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街角での雑想

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2008年4月16日

「国家」に完璧を求めて自由を失う危険性

植民地主義・国民国家・産業革命
   ―――西欧文明「三位一体」の黄昏、新しいパラダイムを求めて―――
                         2008年3月30日
                             河東哲夫
(この論文は、東京財団での研究の成果として執筆したもの)

日本では10年程前、「国家論」が盛んであった。だがあるべき国家体制、政府と個人の間の望ましい距離感などについては、広い議論の対象にならないまま「国家」、「国」、「政府」についての感情的な議論が横行し続けている。
経済建設の進んだ日本では、他のアジア諸国と異なり、個人の自由や民間企業の活力発揮を宗とした国家形態を取ることが可能であるにもかかわらず、90年代以来の政治・経済・社会すべてにわたる停滞の中、種々の問題の尻が国家、あるいは政府に持ち込まれている。
何か問題が起こるとすぐ、「政府は何をやっているのか」、「日本はなんたる国になってしまったのか」という議論が起こる。冷戦終結で東西対立がなくなってからは、かつては政府を批判することをもって自己の存在証明としていた学者達までもが、「官邸」に職を得、総理の威光を背景に自分のアイデアを実現できる、実現したいと競う時代なのである。
そこでは国が本来やるべき業務は何なのか、規制と自由のバランスを奈辺に求めるべきかといった基本的なことについての議論が欠落している。産業化、都市化の中で共同体や隣人社会が崩壊したため、それらが従来果たしてきた役割が政府に無原則に転嫁されているという事情もそこにはあろう。
しかし国家、あるいは政府というものは、個人を抑圧するものでもある。そのあたりの警戒心が、特に現在の若い世代には欠けているように思える。現在の日本においては、政府への批判がかえって政府の権限、陣容を増大させるものになっていることに対して、必要な防止措置が取られていない。世論が期待するように、役人は使命を自己犠牲的に果たすものではない。役人は任務を追加されれば、人員と予算を要求するものなのである。日本は、自由な個人を中心においた近代社会、法治国家を作らなければならない発展段階にあるのに、日本人の大多数は無意識のうちに国家スケールの村落共同体を作ろうとしていることが、このような行き違いを生んでいるのではないか。
「国家論」という学問は、おそらく成り立たないだろう。国家を論ずることは、社会全体、学問全体を論ずるのと同じことだからである。世界における国家体制の推移を研究の対象に据えても、一般化、理論化、モデル化は非常に困難である。
ただその中においても、例えば英国の国家体制の推移を議論の基軸に据え、中国、あるいは遊牧民族の作り出してきた諸国家形態と比較することは可能である。また世界史においては、ローマ帝国からフランク王国への移行等、移行期の研究が不足していたが、国家体制においても断絶と継続の共存を観察することは重要である。
世界や日本を見ると、19世紀以来世界を支配してきた二つの要素、つまり主権国民国家と工業化が限界に突き当たってきたことが如実である。この論文は、この二つのうち国民国家に論点をしぼり、これが西欧史上どのように発生したのかを洗いなおし、次の3点を中心に検討を加えたものである。

①国民国家が形成された時にそれが目的としたものは、現在でも目的として有効なのかどうか。
②現在の世界における国家体制はどのような問題を抱えているのか。
③世界の国家体制はどのように変えていくことが適当なのか。

要約
○「主権国民国家」は、17世紀から19世紀の西欧で形成されたものである。
 それはまず最初に英国で形成された。強い徴税能力に支えられた高い軍事力、官僚機構、国王に代わって最高権力を行使する議会・首相の存在等が特徴である。
 英国国家は今日、「財政=軍事国家」とも名づけられているとおり、フランス等と争って植民地を拡大するために、国富を集中運用することを可能とする体制であった。

○そのような戦争マシーンとしての性格を強く有する「国民国家」は、今日の先進世界においては時代遅れの存在である。対立の理由はないにもかかわらず、国民国家形成のために人工的に作り上げた「民族」感情が、不要な摩擦を引き起こしている。

○現代は、BRICsの台頭、原油・原材料価格の高騰が象徴する南北間交易条件の根本的変革に見られるように、グローバル規模での利益の熾烈な再配分の時期である。
 個人の解放、自由をうたった60年代のロマンチック・リベラリズムはしばらく前景から退かざるを得まい。自由というものは、強者しか享受できない一種の特権である。

○以上列挙した諸問題は、過去・現在の諸国家モデルにその解法を求めることができるだろうか? 
おそらく万能薬的なモデルはないだろう。現実の問題を一つ一つ(しかし総合的に)つぶしていくしかない。完璧な国家モデルは、世界史上存在しない。いくつかの好ましい要素をこれら史上の実例から抽出し、それを現代社会に援用することができるかどうかを確かめ、他の要素と有機的・総合的に取り入れていくしかない。

○国家主権の一部としての国防権はどこかに預託し、言語・文化の面でのまとまりだけを残していけば、人工的に作り出された民族感情で張り合ったとしても、武力紛争に至ることはなくなるだろう。
国防の預託先は米軍、あるいは地域アレンジメントの2つに大別されるだろう。米軍に世界の治安を依存する場合には、世界はもっと米国の政策に対する発言権を確保するべきである。米国は世界の縮図のような国になりつつあるのだから、その領域内にいる者といない者との間で権利が異なるのは、奇異なことだ。地域アレンジメントに安全保障を預託する場合には、日本は米国の東アジアへの参入を確保しておかないと、孤立した立場に置かれやすい。

○経済面においては、IMFの改組が必要だ。米国が金とドルの関係を断ち切って以来、世界ではモノの取引量をはるかに越えた金融取引が蔓延した。貿易収支の赤字を救済するために作られたIMFは時代遅れの存在となっている。

○戦後60年間続いてきた自由貿易を更に続けていく手段を考えねばならない。自由貿易が確保されている限り、武力紛争は起きにくくなるからだ。相対的に落ちてきたアメリカ経済を補強して、共に自由貿易を支えていけるだけの規模と活力を持った経済はどの国が持っているか? その答えはそう簡単ではない。
むしろ希望は昨今の穀物価格の急上昇に見出せるのかもしれない。これによって先進国における農産品生産補助金や、日本等における穀物輸入関税の引き下げが可能となり、止まっていたWTO新ラウンドが動き出すかもしれないからだ。

○今日、EUが国民国家に代わるものとして、称揚されている。だが後出河東のEU出張報告にあるように、西欧の主要国はEUに権限を差し出すのに消極的であり、EU委員会の決定に対して実質的なVeto権を保持している。EUを誉めるがあまり、その実力を超えた権威を与えてしまう愚は冒さない方が賢明だ。他方国際場裏でEU加盟国に一丸となって行動されると、その票数は多く、侮れない勢力となるので、この場合の力は正当に評価するべきである。

○インターネットとコンピューターは、社会と政策担当者の間の全く新しいコミュニケーションの手段である。たった一人の指導者が1億人ものメールを毎日読むことはできないが、国民からのメールを集計・分析して指導者に政策オプションを提案するようなソフトなら、そのうちにできるかもしれない。

○インターネットに、人は直接民主主義の夢を見る。産業革命で人々の生活水準が上昇し、政治意識が向上して普通選挙が実現したが、投票のベースが広がるにつれ、選挙民の一人々々と対話している時間はなくなり、テレビを通じてポピュリスト的手法を弄するしかなくなってきた。今は、インターネットを使って新しい段階に上がるべき時なのではないか? 北欧では市民の政治意識は高く、投票率もいつも高い。インターネットを使って同じようなことを実現できないかと思う。

