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論文

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2006年1月22日

ロシアはどこへ行くのか?Ⅳ - 二枚腰のロシア外交、そして日本は?

 外交はチェスに似ている。焦ったり激したりすることなく盤を見つめ、四手も五手も先の盤面を思い浮かべては布石を打つ。ある時は有利に見えた局面が、相手の一手、あるいは自分の失敗で一気に引っくり返ることも珍しくない。そしてロシア人は、昔からチェスがうまい。

 モンゴルに抑えられていた中世はもちろん、近世のピョートル大帝以後のロシアは領土が縮小するという憂き目を何度も見てきた。だがその度に、ロシアは大帝国としての版図をいつの間にか回復してきたのである。近くは1918年、第一次大戦から抜け出すために革命直後のロシアはドイツ、そしてその同盟国と単独講和を結び、ポーランド、ウクライナ、バルト海沿岸を失った。だがその後ドイツの敗戦でこの条約は無効になったし、反抗する民族には赤軍を送って再統合し、1922年にはソ連の樹立を宣言したのである。また更に近くは、1991年にソ連が崩壊してから15年たった今、バルト諸国を除く旧ソ連諸国の多くは、西側が真剣に助けようとしなかったり、自助能力に欠けていたりの原因で、モスクワの懐に再びじりじりと手繰り寄せられつつある。

 数年前、ソ連時代からのジャーナリスト、ボーヴィン氏が亡くなった。彼はまだブレジネフの時代から権力の周りを自在にとびまわっては、国の政策を反帝国主義的な方向へ向けようとしてきた偉大な、それでいて子供っぽい悪戯心をいつまでも残していた人だった。イスラエル大使まで務めたが、外交官のしかめつらしい集まりを嫌い、いつもボヘミアンの集まりにカジュアルというか殆んどみすぼらしい格好で出ていたのである。彼は北方四島返還論者だったのだが、愛国者でもあった。善人だったがお人好しではなかった、ということだ。ある時彼は、四島の話をしかける僕を脅かすように皮肉っぽく言った。「お若いの。ロシアは今、皮を脱いで気息奄々としている蛇のようなものなのさ。見ていたまえ。そのうち必ず、もっと大きい蛇になって動き出すから。」と。そう。ロシアの外交はちょうど一年前くらいに底を打った。それ以来、ロシア外交は右肩上がりにじりじりと値を上げている。石油価格のマジックがきかなくなった時、それはまるでシンデレラであったかのように、本当の国力をさらけ出すかもしれないが。

試行錯誤のエリツィン外交

 1991年8月クーデターが失敗してエリツィンの力が急上昇すると、西側はそれまで嫌っていた彼ににじり寄る。西側からモスクワにやってくる政治家達はまだ居残っていたゴルバチョフ・ソ連大統領とはただお印のように会うだけで、本当の訪問目的は真に権力を持つエリツィン・ロシア共和国大統領と渡りをつけることだった。偽善的だ。だが、そこは外交。権力を持つ者と話し合わねばものごとは始まらない。

 エリツィンも、欧米の支えを必要とした。彼は共産党をたたき改革を叫ぶことで国民の人気を得た政治家だからだ。エリツィンは、クーデターの時どっちつかずの態度を取った古手外交官達を嫌い、彼らには当てつけがましく若手外交官コズイレフを外相に任命すると、まず欧米諸国に行脚をさせる。コズイレフは初めてのうち、堂々としたエリツィンの前に出るとおどおどして口もきけないほどだったらしいが、好きなテニス・ラケットをカバンに忍ばせ、ほとんどいつも外国を回っているようになった。

 だがアメリカは、弱くなったロシアの足元を見透かしたかのように、ロシアの内外の政策にいろいろ文句をつけてくる。外交では海千山千のヨーロッパ諸国は、それまではソ連に自由になれと言ってきたにもかかわらず、いざロシアが経済自由化に踏み切り、その結果窮乏化すると、大量の難民が出てくるのが怖くなった。「皆さんと同じ民主主義になったのだから、ロシア人の自由な入国を認めてください」というロシアの要求を慇懃無礼にはねつけたのである。ヨーロッパ諸国には、文明、道徳の面でロシアのはるか先を行っているという自負があるから、ロシアに「俺はヨーロッパの一員なんだ」と言われても、鼻白む思いでいたのだろう。

