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世界文明

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2012年12月 3日

選挙前 今の時代をどう認識するか Ⅲ 民主主義の目詰まり

政府と国民の間の目詰まり=民主主義とポピュリズム

 「権威」の話の次は、日本人個人の話し。日本ではボランティア活動やインターネットのおかげで、個人々々の判断力は高まっている、ところが国民一人一人の希望、意見を政治に反映させるためのメカニズムが目詰まりになっているーーそういう話である。
日本は二〇〇九年、戦後はじめて総選挙で政権党を交代させた。でもその前から、市民レベルでの政治活動、政治意識はずいぶん高まっていたのである。二〇〇九年のちょうど二十年前、一九八九年には、社会党党首になった土井たか子、「おたかさんブーム」で社会党が大躍進をした。この時は、女性を中心に権利意識が盛り上がり、市民レベルの政治運動が増えた。そして二十年後の二〇〇九年は、「政治家主導」の掛け声や、予算の「仕分け」などが、市民の権利意識のはけ口となった。

 だが問題がある。それは、個々の市民と政府をつなげる接続面(インターフェース)が目詰まりしている、ということだ。つまり、市民がいくらキーボードをたたいても、政府というプロセッサーにつながらない、ということである。自分たちの代表=国会議員を選び、彼らに国のことを決めてもらうという「代議制民主主義」、あるいは議会制民主主義という仕掛けはある。でもこれは、携帯メールでいつも誰かとつながっていることに慣れた、現代の若者たちには、いかにもまどろっこしく、いかさまのものに見える。友達でもない、一回も話したことのない議員が、どうして自分のことを決めるのか、というわけだ。

そして市民は、国会や省庁がどのようにものごとを決め、どのように実行しているか、その動き方を知らない。三権分立だ、立法府、行政府、司法機関は互いに行き過ぎをチェックしあうことになっているんだ、だから民主主義は守られるんだと言われても、ふつうの人間には何のことだかわからない。ふつうの人間にとっては、国会議員も官僚も同じ穴のムジナ、偉そうな顔をして相談もなしに自分たちの生活をいじくりまわす人、という意味で、「政治家」というひとつの言葉でくくってしまう。これは、「お上」という昔からの言葉と同じ、自分たちとは縁のない人たちという意味なのだが、「お上」にこめられた畏怖の念はもうない。自分たちと同等、もしかすると「お上」というより「お下」に近い感覚なのだろう。

ふつうの市民は、どうやったら自分の希望を政府や市役所に聞いてもらえるのか、政府というものはどうやったら動かせるのかわからない。だから、すべてのことを一人のめだつ政治家に託そうとする。テレビで顔をよく見ているので、安心できる。政治家のAさんは年金改革に冷たいが、Bさんが大臣か首相になればやってくれるだろう、それにBさんは若くてルックスもいい、というわけだ。こうして、たった一人の政治家を理想化し、それに国民がこぞって全権を与えてしまう、という風潮は危険なことだ。話が大きくなって恐縮なのだが、それはヒットラーを生んだ戦前のドイツのようなポピュリズム、いやポピュリズムを超えたファシズムの時を思わせるからだ。
ポピュリズムというのは、政治が社会の雰囲気に流されることを意味する。多数意見や雰囲気が大多数の市民のためにならないことがわかっていても、政治家は社会を説得するかわりに煽り立て、支持層を広げようとする。政策を決める際には、必要な議論や手続きが省略されることが多い。ファシズムというのは、政治家が大衆を煽動して自分の側につけ、それを力として独裁者となることを意味する。

ポピュリズムを独裁ではなく、直接民主主義につなげるために

日本人は独裁のこわさを知らないようだ。近代の国家、政府というものは、大変な力をもっている。あとで言うが、もともとは戦争をするために国民から税をとりあげ、国民を兵隊として徴募する仕組みとして近代国家はスタートしているからだ。軍、諜報機関、警察、検察、税務署など、あらゆる仕組みを使って、国家は自分の思いを遂げようとする。市民個人の思い、希望を政府が実行してくれているときはいい。だが次の瞬間、独裁者はあなたを戦争に駆り出そうとするかもしれず、その時には全権を握られているので抵抗もできない。抵抗すれば逮捕される。ソ連でスターリンが大弾圧を始めたときもそうだった。あるインテリ家庭の娘は夜中に逮捕されて連れ去られるとき、「こんなのだいじょうぶだからね。すぐ帰ってくるから」という調子で家人ににっこり笑ったのだそうだが、それから二十年もたってやっと帰宅した彼女は別人のようになっていたそうだ。人間は、拷問などの恐怖に直面するとすぐ変わる。独裁は、その恐怖を使って社会を操縦する。そして世界には、今でも独裁、または独裁に近い国、秘密警察が大きな力を持っている国はたくさんある。

 そこで、話を幸せな現代の日本に戻す。視聴者参加型のテレビ番組に慣れた日本人は、直接民主主義を望んでいるのだろう。古代アテネのように、市民が全員参加する議会でものごとを決めたいのだ。それは無理でも(アテネでも、民会に参加できたのは裕福な男性だけだった)、なじみのない国会議員とか官僚を通じてではなく、自分の思いを直接権力者に伝えたい。自分たちの手で、指導者を選びたい。指導者とか行政の責任者は一人であるべきで、自分はそれと直結したい――こういうふうに思っている人が多いのではないか。言うまでもなくそれは不可能なことで、総理大臣の脳に一億二千万人から毎日なにかメッセージがはいってきたら、総理の脳は炎上してしまうだろう。

だから今のところ、直接民主主義を望む国民の気持ちは、政治家やマスコミに利用されるだけの結果で終わっている。彼らは市民の要望を実現するかまえを見せることで票をかせぎ、視聴率や部数を上げている。このままではいけない。インターネットやビッグ・データの処理技術向上のように、国民個々の思いを集約できる手段が発達してきたのだから、従来の代議制民主主義と組み合わせて、日本流のガバナンス、つまり統治システムを開発していくべきだろう。 

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