Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

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2006年11月25日

「意味が解体する世界へ」(草思社)から 日本

 聖と俗と

 アメリカから成田に着くとほっとする時がある。いろいろな民族が入り乱れ大声を出さなければ世を渡っていけないあのアメリカから来てみると,成田の空港は人も少なく新しく清潔で,日本の精神性が感じられるのだ。だがトイレに入ると傍若無人の大声でくしゃみをする中年男がいたりして,その「精神性」とやらもどこかへ吹っ飛び,電車に乗ればそこはもうセンベイとミカンの匂いが漂うおとなしい集団主義的な雰囲気になる。それでも日本の精神的な深さというものは,きっとどこかにあるのだ。どこか離れた別のところに。
 街をいく中学生,高校生を見ていると,やれ援助交際だのやれ携帯電話気違いだのと言われているが,人間というのは変わらないものだなと思う。他人に道を教えたあとはにか
んで去っていく女生徒,集団で楽しく登校する女の子達。デパ トに行けば,琥珀色に肌
を焼いてオイルを塗り髪をブロンドに染め紫色のアイシャド をつけたギャルがエスカレ
タ を駆け降りていったりするけれど,別に白人のような強烈な自我を感じさせるわけ
でもない。暑い日差しの中,グラマ なおばさんが下着姿かと見紛う夏服で尻を突き出し
歩いていくかと思えば,何とか会館と札の下がった小さな公民館から老人達が長唄を合唱するのが聞こえてきたりする。平和,のどかだ。新と旧の俗なるものが入り混じって。
 銀行に行けば,窓口で手続きを終わった中年男が携帯電話でしゃべり始める。相手は自分の妻のようだがなぜか敬語,それも大声で今終えた手続きを長々と説明している。別の
窓口では半分禿げた実直そうな中年男がトラベラ ズ・チェックを一枚々々必死に数え,
金額ごとに並べている。そして窓口では若い女性の係員が透明の口紅を蛍光灯につややかにきらめかせ,明るい顔を客に向ける。今や世界一きれいで自然な日本の口紅。でもどうせ牛とか××の脂かなんかを使っているのだろう。人類発祥以来,基本はそれほど変わっていない。
 この頃の若い男は,おしゃべりなのが増えた。自分の生活のすべてを微に入り細に入りのべつまくなし他人に説明し,そしてその全てはあっけらかんとしていて意味というものがまるでない。ある日,電車にそんなカップルが乗っていた。女の方は日に焼けて,デニ
ムのスカ ト,ズダ袋を下げ,足の爪にはプラスチックの飾りがはりつけてある。男は,
この前ニンジンを使って料理したんだ,インタ ネットで困ったんだ,電車の人身事故で
仕事に遅れたんだといったことを,なぜか気になる良く通る声でぐだぐだしゃべっていく。女はただ相槌をうつだけ。そりゃ,そうだ。生活の断片をただテレビのように「映されている」だけだから何の意見も何の質問もわいてこようがなく,「ああ,そう」とうなずいているしかない。
 電車の席では,二人の中年男が話し込んでいる。一人はどこかの会社の次長風情,一人はその部下。次長とおぼしき男は,太い耳ざわりな声でしきりにしゃべる。「おい,あの件は鈴木が決裁したんだろう? 田中もかんでいるんだろう?」「いや,田中さんは・・・」「まあな」。そして,二人はしばらく黙る。次長は頭の中で社内の人間関係の駒を少し並び変え,耳ざわりな声でまた鳥のようにしゃべりだす。気に入らない者の足を引っ張る,あのいつもの光景。世界中,どこでもいつでも繰り広げられている。でも,日本のはどこか陰湿でねちねちしているようで。
 我々は,日本は平等な高度消費社会を築いたと自慢するが,そのようなものなら今のア
ジアではもう珍しくないどころか,シンガポ ルのように日本の先を行きかねない国さえ
ある。そして都市の住宅の水準はまだまだで,飛行機のスチェワ デスのアナウンスの英
