Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

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2006年12月17日

ユーラシアを総体的に考える

(雑誌未掲載論文。使用ご希望の方は、末尾の投書欄に記入下さい)
                                          ジャパンーワールド・トレンズ代表
                                                        河東哲夫
 「失われた環」オリエント
イスタンブール、古のコンスタンチノーポリの海辺に立つ。右手にはマルマラ海の紺碧が広がり、左手には絶壁に両脇を固められたまるで河のようなボスポラス海峡が黒海の方へと延びていく。その高さ五十メートルはあろうかという空中にボスポラス大橋が白い雄姿を浮かべ、この海岸地方一帯に広がった千二百万人都市の大動脈として車の往来が絶え間ない。かつてマルマラ海の向こうのダーダネルス海峡にはペルシアのクセルクセス大王があっという間に舟橋を架け、数万の大軍を渡して気位高いギリシアに押し寄せた。それから百五十年たった紀元前三三四年には、アレクサンドロス大王が四万の軍を舟で渡し、まるで木曽義仲が京都に攻め上ったようにペルシアへと向かっていったのだ。
 古来、この地域は東西が交わる場所だった。イスタンブールのトプカピ宮殿には、中国陶器の大変なコレクションが置いてある。またそのひっそりとした一隅には、かつてこの都市を攻略し東ローマ帝国を滅ぼしたメフメット二世の本陣跡がある。こじんまりしたアーチのついたその意匠は、何と遠いウズベキスタンはサマルカンドの壮大なメドレセと瓜二つなのだ。
ローマとオリエントの文明の粋が融合し、その後も絶対主義の宮廷で数百年にわたって磨きぬかれたイスタンブールの工芸品は、得も言われぬ香りを放つ。僕がここで買った、錦織のようなネクタイがある。まるで日本の錦織と同じだと思っていたが、ある時ガンジス川のほとりの聖地ベナレスに行ってみると、そこにはイギリス人に滅ぼされたはずのインド織物が残っていて、まるでテクスタイル・デザインの宝庫と言った趣を成していた。そして、その薄暗い路地の奥の織物屋で出会ったのが、また「日本の錦織とそっくりの」織物だったのだ。ユーラシアは一つなのである。
 ユーラシアと言うと、まるでバラバラに散乱したマンモスの骨のように、つかみどころのない感じを我々は持つ。だが、それは世界史の習い方が悪いからだ。東京から新彊上空を通り、シルクロードを辿りながらヨーロッパまで抜けてみる。すると、眼下は大体平らな草原や砂漠が続く。中央アジアからウィーンまでは飛行機で五時間しかかからない。五千キロの距離は、遊牧民族の馬で日に百キロずつ進んでいけば、二ヵ月もかからず踏破できる。海が生命をはぐくむとするならば、広いユーラシアの草原もまるで海原であるかのように文明を伝播してきたのではなかろうか? 黄河、インダス、メソポタミヤ、エジプトと、古代の文明は独立して発生してきたかに我々は習ったが、青銅器や鉄器文明がこれら地域でだいたい同じ頃に起きている偶然に、僕は不思議だと思いながらもつめて考えてみたことはなかった。だが今になって考えてみれば、ユーラシア大陸の随所でその遺構が発見されているスキタイ系遊牧民族が、青銅や鉄の製造技術や製品をユーラシアに拡散させていったのではないか。
 日本人はまだ西欧コンプレクスから抜け切れずにいて、その証拠に中世のルネサンスもまるで真空から湧き出たように、「進んだ西欧に」当然のように現れたものだと思っている。 だが既に何人かの学者が指摘しているように、ルネサンスの背景となったイタリア諸都市の繁栄は、東南アジアにおける香辛料生産の急増や、モンゴルのオリエント統一―――広い地域が無関税、一つの市場になった点では、現在のEU拡大とも似ている―――による物流の急増によるものではなかったのか?
だから、ユーラシアにはヨーロッパを中心にした「世界史」と中国を中心にした「東洋史」が別々に展開したと思ったら、間違いだろう。しかも現在では砂漠の後進地域としか考えられていない中近東、中央アジア―――つまり、今ではあまり使われていない「オリエント」という言葉でくくられる地域―――は、「大航海時代」までは西欧をはるかにしのぐ文明と力を有し、中国、ヨーロッパ双方に影響を与えていた。オリエントは、ユーラシアを一つのものとして機能させていた、「失われた環」なのである。

ユーラシアの主要プレーヤー達
 ユーラシアは古来、世界史の主要な舞台だった。そしてマッキンダーがハートランドと呼んだように、今でも世界で最も重要な大陸である。アメリカもユーラシアに関与する力がなければ、超大国であり得ない。そしてこのユーラシアには今、いくつかの文明塊とも呼ぶべきものがある。人によって分類はまちまちなのだが、僕はそれらを西欧文明圏、旧ソ連圏、中近東、東アジアに分ける。各々の塊の内部は矛盾と多様性に満ちているし、これらの塊の他にも東欧、中央アジア、インドのような中間領域もある。
 ユーラシアの情勢は、これら塊内部のもめごと、塊同士の合従連衡によって作られる。アメリカ、西欧、中国、ロシアは中近東や東アジアやインドを舞台に時には互いに競り合い、時には徒党を組んで互いに対抗している。その中で超大国アメリカはまるで昔の遊牧民族さながらユーラシアに広く展開し、進んだ軍事技術や自由貿易の建前を前面に立て、歴史のページを次へとめくっていく。

