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街角での雑想

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2019年1月18日

日ロ北方領土問題 この20年の変遷と感慨

北方領土問題がまた、20年に一度くらいづつ巡ってくる引き付け発作の様を呈している。
1990年代も、2000年代も、今のような光景は繰り返されてきた。でもその裏には、様々な人達の、善人と悪人の努力と思惑が渦巻いて・・・僕の「ロシアに架ける橋」新版(2006年 かまくら春秋)の後書きから、思い出してみる。

1990年代から2005年までの日ロ関係を振り返って
     (「ロシアにかける橋」かまくら春秋社 あとがきより)

                               

 ―――月やあらぬ春やむかしの春ならぬ
     我が身ひとつはもとの身にして
              在原業平

この本を出してから、もう十年たった(注:もともとはサイマル出版会から出されたもの)。今あらためて読み返してみると、まるではるか昔のことであるかのように思える。この本に登場する数々の人達のうち何人かは既に帰らぬ人となり、また何人かは社会の水面から消えていった。そして殆ど全てのロシア人の境遇は、この十年、時代の波に翻弄されてきた。そうした時代のロマンと苦しみは、熊野洋のペンネームで書いた小説「遙かなる大地」に克明に残してある。

万物は流転して・・・

在モスクワ日本大使館の広報・文化センターは、十月広場にはもはやない。クレムリンに近い外国文学図書館に間借りしていて、面積も人員もこの本を書いた頃の倍以上になっている。だが、少人数のスタッフが一丸となって何事にも手作りで取り組んでいた、あの十年前の熱気が僕には懐かしい。

九一年四月ゴルバチョフ大統領の訪日を前にして日本に招待した、あの十一人の若手新聞記者達も、運命が様々に分かれた。ヴァーリャは当時からエリツィン大統領のゴースト・ライターだったが、その後大統領府長官にまで登り詰め(それでもジーンズとよれよれのシャツ姿でプリマコフ首相との会談に出かけて顰蹙を買ったりしていた)、エリツィン大統領の次女タチヤーナと再婚した。ユーラやイーゴリはマスコミとは関係のない企業の広報担当に転職し、感激の少ない日々を送っている。

サーシャは軍の機関紙「赤星」を辞め、新興独占資本家が始めた雑誌で健筆をふるったが、プーチン政権がその資本家を国外に追放してからは、インターネットで細々と記事を発表できるだけになってしまった。彼は今、リベラル運動の一翼に名を連ねている。団長として若手の記者連中を日本に引率していったオフチンニコフ氏は、共産党機関紙だったプラウダを辞めたあと、新華社の世話で北京に数年滞在し、今ではまたモスクワの論壇に復帰して、ロシアには数少ないアジア専門家として活躍している。

僕は、この貴重な専門家がソ連崩壊の荒波の中に埋没してしまうのは惜しいと思い、彼が北京にいる時も日本やアジアの最新情報をロシア語にしたものを届けていた。当時はASEAN諸国、そして何より中国が急速な発展を始めつつある時だったから、オフチンニコフ氏はその後僕に会うたび、「河東さん、あのニュースレターがなかったら、私は世界の流れから全然遅れて、今頃使いものにならなくなっていたでしょう」と言ってくれる。

訪日招待のあと、ゴジラか何かの写真とともに日本をおちゃらかしたような記事を一本イズベスチヤに出しただけだったセルゲイは、その後雇われ編集長として手がけた雑誌、新聞を軒並み成功させ、今や若手(というか中年)世代を代表する編集者となった。今彼は、戦前からある風刺雑誌「クロコジル」の復活に大童である。

日本研究者達も、変動の中で多くの辛酸をなめた。研究所や大学での給料は一万円にも満たない。その中で死去された方も何人もいるし、収入を求めて日本など外国に居座ってしまった人々もいる。モスクワでは若手が日本研究を志すことが減っており、伝統を誇っていたロシアの日本学もこれからどうなるかわからない。

