異なり、また時代の推移とともに変わっていくのと同じである。

属州は、豊かで安全な地中海沿岸部のものは概ね元老院が直轄し、不安定な国境地帯は皇帝が直轄した(「地中海世界とローマ帝国」)。ただ元老院直轄の属州についても、その態様は様々であっただろう。イスラエルの例が典型である。キリスト生誕周辺の時代、イスラエルは既にローマの属州となっていたが、ヘロデ「王」も存続していた。キリスト生誕と同時に、嬰児を多数虐殺させたと言われるヘロデ大王、そしてキリストを洗礼した予言者ヨハネの首を継娘のサロメに与えたのもヘロデ王(別人)で、後者の頃には既に、キリストを磔刑に処したローマの代官、総督ピラトもいたのである。

(搾取とポピュリズム)

 
 ジャック・ル・ゴフは著書「中世西欧文明」の中で、ローマ帝国では創造よりも搾取が支配的、ヘレニズム時代からの技術は革新されなかった、従ってローマ帝国は基本的には、戦争に勝っては東方から奴隷と黄金を吸い上げることで存続した、とする。その黄金で、辺境の軍隊を養い、帝国を維持、拡張していたのである。

 辺境地帯で得られる黄金の中でよく知られているのは、現在のスペイン・ポルトガル国境地帯にあるLas Medulas金山。この金山では、水を砂岩の山体に注入しては崩し、砂金を採取していたのである。この地域は紀元前25年、アウグストゥス皇帝時代にローマが征服し、紀元1世紀に金の本格的採取が始まったとされる。ローマが崩した山塊は今もその荒涼たる姿をさらして(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%82%B9)、ユネスコの世界遺産に指定されている。

他にダキヤ(現在のルーマニア)方面、あるいはエジプトを通じてアフリカからも金が入って来た。このうちどの程度が代価を払って得たものか、どの程度が「ただで」得たものかはわからない。Wikipediaによれば、紀元100-300年、ローマ帝国は年間10トン程度の金を産出していたと思われる由。これは、現在の価格では年間約5000億円のマネタリー・ベースが増加することを意味した。現代の感覚では大帝国を支えるには到底足りない金額だが、ローマ帝国の軍隊の維持費としては十分だっただろう。

 属州はローマ帝国の主な歳入源で、属州民は収入の10%等の税金を払っていた。10%とは10分の1、10分の1税と言うと、中世の農民がキリスト教会に払っていた税金のことである。つまりキリスト教会はローマ帝国の行政システムの抜け殻のようなものであるという、一つの証左である。

 そして属州と本土の間には税関があり、商品の移動には25%の関税がかかった(「古代ローマ帝国1万5000キロの旅」 アルベルト・アンジェラ)。25%と言うと、現代の米国が中国に課した税率と同じで、笑ってしまう。そして属州と属州の間にも税関があった。つまりローマ帝国の属州は、「統一市場」の中には入っていなかった、あるいはそうした時代が長かった、ということである。

 ローマ帝国は20-30万という図抜けた兵力で形を維持していたが、国内のガバナンスは有名な「パンとサーカス」、つまり当局が大衆に食料と娯楽を提供するポピュリズムで維持されていた。アルベルト・アンジェラの「古代ローマ帝国」によれば、ローマ市では20万人が毎月約35キロの小麦を無料で受領していた。当初は備蓄用であったのが、紀元前58年のクロディウス穀物法で無料配布になったのである。年間8,4万トン必要で、スペイン、エジプト、シチリア等から税金(年貢)として集められていた。

 このためもあり、ローマの外港オスティアには無数の船が集結したが、ここは帰り荷のない港として知られた。つまりローマ市は現代の米国と同様、ひどい入超の国であったのだが、その代価は金で払われていたのだろうか? あるいは税として無償で取り立てていたのだろうか?

(ローマ帝国の崩壊)
 
 現代米国に似て、ローマ帝国は力に傲って自らの貪欲を制御できなくなり、党派に分かれて倒しあうようになって衰亡していった。その様を歴史家のケルスティウスは雄弁に描く(本村凌二訳)。

「共和政末期、地中海覇権確立までは労苦と正義だったが、スッラが武力で専制を敷いて以降、不遜きわまりない態度や残虐非道な感情、さらには神々をないがしろにする傲慢さがのさばりだす。金銭の力こそが万物にまさると誰もかも考えるようになってしまった。このような風潮がめばえたのは、スッラが武力によって国家を乗っ取ってからだ。誰もがかすめとり、家も土地も奪いとり、慎みのない勝者ばかりが幅をきかせ、ローマ市民の間で残酷な殺し合いがくりかえされるようになった」

猛々しい少壮の者たちが権力をにぎり、元老院を非難し、民衆をあおりたてる。彼らは惜しみなく贈り物をあたえ、数々の約束をして、ますます民衆をたきつける。対抗して貴族閥族派は元老院のためと称して全力を尽くす。要するに、公明正大という名のもとに立ち上がったとしても、誰もが目的とするところは同じだった。公の福祉という美名のもとに誰もが自分の勢力拡大のために戦ったのである」

そしてPeter Brownはその著書「古代から中世へ」の中で、キリスト教もその垂直統治思考法で、ローマ帝国に残っていた共和制価値観を最終的に崩し、上御一人に対して万民が服属するモデルを浸透させたと書いている。

 百科事典ブリタニカは、ローマ帝国崩壊の過程をこう描く。筆者自身の要約による。
「腐敗、徴税力の低下から、兵士の給料と装備が低下した。貴族、上院議員の間では、noblesse obligeの伝統がすたれた。下層の者が金でのし上がり、もとを取ろうとするからである。地方でも軍人が文官をおさえて、のさばるようになった。彼らには辺境のドナウ地域出身が多く、後れた意識をいかんなく発揮する。この状況で、貴族は大農園にこもって、徴税官を拒否するようになる。260年代、貨幣の品位低下でハイパー・インフレが起きたらしい。疫病も。資料がないが、当時の農園等を発掘してみると、砦のようになっている。多分商業は荒れ、実際に文明の終末的状況にあったのだろう」

そして南川高志の「新・ローマ帝国衰亡史」によれば、西ローマ帝国崩壊は僅か30年ほどの短い期間で起きた。現代では、リーマン金融危機から30年と言えば2038年で、この時には米国が崩壊している勘定となる。ローマ帝国の軍隊は、税収の激減と無政府化によって、10年程度の短期間でメルト・ダウンしたようだ。百科事典ブリタニカは前述のように史料不足と断りつつ、260年代には貨幣の改鋳で大インフレが起きたらしいとする。現在、政府の純債務残高がGDP比で80%を超え、毎年1500億ドル弱も増えている米国にとっては、不吉な史実だ。

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