(西欧)ユーラシアの主要なプレーヤーを西から順番に見てみたい。まず西欧だ。パリ、ロンドン、ベルリン、ローマといった言葉に代表される西欧はこの百五十年、我々の憧れの的だった。かっこがよく、知識や文化の水準が高く、エチケットを心得、自分の「個」を確固として持っていながら他人の領域は侵さない、市民社会のモラルを身につけた白人達、というわけだ。
 だが西欧が今の西欧のようになったのは、それほど古いことではない。十二世紀南宋の文人画と四百年後の西欧の絵画を比べても、その完成度、洗練度合いで前者が後者をはるかに凌ぐように、中世までの西欧は中国に数百年遅れた存在だった。今日の西欧を特徴づける個人主義、「愛」という様々の価値観も未だ生まれていなかった。
西欧はギリシア・ローマ文明の後継者であるかのように振舞っているが、そのローマを滅ぼしたのは他ならぬヨーロッパのゲルマン人だったし、肝心のギリシア・ローマ文明そのものが人種的にも文化的にも、「オリエント」の厚い胚衣をかぶっているのだ。ギリシア・ローマの古い文明は、それを保存し発展させていたイスラム地域から、シルクロード貿易で潤ってめっきりナショナル・アイデンティティーへの意識を目覚めさせたイタリア諸都市に回流してきたのである。
西欧がブレークしたのは、十五世紀の大航海時代からだ。ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどは戦乱を通じて大砲や鉄砲を用いた戦術を磨き上げ、それによってアメリカから東南アジアにまで至る広大な商圏を築き上げた。そして中南米の金、銀でインドや東南アジアの織物、香辛料を買いあさり、西欧で売って巨利を上げる。また黒人を奴隷として、まるで機械のように売買し、そこから巨利を得た。千五百万人ものアフリカ人が「輸出」されたのだから、そこから上がる利益は想像できる。イギリスのリバプールやアメリカのボストンに居を構えた奴隷商人達は、後に産業革命を融資する担い手となる。
 「産業革命」と呼ばれるに値する大変動があったのかどうか、あったとして何が原因で起きたのかについては、今日でも定説がない。しかし僕は「産業革命」は確かに革命的な変動を世界にもたらしたと思うし、後で述べるように今日の世界全体、未だにその余波の中に生きていると思う。私見だがイギリスでの産業革命は、インドからの綿織物輸入を国内生産で代替することが利益をもたらすようになったことが直接の原因ではないかと思う。そして蒸気機関の開発は生産性を一気に高め、人類の生活を根本的に変えた。世界文明の中で初めて、「必要以上のモノを作る」文化が出現したのである。イギリスは余剰製品を売りさばくために、植民地を利用した。
イギリスでは十七世紀の清教徒革命、名誉革命を経て、国王の恣意ではなく議会の総意として国民とその富を戦争のために動員する体制―――後に「国民国家」と呼ばれるようになる―――が整っていたし、民間会社の機動性を有する東インド会社を尖兵として使っていたから、インドという豊かな地域を植民地とすることができた。十九世紀インドの経済は毎年数%ずつ収縮して現在の絶対的貧困を生んだ―――毎年三%ずつ下がると十年で約三十%減少する―――。だから、現在の発展した西欧社会は独力で作られたのではない。産業革命のための原初蓄積、そして産業革命の産物の販売では、アメリカ、アフリカ、アジアを大いに搾取したのである。明治以降の日本も、いくつもの戦争や軍需生産をバネに経済発展を遂げた。産業革命や経済発展は、どこの国でも「原罪」を伴う。
 個人主義などの市民的価値観は、十七世紀頃から西欧社会で徐々に確立された。それは地縁・血縁に依存する村落共同体の価値観と異なり、経済的に自立し政治的意識も高い人達のための価値観である。産業革命は次第に広汎な中産階級を作り上げ、彼らもこの市民社会の価値観に同化していった。
因みに、現在の日本は今この過程にある。日本では戦争の結果、やっと家父長制のモラルが破壊されたが、それに代わる新しい価値観は未だ確立していない。人と人のつきあい、個人と政府の間の関係などについて日本人はまだ試行錯誤の段階にある。この十五年の不況時代に起きた官僚叩きは、これまでの過度の官僚崇拝を逆の極端へと振らせ、個人と政府は未だ適切な距離感を見出していない。政府は公共の福祉のために公権力を使用する場合でも及び腰で、僕の家の近くには「放置された自転車は市条例第□号によって撤去されます」という大きな立て看板が置いてある。アメリカや西欧なら、単に「自転車撤去地域」という小さな標識を立てただけで、平気で撤去していくだろう。日本人は地縁・血縁には頼らないでも生きていけるようになったが、自分の殻に閉じこもり、他人や社会とのかかわりを拒否する「タコツボ個人主義」に陥っている。
三十五年前、僕が初めて行った頃の西欧はまだその文化的頂点にあった。そこは高い生活水準の中に個人主義や合理主義が咲く花園のように見えた。今、その西欧は停滞ないし下降期に入ったかに見える。労働組合の力が強く構造改革を進めにくい国々では、失業率が高い。そして人口の十%以上もが移民である現在、西欧の「国民国家」という神話は崩れ、大都市ではアメリカのような多民族社会が現出している。経済が発展した結果実現した教育機会の均等化は、皮肉なことにその水準を下げ、文化も大衆化してその水準を下げた。大衆が全般の水準を自分のレベルまで下げようとしているのか、あるいは豊かになった大衆のレベルが嵩上げされる途中なのか、それは僕にもわからない。
かつてローマ帝国を滅ぼしたヨーロッパ人達は、今ローマ帝国と同じ運命に陥ろうとしているかに見える。世界を東洋と西洋に分け、西洋に異様なコンプレックスを抱いてきた時代はもう終わった。我々は、西欧をもっと落ち着いて眺めることができる。だが西欧には、高い「知」の伝統がまだ残っている。アメリカ人のディベートはまず最初に結論ありきの演繹型であることが多いが、西欧ではファクトをまず丹念に集めてから物を言う帰納型の思考スタイルだ。その外交は自分の主張を力任せに押し付けるより、力のバランスと妥協で生き延びていく。西欧の経済はダイナミックではないように見えるが、世界金融の中心としてのロンドンの地位は揺らいでおらず、我々が日本より遅れていると思っているコンピューターでも、ソフトの設計と応用では日本の何年も先を行っている。