○日本については、経済規模を大きく見せる構えと、自分の声を世界に聞かせるための仕掛けを必要とする。例えば企業なら、海外支社なども決算に含める連結決算で自分を大きく見せて、借り入れ能力、買収防衛力を強化するが、同じことを国についてもできると思うのだ。貿易黒字・赤字も、国単位で論ずることの意味はあまりないのである。

○日本は語学力に劣るため、国民国家の枠から出ることは非常に難しい。現実的な解法は、国内経済への外国の参入を拡大して徐々に国民国家の枠から出、法制もそれに合わせていくことくらいだろう。

目次
国民国家」形成の過程
 中国の国家制度
 古来からの日中関係についての知識の欠如
 アメリカ国家の原理
イスラム帝国、アジアの港市国家の国家原理
日本の「国家」の特徴
現代「国民国家」が抱える課題と今後の方向
ガバナンスの危機
「市民社会」的価値観の溶解
経済的にもたない「国民国家」
日本が抱える特殊な問題
新しいモデルを求めて


現代世界における「国家」の原型――
西欧における「国民国家」形成の過程
 中世の西欧ではフランク王国が分解してスペイン、フランス、イタリア、ドイツがすぐできたように言われてきたが、実際は国ができたのではなく、各王家に分かれただけでああり、その領土には飛び地も多く相互に複雑に入り組んでいた。

中世西欧は国民国家ではなく、国王の家産国家であり、国王はよく所領を巡回して諸侯の服属を確認していたらしい。首都に宮廷を置き、諸侯を貴族として侍らせるようになる絶対主義時代とは異なる。
英国はフランスにおける飛び地をめぐってフランス王家と100年戦争を繰り広げた後、1455年からは内戦、即ちバラ戦争に入った。これが1485年に終結したところで、ヘンリー7世がチューダー朝を開く。
国内が平和になったことが国王の権力を突出させるに至ったためか、それとも内戦中功績を挙げた諸侯への恩賞とするためかはわからないが、ヘンリー8世はローマ教会と殊更にことを構え、1534年に英国教会の独立を宣言するやカトリック教会の資産を没収、後のジェントリー階級に売却してしまうのである。
ローマ教会は西ローマ帝国なきあとも残った、広域行政のスケルトンのようなものであるとも言えるので 、これから独立したということは国民国家として独立するための基盤を作ったことになる。そして、新たに創出されたジェントリーからは、後の資本家、企業家が生まれていく。

清教徒革命・規制緩和・通商
 英国史における次の境目は清教徒革命(1642年)であろう。
西欧史では、フランス革命の方が清教徒革命よりはるかに大きな扱いを受けているが、絶対主義を破り共和制を樹立したことでは、清教徒革命も同じであり、かつフランス革命より約150年早いのである 。
後に述べるが、フランスは英国に比し税制の整備、国家体制の整備が遅れたが故、18世紀末まで続いた英国との一連の戦争を負担しきれず、その矛盾が革命を誘発したのである。
 清教徒革命では、フランス革命におけるような流血、資産・所有権の移転は起きなかったが、絶対主義時代の特権・利権が廃止されたことは大きい。当時は“Trade”という言葉が流行し、なにごとも取引の対象とする、企業家精神に満ちた雰囲気になったという。
 その精神は当時スペイン、オランダと海上交通の覇を争い、17世紀後半には三角貿易と呼ばれる付加価値創出装置を作り上げていたことと無関係ではあるまい。これはアフリカの土侯に英国産の石鹸等、日用品を売り、引き換えに奴隷を得て これを米国で売却し 、代わりに綿花、砂糖を購入して本国に持ち帰り、これを加工して再びアフリカ等に輸出するという図式である 。
これにより17世紀後半、英国では日用品生産のための軽工業が急速に発展し、生活水準が上昇した。彼らは東インド会社がもたらす、インドの綿織物、茶など、彼らにとっては全く新しい商品を大量に消費し、「生活革命」と呼ばれるように、生活スタイルを一新させた 。
 1648年、30年戦争が終結してウェストファリア条約が結ばれ、「主権国家」が誕生した。しかしこれは近代的国民国家の誕生というより、西欧の政治単位としては国家が唯一のものとして確立され、カトリック教会、王家などのプレーヤーは後景に退いたことを意味している 。
国王ではなく議会ないし首相が国の代表権を行使する、法人的性格を持った近代国民国家は、同時期の英国で真っ先に形成されていく。

「戦争マシンとしての国民国家」の成立
17世紀後半、英国は「戦争マシンとしての国民国家」体制を着々と整えていく。当時、海上交通をめぐるオランダとの覇権争いにはほぼ決着がついていて、フランスとの海外植民地争奪戦が最大の政策課題となっていた。
当時の政策決定過程、そこにおける議論、資本を運用する存在としてのジェントリーがどのように動いたか等について、筆者は未だつまびらかにしない。しかし17世紀英国で起きたことは、未曾有の金融・税制体制の整備であったことは確言できる。
1688年の名誉革命でオランダのオレンジ公を新たな国王として招いた英国に対しては、フランスと独立をかけて戦っていたオランダからその資本が大量に注ぎ込まれた。1694年には英国でイングランド銀行が設立されて国債を発行する体制が整い、1698年にはロンドン株式市場が開設されて内外の資本を集めることが可能になった。1717年にはポンドが金にペッグされ、対外信用を高めたのである。
英国経済は貿易に強く依存していたが、英国は19世紀の米連邦政府や現在のロシア政府と異なり、輸入関税にその歳入を大きく依存することはせず、取引税に歳入の多くを依存していた。スチュアート朝時代には税負担はGDPの3~4%であったが、名誉革命後のハノーヴァー朝時代には9%に達したと推定され、当時西欧で随一の高負担国であった。
18世紀前半、英国はフランスと数度にわたる植民地争奪戦争を行い、大きな市場を獲得していく。豊かな財政、膨張する行政需要を背景に公務員の数も膨れ上がる。英国の築いた財政力が軍事力 を強化し、植民地の拡大をもたらし、これが市場となって英国の富を更に拡大させるスパイラル、つまり国民国家・植民地・産業革命の三位一体が成立していくのである 。
 18世紀英国では人口が増大し、農業生産も拡大していたが、いわゆる産業革命(綿織物の大量生産)は未だ始まっていなかった。18世紀後半の英国の主要輸出市場は北米であった。北米植民地からの税収は殆どなかった が、英国の輸出の20%、輸入の30%が北米植民地を相手とする貿易から得られていた。
英国はこれを、米国独立戦争のために失うのである。その打撃は甚大だったに違いない。現在の日本で言えば、対中貿易が突如失われたに等しいのである。そこで、意識的な転換が今度はインドを軸として行われた。英国、インド、中国を軸とした多角貿易が盛んになった。
インドは北米植民地と異なり、英国の全輸入量の40%分に相当するような税“home charge”を課され、しかも本来は綿織物の老舗であったのに英国製の粗悪な綿織物を大量に買わされるようになった 。「産業革命」は、この時に「発生」している。
 綿織物を安く大量に生産することで利潤を上げようとする資本家達がいたのだろうが 、この北米大陸からインドへの対象シフト、綿織物工場建設をめぐる当時の周辺事情については、未だ適当な研究成果に遭遇していない。
なお1697年~1815年の間の英国の工業生産増加の半分は輸出に向けられていた。戦後、日本、ついで中国は輸出主導の経済発展を欧米から非難されることになるが、以前は英国自身が同様の発展モデルを採用していたことになる。
この間英国においては内閣制が整備され、首相職が1715年に成立し、政党政治も18世紀から始まっている 。英国は活力に満ちた民主主義国として欧州大陸諸国知識人の賞賛を受けた。
こうして、単一の法空間 、強力な財力と軍事力、警察、外交機関を備え、国王ではなく首相、議会を権力の頂点に据えた近代的国民国家は、英国で初めて成立し、現代の諸国家は多かれ少なかれ、意識的、無意識的にここに範を取っているのである。