ロシアはどこへ・・・

そして、ロシアという国も大きく変わった。この本の終わる一九九四年頃まではロシアも混乱と困窮を脱しきれていなかったが、その後国債を担保に外国で起債する術をおぼえ、僕がモスクワに再び着任した九八年のモスクワは見違えるばかりにきらびやかな大衆消費社会になっていた。昔僕が住んでいたアパートから広報・文化センターに出勤する道は舗装が穴ぼこだらけになっていてそれこそタイヤが破裂する時もあったのだが、今ではなめらかそのもの、そしてそれが当たり前のように感じられる。

そして東京の環状七号線あたりに相当する第三環状線も着工から僅か十年あまりでほぼ完成してしまった。この新しい環状線は多くの部分が高架とトンネルで、今の東京で作れば五十年くらいかかるだろう。

国債という借金を担保にして外債という借金を積み重ねる、ネズミ講のようなやり方は、九八年に一度崩壊した。ルーブルは僅かの間に三分の一に切り下がり、バブル経済の下、銀行などで高給を食んでいたインテリ達は大量に失業し、街を行く市民のモードは急に地味なものになったのである。エリツィン大統領は気落ちして、その年の冬小渕総理がモスクワにやってきた時には、会談するのがやっとという健康状態になってしまった。彼は九九年十二月の国民への辞任挨拶で、生活を混乱に陥れた上、その後ついに復興できなかったことを「心からお詫びする」と言って去っていった。

だからプーチンが大統領になった時、国民はこの秘密警察出身のテクノクラートに国内の安定回復、経済回復、そして国際的威信の回復という期待をかけたのである。そして二〇〇六年の今、プーチン大統領はこうした期待にかなり応えている。時々起こるテロを除いては治安は良くなった。ルーブル切り下げで輸入代替産業が育ったこと、そしてその後の石油価格高に支えられて、経済は年間七%程の成長を示すようになった。輸入産業が育ったとは言っても、食品、建材、衣類の類で、電化製品、自動車など値の張るものは外国に席巻されたままだが。

そして、安定化のかげで犠牲になったものがある。その最たるものはエリツィン時代の自由、リベラリズム―――それがたとえエリートのためだけの徒花だったとしても―――が消えたことだ。

当局は、野党勢力がマスコミを使って支持を広げるのを防ぐために、マスコミ、特にテレビへの締め付けを強化した。国民は、「国の資産をくすねて利益を独り占めにしている」独占資本家への憎しみをたぎらせていたから、プーチンは見せしめとして、政治に過度の介入をしていたベレゾフスキー、グシンスキー、そして最近ではホドルコフスキーなどを海外に追放するか、シベリアの収容所に閉じこめるかてしまったのである。これら独占資本家の手中にあったテレビ局、新聞、雑誌は資金源を失い、政府系のガス会社に吸収されたり、あるいは解散の憂き目を見ることになった。

このような情勢は、リベラルを標榜するインテリ達の気分を重くさせている。だが、大衆にはプーチンのこうした政策はわかりやすい。彼らは自由を獲得して自ら政権につきたい、などとは考えていない。自宅で家族や友人達と政治家の悪口を言う自由には、ずっと前からことかかない。「民主主義」とか「自由」についての欧米諸国の説教は、大衆の胸には全然響かないのだ。それどころか欧米流の「民主主義」とか「市場経済」という言葉は、九十年代の混乱をもたらした元凶として、ロシア国民の信用をもはや完全に失っていて、そのことは多くの世論調査が如実に示している。