(中近東・オリエント) 中国とヨーロッパの間、モロッコから新彊まで広がる広大な地域、それは北は遊牧民族、南は「オリエント」という言葉で括られる。だが西欧が産業革命と植民地主義に乗り出し、同時にオスマン・トルコ帝国が没落を始めてからは、オリエントは世界史から脱落し、かつて世界最古の文明を育んだこの地域は後進のレッテルを貼られた。しかしこの地域の記憶を蘇らせることなしに、世界を理解することはできまい。
 オリエント、それは今日のイスラム地域にほぼ等しいが、古くはエジプト、メソポタミヤ、ペルシア、そして遊牧民族の文明が融合したものであり、イスラムはそれら諸文明、そしてこの地域の習俗を基礎として、西暦六百年頃成立したものである。オリエントの人々は、シンドバッドやアリババの説話が示すように、インド、中国、東南アジアの豊かな経済の上に咲いたインド洋・シルクロード貿易を担っていた。中国ではソグド人(今日のウズベキスタン、タジキスタン出身の中央アジア人)の大商人や貴族の墳墓が相次いで発掘されているし、唐時代の安禄山はソグド人とウィグル人の混血である。景徳鎮の陶芸は、アフガニスタンからもたらされた釉薬やオリエントとの技術交流の中で生まれたものだし、元王朝は経済行政、貿易にペルシア人を重用した。明時代の大航海で有名な鄭和は、中国南部に定住していたペルシア系イスラム教徒である。そして、西欧ルネサンスの引き金をオリエントが引いたことは既に述べた。
 イスラムは、保守の代名詞になっている。だがコーランを読めばわかるように、モハメットは頑迷なことは言っていない。コーランは旧約聖書の内容を誰にでもわかるように説明し、神の偉大さを讃えたもので、朗読した時に最大の効果を発揮する。そしてモハメットが育ったメッカはシルクロード上の一大拠点だったし、彼の年上の夫人は商社の社長だったと言われる。だから、イスラムは「砂漠の宗教」ではない。都市・商業文明の上に咲いた宗教なのだ。イスラム教の法律、シャリーアと言うと、盗みに対して手を切り落としたり、不倫に対して石打の刑を行う原始的なものと思われているが、実際は民法、商法、契約法などあらゆる分野にわたる。
 一九八九年のベルリンの壁崩壊を覚えておられるだろうか? 冷戦時代、世界政治の塊と塊がぶつかり合って作り出すいくつもの褶曲は、分裂したドイツに収斂していた。その東西ドイツが再統一されるとソ連の脅威は大きく後退して冷戦は終了し、米欧関係は運命共同体ではもはやなくなった。イラク戦争の際、フランス、ドイツはロシア、中国と組んでアメリカに反対し、ユーラシアにおける後者の立場が相対的なものになったことを如実に示したのである。現在、中近東に世界政治の矛盾の襞が集中している感がある。パレスチナ、イラク、イラン問題の扱いをアメリカが間違い、この大産油地域での影響力が減退すれば、世界は多極化に向けて大きく舵をとることになるだろう
冷戦時代、中近東における基本的な対立軸はイスラエルを支援するアメリカと、パレスチナ、アラブ諸国を支援するソ連との間にあったが、現在の対立軸は一方にアメリカとイスラエルとアラブ湾岸諸国、他方にイランとパレスチナ、シリアというものに移行した。中世のペルシアとアラブの抗争が現代に再現されてきた感があり、イランはイラクのシーア派もとりこみ湾岸での影響力を増大させつつある。そのイラクのシーア派を、他ならぬアメリカが支えていたり、ソ連は一貫してアラブに組していたのに、ロシア系イスラエル人は今や右翼勢力として入植地拡大やイスラエルからのアラブ人閉め出しを主張する、といった捩じれがこれに加わる。中近東の情勢は、複雑なパズルのようなものだ。
外交問題評議会のリチャード・ハース会長は最近フィナンシャル・タイムズで、アメリカの中近東政策の失敗を認め、世界におけるアメリカの地位の相対化を予測した。日本でも、アメリカ終末論が一時書棚をにぎわせた。しかし僕は、アメリカが簡単に没落するとは思わない。その経済は世界を支え、軍事的なパワーは相変わらず抜きん出ている。何より大事なことには、自分の欠点を見つけて修正する能力をまだ維持している。そしてアメリカは、先進国の中ではこれから唯一人口が大きく伸びる。二〇五〇年までに、人口は実に一億人以上増加するとの予測があって、増加率ではインドネシアを上回る三十五%にも達するのだ。世界の国々は口々にアメリカの悪口を言って鬱憤を晴らしながらも、何とかアメリカのお気に入りになろうと、陰に陽にしのぎを削っている。