フランス、オスマン・トルコの場合
 税制の整備が遅れたフランスは、英国との戦争の費用を調達しようとして三部会を久しぶりに招集したところ、これに革命を起こされてしまう。フランスは、工業化では英国に遅れてはいなかったが、国家体制で大きく遅れていたのである。フランス大革命とそれに先立つ時代は、ルソーの社会契約論、「権利の請願」等、国家に対する個人の権利を確立したとされているが、国民国家の体制整備はナポレオンを待たねばならなかった。
ナポレオンは英国に追いつくため、国民国家としての体裁を強権的に整えた。彼はローマ法典をベース にナポレオン法典を作り上げ、大陸における成文法の伝統を形作った。
そして徴兵制を敷き、これに革命精神(自由、平等、博愛)、愛国心を植えつけることで、近代的国民国家の姿をほぼ完成させる。
 この間東方においてはオスマン・トルコ帝国が次第に衰退していた。オスマン・トルコは17世紀初頭までは強大で、西欧にとってリアルな脅威であった。トルコのスルタンも、西欧を自分の潜在的な版図として意識し、そのための冠も持っていた。貴族ではなく、スルタン自らが選任したイェニチェリに軍・行政を委ね、地方には代官を置いていたオスマン・トルコは、西欧諸国の国王達にとっては絶対主義国家の模範のような存在であった。 西欧は、国民国家という一種の戦争マシンが動員する血(兵士)と汗(税金)の力で東方を圧倒し、植民地主義時代を築く。英国の力は頂点に達し、1846年から1932年にかけての自由貿易時代を可能とする。
 ドイツの統一を実現したビスマルクは、社会保障という新しい要素を国民国家に持ち込んだ 。血と汗を国民から搾取するのが本来の機能であった国民国家に、国民に恩恵を与える社会保障が持ち込まれたのである。
現代では、戦争遂行のために国民の血と汗を搾り取る装置としての国民国家は後景に退き、社会保障という恩恵の部分のみが過大の関心を受けるに至っている。これは、国の権力基盤が大衆に広がってきたためであるが、どこでも国家の負担能力に限界があるという問題に突き当たっている。

中国の国家制度
 多民族性・清の連邦性
現在の中国はアヘン戦争以来、欧米・日本に辱められたことがトラウマとなっている。日本では、中国は日本には厳しいが欧米には甘いとされている。しかし反日のことばかりが喧伝されているが、北京の頤和園に行ってみると、入場券売り場の上に「英仏連合による破壊から復興された」と大書してある。そしてそのように辱められたのは中国の国家体制がしっかりしていなかったためだとして、強い欧米にならった『近代国民国家』を作る努力が続けられている。
 植民地主義時代が終わり、冷戦も終わった後のアジアでは、現状を武力で変更しようとする勢力はいない。自由貿易の原則が守られていれば、ほとんどの国がハッピーなのである。中国がトラウマと対米コンプレックスに駆られるが如く、元々は対外侵略のための力を溜める道具として作られた「近代国民国家」を作ろうと焦っている―――しかも西欧近代国家が民主主義に基づいていることは無視している―――ことは、その軍備の急激な拡張もあいまって、周辺には現状変更の目論見を暴露するものとして映っている。
 史上の中国は、西欧的な近代国家とは異なる原理によって維持されてきた。そして中国は「漢民族」だけのための国ではなく、古来から西方の諸民族、遊牧民族が共に作り上げてきた国家である。そのことの意味を、中国人に一度見直してもらいたい。
 中国の歴史の始まりは、新しい遺跡が発掘されるにつれどんどん遡っている。現在では紀元前4000年くらいまではいったろうか。それは構わないのだが、漢民族はユーラシアの他の部分とは隔絶していて、自力でその文明を作り上げたのだ、と言われると、それは史実に反すると言いたくなる。
ユーラシアは一つにつながっており、その上を馬で移動することは気の遠くなるほどの時間がかかることではない。古来、青銅器文明、鉄器文明の生起がエジプト、メソポタミア、中国と、時期的にほぼ一致していることから判断すると、ここにはスキタイのように文明を媒介してまわる遊牧民族や商人の介在があったと思うのが自然だろう。中国文明にしても、そのオリエント起源説が一部で提唱されているのである。
 そして中国を初めて統一したことになっている(中国は古いと言うが、この「統一」は実はペルシアのアケメネス朝成立 から下ること実に約340年後のことなのだ)秦の始皇帝の家柄は西戎だということになっている。そして秦の国制がアケメネス朝ペルシアのそれに似ていることを指摘する者もいる。
 その後漢民族 が樹立したと言って差し支えない王朝(但し長期間続いたもののみ)は、漢、宋、明程度のものである。唐の開祖、李淵の家柄は、辺境地方の防衛をあずかる武人で、周辺の鮮卑族と長年にわたる婚姻関係を結んでいたし、李の配下で後に唐王朝の貴族となる武人達の家柄も同様であった。唐の中期、安禄山の反乱が起こるが、彼は突厥系の母、ソグド系の父の間に生まれている。そして長安の朝廷では、ソグド人 が経済関係の重職に取り立てられていたことが、最近西安周辺で続々と発掘されている彼らの墳墓から明らかになりつつある。
 元王朝にいたっては、西域とのかかわりはもっと明白だったし、経済・通商行政はペルシア人、ソグド人に委ねられていた。明の時代、計2万名もの大艦隊を率いてアフリカまで航海した鄭和は、中国南部に移住していた「色目人」(イスラム)の子孫だった。
 そして清の時代に至って、中国の多民族性は頂点に達する。清とは、満州の女真族がモンゴル、チベットと同盟して漢民族を制圧した征服国家であり、漢民族にとっては元朝に次ぐ悪夢の再来だった。清王朝は漢民族にも辮髪を強制することで、彼らの誇りも砕いたのである。
 だが清は一貫して、漢民族の慰撫にも努めた。その際用いたのが、連邦国家的な概念である。清の征服王朝性を批判した漢人の朱子学者、曾静を雍正帝が故宮によんでディベートをした時の記録、「大義覚迷録」は①中華世界は漢人だけのものにあらず、②君主は漢人に限らず、どの民族でも良い、③漢人が聖人とする舜は東夷、文王は西夷だった、とする堂々たる多民族主義で、当時、津々浦々に宣伝された 。
清王朝は多民族国家であることを越え、女真族、漢民族、モンゴル、チベットの連邦(Confederation)的性格を持っていた。清の皇帝はモンゴルの汗も兼ね、北京入城後間もない順治帝は故宮の裏の北海の島にチベット様式の白い仏塔を建て、その脚部に建つ仏殿には、釈迦牟尼仏の隣にダライラマ5世像を安置した。チベットは当時まで強国であり、新疆地方を従えていたから、清王朝の時代に初めて、新疆地方全体が領土となったのである。
 当初征服者の清王朝に反抗的だった儒学者も、王朝中期になると清を讃え、清の版図を自分のものとして考え始めた。そこに西側が侵略して、初めて「中国」という概念が成立したのだという。つまり中国が現在の領土を確立したのは比較的新しいことであり、中国、中華という呼称も新しいもの、ということになる。それまでの中国は、漢民族にとっては「天下」でしかなく、具体的な名称はその時の王朝の名を用いていたらしい。
 現在のユーラシアに存在する二つの大国、中国とロシアはいずれも、かつて遊牧民族が自分達を征服して樹立した大帝国をいわば裏返して、自らのものとした、特異な領域国家なのだ。遊牧民族はその軍事的機動性をもって、通商圏を限りなく押し広げ、特定の土地にしがみつく農耕民族とは異なる支配体制を作り上げる。農耕社会を基礎にしてできた国家は、民族的・文化的な同一性の強い近代国民国家に転化しやすいが、遊牧民が征服した領域を基礎にしてできた国家は、今でもガバナンスに苦しんでいる。