ゴルバチョフの頃、「民主主義」、「市場経済」というお題目を聞いた大衆は、これで共産党のお偉方が国の富を独り占めにする時代は終わり、西側の豊かな生活を自分達も享受できるのだと思ったことだろう。だが、そうはならなかった。国の富は新興の資本家達に牛耳られ、生活は六千%のインフレで前よりもっと苦しくなった。「改革が中途半端だから苦しいのだ。もっともっと改革すれば、あさってにはきっと良くなる」とけしかけてきた西側は、びた一文くれなかったどころが、ソ連の一部だったバルト三国やソ連の緩衝地帯だったポーランド、チェコなどをNATOに引き入れ、ロシアに敵対させている。欧米のNPOは「民主主義を広めるため」と言って野党勢力を助け、グルジア、ウクライナ、キルギスでは遂に政権を覆してしまったが、その結果として起きたことは民主化などではなく、ただの利権の奪い合いだ。西側は信用できない。俺達には俺達のやり方がある。―――これが今のロシアの大衆、いやそれどころか国中の心境だろう。

だから今のロシアでは、理想とか理念についての議論が見られなくなってしまった。二千年頃までのロシアなら、ロシアはアジアの国かヨーロッパかとか、ロシアの経済発展モデルをどの国に求めるべきか、日本かチリか中国か、といったような議論が論壇を賑わせていたが、今ではそれも見られない。ロシアは、「大衆の利益、大衆の声」という途轍もなく重いもののために自由よりパンという政策を取らざるを得ないのだ。そうしてただじっと復活の日を待って、知的には灰色の日々を過ごしているように見える。

だが、その「復活の日」は来るのだろうか? 今は石油景気に浮かれて二千六年の予算を四十%!も増やすことになっている。この資金は、投資を増加させるよりむしろ高率のインフレを起こして、再び国民の生活を破壊することにならないだろうか。競争のなかったソ連では、生産設備やインフラの更新はいつも後回しにされた。だから、その更新需要は莫大なものになっている。既にモスクワでも二〇〇五年五月、広い範囲で大停電が長時間にわたって続く事態が起きている。二〇〇六年一月にはモスクワでもマイナス三〇度の寒さが一週間以上も続く中、工場は電気、ガスを止められ、ヨーロッパへの天然ガス供給も削減された。

二〇〇六年増やされた予算の一部がインフラ建設や設備更新奨励に向けられたとしても、一九九六年の「加速政策」で機械製造振興のために向けられた資金がどこかに消えてしまったようなことが、また繰り返されないとも限らない。一言で言うならば、ロシアの経済はこれから外国企業が大量に立地でもしない限り、自律的発展の道に乗れるのかどうか疑問だ、と僕は思っている。

折しもロシアと長大な国境を接する中国は、ゴルバチョフのペレストロイカの十年も前から経済改革を進め、今では高層ビルの立ち並ぶ都市の偉容ばかりでなく、産業集積度、そして自律的発展力でロシアをはるかに上回っている。国境を接するロシア極東に七百万の人口しか持たないロシアにとって、中国は恐怖の対象になってきた。これまでは共に組んでアメリカに対抗するのだという建前でやってきたし、中国もロシアの兵器を必要としていたが、これだけ中国と力の差がつくと、ゲームはロシアに不利になりつつある。中国がロシアから買いたいと思う兵器もだんだん少なくなって、今では戦略爆撃機の輸出までが話題に上っているが、これは対中関係の処理を誤ればロシア自身がそのターゲットになってしまう性質の兵器ではあるまいか。

そして日ロ関係は?

この本でも書いたように、日ロの関係は複雑骨折のようになっている。もともとロシアは植民地主義の国として日本に現れ、それ以来朝鮮半島、満州での支配権を日本と争ったのだ。そして江戸時代の末期から日本はロシアをヨーロッパの後進国として軽んじ、日ロ戦争に勝った後、その傾向は助長された。江戸末期、ロシアに留学した日本人達は、帰国してから重用されることはなかった。日本人は白人に対するコンプレックスを、ロシア人相手に晴らそうとしたのかもしれない。

