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街角での雑想

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2008年1月 6日

エキゾチックな港町、函館

昨年末、函館市によばれて講演に行ってきた。
函館は父の生まれ育った街なのだが、僕が行ったのはこれが初めてで、しかし大いに気に入った。個性がある、この街には。文化と歴史のにおいで、札幌よりしっとりしている

碧い海、湾の背後に活火山ーーーナポリ湾の景色にそっくり
北海道と言えば和人の拠点は松前で、僕は松前こそが現在の函館なのだと固く信じていたのだが、そうではなかった。函館は最近はやりの町村合併で実に120kmの海岸線を有する長い、ながーい市になってしまったが、松前というのはその函館の西の方、本州竜飛岬からの青函トンネルを潜った電車がまた地上に姿を現すあたり、その更に西、ほとんど日本海に面したところにあるのだそうだ。

今にこの電車は新幹線仕様になり(というのは、青函トンネルはもともと新幹線も使えるようにできているらしい)、東京から函館まで実に3時間半で行ける、つまり東京から広島なみの感覚で行けるようになるのだ。昔から青函連絡船というのは何か悲愴さがあって、数多くの演歌に使われてきたのだが、もう連絡船もとうになくなって、函館港の一隅に博物館のようにもやっているだけになった。これからは、年金生活者が住宅事情が良く、自然も食べ物も素晴らしいこのあたりに多数住むようになるかもしれない。

120kmの海岸線と言ったが、その湾曲した海岸線の途中に岬が突き出て、その先端に標高300メートルくらいの函館山がある。戦前は陸軍の基地にされていたこの山の麓から函館の街は始まり、岬、実際には砂州だったところに現在の中心街が広がっている。僕の父はこの山懐の谷地頭町、冬になれば厳しい風が海に泡立つ皺を寄せて吹き付けるところで幼児を過ごした。

で、この函館山から見た函館の夜景が香港、ナポリと並ぶ世界三大夜景の一つと言われているのだが、昼の景色もなかなかのものだ。湾曲した函館湾、そして函館の背後にそびえる活火山の駒ケ岳とくると、これはまさにナポリ湾とその背後にそびえるベスヴィオ火山と瓜二つの光景になってくる。そして目を反対側に転ずると、よく晴れた日には津軽海峡がまるで河でしかないかのように本州の下北半島が大きくくっきり見える。ここらあたりの幅は10kmしかないそうだ。

歴史、そして経済について一言
函館というのは、かつて盛んだった北洋漁業と切っても切り離せない関係を持っている。高田屋嘉兵衛という淡路島出身の廻船業者が、択捉島周辺の漁場へ赴くための拠点として、1799年に開いたのだ。廻船業者ーーー北海道から魚や菜種油を大阪市場へ運び込み江戸時代の全国市場形成、経済発展を演出した連中、アイヌ人がアムール地方から運び込む中国産品を大阪、江戸方面に運んでいた連中、そして時には日本海経由で遠く沖縄まで密輸していたかもしれない連中ーーーだった嘉兵衛は、ひょんなことからロシア船に拉致されて、当時松前藩が拘留していたゴロヴニン船長との交換に使われてしまったのだったが、このゴロヴニンの子孫が今東京にほとんど住み着き、日本についてあることないことを書きまくっているゴロヴニン・タス支局長なのだ。

で、その後北洋漁業はソ連に駄目にされてしまったので、函館もそれだけ経済基盤を失った。漁業盛んなりし頃は、金遣いの荒い、そして気も荒い男どもが函館の街を闊歩し、毎夜料亭で気勢をあげていたそうだ。今では、イカ漁ーーー夜飛行機で着陸するとき、漁火が漆黒の海に無数に映えてとても幻想的なのだーーー、イカ料理を名物にして、盛んだった漁業の名残を僅かに見せているに過ぎない。

黒船騒ぎで江戸幕府は横浜など5港を開港するが、函館はその一つだった。だから早くから外国の領事館などができている。そして1903年には、東京以北では最大のドックである函館ドックが完成し、市経済の核の一つとなる(今でももちろん威容を誇り、自衛艦の修理をすることもあるらしい)。僕の父の母方の家は、このドック関連の鉄工場を経営して羽振りが良かったらしい。