中国の国家制度
 中国の国家制度はどのようなものか? 西欧は1,100年くらいから農業生産性を飛躍的に向上させて封建制、絶対主義と歴史を展開させていった。中国はそれより300年は早い900年頃には既に、絶対主義 的性格の強い政体を樹立している。
 唐の時代までは地方の代官(あるいは節度使)は領主的存在となって国を分裂させたが、唐崩壊の後約70年続いた五代十国の大乱の間に彼らの力は後退したものらしい。979年成立した宋の皇帝は、唐の時代にも存在していた科挙を充実させ、高級官僚は貴族からではなく、全て科挙合格者から採用し、自らが任命することとした。これは、皇帝の支配権を強力なものとしただろう 。
 中国では、いずれの王朝においても中央の権力は強く、その点では西欧の絶対主義に近いとも言える政体が取られている。但し、西欧の国王とは異なり、中国の皇帝は多くの場合、下から祭り上げられる存在で、実権は高級官僚が握っていることが多かった。これはいわば、「官僚絶対主義」とも言える政体で、江戸時代以来の日本もそうした伝統を継いでいるとも言える。

国家主導のプラス・マイナス
 中国においては、工業化も政府主導で進められた。19世紀末期、沿岸部各地で工場が建設されたが、これは地方官僚の主導によることが多かった 。国家が経済を牛耳りすぎたことが、中国の悲劇をもたらしているのではないか。それは浪費と汚職を生みやすいからである。
日清戦争直前、有力者の李鴻章は自ら北洋艦隊を創設、ドイツから最新鋭艦、鎮遠、定遠を購入して威容を誇って見せたが、陸軍出身の司令官丁汝昌は海外留学帰りの艦隊指揮官との間に摩擦を生じ、敗戦後自殺している。

「国家」への情念、「官僚絶対主義」の延長線上にある「政党国家」
 中国は亡国の瀬戸際まで行ったことのある国であり、それだけに「国家」のあり方に対する思い入れ、議論が激しい。
 清時代末期、漢人インテリにとって清王朝=国家は打倒するべき対象であった。それは第一に征服王朝であり、第二に近代化を妨げ欧米列強に領土を分け与える危険な存在だったのである。
 近代化の過程でインテリが国家に敵対したのは、中国とロシアくらいのものである。戦前の日本ではマルクシストは別にして、「末は博士か大臣か」の時代で、政府と国民の利益は一致していたのである。
 清王朝が倒れた時、中華民国のイデオローグだった孫文は、「政党国家」の概念を提起した。これは当時国民党に熱心に近づいていたヨッフェを通じての、ソ連の影響である。ボリシェビキから発したソ連共産党は立法権、行政権、司法権、そしてイデオロギーまでを一手に、しかも恒久的に握っており 、孫文達にとっては至極有効なものに思えたのだろう。彼にとっては民主主義などより、欧米日から国を守るため国力を充実させることの方が、はるかに大きな課題だったのだから。
 この「政党国家」の思想は、後の中国共産党はもちろんのこと、台湾に渡った国民党によっても忠実に実践された。台湾の国民党政府は強い警察力をもって反対派を抑圧し、経済では国営企業を宗としてそこに国民党の利権をはりめぐらせた。従って、1999年政権についた民進党が企業の民営化を進めたのは、国民党勢力からの利権奪取という政治的な意味合いも持っていたのである。
 そしてこの、今でも中国で生きている「政党国家」を見ると、一つのことに気がつく。それは、宋以来の「官僚絶対主義」の伝統に見事に叶ったものである、ということだ。三権、そしてイデオロギーまでを、厳しく淘汰された高級(党)官僚が独占する。民営化された大企業にも党の力が強く及ぶ。これは現代中国の強みでもあり(特に外交では)、また弱みにもなるだろう。

古来からの日中関係についての知識の欠如
 「中国国家」の歴史について中国人の知識が足りないのではないか、と言うのと同時に、我々日本人は、明治以後、特に戦後、中国との古来からの交わりが持っていた重みを忘れてしまったのではないか、と言いたい。日本は古くから一貫して「中国」が作り出す国際環境、圧力の下で生きていたし、我々が日本人にしかわからない特別な美的感覚を反映したものと教えられてきた日本文化も、その多くは中国に発祥しているのだ。
 五胡十六国・南北朝時代という273年にもわたる大乱を経て、中国が隋・唐として再び統一されたことと、日本が大化の改新(645年)で豪族の力を殺いだことは、おそらく呼応している。そしてその直後の660年、新羅と唐の同盟は百済を滅ぼし、663年には百済復活を策する日本海軍を白村江で壊滅させ、大和朝廷をパニックに陥れる。
 万葉集にうたわれる防人は、当時沿岸防備に動員された百姓達のことだろう。更に668年、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼすと、その遺臣達が作った渤海国(現在の北朝鮮のあたり)は大和朝廷に使節を送り、東アジアで日本、唐、新羅、渤海、契丹(満州)という微妙なバランス・ゲームを成立させる。
 平安時代は日本文化の醸成が始まった時代で、古今集などが日本的感性の象徴として奉じられているが、平安時代においても基本的な教養は漢字、中国古典、中国文学であったことを忘れてはならない。古今集に見られる種々の美的感覚も、実は漢詩に見られる発想を日本に引き写したに過ぎないと思われるものも多いのだ。
 鎌倉末期、室町時代にかけては茶、生け花、日本庭園等、日本の「伝統文化」と言われるものの数々が開花したことになっている。そこでは侘びとか寂びとか非均衡の美とか、色の塗られていない空白の美が愛でられていることになっており、それは日本人の独特の美的感覚に根ざす、と言われているのだが、これらミニマリズム的要素の多くは宋時代の士大夫文化に見られるものである。但しモンゴルの来襲で、中国においては士大夫文化が断絶したため、中国人の美的感覚はそれ以後ミニマリズムを取り戻したことがない。漢民族の文化が最高の洗練度において維持されているのは、実は現代の日本や韓国においてなのだ、とも言える。
 経済関係についても、日中交易が双方にもたらしたものの大きさについては十分な認識がない。日本からの金、銀、銅の輸入 がなければ、中世中国の経済はあれほどの拡張 はできなかっただろう。
 また日本の鎖国も、金、銀が野放図に輸出されては日本での貨幣経済拡張に支障を来たすという配慮もあったものと思われる 。その鎖国についてであるが、我々の頭の中にはオランダのことばかりが頭に染み付き、中国とも貿易を維持していたとは知っていながら、その規模がオランダとの貿易をはるかに上回るものであったことは殆ど意識されていない。長崎観光でも出島ばかりに光が当てられるが、出島に常駐したオランダ人が15人であるのに比して、近くの唐人屋敷 には常時数千名の中国人が居住して、通商を行っていたのである。しかもオランダ人が産業革命後の先進技術をもたらすようになるのは後のことで、当初は東南アジアで入手した中国産品を商っていたのである 。
 日本は東アジアの中で、中国の冊封、朝貢体制に組み込まれなかった点でユニークな国である 。しかし経済・文化交流は、中国が安定している限りはいつも盛んだった。政冷経熱どころか政無・経文熱といった状態だったのだろう。鎖国とは言いながら、江戸時代の基本的教養も四書五経であり、武士は詩吟を嗜んだ。今で言えば、ボードレールの和訳を大声で怒鳴るようなものである。
 日本が清と冊封関係を結ばなかったことは日本の外交にフリーハンドを与え、19世紀には欧米に対して真っ先に開国し、近代国民国家の建設に取り掛かることを可能とさせたのである。


