Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

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2007年2月24日

我々が忘れてしまった日中関係

(神奈川県日中友好協会でのスピーチ要旨)
                               2006,6
                                河東哲夫
 私は外務省を退職し、大学で国際関係を教えているが、学生たちにどこの国の話を聞きたいかと問うと米国やロシアと応える比率は数パーセントで殆どが中国と答える。かっては外務省でも、私の属したロシアスクールがチャイナスクールに比べて人気が高かったがこれも今では様変わりである。これからは中国とアジアが重要なので、私も最近中国語の勉強を始めた次第である。本日は外務省に35年間勤めた私が、自分の専門分野でない中国或いは日中関係を、横から斜めから見て、或いは歴史の軸で縦に見て話しを進めてみたい。
 
戦後長らく一般の日本人は中国を意識せずに生活することが出来た。ところが1997年から1998年頃より中国を意識せざるを得ないようになったのである。1997年に世界銀行のレポートで中国の経済成長がやや大げさに発表され、世界の対中観を変えてしまったことがきっかけである。そこで勉強しなおしてみると、日本の歴史は常に中国の影の中で推移してきたことがわかる。大化の改新は、唐が高句麗を攻めるという緊迫した国際情勢と無関係でないし、我々は古今集は「純日本的」だと教え込まれたが、梅の香りをめでるという美的感覚も実は中国伝来のものである。そして経済的には、日本から輸出された銅が中国経済の拡張を常に助けていたのである。
 
他方、中国については過大評価も見られる。中国が何千年もの単一民族国家であった、というのは恐らく事実ではなく、中国は実際には多民族国家なのである。現在の大きな版図を有するに至ったのは、内部に遊牧民族を抱えるに至ったからである。そして現代を見ると、中国の経済成長の大半は都市の再開発や輸出に依存している。これからも自力で高成長を続けられるかどうか、確かではないのである。
そして政治体制は共産党の一党支配である。この体制は経済成長が右上がりの場合はよいが、経済やその他の状況が、下降線を辿り低迷してくると問題が生じてくる。共産党がすべての失敗の責任を負わされかねないからであり、実例は1991年のソ連にある。だから中国も多党化、民主化を図りたいのだろうが民主化は非常に難しい。中国の指導者も、ロシアなどが民営化、民主化の過程で既成の利権や資源の奪い合いが激化して国内が不安定化したことを知っているだろうから、おいそれとは実行したくないだろう。
 そして中国では、価値観が「漂流」している。中国は歴史上、自分の伝統を何回も断絶させてきた。現在の中国では、「より多く稼ぐこと」、これが主要な価値観になっている。高度成長時代の日本によく似ている。
 
日本人には、日本についての過大評価が見られる。ペリー提督来航の時もそうだが、外国人にとっては、アジアでの主要なプレイヤーは一貫して中国だったのだ。日本は中国への寄港地という位置づけだった。第二次大戦では米中は同盟関係にあったから、もし中国共産党が天下を取っていなければ、中国は戦後一貫してアジアのリーダーの立場を維持したであろう。国民党政府の予算の70%は米国の援助で支えられていたのである。

また、日本は兵力を外交に使ってはならないという制約を背負っている。軍備を持たぬ制約を知った上で外交に当たらなければならない。ODAを有効に利用することもその一つだ。インドやロシアとの関係を強化し中国に圧力をかけたらと言う人もいるが逆効果である。真正面から対話していかねばならない。そのためにも靖国参拝は早く決着をつけねばならない。日本は過去の戦争で加害者であるか被害者であるかなどについて、国内世論はまだまとまっていないようだが、この論争には早く決着をつけなければならない。中国の機嫌をとるためではない。世界における日本自身のためである。

今のところ、東アジアはStatus quo、つまり現状維持でいく、というのが基本潮流である。日米がそうだし、中国も経済発展を続けるためには何よりも平穏な国際環境を必要としているのである。中国は拡張主義であるという人がいるが、歴史上漢民族王朝が拡張をはかった例はそれほど多くない。中国は台湾を武力で取り込むだろう、ということも言われるが、少なくとも現時点では中国側にその兆候は見られず、台湾指導部も完全な独立を宣言して中国を挑発することは、米国などが許容しないであろうことを十分心得ている。朝鮮半島についても、中国は現在の構図を大きく変えようとは思っていない。
 
だから、日中も共存共栄で行くべきである。襟をただしてつきあうことは必要だが、感情的になる必要はない。中国も日本との関係を良好に維持することに利益を持っているのだから、問題は話し合いで解決できるだろう。

中国と日本は同文同種というが違う。日本は自由な民主主義の国である。これは戦争で大きな犠牲の結果与えられた貴重なもので大切にしなければならない。中国人は戦前の目で日本を見ている。現代日本を知って貰う為、もっと大勢の中国人に日本に来て欲しい。
 
国際関係は大きく変化した。日本国民及び日本政府は冷静に且つ好き嫌いでなく国益を考えた対応をしてゆかねばなるまい。
                                    以上

