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街角での雑想

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2008年11月 8日

田母神空幕長の論文について

(11月28日、論旨は全く変えずに、わかりやすく文章を修正、付加)
田母神空幕長が民間団体の懸賞論文で、「この前の戦争で日本が中国などを『侵略』したというのは濡れ衣だ」という趣旨を書いて問題になっている。まるで事前から予定されていたかのように一等賞を獲得し、300万円もをもらったことが役人としての道から外れているばかりではない。「書いてはいけない」ことを書いた、「言ってはいけない」ことを言った、というのだ。

僕はそのような報道を見ていて、なんとなく嫌な気になった。そこで、田母神氏の論文を読んでみた。その結果、報道とは少し違う印象を得た。

彼の言いたいことは末尾の方、①日本の自衛隊は太平洋戦争の後遺症で、集団自衛権なども援用できない(つまり日本周辺で米軍が攻撃を受けても、日本の自衛隊はそれを助けることができないということになっている)不完全なものになっている、ということと、②日米同盟は不可欠だがいつも依存しているのは不健全だ、日本はもう少し自分で自国を守る気概を持とう、ということだ。これなら僕も全く異存はない。

だがこの小論文で僕が奇異に思うのは、「日本が中国や朝鮮半島に軍を進めたのは条約に基づくもので侵略ではない」というくだり。

そのような論理は、歴史を歪曲している。朝鮮半島は日本が武力で威嚇して支配下に入れたものだし、日華事変が始まった当時、北京郊外の盧溝橋に駐留していた日本軍は、1900年の義和団の乱の後、大使館等を守るために駐留を認められていたものに過ぎない。義和団鎮圧後、1901年に結ばれた北京議定書は、華北全体の割譲を狙い、上海、重慶まで攻略した日本軍の行為に法的正当性を与えるものでは毛頭ない。

また田母神氏は、「コミンテルンに操られた蒋介石の挑発に、日本軍が易々とおびき寄せられ、中国との長期持久戦に引きずり込まれた」のだと言っているが、それがたとえ事実だったとしても、それは日本側の見通しの無さを示すだけのもので、日本の行為を正当化するものではないだろう。

田母神氏は、米国政府にもコミンテルンが入り込んでいて、日本を戦争に引きずり込んだのだと言う。
アメリカが日本に開戦させるため殊更追い詰めた、というのが事実かどうかはまだ定説のないところだし、たとえ事実だとしても、力の差が決定的であることが分かりきっていたアメリカにたたかれるようなところにまで自分を追い込んだのは、日本側の過誤だろう。

田母神氏の論理をつきつめれば、日本には戦争責任が無い、東京裁判は不当だということになる。だが戦争責任の問題は、サンフランシスコ平和条約で政治的・法的な決着がついている。日本はそこで東京裁判の結果を受け入れたのだ。
これに感情的に納得できない人は、自分で戦いにいってほしい。仲間内だけで、俺たちは正しかったんだと確認しあってみても、世界を説得することはできない。

田母神氏は、東南アジア諸国は戦争中の日本軍を支持していたかのように書いているが、マレーシアのマハティール前首相もシンガポールのリークアンユー前首相も以前、日本経済新聞の「私の履歴書」欄で、日本軍より英国統治の時代の方が人間的に扱ってもらえたと書いている。
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現在、自衛隊の行動に数々の制約が課せられたままであることは事実だ。国連のPKOなどに出ても、武器は使ってはいけないことになっているので、イラクでは英国軍や豪州軍に「守って」もらわなければならなかった。

「そのような制約は不条理だ。太平洋戦争は侵略戦争ではなかった」と田母神氏は言っているのだが、このような論理は日本の社会に対しては有効ではない。日本の世論の過半はおそらく、太平洋戦争が日本の侵略だったと思っているからではなく、単に戦争が嫌だから自衛隊に制約を課したがるのだろう。
自衛隊の行動への制約を解きたいのなら、今回田母神氏が用いたのとは別の論理が必要だということだ。

戦後の世界では、植民地の奪い合いはもはやない。WTOに入っていれば、市場は一応確保できるのである。だから戦後の世界では、自衛力を持っていればいい。自衛力もいらないという人は、19世紀の昔オーストリアとナポレオン軍の間で中立を守ろうとしたヴェネツィアが、両者によって分割されてしまった例を見れば、気を変えるだろう。

そして田母神氏が言うように、日米安保同盟は必要だ。これ無しでは日本はまさにヴェネツィアのようになる。そして日米同盟に安全保障の根幹を頼るのであれば、これまでのように米国は日本を守る義務があるが、日本は米国を守る義務はない、という片務的な関係ではもう駄目だろう。

どの国でも軍隊は、戦う大義名分を必要とする。自衛隊も同じだ。死ぬかもしれない仕事なのだから、それは切実な気持ちだ。戦前の日本は超国家主義を前面に立て、一般国民からは遊離した崇高な存在を守るために戦う、というイデオロギーを取った。

しかし何故、一般国民から遊離した崇高な存在を考え出し、それへの服従、献身を強制するのか? 太平洋戦争に学徒動員で駆り出された学生達が書き残した「わだつみの記」を読むと、「自分達の犠牲が日本社会の自由をもたらすような気がする。せめてそうでも思わなければ・・・」という箇所があったと記憶している。

これこそ、一番崇高なものではないのか? 「今の日本人が享受している自由、権利、そして生活を守る
」--これに勝る崇高なものはないだろう。そして防衛大学が戦後発足した時、初代の槇学長はまさにそのようなリベラリズム「槇イズム」を自衛隊の精神的バックボーンとして据えたではないか。
「日本という国土に住んでいる人間の自由・権利と繁栄を守る」--これでいいのではないか? 

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ところで田母神氏に対しては、退職金を出すなとか、自ら辞退しろというような声がマスコミで上がっているが、これは感情的な付和雷同だ。日本は法治国家なのだから、法律に則ってやってもらいたい。「言ってはいけないことを書いたから」、「世間を騒がせたから」、というような村八分的論理でその都度対応を変えていたら、ファシズムへの歯止めもなくなってしまう。

「言ってはいけないことを書いた」というのも小児的な考え方で、それは実質的には「田母神氏の書いたことは正しかった、だが言ってはいけなかったのだ」ということになる。いったい誰が、「言ってはいけない」と決めたのか? 

言ってはいけないのか、いいかより、田母神氏の言い分が史実に合っているのかどうか、正面から議論してみたらいいだろう。       

コメント

投稿者: 中野 遼太郎 | 2008年11月15日 03:04

全く同感です。 「言ってはいけない」とは、マスコミの勝手な論理でしかないと思う。
産経新聞の広告記事をしかと読んでみたが、疑問点も河東氏の指摘通りであった。

自ら「戦いに出てみればいい」との表現。自分も常にそのことは念頭に置いて国際社会を見ている。平和は、簡単に得ることは出来ないものの、その概念をあまりにも軽損じている。


(河東より:小生は産経freakではありません。意見が一致するはずがありません)

投稿者: 中野 遼太郎 | 2008年11月16日 07:49

文脈がおかしいところがありました。 
非論理的な所があり、誤解をもたらしてしまいました。 言いたかったことは、河東さんの指摘には納得出来たというニュアンスです。産経の論調に納得できたとは決してありません。

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