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政治学

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2018年7月12日

日米安保締結における天皇の役割

これからトランプの言動で、日米安保がずいぶん揺さぶられることになると思う。あまりおろおろしたりしないように、日米安保の故事来歴を尋ねておきたい。

日本の天皇は、戦後以降は政治に介入してはならないとされてきた。平成天皇が生前退位の意向を表明された時も、これは政治行為ではないかという議論があった程。確かに現在の憲法は第4条で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」と明記、第7条でその「国事」を列挙している。その中に安全保障政策や外交は入っていない。

しかし昭和天皇は、少なくとも終戦直後、米国占領当局、そして米国本国政府を相手に自分の考えを表明、政治・外交を基本のところでかなり動かしていたようだ。そこは天皇・マッカーサー会見を初め、記録があまり残っていないためにはっきりしないのだが、今月読んだ「昭和天皇とワシントンを結んだ男」(青木富貴子著、新潮社)は、松平康昌・式部官長(福井の松平春嶽の孫)はコンプトン・パッケナムNewsweek東京支局長と戦前から親交があったこと、それによって天皇は、トルーマン大統領の特使としてジョン・フォスター・ダレスが来日した時、パッケナムを通じて松平・ダレスの懇談を実現(パッケナム自邸で)、吉田総理、そしてマッカーサーを飛び越えて米軍基地つきでの日米安保条約の締結を促進したとしている。

これは著者の青木富貴子が苦労して入手したパッケナムの日誌を下敷きに、日米双方で関係者にインタビューをし、関連文書にも目を通した上での結論である。説得力がある。
サン・フランシスコ平和条約締結の一年前、1950年6月に起きた朝鮮戦争のただ中で、トルーマン政権は日本を早く独立させて同盟関係を結ばせ、軍隊を作らせて朝鮮半島に送りだしてやろうとの魂胆を強めていたようだ。少なくとも、日本独立後も、米軍基地は日本に保持することは至上命令。

豊下楢彦教授の「安保条約の成立―ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)によれば吉田総理は、サン・フランシスコ平和条約と並行して進められた安保条約の交渉で日本の再軍備に抵抗。かつては日本を武装解除し、憲法9条を押し付けたマッカーサーにかこつけ、米軍基地存置を渋るかっこうをし、米側に日本の再軍備を諦めさせるための取り引き材料にしようとした。

しかし天皇は共産主義勢力が日本国内にも浸透し、政権を奪取せんばかりの勢いになっていることに危機感を持っていたのだろう(現に、米軍占領が終わって僅か3日後、皇居前では「血のメーデー事件」が起きている。共産主義勢力が仕組んだと思われる蜂起である)。基地存続を認めておけば、再軍備は見逃してもらえるだろう、そして条約に米国の日本防衛義務を明文化せずとも米国は日本を防衛する、と思ったのだろう。天皇は松平を通じて、吉田総理の言い分を否定するかのように、日本は米軍基地存置を望んでいるのだとの立場を伝え、交渉締結を促す。また以前からトルーマン大統領との対立を深めていたマッカーサー司令官は、サン・フランシスコ平和条約締結を前にした1951年4月、解任されてしまう。吉田総理はもはや抵抗せず、平和条約と日米安保は9月に締結された。以上の松平・パッケナム・ダレスのラインを詳しく書いたのが、この「昭和天皇とワシントンを結んだ男」で、近来になく面白かった。

歴史の裏はいくつもあって、例えば真珠湾開戦直前、ルーズベルトが昭和天皇に親書を送って来たことは知られている。それは「昭和天皇とワシントンを結んだ男」によれば、陸軍が押さえて天皇に届くのが遅れるようにしたのだが、真珠湾攻撃後天皇が開いてみると、ごく事務的な内容のもので、攻撃前に見なくてよかったものだそうだ。つまり日本は、千載一遇の機会をみすみす逃したわけでもなかったということだ。

もう一つ知られていないのは、終戦直前、ソ連に和平工作を依頼することを、政府で決定した時の経緯だ。これは「世間知らずの日本政府が、信用できないソ連政府に泣きついて、見事に蹴られた一件」として歴史に残っているのだが、三宅正樹氏の「スターリンの対日情報工作」(平凡社新書)を見ると、面白いことが書いてある。この件を決めた1945年5月11~13日の最高戦争指導会議(日本)での文書は、ソ連の対日参戦濃厚という情勢を見すえたうえで、戦後の米ソ対立まで見越し(!)、日ソ中が共同して英米と対抗する構図をソ連側に提示する心づもりがあったことを示している。当時の東郷外相は戦後書いた手記「時代の一面」の中で、「この時ソ連政府当局が日本に対し、すでに開戦の決意を為して、佐藤大使との会見および近衛公の入国を肯じなかったとまでは、想像し得なかったのは、甚だ迂澗の次第であった」と述懐しているそうだが、それはその通り。しかし日本政府は、世界の情勢をかなりフォローしていたということだ。非敵対国に大使館を保持していたのだから、それも当然か。

米国に対して日ロ、日ソが組むのは前例がある。1907―1916年、日ロ政府は4度にわたって協約を結び、満州北部はロシア、南部は日本で実質的に分割するとともに、第3国、つまり米国が入り込んでくるのを妨害するという趣旨で合意していたことがある。そして1941年の日ソ中立条約も、日本が対英米の守りを固めるためのものであった。
(当時もそうだし、今でもお勧めできるやり方ではないが)

なお話は違うが当時、米国の友人と連絡を取り合って和平の途を追求していた日本の要人もいたに違いないのだが、また逆に、日本国内の情勢や爆撃目標を米国に通報していたスパイもいたに違いないのだが(でなければ、木曽の山の中の発電所など爆撃されていないだろう)、このあたり研究した人はいないのだろうか。まあ、資料は廃棄されているのだろうが。


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