第二次大戦の結果、日ソ関係は領土問題という重荷を背負い込んだ。これが解決されなければ、「道義や道理を踏みにじるロシア人」を侮る気持ちは日本人の心から消えないだろう。このままでは日ロは相互軽視をいつまでも続け、日ロ関係は日本外交の中でいつまでも弱い環として残ることになってしまう。冷戦時代であれば、これでも良かった。だが冷戦は終わり、中国が力をつけ、そして東シベリアのエネルギー資源開発や東アジア共同体の設立が話題にのぼっているような今、領土問題を解決して日ロ関係を正常なものにしておく必要性は大きくなった。

十年前にこの本を初めて出して以来、日ロ関係は劇的な展開をたどった。九十三年十月エリツィン大統領が訪日し、「東京宣言」に署名して、「日ロ双方は北方四島の帰属の問題を、歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意・作成された諸文書、そして法と正義の原則を基礎として解決」することに同意した後は、日ロ関係に大きな動きは見られなかった。しかし九十七年七月経済同友会での演説で当時の橋本総理がロシアとの関係推進に柔軟な姿勢を見せ、それにロシアが直ちに反応し、十一月クラスノヤルスクで首脳会談が開かれてから、両国の関係は再び前に動き出す。クラスノヤルスクで両首脳は、二〇〇〇年までに平和条約を結ぶことで合意したのである。僕は九十八年四月にモスクワに今度は公使として着任し、二千二年七月離任したから、その間「クラスノヤルスク・プロセス」とも言うべき動きの渦中にあった。

この期間、「対日関係を推進するべし」という大統領からの指示は全政府に浸透していたから実務関係は進めやすく、日本の政治家や外交官も頻繁にロシアのテレビで紹介されるようになった。日本文化はロシアでブームとなり、スシ・バーはモスクワだけで百軒以上、村上春樹の翻訳本は本屋に平積みになるという時代になった。広報や文化交流の大部分が大使館の肩にかかっていた九〇年代初期までとは、少し様変わりになってきたのである。

北方領土問題にしても、パワー・エリートの間では理解が広がっていたから、あまり目立つことをしてかえって保守勢力の反対運動に火をつけるのは避けるべきだった。それにあえてロシアのメディアでキャンペーンを張り、大衆レベルに北方領土問題の歴史と道理を説いても、彼らは外国政府による宣伝を信じないので、それよりは「日本人は友人なのだ。一緒に仕事ができるのだ。首脳レベルでも親しくしている。」という印象を作り上げていく方が、いざ領土問題交渉が動き出した時には効果的だろう。社会も九十年代初頭よりは落ち着いているから、ロシア政府が日本との領土問題を妥結させれば世論はあまり反発せずに受け入れる状況がある。日本人は友人だということならば、益々そうだ。

だから大使館は当時、領土問題についてはマスコミで目立つことはあまりせず、政府、議会、有識者などと広汎なネットワークを築くことに重点を置いた。大使から書記官クラスまでが手分けをし、ロシアの有力者と毎日数人づつ懇談、会食を重ね、領土問題を含めた日ロ関係推進の大切さとロシアにとってのメリットを説いてまわったのである。領土問題のような大きな問題は、首脳の直接の関与なしには解決できないが、このような事務レベルでの努力によって、解決に有利な状況を作ることはできる。

北方領土問題は、こじれにこじれている。解決へのプロセスは停滞し、双方とも相手にその責を帰そうとしている。今は仕切りなおしをするべき時期だろう。石油の高価格でロシアには資金がだぶついている。そして、旧ソ連諸国の中でもウズベキスタンのようにロシアに回帰する姿勢を示し始めた国もある。ロシアの立場は、90年代とは比べ物にならないほどいいのだ。こういう時に領土問題のような大きな交渉プロセスを無理に始動させようとすると、ロシアは日本に大きな対価をまず払うことを求めてくるだろう。