(東アジアと中国)かつては停滞していた東アジアは、経済成長と政治的安定の代名詞になった。その原因は、儒教とか十七世紀までの栄光の歴史への回帰とかいう精神的・感傷的説明よりも、アメリカ、日本、台湾、香港からの援助と大量の直接投資にあるだろう。
中国は古来から、世界の工場だった。その経済は宋の時代には既に頂点に達し、首都開封の繁栄振りを描いた「東京夢華録」は、まるで元禄時代の江戸のような大衆消費社会を描いている。勤労道徳は十六世紀には明確な哲学となったが、これは江戸時代の心学に約二百年先駆けている。我々は幽玄の美とか侘び、さびの美、色を塗らない空白の美、左右アンバランスの不均衡の美などを解するのは日本人だけだと習ってきたが、こうしたものは南宋の士大夫文化に見出すことができる。十八世紀初めには、コークスを使っての製鉄法も確立していた。
その中国で産業革命が起きず、清末期までには貧困国に堕していたことの理由については、定説がまだない。前者について言えば、あれこれしかつめたらしい理由を並べるよりも、「中国には産業革命は必要でなかった」という単純な事実で説明できると、僕は思っている。既存の生産方法で生活の需要が満たされ、生産者も稼げるのだったら、大量生産は値崩れを起こすものとして、むしろ忌避されたことだろう。
中国の貧困化については、清の時代、おそらく異民族政権の人気取り政策として、人頭税が緩和され、これが人口の急増を招いたことが大きかったのではないかと思う。中国は、長子相続の確立したイギリスや日本とは違い、均等相続の伝統が強い国である。人口の急増は農地の細分化を招き、国全体の窮乏化を招いたのではないか。今日で言えば、社会主義的政策の失敗である。
中国は漢民族だけの国ではない。周囲を取り巻く異民族と不断に共生し、あたかも共同文明圏のように形成されてきた国である。中国を初めて統一したことになっている秦の始皇帝は、西域の遊牧民族系の出身だと言われているし、読んで字のごとく「五胡十六国」時代にはイラン系遊牧民族が中原を駆け回った。彼らの子孫は今でも、黄河のくびれた地域に居住しているそうだ。そして、大唐帝国を作った李氏は代々、北の遊牧民族である鮮卑と通婚していたのである。中国の版図は遊牧民族の版図を包含してから今のように大きくなったのだし、清の時代には自分達を満族、漢族、そしてモンゴル族三者の連邦的存在として意識していたのである。
中国は朝鮮半島とベトナム、東南アジアに対しては直接支配、あるいは厳格な同盟体制をとってきた。後者は冊封体制と呼ばれ、周囲の国々は服属を条件として安全を中国に保証して貰ったのである。今でも周辺国に対する中国人の物言いに、冊封体制のDNAが顔を出すことは珍しくない。しかし同時に現代の中国人は、現在の世界のパワー・バランスが中世とは決定的に違うことを心得ている。「小日本」とか言ってやじりながら、実際には経済・技術大国日本の大きな影がのしかかって来るように感じている中国人は数多い。
現在の中国人が急速に伸びた国力を背景にむせぶようなナショナリズムの高揚を味わっている一方で、政策担当者は自分の国の力の限界を明確に見極めている。あと二十年で六十歳以上が三億人に及ぼうかという、世界に最たる老人大国の運命が待っている中国は、国民の不満の顕在化を防ぐことのできる「小康社会」の建設に最大の政策重点を置いており、そのため国内的には統一の維持、対外的には周辺地域の安定、外交用語で言うステータス・クォーの維持を至上命題とする。これこそは、東アジア情勢の現在を規定する最重要の要因なのだ。中国は北朝鮮との国境地域に居住する数十万の朝鮮族を不安定化させないためにも朝鮮半島での現状維持を願い、台湾についても台湾が「独立宣言」でもして北京政府の面子をつぶすようなことがない限り、武力侵攻をするつもりはない。
中国は、台湾が完全独立を宣言するのを抑えられるのは米国だけであることを知っており、この文脈で日米安保条約も是認している。ASEANは中国の影響下に組しかれてしまったようなことはなく、そこの華僑の殆んどは中国本土との人脈を失って居住国で暮らしていくことを第一に考えている。ASEAN諸国はブッシュ政権への警戒感を隠さないが、アメリカそのものについてはアジアの安定と繁栄と自由を保障してくれる「公共財」のようなものとして、相変わらず頼りにしている。
戦前の日本から希望的観測に基づいて情勢判断する癖を、ソ連から恐喝と欺瞞の外交を学んだ北朝鮮を除いて、今のアジアは、現状維持がいいということでまとまっているのだ。北朝鮮の核開発阻止では日米中の利益が大きく一致し、東アジアの繁栄と安定をこの三国が中心となって確保していくための基盤ができつつある。日本では、アメリカが中国に接近して日本を袖にすることを警戒する声があるが、日米中はゼロサムの関係にはない。この三国の関係は、いずれの一国も他の二国を必要とする絶妙なバランスの上に成り立っているのではないか
この中で日本が憲法九条を改正することは、日本だけがアジアの現状に満足せず、これを武力で変える準備をしている国だとの誤解を生みつつある。憲法九条改正が国際的なイシューとなって日本の面子の問題となる前に、日本はその得失をよく考えなければならない
日本が繁栄し、アジアのリーダーとして通ってきたのは、いくつかの幸運によっている。戦後米ソ、米中の冷戦が起こらなければ、アジアにおける米国の最大のパートナーには中国がなっていただろう。ペリー提督来航以来、日本はいつも中国の刺身のつまとして扱われ、太平洋戦争ではアメリカに敵対したのだから。そして戦後六十年、アメリカが保護主義に転ずることなく世界の自由貿易の旗印を守ってくれていることも、稀有なことなのだ。別に卑屈になる必要は毛頭ないし、自分の権利はいざとなれば武力にかけてでも守らなければならないが、自分の実力と幸運の限界だけは心得ておかないと、日本はまた実力不相応のことをして破滅する愚を冒すだろう。

