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政治学

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2011年4月16日

硬直・惰性症候群――日本はなぜ自殺的状況に陥りやすいのか

駅の地下など、日本ほど歩きにくい国はない。このまま行けば必ずぶつかるというのに、気がつかずにこちらに向かって歩いてくる人が多いからだ。アメリカ人は自己主張が強いのに、駅のような場所では他人にぶつからないよう注意して歩いている。

そして日本の場合、人間だけではなく、どうも国のあり方、ものの決め方そのものも、硬直性と惰性の症候群を病んでいるのではないかと思う。特に今度の福島原発事故を見ていると、太平洋戦争に至った日本の硬直性、政策における惰性の構造は「健在」なのだなと思う。それはこういうことだ。

まず政府の一部門(原発の場合、経済産業省)が何かの政策を打ち出し、内閣全体・国会の了承もとって、それを政府全体の政策として多額の予算を引き出す。ここで、その省の大臣、役人の名誉、昇進はこの政策の成功如何によることになる。また多額の予算を使ったことで、政策は後戻りや見直しがしにくくなる。ここで、硬直性・惰性はもう保証されたようなものだ。

アメリカでは少なくとも8年に一度は大統領が代わって、政策の総見直しが行われる。一種の革命だとも言われる。これが日本にはなかった。強いリーダーがいないのが、日本の常態だと思ったらいい。民主党のマニフェストやらも、それ自体が硬直性の一つの実例となってしまった。結局日本では、ものごとを決める時、コンセンサスを重視するために、一度合意を固めたらそれを変えるのに大変な努力が必要になる。

福島原発の場合、堤防が低すぎる問題は一部で指摘されていたらしいが、政府や東電が対策に乗り出すことはなかったようだ。おそらく、ありそうもない事態に備えて原発を止めて改修すること、そしてかつて大蔵省から予算をとるときに使った、「これで絶対大丈夫ですから」という言質を自ら破ってしまうことへの躊躇、その他その他の理由があったのだろう。原子力保安院が経済産業省からもっと独立していれば、改修を強力に迫れただろうが、人事を経済産業省に握られているのでは、増産、増産の政策に配慮して黙っていざるを得なかったろう。

東電は、そのようなお上の事情を忖度して動いていたのだろうが、問題が起きれば責任を負わされるのだから、もっと自分でイニシャティブを取るべきではなかったか? もっとも、原子力部門は東電のなかで孤高の存在で、首脳陣の介入を嫌ったらしい。で、これもまた、日本の組織によくありがちなことなのだ。組織のなかの特定の部門が独立王国的存在を作り上げ、自分たちで「王国」内の人事を壟断しようとする。そしてこれも、リーダーシップが弱いことに起因する。

今回のことは、これら諸要因がすべてあわさって、強力な混乱ドライブをかけた。政治主導を、政治家自身が行政をやることと勘違いしている民主党政治家たちも、混乱に輪をかけた。強いリーダーシップとは、官僚の惰性と硬直性を見破り、違うやり方を練り上げて官僚に実行させ、各省の間の対立をさばくことを意味するはずだ。

(最後のパラグラフには練りきれていない箇所がある。総理が「違うやり方を練り上げて」というところだ。総理が一人でできるはずもなく(時間がないし、専門的知識もない。総理とはスーパーマンではない)、さりとてお友達の学者あたりにやってもらったのではアカウンテビリティに欠ける。本来は、情報と専門的知識を有する官僚たちに「違うやり方を練り上げてもらう」のが一番いいのだが、それは官僚を政党のラインに沿っていくつかのグループに割ることを意味するのだ。そんなのは現実的なアイデアではない)

コメント

投稿者: たろ | 2011年4月16日 07:19

小さい政府を作ってきたネオリベ政策の負の側面も強いと思えます。

社会の中で批判的な団体や集団を普段から担保できずに、
システムは硬直。これによって時代似合わせた変容ができなくなる。

消費社会化の下で、国民の非政治化・つながりの解体で孤独をうみだし、これが今の無縁化につながっています。モノを消費させる事で発展を遂げてきた戦後です。いわゆるアメリカンドリーム的な誰でもが可能性を持つと思わせることによる幻想のブラックホール化。

批判的言説の不在化は、自己啓発的な希望的観測を引き起こします。

メディアの機能不全に加え、旧来から進めてきた反共政策は感覚的にチェック機能を奪っていったのでしょう。

原発反対派を「左翼」というレッテル貼りでかたずけ、
女性の権利を「フェミニズム」というステレオタイプで切り捨て、
若者の失業問題を「「怠け」として一蹴する。

公平さを最低限担保する法制度の不在。

細かな法的・制度的必要性とそれに伴う社会調査をしてこなかったツケは、必然的に盲目として現れます。全てを技術や消費に頼った金銭化で社会をまかなおうとした。まるで、ナチが秘密兵器で「最終の勝利」を訴えていた姿にも重なります。

そうなれば良いという意志や希望的観測のみに頼って、ごり押しを続けてきた結果ではないでしょう。

今この時期にリーダーシップを求めるのは、この希望的観測の更なる加速を生み出しかねません。

リーダーがいなくともそこ支えできる組織、システムの開発が望まれます。

投稿者: 河東哲夫 | 2011年4月18日 02:25

たろう様
リーダーがいなくとも底支えできる組織というのは①官僚組織、②「賢者委員会」、③インターネットによる問題毎の投票、などが考えられますが、どれも難しいと思います。

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