ロシアの首脳部には、北方領土問題解決の必要性、解決の仕方、解決から得られるメリットなどについて、あらゆる情報、助言、提言が既にインプットされている。プーチン大統領は、歯舞、色丹までなら一九五六年の日ソ共同宣言に基づいて引き渡す用意があると表明している。以前は、日米安保に難癖をつけて一九五六年共同宣言の有効性さえ否定してきたソ連・ロシアにしてみれば、随分前に出てきたことになる。だが日本にしてみれば当たり前のこととも見えるこの前進以上に、つまり交渉が国後・択捉の返還に及ぶためには、この問題がロシア首脳部にとって最重要の政治課題だ、と認識されることが必要だろう。それは、どういう時なのか、日本はそこを焦ることなく見極めていかなければならない。

日本は同時に、世界、特にアジアに於ける自分の立場を良いものにしておく必要がある。日本がアジアで孤立していたり、対米関係で自主性を発揮していなければ、日本との領土問題を政治的リスクを冒してでも解決しようという意欲は、ロシアにもわかない。こうした総合的なアプローチを欠くと、日本の外交はある時は相手にただ哀願するだけの叩頭外交、またある時は相手が日本の立場を百%のまなければ話しもしないという硬直した外交に陥ってしまう。

ロシアにも、様々な人達がいる。日本に悪意を持ち、北方領土問題解決を阻害することを生涯の使命、あるいは生業としている者、保身だけが大事でその場その場を何とか言いつくろっているだけの者、リベラルな立場から四島返還を標榜していながらロシア国内での対立が激化してくると身を引いてしまう者、様々で、百%信頼できる交渉相手などまずいない。だがそれは、日本人も同じ、万国共通の人間の限界ではないか。

いや、そうではない、沖縄返還の時、アメリカ政府の当事者は一度約束したことは実現してくれた、ロシア人には同じような信義を期待できない、と言う人もいる。しかし日米は同盟関係にあり、アメリカの日本に対する抑えは磐石だったし、そもそも首脳レベルでは返還という基本合意ができていたのだ。そのような関係になく、島を返せば日本はロシアへの関心を失ってしまうのではないか、日本と勝手に交渉しても大統領府でひっくり返されてしまうのではないか、と危惧しているロシア人に、沖縄返還時のアメリカ人と同じ態度を期待するのは虫のいい話ではないか。ロシアにも信義を重んじ、友情を裏切らない人々はいる。今のロシアを冷戦時代のソ連と同一視して、「共に語り合える者、一人だになし」などと思ったら、それは間違いであるどころか、機会をみすみす見逃すことになるだろう。

国と国の間の交渉、特に領土問題のような交渉については、秘密の保全に気をつけなければならない。しかしそれは、交渉事項以外のことについても日ロのチャンネルを独り占めしようとしたり、気に入らない同僚の動静を探って陥れたりするような、スターリン時代のソ連のようなやり方を正当化するものでは全くなかろう。日ロ関係については様々のチャンネルを発展させ、皆わいわいとやりながらも、交渉ごとは首脳の委託を受けた代表者にまずは任せるのが、民主主義社会でのやり方だと思う。ロシアはそのような正規の代表を忌避し、脇のチャンネルを使って自分に有利な解決を実現しようとする、ソ連時代からの体質を残している。これに乗って自分勝手な妥協を提案すれば、公式の交渉はそこから始まることとなりかねず、その場合、日本の交渉上の立場は極度に不利なものになるだろう。

外交官と言うと、エリートとばかりつきあって任国の世情を知らないと批判されることがある。しかし広報や文化交流を担当したら、その国の世情を知らないではすまされない。社会に深く入り込み、任国の階層、年齢、性別毎の世論の状況をぴたりと言い当てることができ、社会の各層から意見を吸い上げるネットワークを張っていなければ、仕事などできないのである。大使館の中にこもって公式発言ばかりしていれば、自分の経歴はダメージを受けないかもしれないが、日本の国益はダメージを受ける。公式発言から少々外れていても、相手を見て、最も効果的な言い方を自分の判断と責任で咄嗟にすることができなければ、広報担当の役目を果たしたことにはならない。余計な火中の栗を拾うことはない。しかし、必要な時には向こう脛に傷を負うのを恐れているようではいけない。その時、自分に過誤があれば責任を取るのだ。
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