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政治学

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2012年8月23日

ポピュリズムだけは卒業したい

野田総理が谷垣自民党総裁に「近いうちに解散」と言ったそうで、その「近いうち」の解釈が問題になっているが、政局はまず9月の民主党、自民党の党首選挙が先だろう。
誰が総理になっても、マスコミの思いのまま次から次へとアイドルを担ぎ出しては1年で替えるようなポピュリズム政治が復活してはどうしようもないので、今のうちに何をどう考えておいたらいいのか、提案したい。

「政治常識」の水準向上

どの国でもそうだが、日本でも大衆は「一人の優れた政治家がいれば」自分たちの問題はすべて解決してくれると思いがちだ。そこには、政府を一面では嫌っていながら他面ではこれに依存するという性向がある。昔の村社会とは違って、複雑な現代社会の内外政を一人で把握している人間などいるはずもないことを、大衆はわからない。
自分の要求を実現しようと思ったら、民主主義社会ではどのような手続きが必要か、そこを教わっていないから、「一人の優れた政治家」待望論になってしまうのだ。これは、ポピュリズムを通り越してファシズムである。

代議制民主主義への不信

普通選挙制になって以来、多数の選挙民の希望を政策にきめこまかく反映するのは益々難しくなった。それは、ほぼ不可能である。選挙も、選挙民の意志を問う、と言うよりは、「一応聞いてやったんだぞ」という言い訳、あるいは不満のガス抜きでしかない。
そして最近の先進国では政党間のイデオロギー的な対立がなくなって、違いは自分のもらい分、払い分に反対か賛成か、くらいでしかなくなってしまった。欧米諸国は、「複数政党」制にすれば各党が切磋琢磨するので政策が良くなると言うが、日本では政党が揚げ足取りと足の引っ張り合いで政策の質を低下させている。

もともとものごとを黒と白の間のディベートで決めるという体質がない日本では、与党と野党の対立方式より、大連立のような翼賛方式の方が気分に合うのではないかと思う。国会議員は選挙の洗礼を受けるが、信認を受けたあとは「政権党」とかを構成し、そのトップには国民として納得のいく、それなりの識見と無私の誠意を備えた総理がのっかっていればいい、それが役人を使って国を運営していってくれればいいのだ――大衆は潜在意識でこう思っているのではないか。

まあ、そこまでは極論だろうが、いずれにしても今の政党政治は時代遅れになっている。アメリカ独立当初は、今のような二大政党制はなく、党派に分かれて争うのは国益を害する「はしたない」こととさえ考えられていたようだ。現在は途上国に、「民主主義の源は複数政党制にあり」と説教を垂れているアメリカだが、この複数政党制というものは永久の真理ではないのだ。

マニフェスト

数年前マニフェストという習わしに目をつけて、これを日本に定着させた方々の努力に敬意(むしろ恨み)を表する。でもわれわれは別にマニフェストを読んで投票するのではなく、自民党が賞味期限になったと感じたから新しい民主党に賭けたのだ。次の総選挙で民主党がどんなマニフェストを持ち出そうが、見切りをつけて別の政党に投票してしまうかもしれない。

野党には、国の状態の真実はなかなか知らされない。役人にしてみれば、国会で質問されるのを防ぎたいからだ。だから実際に政権についてみると「そうだったのか」ということも多く、野党時代のマニフェストを変えてもみたくなることだろう。現に民主党も、「霞が関の埋蔵金」がわりと少なくて、泡を食ったのではないか?

ところが民主党は諸派が入り乱れているため、マニフェストを変えることはできず、「マニフェストは選挙で国民の信を得た。実行しなければ」ということで、国民の税金をばらまいてマニフェストのしゃにむにの実行をはかることになるのである。そんなのに税金は払いたくないし、投票した覚えもない。
だから、今のこまごましたマニフェストはやめて、もう少し幅のある、方向性を示すだけのものに変えてほしい。どうせ、選挙民は読まないのだから

政治常識の向上は住んでいる地元から

民主主義とか政治への参加とか言うが、普通の人間は国政などより、地元の駅前の再開発とか、新道の建設ルートとか、そういう身近なことに関心を持っている。ところが皮肉なことに、大都市の郊外では身の回りに起こっていることについて、自分で判断できるだけの情報がない。地元にどんな勢力がいてどういうふうにものごとを決めているのか、ぜんぜんわからない。市議会の審議の記録は送ってくるが、それだけではウラで起きている本当の動きはわからない。それがけっこう近くのレストランなどに行くと、そこに地元の有力者(僕の住んでいるところでは大地主の農家だが)たちが偶然集まり、いろいろなことを「決めて」いたりする。そういう情報を、たとえば地元の元新聞記者などが取材して、インターネットで流してくれたらどんなにいいかと思う。

というのは、税金の中でも地方税というのはずっしり負担に感ずるものなのだが、その使い道に少しは発言したいからだ。農地がまだ残る東京の郊外では、ある日突然畑のなかに新しい道路が作られて、駅へ行く途中が危なくなったりするのだが、この道路を作る計画は市の審議会で議論される。ところが審議会はたいてい地元の農家=地主が占めていて、自分の畑の交通の便をよくしては地価をつりあげるのに使っていたりするので、普通の市民もすこしは監視していなければならないと思うのだ。

地方では、市役所だけではなくて、県庁、そして中央政府の各省の役人が務めている運輸局とか通商産業局とか建設局とか、政府の予算を使って地元でいろいろ事業をやっているところの役人にも、地元のテレビでいろいろ説明させたらいいと思う。

政治家の使い方

日本政府というのはひどいところで、少子化対策で出産を奨励しておきながら、子供ができてみると保育園に空きがない。これを何とかしたいと思ったら、同じ問題に悩んでいる人たちをできるだけ多く集めて(フェースブックとかツィッターをこれに使える)、地元の市役所の担当者、幹部、市議会議員の尻をたたくことだ。誰に何を頼んだかはインターネットでその都度報告し、さぼっているようだったら非難して、次の選挙では落とすように運動する。

保育園は市の予算だけでは動かないので、国の予算を担当している厚生労働省を動かさないといけない。その場合、役人に言っても一地方の問題だけでは動かないので、大臣や副大臣や政務官など、選挙で落とせる人たちに会うか(簡単には会えない)、手紙を送って、そのことをまたインターネットで宣伝し、全国の同志が同じことをやるよう呼びかける。

政治家というものは、選挙で落ちる恐怖があれば、必ず動く。動くというのは、担当の省庁に圧力をかけて財務省に予算を請求させ、新しい法律を起案させることだ。「役人は自分の利益、自省の利益ばかり考えて、何もやらない」というのは中傷に過ぎず、新しい事業の予算を請求すれば自分の省の他の事業の予算を減らされるきまりになっていることもあって(全体の予算をむやみに増やさないための措置)、よほど全国的な運動のうねりになって国会で大臣が質問でもされないかぎり、自分ではなかなか動き出そうとはしないものだ。但し、「いい役人」は自分で社会の問題の芽を見つけては、それが大きくなる前に対処しておくため、いろいろ率先して動く。


コメント

投稿者: Alexandr | 2015年11月26日 06:56

Just cause it's simple doesn't mean it's not super hepflul.

投稿者: Alexandr | 2015年11月26日 06:57

Just cause it's simple doesn't mean it's not super hepflul.

投稿者: Alexandr | 2015年11月26日 06:57

Just cause it's simple doesn't mean it's not super hepflul.

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