アメリカ国家の原理

 アメリカというのは不思議な国だ。テレビがあるからあの広い国全体で一つの話題を共有して盛り上がっていられるんだと言う者もいるが、自分としては「アメリカは一度できてしまったからまだあるのだ」という一見ごく当たり前の説明を自分にしている。国家というのは一つの利益配分、既得権益保持機構であって、一度作ってしまうと皆これがあることを前提として生活を組み立てるので、なかなかなくならない。国家とは、利権とコネが作り出す一種の惰性なのだ。
 ソ連でさえ、ゴルバチョフ末期に商店からモノが消え、インフレになったと言っても、エリツィンとその側近がソ連邦の解散を一方的に宣言するというクーデター的動きに出なければ 、国家がなくなるところまでは行かなかったのだ。北朝鮮が容易に崩壊しないのも、同じ理屈である。
 アメリカは、世界の中でも非常に特異な国家だ。地縁も血縁もない赤の他人同士が共同体を作り、やがては国を作ってしまったところなど、他に世界のどこにもありはしない。他の国では必ずある地縁・血縁は、アメリカでは最初から欠落していたのであり、その分、最初から自由だったのだ。
そしてアメリカは、誰か英雄が大変な流血のあとに統一した国ではない。植民地がいくつか集まり、話し合いと契約(憲法)によって作り上げた共和制国家だ。
 それは当初13しかなかった州が49になり、最近ではハワイを州として加えたように、自由・平等を維持したまま果てしなく拡張できる、極端に言えば世界国家的存在にさえなることのできるモジュール構造的な組成原理を持っている。
 国民国家は普通、国境、言語、民族の存在を前提としているが、アメリカにとって国境は常に可変のもので、「アメリカ人」という概念も明確ではなかった。強いて言えば 「このあたりに数年住んでいて、英語をしゃべる」のであるなら、アメリカ人なのである。これは中国における漢民族の定義、イスラム帝国におけるモスレムの定義によく似ている。
 国民国家を構成する一つの要件であるところの民族、これはアメリカや中国だけでなく西欧の典型的な国民国家においてさえ、実はフィクション的な性格が強い。英仏独伊西といった「大国」についてはもちろん、北欧諸国のような人口の小さな国においてさえ、民族は単一ではない。アングロ・サクソンの国と言われる英国では、アングロ・サクソンは実はとうの昔にノルマンによって辺境地帯に追いやられてしまっている。

国内では価値の相対化、国外では絶対的価値観を奉じて
 米国は全てをゼロから作り上げたいわば人工国家なので、法制・機構が現実の社会に合わなくなればいつでも前者の方を変えようとする気風が強い。日本はその逆だ。アメリカ人は社会をいわばエンジニアリングの対象であるかのように考え、それを世界にもあてはめて考える。指導者が悪ければ、制度が悪ければ、替えればいい、というわけだ。
 ところが最近のアメリカ社会は細分化、分裂傾向を強めている。多民族化の程度は30年前と比べても、比べ物にならない。白人は相対的な存在となった。民族・宗教・ゲイ・レスビアン、その他種々の特色に基づく社会グループが形成され、その同権性が強く主張されるがゆえに、皆が発言に注意している。アメリカ人にはかつての自由闊達さ、寛容性がもうあまり見られない。
そして政治家はこれら相反する利害を抱えた雑多なグループを数多く味方につけなければならず、そのためにその政策は小回りがきかなくなっている。
国内がこのように多民族化、クラスター化してガバナンスの危機とも言える状況を呈している中で、アメリカは世界においてはその軍事力をバックに相変わらずダイナミックに振る舞い続ける。いや、クリントンの時代は、対外軍事行動はむしろご法度だったのが、9月11日事件以後は民主主義を広めるのに非民主的手段を使うのをためらわない原理主義的輩によってアメリカの中近東政策は一時牛耳られてしまった。

米国社会の変質が日米関係に及ぼす影響
こうしたアメリカの変質は、日米関係をも変質させる。アメリカ連邦政府やビッグ・ビジネスを相手にする時はまだいい。彼らは多かれ少なかれ、これまで我々が「アメリカ的価値観」と思っていた自由、フェアプレー、アカウンタビリティといった概念を共有している。ところが、アメリカ社会全体を相手として、「日本は一体なぜ、アメリカにとって、あなたにとって大事なのか?」を説こうとすると、そこで我々は現代アメリカ社会の変質と言う問題に突き当たるのだ。
なぜなら現代アメリカの社会はまるで世界全体をそのまま移してきたかのように、あらゆる国からの移民がその文化・考え方をまだ強く維持したままで、しかも自分達が生活するので手一杯だ。彼らの生活感覚では、外交などというものは遠くの世界のことだ。日本という遠い、何を考えているかもわからない変わった人々が住む島国のために、自分達の息子が出征するのはもちろん、税金が使われるのでさえ、反対だろう。
日本はこうした社会各層に働きかける必要があるのか? あるとして、一体何をメッセージとして伝えるのか? 日米同盟関係の維持は連邦政府、議会を相手にしていれば十分で、アメリカ国内の説得は彼らに任せておけばいいのか?
 日本人が「アメリカ」を論ずる時の認識もまた、変える必要がある。アメリカといえば、「高飛車な白人が日本人に命令する」という古いステレオタイプを捨てる必要がある。既に言ったように、アメリカとは世界をそのままあの地に移植したようなところがあり、連邦政府の対日要求はマッカーサー時代のように白人が少数で考え出したものではなく、多様な社会の利害を反映したものなのだ。
 日本より小さな国でも、そこからの移民がアメリカで出世して大きな権力を握れば、彼または彼女が行使できる力は日本のそれを上回る。日本人も同じことをやればいいと思うが、日系人の数はアメリカの政治家の選挙を左右するほどにはいない。従って、日米関係は広く深いのだが、アメリカ国内での日本の政治力は、右の小国のそれに大きく劣ることになってしまう。
アメリカに対する日本の経済的貢献は大きい。これを政治力に転化する仕組みを作るべきだ。昔ウィリアム・ペンが言ったではないか。「代表なくして課税はない。」と。

イスラム帝国、アジアの港市国家――緩い国家原理

国民国家、絶対主義国家と異なる原理の国家はアメリカ以外にも多数ある。ローマ帝国はバイの条約・地位協定を集積したような国で、アメリカの世界システムに少々似ている。またイスラムが形成した数々の帝国も、その国家原理に緩みが見られる時期もある。
例えば、アッバース朝が衰えた後でも、地方の諸王朝はカリフの宗主権を認めた。彼らが、イスラムの権威を必要としたからだろう。イスラムは法を提供し、司法を担う法学者を提供する。統治者の正当性を提供する。法王のようなものだ。今日、EUは経済における諸規制・基準が域内で統一されているため、「規制(を共にする)帝国」と呼ばれることがある。これはイスラム法学者がコーラン、ハディース、シャリーアの一大体系に基づいて、単一の法空間を作り出しているイスラム帝国に似たところがある。
東アフリカや東南アジアなどでは、軍事的な征服がなくとも、商業ネットワークに沿ってイスラムが浸透している。多様な人々、集団から成るこの地域の社会を統治する者にとって、イスラーム教は自らの統治の正当性を保証するためにうってつけの宗教だったと言える。アッラーは、地縁、血縁、職業、エスニシティーなどのあらゆる属性を超越し、普遍的な性格を持った唯一神だから 。
東南アジアもまた、独特の国家原理を見せる。それは「マンダラ国家」と言われるように、権力の核が単一ではなく、複数の権力核の勢力範囲は支配者の個人的資質に従って大きく伸縮するのである。東南アジアの国々も戦争はしたが、戦争の目的は領地ではなく、人間を獲得することにあった。従って、戦闘で人員を損耗するのを忌避するという、欧米から見れば奇異な行動を取ったらしい。
なお、羽田正氏は後出資料2で、国家による貿易管理が確立し、内と外の区別が厳格である近世東アジア世界に比べて、インド洋沿岸の港市都市では内と外の区別が曖昧であることに注目している。これは日本の堺、イタリアのヴェネツィアなどと同じく、経済的基盤が強い港市都市においてはリベラルで開放的な制度を取り得ることの証左なのかもしれない。


