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街角での雑想

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2010年2月12日

この頃の日本の学生、ソ連人のようーーあるロシア人の述懐

この間、もう10年以上日本の大学で教えているロシア人の友達が言っていた。

「もう何年前だったか、ある時モスクワで休みを過ごして帰ってくると、新しい学生たちはこれまでと変わっていた。それまでの学生はロシアのことに関心を持っていろいろ聞いてきたのだが、最近はロシアだけでなく外部のことにとんと関心がない。単位をもらうことだけに執心している。まるでソ連時代の労働者のようだ。」

村落共同体の風情が強く残り、誰でもみんな平等という気分の強い日本は、これまでもソ連に似ていると言われてきた。今度は無気力なところがソ連と似ている、というわけか。この野郎、と思う。だが僕が教えている大学のひとつも、彼の言うとおり。

どこかの年次で、日本人がかなり変わっている。それがゆとり教育のせいなのか、携帯電話が中高生に普及したためなのか。数年前まではインドなどに「自分探し」に行く学生も多かったのに、今では大学3年から「職探し」だそうで、そうするとやはり最近の不況が学生をクソ現実的にしているのかもしれない。

あれこれ考えているうちに、「近頃の若者はなぜダメなのか」原田曜平(光文社新書)という本にぶちあたって、目からうろこの落ちる思いをした。携帯の中高生への普及が、かつての村社会をヴァーチュアルに再現し始めた、というのである。
でもこの本のこと、また別の機会に。

コメント

投稿者: たろ | 2010年2月13日 18:21

紹介なされてる本は読んでないのですが、
村社会化は、当然な帰結なように思えます。

90年代から、文化現象として起こっている「キャラ物」、「癒し」などという一連の流れをみていると、物事が単純化、微細化、あたりさわりの無いものと流れています。

こういった価値観が人間関係の軸におかれることで、なるべく当たり障りの無い形で人間関係を広げようとする一種の政治に見えていました。

すでに、子供時代からポケモンカードのような身分証明書ゲームも流通させられ、子供たちの世界をマーケットが支配する現象も一般化しているので、あまり携帯だけを上げられても返ってぴんと来ないものもあります。

確かに携帯がそのコミュニュケーションの幅を革命的にあげて、隙間としてまだ残っていたプライベートを埋めてしまったのは確かなんでしょうけどね。ある意味での相互監視社会の確立。

こうなってくると、自分ひとりで物を考える「ゆとり」がますますなくなってきますよね。上記の政治性が個人を覆ってしまい、かなり即物的なニュアンスが強まる。つまり現実的になり、抽象的、建設思考の発展が阻害される。その結果として、「キャラ物」などの一見して「幼稚」に見えるものの商品の発達だと思うんです。

しかし、幼児的に見えてもやろうとしてることは意外に高度。人間的、抽象的なものを徹底的に隠蔽するやり方なんですよね。同じ方法はナチ時代のドイツで映画を使って行われている。

こんな背景には、やはり社会の硬直化、政治の機能不全は露骨にあると思います。怒りや悲しみを建設的に吐き出せる社会機能の不全、マツリゴトが機能しなくなってる。それが慢性化した結果でしょう。否定性を昇華することなく、流していくやり方では、内面は発達しない。自我が目覚めないという自体にもなってきます。

学問や政治が個人の自我を前提としてる以上、非常に難しい問題がでてくると思います。

毎度、舌足らずの文章失礼しました・・・。


(いや、いや。本文をはるかに凌ぐ重量でした。本当に参考になります。おっしゃる通り、これまでの世代が考えてきたこと、議論してきたことはゴミ箱行きなんですよね。まったく、およびでない。世界中そうかもしれません。するとその方がトレンドで、世界の思想風景はまったく本質的に変わるのかも)

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