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街角での雑想

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2009年7月 9日

なぜ現代は薄っぺらに見えるのか? 思想がないから?

作家の辻井喬氏の書くものなど見ていると、彼の世代が思想とか文化というものにどんなに真摯に取り組んできたかわかる。
僕は大学4年で1960年代後半の大学紛争を体験した。当時大学の構内は、「米帝」とか「階級闘争」とかの勇ましい文句を大書した立て看板というやつでうまっていた。思想や文化が、学生の意識の中心にあった時代。ドラマがあった。たとえ偽の、現実から遊離したものであったとしても。

今では思想の代わりにMBAだ、マクロ経済政策だ、で夢も希望もない。「俺は何のために生きているのか」という問いに悩まされていた旧制高校の連中は、今の世代にとっては暇人としか思えない。「何のために生きているって? そりゃお前、死にたくないから生きてるんだろうが。何のために、なんて考える前に、食べる金を稼がなきゃ」というわけだ。

ああ、考えてみれば、19世紀の末くらいから、人々は格差とか所得の再分配(別の言葉で言えば、富の奪い合い)とかの問題を解決するのに、思想を使うようになっていたんだな。マルクス主義とか、社会民主主義とか、「主義」とか---ismの語尾がつくもので。大ナタで刺身を切るような荒業だ。

ところが今はismなんてどうでもよくて(いやマネタリズムとかサプライサイド・エコノミーとかはありますが)、もっぱらMBAとかマクロ・ミクロ経済学、そして年金や医療保険をめぐる乾いた退屈な議論しかない。浪漫はない。そして文化は富の配分まで賭けた真剣なものから、生活をただ装飾するだけのポップ・カルチャーになってしまった。

本当に浪漫がないよなあ。経済学の知識が普及していないロシアとか中央アジアの方で、思想はまだ生きていて、あちらじゃ口角泡を吹いて議論している。これもまたちょっと・・・。存在していないものについて熱くなるのもなあ・・・

まあ、僕が熊野洋の筆名で書いた、ソ連崩壊を背景にした大河小説「遥かなる大地」(草思社)を是非、お読みください。浪漫が壮大なメロディーを奏でてうねるのです。

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