歴史と言えば、函館は五稜郭。そして土方歳三最後の地だ。五稜郭は岬から北海道本土の斜面をやや上ったところにあるのだが、これは掛け値なしにみものだ。大きいし、展望タワーから全貌を見渡すことができる。みやげ物屋は土方歳三グッズであふれる。

明治30~40年には、禄を無理無体に廃止されて窮乏していた士族を北海道に移住させる政策が行われた(考えてみれば、公務員を無理無体に全員解雇したようなものだ)。囚人も使われて、北海道の開拓が進む。墓地に行くと、「・・・村一同」というような墓石がまだ残っている。

だが昭和20年には函館は東北以北では仙台をも上回る最大の都市になり、その商圏は仙台、サハリンにまで及んでいたそうだ。北洋漁業がなくなった今でも函館の商圏は大きく、商業は経済の大きな部分を占める。ドック関連の機械、金属加工業も発達している。しかしJTの工場は閉鎖された。

函館市は極端に支出を切り詰め、市役所の公用車の運転手もほとんどおらず、客は市役所職員(僕の場合実に課長)が自分で公用車を運転して案内することになっている。そりゃ僕だって外国で働いていた時、大使館の公用車がよく足りなくて、自分の車で公用をこなしたことが随分ある。能率には差し支えるのだが。というわけで考えてみると、北海道こそは今流行りの「道州制」を既に実現してしまっているのだが、函館の苦境を見ていると、道州制も果たしていいものなのかなと思えてくる。いろいろなことが札幌に集中しがちだからだ。

北洋漁業に代わる経済の柱は観光なのだそうだ。観光客は年間500万人やってくる。温泉もあり宿泊する客が殆どなので、年間1,700~2,000億円を地元に落としてくれる。観光業が函館のGDPの30~40%を占めていて、漁業は25%程度なのだそうだ。そして、函館市役所が最高の就職先になっている。確かに市役所には優秀な人たちが揃っていたが、これはやはりあるべき姿ではあるまい。

で、一つ夢を語ると、それは北極航路の話となる。ご存知、地球の温暖化。これが北極の氷を溶かしていて白熊の住めるところもなくなってくるのだが(そうなったら南極に連れて行ってやったらいい。ところで白熊は北極にしかいないのに、ペンギンは北極にも南極にもいる(?)「歴史的背景」をご存知の方はいますか?)、そうやって一年中船が往来できる海になるかもしれない、と言われている。

北極を中心に地球儀を見るとわかるのだが、実は北氷洋というのは便利な航路で、ヨーロッパ、米国東海岸をベーリング海峡経由でアジア諸国と最短距離で結ぶのだ。ロシアの極東地方、天津、上海、連雲、広州、香港、ハイフォン、ダナン、コンポンソム―ーーこういった諸港へのハブとして函館は理想的な場所にあるのではないか? ベーリング海峡からやってきた船は、函館にアジア各港から集荷された自動車や家電製品を積載してヨーロッパ、米国東海岸に帰っていくのである。かつては苫小牧、石狩新港の方が水深が深く、函館港にはコンテナやフェリーはやってこなかったのだが、今では水深12メートルまで浚渫してある。コンテナ基地も大規模なものを作ってあるのだそうだ。

中国に牛乳を
中国人が牛乳を飲み始めたらしい。なんでも若者の平均身長が日本人より低くなったということで恐慌を来たし(「小日本!」と呼べなくなってしまう)たところに牛乳会社がつけこんで、「牛乳を飲んで日本人より大きくなろう」という運動を展開しているのだそうだ。北海道、函館にとっては大変な商機ではないか? 中国の東北部だけでも500万都市がいくつもあるのだから。

ロシア極東国立総合大学の函館校
函館は東京志向が強くて、子弟を東京の大学に送ることが多かったし、北海道大学が札幌に作られてしまったため、大学で遅れをとることになった。だが今では「公立はこだて未来大学」というのが海辺の小高い丘の上に超モダンな姿を見せていて、複雑系科学学科と情報アーキテクチャ学科を有している。何やら先端を行っているようだ。大学院まであり、学生数は数千名、地元だけでなく本州からも応募してくるそうだ。http://www.fun.ac.jp/index.html