日本の「国家」の特徴
 
日本は江戸時代も含め、一貫して中国が投げかける強い影の中で生きてきた。ところがその国家体制は当初中国の律令制を模したものであるにもかかわらず、中国とも西欧とも異なる、一種独特のものである。
前記の如く日本は五胡十六国・南北朝時代273年間を経て隋・唐という大国が成立したのにあわせて中央集権化を進めた観があり、701年には大宝律令によって中国の律令国家、つまり法治体制を取りいれ、経済面では班田収受制を採用した。
だが唐においてでさえ、律令制と言っても朝廷における貴族の力は科挙官僚の力をはるかに上回り 、地方では節度使の権力が高まる一方だった。日本の平城・平安時代も、法治国家と言うよりは貴族制であり、班田収受制も農民に田の所有権を実際与えたものではなく、むしろロシアの農奴制に近い、耕作地に特定の農民を強制的に貼り付け年貢を取り立てるための道具であったろうし、またどのくらい有効に実施されていたかについての記録もない 。
 その後平安、鎌倉、南北朝時代を通じて、公家、侍の間で土地支配をめぐる争いが激しくなり、戦国時代の背景をなす。土地所有をめぐる争いにけりをつけたのは豊臣秀吉であり、彼は刀狩と検地を通じて日本の絶対主義時代の扉を開く。彼は検地によって、大名や侍から土地所有権を取り上げ、そこを耕作している百姓に擬似所有権を与えた 。
大名、侍は知行地に「任命」されたという点では、絶対主義下、あるいは古代国家の代官と変わらなくなったが、農民からの年貢は自分のものとなった 。彼らは江戸時代を通じてお家取り潰し、改易を恐れていた。江戸時代は「君主が諸侯と契約を結び、君主は諸侯の領地所有権を安堵する代わりに、諸侯は有事の出兵義務を誓う」というような、西欧型の封建制ではなく、むしろ絶対主義に近い政体だったのである。でなければ、近代国民国家への転換はあれほどたやすくはいかなかったであろう。
なお、日本は侍という武装勢力のエートスが立法・行政・司法権を支配した点で 、中国と大きく異なる。中国は春秋、五胡十六国、五代十国という大乱の時代を経て利権、土地所有権を整理し、早々に絶対主義を確立してしまったのかもしれない。

権力の相対性

 これら期間を通じて日本の国家に特徴的であるのは、国家体制に常に(但し信長、秀吉を除く)曖昧さがつきまとい、権力の形、行使の仕方がアメーバのように変幻を続ける感がすることである。
真の権力のありかは天皇、関白、将軍などという公的ポストに常にあるとは限らなかった。他方その真の権力者も法制上の権力者が並存していなければ権威の裏づけを失うという事情があって、絶対的権力は振るいにくい立場にあった。
これが権力のDualityとして、外国研究者にも指摘される日本国家の特徴であり、それは中国、西欧のような唯一絶対の価値観を前提とした強力な指導力を生み出すものではなく、むしろタイのような「マイペンライ」的な、四方を見てコンセンサスを探求するあり方なのである。
明治に至り、日本は植民地とされるのを避けるために、西欧型近代国民国家の建設に邁進する。1873年には、①義務教育(国民、国というイデオロギーを吹き込む)、②徴兵、③地租改正という、まさに国民国家の三種の神器とも称すべき措置が発布されたことは象徴的なことである。
日本は大正期に至り、民主的な政党政治を確立するのだが、総理大臣についての規定が憲法に欠けていたことが軍部の専横を呼ぶ。軍の一部は超国家主義・皇国史観を唯一絶対の価値観として強力に打ち出し、天皇の権威を背景に国の実権を握った。ここに日本は、国民国家という強力な戦争マシーンの扱いに失敗する途へと歩みだす。本来はコンセンサス国家の日本は、絶対的価値観を選び取るのに慣れていないのであり、あえて選べば狂信に陥り、国際情勢を見るのに疎いことも手伝って、太平洋戦争のような大災害を引き起こすのである。


現代「国民国家」が抱える課題と今後の方向

 近代国民国家及びそれをベースとして形成されてきた国際社会は、現在次のような課題に直面している。

ガバナンスの危機

 西欧では中世以来、権力はローマ皇帝からローマ教皇、各国国王、各国議会における名望家達、そして大衆へと、一貫して「降りて」きている。現在、大衆と指導者の間のインターフェースは、選挙によって確保されている。米国では、建国の当初からフラットな権力構造をとっており、ここでは大衆がいきなり指導者である大統領を選ぶ。
 現代の先進国に共通する問題だが、社会と指導者の間のインターフェースが目詰まりを起こしている。かつては地縁・血縁、政党、あるいは利益団体によってかなり組織されていた大衆の票は、現在では浮動票が多数を占めるようになっている。このため選挙では、選挙民の感情を煽動したり、候補者のパフォーマンスや外見に過度に依存したポピュリズムがいずれの国でも主流となってきた。
日本では、年金負担等が集中している若者を中心に、「代議制」が彼らの声を真に政治に反映させるものとなっているかにつき、深刻な疑念が提示されている。選挙は候補者・政党の間の切磋琢磨を促すし、政権交替による政策の大変化を可能とする、というのが建前なのだが、多くの論者が指摘するように 、民主主義は少数者や個個人の立場までを掬えるものでは到底ない。
選挙というものは、議会・政府による政策、即ち利益の再配分に対して、内乱や流血なしに社会の同意を得るための一種の儀式であり、悪い言葉で言えば世論のガス抜きである。日本の青年世代は、このことを嗅ぎ取っているし、また政党同士の政策論争も切磋琢磨というより泥試合になっていて、国民に政治家はどの政党であれ「皆同じ穴のムジナだ」と感じさせるようになっている。
日本は1985年のプラザ合意後、輸出依存から内需依存の経済成長モデルへ復帰しようとして失敗し、1991年以降10年以上の不況に入った。円切り上げ対策の一環として企業が行った対外直接投資の大幅拡充は、94年以降の中国経済の高度成長を促進し、日本人を益々心理的に追い詰めた。
不況、不振の時代にはどの国でもそうであるが、日本においても、「不幸の犯人」探しが始まった。当初高級官僚、政治家、官僚全体、そして遂には戦後の日本の体制すべてが欺瞞と無能力と腐敗に満ちたものとして排撃され、およそ「権威」と言えるものは殆ど全てが地に踏みにじられた。
日本では現在、「民間」と称されるものが権威となり、「民間」や「世論」を代表すると自称するマスコミがその権力の頂点にある。だが「民間」の代表とされるNGOにしてもマスコミにしても、その活動の責任を問う場がない。今日の世界では「世論」という至高の権力の前で、指導者が種々パフォーマンスをして見せてはご機嫌をとっている。他の先進国の指導者は、平均的には日本より強力なリーダーシップを示すが、それでもポピュリズムに流されガバナンスの危機にある点では日本と同様である。

