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論文

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2005年5月 5日

遙かなるシルクロード

 シルクロード、アレクサンドロス大王、ヘレニズムーーー私たち日本人にとってこれらの言葉は、なぜかヨーロッパへの憧れをかき立ててきた。中国をいったん出てしまえば、文明の地ヨーロッパまでは砂漠がはてしもなく広がり、小さなオアシスのほとり、椰子の木に駱駝をつないで隊商がまどろんでいるだけだーーーこんなイメージが私の頭にも無意識にあった。

 だが、現実のシルクロードはそんなものではなかった。アレクサンドロス大王は進んだギリシャの先兵として遅れたペルシャを文明化したことになっているが、真実の彼はペルシャ文化に圧倒されているのである。山奥の地マケドニアに突然勃興したアレクサンドロスは、ギリシャ諸都市にしてみればジンギスカンのように見えただろうし、ペルシャはペルシャで豊かな農耕文明を築いてギリシャ人を傭兵として雇っている程だった。アレクサンドロスは今のタジキスタンまで兵を進めているが、それはそこまでペルシャの文明と富が及んでいて征服するに価した、ということに他ならない。

今でもウズベキスタンのブハラには、アメリカで今流行の「モール」に似たショッピング・アーケードが残っている。シルクロードの往時なら、ここには当時のブランドものの景徳鎮の陶器とかが店に並び、町はずれにはトラック野郎ならぬ「ラクダ野郎」がショーを見ながら酒をあおるナイト・クラブの類もあったと言われる。

 成田からウズベキスタンへの直行便は、新彊のタクラマカン砂漠の上を何時間も飛んでいく。そしてしばらくすると、夏なお雪をいただく天山山脈が雄大なうねりを見せる。ここの氷河が融けた水は、東に行けば黄河、揚子江、西に行けばアム河、シル河となり、それぞれ中国、中央アジアの文明を育んだ。中央アジアは砂漠だ、と誰でも思っているが、実は広大で豊かな農耕地帯を有する。そこにはソグド、ペルシャ、アラブ、モンゴル、トルコといった諸種族が古来混住し、一つの文明を作り上げてきた。その文化はイスラム教にも支えられ、今でもモロッコ、トルコといったヨーロッパの周縁地帯にまで及んでいる。

 シルクロードは、このユーラシア大陸西半分を覆う一大文明と中国を結びつける通商路だった。中世の西欧は文明の中心地ではない。学問・文化、そして工芸品は中国やアラブ、そして中央アジア諸国から流入していたのだ。

サマルカンドが古い町であることは誰でも知っているが、今の町並みは十六世紀のチムール帝国以降のものである。この地方がソグディアナ王国と呼ばれて隆盛を誇った時代の旧サマルカンド(アフロシアブと呼ばれていた)は、ジンギスカンに完膚なきまで破壊され、今のサマルカンドの隣に広がる土塁と化した。その土塁の上に今では博物館があり、その一室にはある貴族の屋敷跡で発掘された「アフロシアブの壁画」が保存されている。

 所々はげ落ちたものではあるが、そこに用いられたどこか淡く柔らかい赤や青の色彩は、ギリシャのクレタ島、あるいはイタリアのポンペイの遺跡から出てきた壁画を想起させる。そしてそれは、今回展示されているペンジケントの壁画―――このペンジケントは実に中央アジアのポンペイとも言える大変な遺跡なのだがーーーにも明らかだ。

 だが、その後領地の奪い合いに終始した中央アジアは、歴史から取り残された。明朝とモンゴルの対立は、シルクロードに最後の打撃を与えたことだろう。だが十九世紀以来ロシア、そしてソ連に支配されてきたこの地域は、ソ連崩壊とともに独立を回復し、世界での自分の地位を確かなものにしようとしている。

 タシケントやアルマ・トイなどの大都市のたたずまいは近代的だし、チャドルをつけた女性も見かけない。そしていろいろな種族の血が混ざりエキゾチックな魅力をたたえた中央アジアの女性たちは、夏ともなればその美しさを惜しげもなく見せびらかす。

 「イスタン」(ペルシャ語で国の意味)を語尾に持つ国々は、異質で危ないとすぐ思われるようだが、そこに住む人々は気のいい普通の人間である。イスラム教は不気味なものと思われがちだが、イスラム過激派は中央アジアに居場所を持たない。だから、イスラム教を信ずるという人々は我々と違わないし、価値観もそれほど変わらないのである。この展覧会が中央アジアについての古いイメージをうち破り、無限の可能性を持つ中央アジアに向かって我々の心を開いてくれたとしたら、そんな素晴らしいことはない。

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