(インド)インドはBRICsの一員、「世界最大の民主国」、急速に老齢社会化する中国に代わって若年人口の多い世界最大の人口大国、そして中国に対するカウンターバランスとして、近年ご都合主義的な注目を浴びている。ご都合主義だから、インドの本質は必ずしもわかっていない。インド文明は、実はオリエントの延長線上にある。インドのアーリア人は、はるかな昔オリエントから侵入してきたイラン系白人の子孫だし―――その証拠にインド北部はペルシア語の邦に相当する「スタン」のついたヒンドゥスタンと名づけられている―――、十六世紀のムガール王朝はウズベキスタンで封土を見つけることのできなかったトルコ・モンゴル系のバブール王子が南下して建国したものである。
そしてインドは古来から、東南アジア地域と一つの文明圏、商圏の中に生きてきた。カンボジアのアンコールワット寺院はヒンズー神話の浮き彫りに満ちているし、そもそもインドはミャンマーと国境を接しているのだから、ASEANの延長とも言える存在なのだ。だから、日本が東アジア首脳会議での中国の影響力を相殺するためにインドを引き入れたつもりでいるのは、僭越ではないか。インドとの関係を付け焼刃で増進しようとしても、北京からラサまで建設された鉄道が少し延びればもうインドに達し、中国とインドの関係はインドと日本の関係よりもはるかに緊密なものになってしまう。
以前からインドはソ連、次いでロシアと緊密な関係にあった。ロシアも一時、露印中の連携でアメリカに対抗しようとした。だが現在、インドはアメリカ寄りに舵を切ったように見える。アメリカもインドの核開発を容認してまで、インドとの関係を増進している。それは中国に対するカウンターバランスを持つという側面と、中央アジア諸国がペルシア湾、インド洋に出ることができる窓を開けるという戦略的意味を持っている。
中央アジア諸国はオリエント文明の主要な部分を占めていたが、時代から取り残され、現在では旧ソ連圏の一部と位置づけられている。内陸部にあるこれら諸国の通商路はロシアを通ずるものが大半だが、もしアフガニスタンからパキスタン、インドに抜ける経路を確保することができれば、中央アジア諸国の経済発展は加速され、テロの温床となる可能性も低くなる。そのアフガニスタンが相変わらず不安定なのはタリバン勢力の鎮圧ができていないためだが、そのタリバン勢力はパキスタンの支援を受けており、そのパキスタンはインドを牽制するためにタリバンを支援している。アメリカが以前から親密な関係を有するパキスタンとインドを近づけることができればアフガニスタンの情勢も変わり、中央アジアが発展への契機を得ることができるかもしれない。
他方、もしパキスタンでイスラム原理主義者が政権を握れば、核兵器が彼らの手に渡る。その時こそ、北朝鮮から中近東に至る「不安定の弧」は、本当に大きく不安定化することだろう。