「市民社会」的価値観の溶解

西欧の国民国家・産業革命は、「市民社会」の価値観を育んだ。他人の権利、最小限の公共の秩序を重んじつつも個人の自由、権利、欲求を最大限に発揮することを可能にする個人主義、合理主義などの価値観の集成が「市民社会」という言葉にこめられている。
西欧諸国家は国民国家を築く過程で、その文明的淵源をギリシャ・ローマ文明に求めた。学校ではラテン語を教え、ギリシャ・ローマの古典は西欧諸国の間では共通の教養となった。
現在、多民族化のためというよりは教育水準の低下、悪い意味での価値観のアメリカ化(歴史を掘り下げるより、現状を無批判に受け入れ、その中で生きていくための「ハウ・ツー」もの的なプラグマチズムだけで十分とするもの)が、右のような西欧文明を空洞化させている。そこに移民の中近東文化が入り込んできたため、西欧の都市はその外面を変えつつある。
「国民」国家は、変質した。それは「多民族主権国家」となった。国家を規定するものから「単一民族」が抜け落ち、現在では国境と言語のみが残っている。そしてその言語も次第に多民族化が侵食しつつあるのである。国家は益々ヴァーチュアルな存在になってくる。それは一つの領域に生活する企業、個人の利益を代弁する弁護士のようなものだ。
現代は、BRICsの台頭、原油・原材料価格の高騰が象徴する南北間交易条件の根本的変革に見られるように、グローバル規模での利益の熾烈な再配分の時期である。個人の解放、自由をうたった60年代のロマンチック・リベラリズムはしばらく前景から退かざるを得まい。当時、自由を謳うことのできる青年は、先進国の一部に限られていた。今は世界中の青年が、豊かになって自由を享受したいとあい争っている。
国際的な利益の奪い合いが熾烈化する中で、各国の社会はナショナリズムに煽られて厳格化、かつ集団主義化する可能性がある。自由を求めるリベラル・インテリの利益が「最大多数の最大幸福」と一致していた幸せな時代は、終わったのである。
このような中で西欧は、これまで彼らの自由・個人主義を支えてきた経済的・社会的・教育的基盤を失ってきたような感がある。かつて漢民族の文化的頂点を極めた南宋がモンゴルに占領された後、その文化は日本で保持・発展させられたが、同じことが西欧文明についても起こるかもしれない。あるいは現在の西欧の状況はゲルマン民族が社会に大量に入り込んできた西ローマ帝国末期を思わせる、とも言えよう。
開発途上国が豊かになろうとするのはいいが、一体何をモデルとして発展をめざすのか。人間らしい生活、人権の実現をめざすのであれば、筆者としても支援したくなる。しかし、現在の腐った既得権益の網目をただ肥やすために先進国の富を奪おうとするのであれば、こちらも抵抗したくなるのである。

経済的にもたない「国民国家」
かつて国民国家は戦争マシーンとして形成された面が強いが、現在では市場経済のルール作りと審判、社会内の富の再配分、景気変動のバランサー、そして「福祉国家」としての役割が強く期待されている。
しかし現代の国民国家がこれらの課題をこなすのは、次第に困難になりつつある。産業革命は無限の生産力をこの世界に生み出し、ケインズの言う「需要創出」なしには製品を売却することができなくなった。米国はITバブル、サブ・プライム・バブル等を創っては、経済成長を何とか維持している。
巨大なグローバルな資金の流れは一国の通貨当局だけの介入ではどうにも変えられないものとなった。また社会保障費が日本では一般支出の40%強を占めるように、いずれの先進国においてももはや政府の手に負えるものではなくなってきている。国民国家・産業革命・植民地の三位一体のうち植民地は既になくなったが、前二者も限界に突き当たっているのだ。
そして国民国家はかつて戦争マシーンであったが、先進国同士が武力で争う事態はほぼ考えられなくなっている。東アジア諸国は歴史について時に激しい言葉を交し合うが、実際には米国をはじめとした世界各国との自由貿易にその発展と安定を依存している。これら諸国は、自由貿易が維持される限り、政治的にもステータス・クオーの維持を最も選好するだろう。
つまり本来なら武力紛争など起こらないであろう現代先進世界において、紛争状況を作り出し得るのは具体的な経済・社会問題ではなく、ナショナル・プライドと見栄なのではないか。そしてこの双方とも、国民国家が存在しているが故に生ずる問題である。つまり国民国家は、紛争を自分で作り出すのである。

日本が抱える特殊な問題

日本の本格的な工業化開始は僅か百数十年前のことで、西欧に100年以上、遅れている。それだけ、工業化以前の農村共同体に発するモラル、人間関係が色濃く残っている。そしてそのことが、日本の民主主義を欧米とは異なるものとしている。
英国における「囲い込み」が典型的に示すように、工業化は農村人口の都市への流出を引き起こし、それによって農村共同体を解体に導く。つまり人間を地縁・血縁から切り離し、ばらばらの存在とするのである。
西欧の都市住民の場合、もちろん国によって差異があるが、ばらばらになった後、市民社会(いわば都市にヴァーチュアルな共同体を作り上げたのだ)の道徳を作り上げ、それに従って生きている。集合アパートにおいても、互いの迷惑とならないよう、夜間の騒音を控えるなどの暗黙のルールが守られている。
日本の都市住民の多くは、まだばらばらである。隣人を知らないし、知ろうともしない。経済が伸びていた時代は、あたかも日本にも個人主義が広がり、プライベートな生活に干渉しない美風が確立したのかと思われた。ところがそうでなかった証拠に、経済が右肩下がりになってくると、犯人騒ぎに血眼になり、一度「犯人」と思われる者を見つければ法律もプライベートな生活もものかわ、集団リンチのように有無を言わさず血祭りに上げてしまう 。これは、西欧的な「市民社会」とは明らかに異なる。農村社会の倫理が近代工業化社会にそのまま蘇ってきたようなものだ。近代工業化社会に見合った価値観、人間関係が未だ成立していない。
個人と政府の間の関係も、欧米とはかなり異なる。日本の場合、個人と政府の間の適度な距離感がまだ確立していない。日本人のある者にとって政府は未だ「お上」「公儀」であり、別の者にとっては年金や手当てをくれるところに過ぎない。ルソーの社会契約論に代表されるような、政府に対するオーナーシップの意識が乏しく、あくまでも余所者なのである。体制派であろうと反体制派であろうと、何か問題が起きるとすぐ、「政府が悪い」と言い出す。政府から干渉されるのを嫌う一方では、建築、食品で問題が起きると、すべてを「政府の監督の欠如」のためだとするので、結局政府による規制を益々厳しくする。
そして戦後社会のあらゆる権威が否定される中で、今や非常に大きな力を獲得したマスコミも、大きな制約を抱えている。マスコミは同業マスコミの欠陥、不正を暴くことを控えるので、アカウンタビリティーを持っていない。また情報源から切られることがないように、内政の機微は報道しない。そして事件に暴力団、宗教団体、圧力団体が関与していても、報道しない。