コメント

投稿者: 勝又 俊介 | 2007年2月25日 17:50

私が大学生だった10年ほど前、通っていた大学において、私も含めて第二外国語を「中国語」で選択していた学生数は、ドイツ語・フランス語に大きく水をあけられ、10%にも満たなかったのではなかったかと記憶しております。聞くところによると、今では、中国語選択者が最も多いケースもあるとのこと、わずか10年での情勢の移り変わりを、こういったところでも実感する次第です。
中国語を教えていた大学の先生が、当時、講義の前に「“中国がこれから来る”と言う人も多い。だが、あまり期待しないほうがいい」と、少ないながらもせっかく中国語を選択した我々学生に対して身も蓋もない話をした光景をいまでも鮮烈に覚えていますが、10年経ち、中国ビジネスにも関わることになったいま、その言葉の奥深さをしみじみと実感しています。中国ビジネスの「派手な側面」は、あらゆるところに情報として流されていますが、それと同じくらいの数で、中国ビジネスにおいて悲惨な結末を迎えざるをえなくなってしまった例は、身近な実状も含めて、枚挙にいとまがないほどです。中国の持つ特殊な商環境を徹底的に研究し尽くし、多くの危機をギリギリのところで回避した先に、やっと莫大なリターンが見えてくるのが真実でしょう。また、ほんのちょっとの油断が招く転落のシナリオが、想像の範疇を超えてとりわけひどいものとなってしまうことも、中国ビジネスの「見えざるもうひとつの側面」かとも思います。
日本から「落下傘」の気分で、2~3年の任期中、ロクに中国語も覚えようともせず赴任したりする日本側の責任者がいるような企業が、実状を知り尽くした現地の中国人をトップに据えることが多い外資に真っ向勝負を挑むとしたら、結果は見えていると思います。今では、そういった状況も大きく改善されているような気がしますし、むしろ、そういうなかで生き残ってきた日本企業が、いまも中国で活躍をしている、とも言えますが。
歴史を勉強する過程においても世界を意識することは、自分を振り返ってみても、全然やってきていないなあ、と痛感します。そもそも、「日本史」と「世界史」を明確に切り分けて学校で教えることも、その効率性は理解しつつも、違和感は確かにあります。「梅の香りを愛でる感覚」については、まさに中国伝来のものだと思います。日本ではそれほどポピュラーではありませんが、中国には、「蝋梅(ろうばい)」という、非常に美しい香りのする梅があります。この蝋梅の枝を束にして、街に売りに来る光景は風物詩とも言うべきものでありますが、この梅のにおいは、いつまでかいでいても飽きないものです。見た目の美しさからすると、日本の梅の花のほうが美しいですが、やはり、中国は「香り」の文化なのでしょうかね。お茶に関しても、中国のお茶は、非常に美しい香りのするものでも、飲んでみると普通のお茶だったりする時が多々あります(私の味覚が貧困なだけかとは思いますが)。
中国が多民族国家であることもさることながら、私の実感では、中国の方々は、民族の融合について、非常にフラットに受け入れ、それをごく当たり前のものとしてとらえているような気がしています。今月17日夜に放送された、春節晩会(日本の紅白歌合戦に相当する、中央電視台放映の国民的番組・・・若者離れが進んでしまっているところも、日本と似ています)においても、「民族の融合・和諧社会の実現」に向けたメッセージが演目として強く打ち出されていましたが、こういった番組でアピールする目的は様々あるので一概には言えませんが、中国の方々個人の意識のなかでは、すでに価値観としては存在するものであって、むしろ、国家レベルにおいて意識しなければならないテーマなのだろうと考えております。政治よりも国民の意識のほうが断然先行していることは、よくあることではありますが。
民族という概念よりも、やはり、エリアとしての文化圏・環境を強く意識するところはあるのではないでしょうか。「中国人」という言葉は、あくまで国境の概念上のものであって、それ以外で、中国人という括り方をすることが非常に少ないことを実感します。北方の人、南方の人といった非常に大雑把な言い方もあれば、北京人、上海人、といった言い方もよくしますし、事実、北京・上海・香港の方々にそれぞれ接すると、全く違う国の方々と話している気持ちになります。ビジネスのやり方も全く違いますし、さすがに、北京人と天津人の区別は、私にはほとんど分かりませんが(東京の人と横浜の人の区別は、さすがに外国の方にはほとんど分からないですものね)。
これだけ文化の違う13億人の大きな船を、一党支配によって統治し、なおかつ驚異的な経済成長を推し進める、という荒技は、極めて優秀な行政能力が問われるものでしょうし、そういう意味では、現政権の手腕についても、その方向性に関する賛否は別として、超人的な能力を感じずにはいられません。
共産党が天下を取っていなければ、確かに日本の姿も変わっていたかもしれませんが、「歴史にたらればはない」という言葉は中国でももちろんよく使われる言葉ですし、そこは、今までのたどった足跡を必然とするしかないのでしょう。そうは言いながらも、河東先生のお言葉をお借りすれば「伝統の断絶の歴史を繰り返してきた」中国のこと、現代史においても、「もし文化大革命がなかったら・・・」などという議論に関しても、大変興味のあるところです。
何かと問題にされがちな日中関係については、民間レベルにおいては、ごく当たり前のように、お互いの会社の利益を見据えて、好き嫌いなど越えた取引が行われているわけであって、
政治も、国益を見据えた対応を第一義とするならば何をすべきなのか、明らかだと思います。中国でも、そうした意識を強く持った年代が経済の中心を担いつつあります。新たな日中関係を、新たな世代が築き上げていくことで、「国益」を無理矢理ねじまげようとしている考え方がいかに「頭でっかちの観念的なもの」であったかを思い知らせることができるのではないでしょうか。

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