(ロシアと旧ソ連地域)ユーラシア大陸の北半分は、ロシアと旧ソ連地域にほぼカバーされている。だがロシアは世界史では比較的新しい勢力で、元はと言えばコンスタンチノープルからバルト海へと抜ける水系の畔にできた商業都市群が、十六世紀から拡張を開始したものだ。数百年かけてシベリアを東進したロシア人が太平洋岸のウラジオストク一帯を領有したのは、僅か百五十年前、一八六〇年のことである。
西欧と異なって、ロシアでは個人の権利、所有権への意識が薄い。農奴制が十七世紀に確立して農民の権利を奪ったし、農地は村の共同所有とされ農民は数年で耕作地を替えられたから、個人所有の伝統も育たなかった。「ロシアはヨーロッパなのかアジアなのか」という永遠の問いがあるが、ロシア人のメンタリティーは住み分け、謙譲を宗とする東アジアの儒教的な価値観からはあまりに遠い。後で言う「ゼロサム」の文化がロシアには深く根付き、その点でロシアはヨーロッパでもアジアでもない、むしろオリエントに近い文明を持っている。それは、カトリック教会の伝統に皇帝の専制的権力を上乗せしたギリシア正教―――皇帝が教会の長を兼ねる―――をロシアが長年奉じてきたことと無関係ではない。
ソ連で七十年余続いた共産主義は言ってみれば、当時ロシアで始まった工業化から生ずる富を集団所有の原則で国民にばらまき、投資よりも分配を重んずる体制を専制的な力で維持していたのである。これは国民を独裁的な力で抑え付けていたと言うより、平等な配分を望む大衆の声なき声を共産党エリートが司祭のように司り、体制からはみ出ようとする者達だけを強権で抑え付けていた、とでも言おうか。
その体制が戦後の世界を風靡した大衆消費社会にはついていけないことがわかった時、大衆はいとも簡単に共産党を投げ捨てた。「共産党員が独占している富」を、自分達で分け合えば豊かになれると思ったのだ。そして軍備をも放り出し、ヨーロッパ文明の仲間入りをしようとしたが、仲間とは認めてもらえず大量の直接投資を得ることもなく、かえってNATOを旧ソ連地域に拡張されるという仕打ちを受けた。資源を持たない中国と異なり、エネルギー資源と大量の核ミサイルでアメリカの覇権にチャレンジする潜在力を有するロシアは、悪気を出さないうちに封じ込められてしまったのである。失意のロシアは、国内の自由化よりも安定の維持と国際的威信の回復に重点を置くようになったのである。
今、原油価格の高騰はロシア経済を大きく見せている。都市では月賦制度が普及したばかりで、市民は買い物に忙しい。しかし銀行預金者の信用調査が未発達なロシアでは、消費者金融は不良債権となりやすい。他面、ロシアが原油や天然ガスの輸出で稼いだ外貨は年間四百億ドルのペースで海外に流出しているというちぐはぐぶりだ。ロシアのオイル・マネーが海外でM&A騒ぎを起こしている傍らで、欧米の金融市場で調達した短期資金が素性の知れないロシア人消費者への金融に回されるという不健全な構図が成立している。
国際政治的には、ロシアは何をどうしたいのか、自分でもまだわかっていない。ロシア南辺の国境は長いから多数の国際問題に発言する権利を持っているのだが、ロシアは基本的にはまだ内向きの段階から脱しておらず、イランを初めとする中近東の問題について発言する際も、自分の利権を守るかアメリカに自分の協力を高く売りつけるかのどちらかに終始して、一貫した戦略は見られない。「エネルギー大国」を標榜してヨーロッパを跪かせようとしているが、古来原材料輸出で覇権を築けた国はない。
ロシアはこれから二〇〇七年の総選挙、二〇〇八年の大統領選挙と、選挙の季節に入っていく。経済規模が小さく、政府が左右できる利権の比率が大きい国では、政治権力の交代は経済的利権の交代も意味するから、血で血を洗う騒ぎとなる。既にロシアでは経済界における契約殺人が頻度を増している。これに原油価格の下降が加わるとロシアの民間銀行の対外借り入れや消費者金融が不良債権化し、取り付け騒ぎや景気の大幅後退が起こりかねず、それは選挙の年と一致するかもしれない。
旧ソ連地域はエネルギー資源を欠くだけに―――但しカザフスタンとトルクメニスタンは別格―――、ロシアよりも厳しい経済情勢にある。いくつかの旧ソ連諸国は民主的言辞を弄してNATO,EUに摺り寄っているが、国内の体質は民主主義からは程遠く、いくつかの国で起きた「民主主義革命」もその実は利権を差配する者の交代をもたらしただけで、国内の統治は権威主義に依存している。そしてこれら旧ソ連諸国は、エネルギー資源、安価な兵器、そして工業生産のための部品入手、商品の販売市場や対西側輸出経路、貧しい国民の出稼ぎ先の確保といったあらゆる面で、ロシアに依存している。本年末の選挙対策もあって反ロ・カードを弄んだグルジアが、ロシアから封鎖の報復措置を受けて困窮しているのがその好例だ。そして欧米諸国は、そのような旧ソ連諸国を助けるための負担には及び腰だ。
日本は旧ソ連諸国にまで本格的な外交を展開するための余力に欠けるが、ロシア、中国の裏庭に相当する中央アジアには対応しておいた方がいい。この地域がASEANのようにある程度まとまった存在となってくれれば、これら諸国自身にとってのみならず日本やその他の国にとっても意味のある存在となる。だからこそ中国、ロシア、アメリカなどは、八月末の小泉総理のカザフスタン、ウズベキスタン訪問を、けっこうじっと見つめていたのだ。