これからの世界における日本の立場は、非常に難しい。世界は米国やBRICsのような大型国家―――自分は「メガ国家」と名づける―――、あるいはEUのような連合体が主流を占める時代になりつつあるが、日本はそれに規模でかなり劣る国民国家として伍していかなければならないからだ。EUのようになろうとしても、東アジアではそれだけの気運と条件はまだない。それに外国人と渡り合える語学力と識見、人格を持った日本人は一握りしかいない。国際化しなければ日本は生きていけないと言っても、国民の大部分はそんなことは日常感じていないし、外国語も話せはしない。
日本は実は世界最大の「国民国家」(米国は多民族国家である)なのだが、日本に残された数少ない自慢の種であるGDPは、モノづくりに大きく支えられている。モノづくりは語学力を要さない。ところが一対一で話せる外国語が必要となるサービスや知識産業、マスコミになると、日本は競争力を持たない。
以上を総合すると、日本では国家を憎み政府を嫌う者が多いが、世界の中でも珍しいほどに「国民国家」の枠から出ることができないのは、他ならぬ日本なのではないか。

新しいモデルを求めて

以上列挙した諸問題は、過去・現在の諸国家モデルにその解法を求めることができるだろうか? 
おそらく万能薬的なモデルはないだろう。現実の問題を一つ一つ(しかし総合的に)つぶしていくしかない。現在のモデルが機能しないからどこか他所のモデルを移植してくる、というのはロマンティシズムの世界だ。
完璧な国家モデルは、世界史上存在しない。いくつかの好ましい要素をこれら史上の実例から抽出し、それを現代社会に援用することができるかどうかを確かめ、他の要素と有機的・総合的に取り入れていくしかない。櫻田淳氏は言う 。「われわれが行わなければならないのは、『グローバリゼーション』の趨勢においても『国家』が引き受けるべき役割の範囲を見極めること。その際には、『グローバリゼーション』の中で『国家の衰退』論を示す欧米諸国直輸入の議論に便乗することも、『国家』を『負の存在』として位置付けてきた『国家の相対化』の精神に耽溺し続けることも、邪魔になるだけであろう」。筆者もこの見解に賛成である。
話を具体的なものに転ずる。まず現在の世界のレジームをどうするべきかを考えないと、その中での国家の立ち位置も定まらないだろう。世界のレジームの役割は大きく言って二つある。一つは紛争防止と解決、つまり安全保障、もう一つは経済的繁栄のための制度的なインフラ、つまりIMF、WTO、「国際通貨」などをこれからどうするかという話である。
本論では、国民国家はナショナル・プライドを煽ることによって不必要な紛争を引き起こす傾向があると述べた。では、日本が一人で先に国家であることをやめてしまえば紛争は起こらないかと言うと、そんなことはないのである。
その国の国民・企業の所有権、諸権利を保証し、擁護してくれる国際的な枠組みがしっかりしていないと、保護者を失ったその国の経済は、列国の草刈場になってしまうだろう。それだけではない。力の真空地帯と化したこの国が、他の国に利用されることがないよう、周辺の列国は武力による制圧さえ試みることだろう。
それだけの手当てができた後は、国家主権の一部としての国防権はどこかに預託し、言語・文化の面でのまとまりだけを残していけば、人工的に作り出された民族感情で張り合ったとしても、武力紛争に至ることはなくなるだろう。国防の預託先は米軍、あるいは地域アレンジメントの2つに大別されるだろう。米軍に世界の治安を依存する場合には、世界はもっと米国の政策に対する発言権を確保するべきである。米国は世界の縮図のような国になりつつあるのだから、その領域内にいる者といない者との間で権利が異なるのは、奇異なことだ 。地域アレンジメントに安全保障を預託する場合には、日本は米国の東アジアへの参入を確保しておかないと、孤立した立場に置かれやすい。
経済面においては、IMFの改組が必要だ。米国が金とドルの関係を断ち切って以来 、世界ではモノの取引量をはるかに越えた金融取引が蔓延した。貿易収支の赤字を救済するために作られたIMFは時代遅れの存在となっている。1997年のアジア危機のように、資本収支の赤字が国の運命を引っ繰り返す、現代の経済に対処できるよう、IMFを改組するべきだ。
もう一つ、戦後60年間続いてきた自由貿易を更に続けていく手段を考えねばならない。自由貿易が確保されている限り、武力紛争は起きにくくなるからだ。相対的に落ちてきたアメリカ経済を補強して、共に自由貿易を支えていけるだけの規模と活力を持った経済はどの国が持っているか? その答えはそう簡単ではない。
むしろ希望は昨今の穀物価格の急上昇に見出せるのかもしれない。これによって先進国における農産品生産補助金や、日本等における穀物輸入関税の引き下げが可能となり、止まっていたWTO新ラウンドが動き出すかもしれないからだ。

次に、各国における社会と政策担当者の間のインターフェースをどうするか? 独立性の強い人間であれば、権力というものを憎み、国家機構・国家による介入が小さくても繁栄できた実例を歴史に求める。そのような実例としてイスラム帝国、あるいはインド洋に面した港市国家を挙げるのはどうか? だがイスラム帝国における統治の実態は、本当にリベラルでソフトなものだったのか? 現在のイスラム諸国の多くで権威主義的統治が行われていることに鑑みれば、確信が持てない。またインドの港市都市におけるリベラルな統治手法は内陸部にまで及んでいるわけではない。
アメリカの人類学者クリフォード・ギアツは、「ヌガラ 19世紀バリの劇場国家」(1990年)で、劇場国家論を説く。その骨子は、バリ島の国家機構や村落社会を検討すると、政治(男系出自集団のヒエラルヒーとパトロン・クライアント関係による派閥で動く)、経済(水利・交易)、民間儀礼(6大寺院を頂点とするネットワークがある)のどれも国家なしで動いており、国家とは宮廷儀礼や造形様式によって表現される ということなのだそうだ。一見参考になりそうだが、彼は対外関係、特に安全保障、戦争の遂行面を見ていない。平時の際の国家の役割が限定されるのは、当然の話である。
今日、EUが国民国家に代わるものとして、称揚されている。だが後出河東のEU出張報告にあるように、西欧の主要国はEUに権限を差し出すのに消極的であり、EU委員会の決定に対して実質的なVeto権を保持している。EUを誉めるがあまり、その実力を超えた権威を与えてしまう愚は冒さない方が賢明だ。他方国際場裏でEU加盟国に一丸となって行動されると、その票数は多く、侮れない勢力となるので、この場合の力は正当に評価するべきである。

インターネットとコンピューターは、社会と政策担当者の間の全く新しいコミュニケーションの手段である。たった一人の指導者が1億人ものメールを毎日読むことはできないが、国民からのメールを集計・分析して指導者に政策オプションを提案するようなソフトなら、そのうちにできるかもしれない。
インターネットに、人は直接民主主義の夢を見る。産業革命で人々の生活水準が上昇し、政治意識が向上して普通選挙が実現したが、投票のベースが広がるにつれ、選挙民の一人々々と対話している時間はなくなり、テレビを通じてポピュリスト的手法を弄するしかなくなってきた。今は、インターネットを使って新しい段階に上がるべき時なのではないか? 北欧では市民の政治意識は高く、投票率もいつも高い。インターネットを使って同じようなことを実現できないかと思う 。

日本についてはどうか? 日本は何とか自分を大きく見せる構えと、自分の声を世界に聞かせるための仕掛けを必要とする。例えば、企業なら海外支社なども決算に含める連結決算で自分を大きく見せて、借り入れ能力、買収防衛力を強化するが、同じことを国についてもできると思うのだ。貿易黒字・赤字も、国単位で論ずることの意味はあまりないのである。
日本は語学力に劣るため、国民国家の枠から出ることは非常に難しい。現実的な解法は、国内経済への外国の参入を拡大して徐々に国民国家の枠から出、法制もそれに合わせていくことくらいだろう。

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