語もたどたどしくなる一方だ。駅前のス パ では「お客さまの声」といって,客の投書
がそのまま掲示板に貼りだされている。「いつ来ても,××がない。もっと商品管理を良くして下さい」,「また肉のパックが開いていた。不衛生極まりない。何度言っても直らない。今度こそ保健所に言ってやる」。我々は豊かさに慣れ,完璧を求めすぎるようになった。
 この頃,東京のタクシ には道を知らない運転手がめっきり増えた。昔なら東京に出稼
ぎにやってきた青年などがそういう手合いだったのが,この頃では「先週,会社をやめまして」という人達が運転手になっている。身につまされはするものの,乗るとあのむっと
するスエた煙草の臭い,ハンドル・レバ のマニュアル・シフト,しかもエンジンがいか
れてチリチリ音を立てるときては,いい加減にしてくれと言いたくなる。
 日本では,というか日本でも,洗練された面と俗な面が共存し,しかも両者は絡み合っ
ている。一方をエリ トが他方を大衆が体現しているというわけでもない。全く普通のお
ばさんが素晴らしい工芸品を作るかと思えば,「何々流」の幹部が人間的にはどうしようもない俗物だったりして,聖と俗は絡み合って伝統を作っていく。
 でも,現代の街を行く昔ながらの祭りの行列といったら,何の情緒も感じさせない。神
輿がア ケ ドの商店街を練り歩いて大通りに出ると,真夏の暑さに神主は白い襟を引っ
張り大きな溜め息をつく。大通りは小奇麗な化粧石で舗装され,祭列はすっかり無機的になったその舗装の上を力なく歩いていくばかり。昔ながらの祭りは今の街にはもう合わない。
 そんなわけで,ある時成田からニュ ヨ クに着くと不思議な安堵を覚えて,自分でも
驚いたことがある。ケネディ空港からマンハッタンのビルを見ているとまるで新宿を見ているようにほっとして,「ああ,ここが現代日本の本家なのだ」としみじみ思ったのだ。あれだけ日本での生活はコンフォタブルだったのに。もしかすれば日本では,若者の茶髪が旧い世代の神経を疲れさせるように,伝統と現代のミスマッチがいつもあり,何かはりつめた緊張を知らず知らずのうち感じているのかもしれない。その点ではアメリカは新しいもの一点張りで,現代日本文化の「本家」だから疲れないのか? 
 でも,マサチュ セッツの田舎の清々しい夏の朝,プル ストの小説を読んでいて,紅
茶に浸されたマドレ ヌ菓子の切れはしから昔の全ての記憶が甦るという例の箇所で,僕
はなぜか小さい頃うちの粗末な木の風呂で入った「菖蒲湯」のことを,その香りとともに思い出す。半分朽ちかけた風呂に束になって入っていた菖蒲。あの花の鮮烈な青さ。あの頃は,貧しい中にも生活にまだ風流というものが残っていた。
 夏,秩父へ出かける。山々が靄に青く連なり,その麓には果てし無い森が続く。武蔵野だ。日本にも原野というものがあって,これが日本の原風景。黄昏。山と野の上に,雲は黄金色に染まって重なる。湿気の多い日本の風景にはいつも靄がつきまとうが,優しくぼやけた景色は平和のなごみそのもののようだった。

 歳をとってくると,外交官でも日本での生活が懐かしくなってくる。若い頃,日本の社会というものは物事と人々の序列が決まっていてテコでも動かせないし,合理的とは言えない不文律が多くて何ともおしこめられる気がしたものだが,歳をとってそれなりに尊敬されるようになると,日本のいい所ばかりが目について帰心矢のごとしとなる。住宅は相変わらず狭いけれど,日本はスカンジナビアのような落ちついた暮らしを実現しているのだから。
 でも休暇で帰ってくるたびに,日本は僕には違って見える。ロシアから日本に帰ると日本人はなべてとてもおとなしく見え,これでは日本は早晩世界の狼どもに身ぐるみ剥がれてしまうんではないかとさえ思う。ところがアメリカから帰ってみると,あの猥雑で紙屑の散らばったアメリカの町並みに比べて日本がなんとも手入れが良く,皆顔つきも同じで心の疲れが癒される。

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