ゼロサムと権威主義の大陸―――ユーラシア

これだけ述べても、ユーラシアをわかった気にはなっていただけなかったかもしれない。これまでの作業は、地面に落ちているマンモスの骨を分類し、その色と臭いを記録したくらいのことだったので、今度はユーラシア全体を断面で切ってみたい。
国や民族の基本的メンタリティーを規定する要因として、「産業革命を経ているかどうか」ということがあると、僕は思う。「文明の衝突」と言われるが、今起きていることは工業化された社会とそうでない社会の間での衝突であり、未来永劫どうしようもない差異に基づくものではない。事態は静態的ではなく、動態的に見るべきである。
現代は、十五世紀以来続いた西欧植民地主義が終わりを告げ、同時に東西間の冷戦も終わった稀有な時代だ。だがユーラシアには、産業革命の恩恵にまだ浴していない国々がそこここにあって、共通の特徴を見せている。それは、こうした国々は「ゼロサム」文明の中に生きていて、産業革命を経た「プラスサム」思考の国々とは多くの点で相互理解ができないということだ。
ゼロサムとは、全体の富の量が増えないので、豊かになろうと思えば他者を騙すか脅すかして奪うしかない社会を意味する。東西貿易の商圏を西欧に取られてから、オリエントの経済は停滞し、少ない富は国内の特権層に独占され、彼らは宗教権力とも結びついて改革を阻害するようになった。日本でも身分、出自による暗黙の格付けが色濃く残る地方があるが、東京はそのような差別をもみ消してしまう。それは、東京には富を得る機会が多く、足の引っ張り合いに時間を使うより稼いだ方が有利だからだろう。これがプラスサム思考だ。
イスラム諸国、旧社会主義諸国では特権階級が利権を牛耳り、自由な経済活動が難しい。無理して市場化、民営化を進めようとしても、国営企業を買収できるほどの資力、そして経営能力を持った者が国内にはほとんどいない。あえて財閥的な存在を養成すれば、政敵になるかもしれない。欧米が資金を出して「野党」なるものを作ってみても、そこに集まる者達は国民の福祉より自分が特権層の仲間入りをすることにかまける。
このような社会では所有権、人権は軽視され、権威主義が支配的となる。すべての富や便宜の入手が特権階級の匙加減次第という社会では大衆は卑屈になり、すべてを「お上」に期待する。民主主義や経済改革は果てしない利権の奪い合いを引き起こすだけでなく、公共料金値上げや格差をもたらすので、大衆は反対する。彼らは指導者が国のあらゆる事を決めていると思い込んでいて、我々の説くマスコミや議会の「独立性」は言葉だけのまやかしだと思っている。
そしてゼロサム社会の特権階級のモラルは、合理性と透明性を重んずる欧米のものとは正反対だ。彼らは奪い合い、ルール無視、コネとなあなあの原則、恣意性と透明性の欠如という世界に住んでいる。彼らの多くにとって公務とは、国民の生活向上のために働くことではなく、自分自身の致富のための手段である。このような社会においては、西側の企業が「コンプライアンス」を貫くことは不可能であり、生き残りのためには「うまく立ち回る」ことが必要になっている。
ゼロサムの社会では、地縁・血縁のある者以外は一夜の客としてならいざ知らず、商売のパートナーとしては信用されない。市場経済には不可欠の「不特定多数の顧客」に対する恐怖心が、中国やロシアや中近東諸国では目に付く。そこでは株式会社の成長は難しく、同族会社や財閥が幅を利かせることになる。このような社会で居丈高に自由や民主主義を説くと大衆までが意固地になり、「腐ったハリウッド文化の侵略から自分達の伝統を守れ」というスローガンの下に反西側のデモに立ち上がる。かつては欧米の自由主義に憧れていたロシアの青年達も、いつまでも西側の仲間に入れてもらえず説教ばかり食らうことに嫌気がさして、今ではサッカー試合の観戦などに現を抜かすだけになっている。
アメリカの一部勢力は、ゼロサム社会の特性を顧慮することなく、民主主義をしゃにむに広め、権威主義的政権を倒してきた。だがこうして出現した新政権は国内の利権闘争に明け暮れ、反対派を強権で抑えている。そのような政権を支援することに懐疑的な勢力もアメリカ国内には強いから、アメリカの政策も腰が定まらない。
こうしてイスラム諸国と旧社会主義諸国は、権威主義の一大ベルトをユーラシア大陸に形成している。産業革命に乗り遅れたが故にいつまでも貧困で、生活は麻薬、密輸、武器取引、そしてテロなどで支えるしかない地方もある。彼らは、歴史の被害者なのだ。運よく大量の直接投資が来なければ、これら諸国の国民は出稼ぎに出るくらいしか手段はない。
今、中央アジアの四カ国と中国、ロシアは「上海協力機構」なる国際組織をスタートさせている。昨年五月ウズベキスタンのフェルガナでのテロ鎮圧の際、無実の市民が多数撃ち殺される事件が発生したが、一斉に非難の声をあげた欧米を前にして、カリーモフ大統領は中国、ロシアを歴訪して支持を取り付け、自分の政体を守った。このようなことから、上海協力機構は権威主義的な国々を集め、いつの日にかかつてのワルシャワ条約機構のような敵対的存在になるのではないか、という声がアメリカなどで時々聞こえる。またこのような動きに対抗して、日本とNATOの間の協力、連携を強化するべきであると考える者も日本にいる。
だが、権威主義的な国々の団結には未だ脆いものがある。ロシアは中国の弟分にされたり、極東・シベリアが中国人に席巻されることを極度に恐れているから、上海協力機構を真剣に発展させる気はない。中国も中央アジアなどに大型借款を供与しているが、上海協力機構よりも中国政府の旗印を前面に出している。結局のところ権威主義的な国々は、自国の安全と利権構造の保持を第一の目的としつつ、ロシア、中国、アメリカ、EU、日本などの間をうまく泳ぎまわって最大限の利益を引き出す政策をこれからも続けていくだろう。日本にとっては、上海協力機構に対抗するためにNATOと連携したりするよりも、米韓中とともに東アジアの安定を確保していく方が、はるかに重要な課題と言える。
我々は、ユーラシアの権威主義的な国々をODAや直接投資で発展させることができる、民主化、市場経済化できると信じているが、事はそんなに簡単ではない。先進国はパテントやブランド、金融など全てを自分で抑えた上で、これら諸国に、「さあ、発展してみろ。自力でだ。自分達も自力で発展したのだ。」と言う。だが既に述べたように、先進国の経済発展はどこも「原罪」を抱えていて、とても自力で発展したなどとは威張れたものではない。「自由貿易」は強者に有利な理論であり、後発国は他国による支援、そして保護主義から出発せざるを得ないのである。