変り種としてロシアはウラジオストクにあるロシア極東国立総合大学が平成6年に作った、専修学校ロシア極東大函館校というのがある(http://www.fesu.ac.jp/infoschool/teacher.html)。ソ連崩壊後の混乱時代、極東大学の日本語科の先生達が推進し、市民や市役所の支援も受けて作り上げた学校だ。

今回僕は、実にここでロシアの講演をするために招かれたのだった。で行ってみると、いいのですね。昔の高校が閉鎖されたあとを活用した校舎はこざっぱりしていて、学生数は少数精鋭なのだが、ちょうど学園祭もやっていたのでのぞいて見ると、気持ちいい、やる気のありそうな連中だった。

ここは4年制、ロシア人講師にロシア語をみっちりしごかれるだけでなく、ロシアの歴史・文学・文化・政治・経済などを習得するとともに、通訳論・英語・コンピュータまでやるというから半端じゃない。3年次には、ウラジオストク本学での3ヶ月実習が実施され、卒業時には極東国立総合大学から学士称号の卒業証書が授与され、さらに「高度専門士」の称号がもらえるのだそうだ。至れり尽くせり。年間10名内外の卒業生は、企業でも評判がよくて就職率100%だそうだから、立派なものだ。ロシアやロシア語を学ぶためには、一つの有力な選択肢だろう。

坂道の詩情ーー旅籠屋の娘に惚れたレイモン
トラさんの「男はつらいよ」の中でも最高傑作(だと僕は思う)、「寅次郎相合傘」の舞台は函館で、エリート街道に嫌気がさした東京の中年男が亭主に死に別れて喫茶店を開いている昔の恋人を一目見にやってくるのが、この函館の、とある坂道の途中なのだ。砂州の上にできたと言っても、函館はわりに起伏のある街で、この坂道の両脇には明治時代からの商家や店が転々と保存されている。そして夜になるとライト・アップされ、そこはかとない旅情を醸し出す。

で、この坂道を歩いていたら、何か気にかかる三階建ての古い洋館がそびえている。近寄ってみると、「レイモン・ハウス」と書いてある。何だろうと思って入ってみると、そこは宮崎駿のアニメのような世界で、ホットドッグやソーセージを売る店なのだ。http://www.raymon.co.jp/information/house.html

昭和5年のはるかな昔、チェコはボヘミア地方からカール・ワイデル・レイモンというソーセージ職人が世界遍歴修行の途中、ひょんなことで函館に寄り、そこの旅籠屋の娘と恋に落ちる。娘の親に反対された二人は、天津、上海を経てドイツまで駆け落ちし、数年後に夫妻で函館に戻ってきてソーセージ屋を作ったというわけ。後に日本の勲章までもらったレイモン氏のことについては、ウィキペディアにも載っていた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3

で、ホットドッグを食べてみたが(もちろん有料)、おいしかった。本場の味だった。ところでこのレイモン・ハウスというのは、レイモン氏が建てたのではなくて、ウクライナをルーツとしロシア革命後北サハリンから亡命してきたシュヴェツ(ロシア語で「裁縫師」という意味だ)という男が建てたのだそうだから、随分国際的に複雑な話なのだ。函館はエキゾチックな街だ。函館市職員であった清水恵さんが,「サハリンから日本への亡命者 -シュウエツ家を中心に-」(『異郷に生きる』所収)で、彼の遺族にインタビューをしている。
レイモン・ハウスの「支店」は横浜元町にもあるらしい。そのうち行ってみよう。http://r.tabelog.com/hokkaido/rstdtl/1004186/

東京に帰って羽田空港のターミナルを初めて端から端まで歩いたが、これは上海の浦東空港のターミナルよりも、さらに大規模だ。端から端まで2kmはある感じ。成田空港を完全に上回る。羽田がまた国際空港になってくれたらどんなにいいことか。

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