「国家」形態の一大展示場―――ユーラシア
近代西欧型の国民国家、主権国家は、国の資源を総動員する力を持ち、それでもって領土争い、植民地争いに必要な常備軍、諜報機関、警察を養った。ビスマルクの時代になって、単なる工場労働者から次第に政治的自覚を有するようになった国民の支持を獲得するため年金制度が発明され、それ以後は社会保障も国家の役目とされることになった。
だがもはや正規戦が戦われることもなくなった先進国社会では、軍はテロなどのゲリラ戦に対応できるよう改造されつつあり、民間セクターが大きくなって小さな政府が追及される中、社会保障や軍事の一部までもが民営化やアウト・ソーシングの対象となっている。国家は、その役割の見直しを迫られている。介護保険などで国家への依存度がむしろ上昇している日本は、国家が国内の富を占有する比率が高すぎたが故に活力を失った、かつての中国のような罠に陥ろうとしている。そして知識人と言われる人達は、これまで政府の権力を目の敵にしてきたのに、中国、韓国から敵意を見せられると、日本は国家としての体を成していないと叫びだす。強い国家は人々の権利を制限しがちであることは、もう忘れてしまったかのように。
ユーラシア大陸には古今東西、様々な国家形態が存在し、参考になる面を持っている。例えばアラビア語には「国家」に相当する言葉がないのだそうだ。オスマン・トルコ帝国の崩壊過程の研究は、まだ続くソ連邦の崩壊過程を占うのに有用だろうし、EUは超国家機構と各国政府、そして地方自治体の間の権限配分を学ぶ上で興味深い。ユーラシアではないが米国も、西欧的な国民国家ではなかった。自分達で全く新しい国家形態を作り出したのである。米国国家は、西欧のように植民地を獲得するための道具として作られたのではなく、むしろ植民地にされないように設計されたものだ。常備軍も諜報機関も、最初はなかった。社会保障は今でも弱い。
言語の問題や所得格差の問題さえないならば、国民国家の枠などいつまでも守っている必然性はもはやない。夢物語だが、国家を「刀狩」してしまえば国内のポピュリズムが政府を戦争に向かって駆り立てることもなくなるだろう。東アジアの国々は、領土や市場を獲得するために整備された西欧の国民国家とは別の原理で形成されたのではなかったか。国民国家という強力な力の使い方に慣れていなかった日本は、その力をコントロールしきれずに自滅してしまったのである。今東アジアの国々が西欧型国民国家の建設をめざし、国民国家の論理をふりかざして周辺国と争うことに、果たして意味はあるのか
そしてナショナリズムを強める中近東や中央アジアの諸国の国境は、実は歴史上存在したことのない人為的なものだ。これら国家はアイデンティティー確立に苦しんでいる。彼らも西欧の主権国家、国民国家の枠組みから離れ、柔軟な発想をしていくべきではないか。解答はまだないが・・・

結び

国の負債は多いが、現在の日本は一つの文明的頂点にある。日本は十五年の不況にも崩壊することがなかった。大都市の文化は高水準で充実している。若者は税や年金の重さに苦しみつつも、権利が保証された便利な生活を楽しんでいる。イラク戦争や宗教活動家に気兼ねして自由にものが言えないアメリカの社会からやってくる僕の友人達は、日本の栄華を楽しみ、「日本はアメリカ以上に自由だ」と言って帰っていく。そしてテレビのコマーシャルやポスターからは、白人モデルが消えてしまった。
日本には、多くのタブーや秘密が残っている。それでも、その社会や文化のあり方は外国でも好感を呼ぶようになった。恨みと嘆きの「暗」の世界だった演歌は姿を消して、ただひたすら明るいJ-POPが電車のヘッドフォンの中でカシャカシャ音を立てている。六十年代のアメリカのポップ音楽と同じく、将来への希望を感じさせる明るい文化は、世界で好かれる。日本は、高度の「ソフト・パワー」を身に着けつつあるのだ。
日本は古来、ユーラシアに関与してろくなことはなかった。パワーゲームには慣れていないし、向いていない。ゼロサムの「何でもあり」文化の中では、温室育ちの日本人はいとも簡単に身ぐるみはがれてしまう。ユーラシア情勢は変転極まりなく、複雑この上ない。戦前、ソ連を牽制するためにドイツと防共協定を結んでいた日本政府は一九三九年、そのドイツがソ連と不可侵協定を結んだことに驚愕し、内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を出して総辞職してしまった。今でも、正確な時代認識、世界認識がなければ、日本はユーラシアで同じ失態を繰り返すだろう。
日本は海洋国家であり、今回の北朝鮮の核実験問題でも自らは打てる手が乏しいことを暴露している。日本はユーラシア全体に深く関与していく力はない。対象を選ぶべきである。そして、アメリカの真似をして自由、民主主義、市場経済の三点セットを経済援助の条件とするようなことはすべきでない。これらの価値観は強引な力によって強制されるのではなく、ユーラシア諸国国民の下からの声として上を動かすものでなければならない。日本は現在の自由で豊かな社会を、モデルとして示していけば十分なのだ。
我々日本人はこれから未来と過去、そして欧米とアジア、双方向に向かって駆けるのだ。未来とは先端技術、情報化社会、国民国家の変質、過去とは己の歴史を振り返り、日本がアジアで置かれた位置を正確に測定することだ。日本の歴史は、唐による高句麗攻略という国際緊張下で大化の改新が行われたのをはじめ、始終一貫して中国の影の中で推移してきたが、そのことは今完全に忘れられている。東アジア世界が再興隆する中、記憶を急いで呼び覚まさなければならない。それは、過去のアジアへ回帰するためではない。中国と対抗するためではない。アジアの一員としての日本の記憶を呼び覚ましてアジア諸国との距離を縮め、アジアが日本と共に未来へ向かって走り出すよう仕向けるためだ。                                 (了)


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