 エリツィンには、ロシアは大国なのだという意識が強く、西側世界の仲間入りをするに当たっても、その世界のルールを簡単には受け入れないところがあった。ロシアに都合の悪いルールはいつも、「ロシアは大国だから」という理由で特別扱いを認めさせようとしたのである。それは、西側諸国から見れば夜郎自大な行為に見えたが、「国際的なルールなどどうせ、アメリカの都合でどうにも変わるものだろう。ならば、大国ロシアが同じことをやって何が悪い」と思っているロシア人にその思いは伝わらなかった。こうして彼は、G7先進国首脳会議にも割り込んでしまったのである。

 そういう意味で、エリツィンの外交は二つの幻想に貫かれていた。「自由と民主主義」という幻想、そして「ロシアには特別扱いを」という幻想にである。

 日本も含めた西側は、そんなロシアを随分助けた。これら諸国の政府に派遣されて、「市場経済のノウハウ」をロシア人に教えにやってきた外国人は、1993年、94年の頃には引きも切らず、ロシア政府の役人達はやたら長時間のセミナーに連日出されるのに青息吐息、「わかりましたよ、あなた達の言いたいことは。市場経済が優れていることについては、耳にたこができるほど聞きました。ただそんなすぐには市場経済はできないのです。ロシアを本当に助けたいと思うなら、こんなセミナーはいい加減切り上げて、私達に仕事をする時間を下さい」という趣旨のことを我々に言った。

 ロシアが国際収支の危機に瀕した時は、IMFや西側が潤沢に資金を供給した。だが問題は、こうした援助はロシア国民の目に見え、手で触れられるものではなかったことだ。日本や西側の援助物資が安く放出されたりすると、大衆は外国への熱い感謝の念をテレビ・カメラにしゃべったりしたが、そんなことはじきに忘れられた。僕も終戦間もない小学校の給食で出たあの焦げ臭いミルクのために、アメリカさんに感謝しようとは全然思わない。それと同じだ。

 ロシアの大衆は「お上からもらう」ことに慣れている。共産党というお上は駄目になったが、今では西側という旦那がお上になった。大層金持ちだそうだから、そのうちきっと何でもくれるに違いない。そう、彼らは思った。だが当時、欧米の経済は不調だった。それに国際収支の赤字克服のための融資などは、国民が手で触れるものではない。だからロシア国民は、西側に裏切られたと思った。ソ連共産党が「明るい未来」という言葉で何十年も大衆を騙してきたのと同じことを、西側は「民主主義」とか「改革」とかいう甘い言葉でやろうとしている、生活は良くなるどころか苦しくなるばかりだ―――彼らはこう思った。裏切られた西側への期待は、逆恨みとなった。「彼らは偽善者であるだけでなく、俺達を軽蔑しやがる。赤ん坊扱いにして、自分達のいいように使おうとしている。」こんなところが、当時支配的な感情だったろう。

国益追求、等身大の外交―――プーチン外交初期

 プーチン大統領は、ロシア外交から幻想を取り除いた。西側に対して懐疑的になっていた国民の気持ちも受け、自由というイデオロギーよりロシアの国益を冷静に見据えて、それを追求する姿勢を見せるようになった。また低い経済力には不相応な大国的政策も、彼は放棄した。そのためにキューバやベトナムにあったロシアの基地は引き上げられた。

 その間も、ロシアへの国際的評価はどんどん下がっていく。2000年、原子力潜水艦クールスクが演習中、自爆して沈没し、ロシア海軍が自力で乗組員を救えなかったことや、チェチェン戦争を激化させて政権浮揚をはかったやり方が、それに拍車をかけた。2001年発足したブッシュ政権はロシアとの関係は後回しにする姿勢を見せ、やっと実現した首脳会談もかつてのような脚光を浴びることはもうなくなった。

 西側は平気でロシアを国際世論の前で辱め、内政に介入するようにさえなる。ロシアと民族的に近いユーゴの面子を踏みにじる形で、西側がコソヴォの独立を支持してユーゴを空爆したこと、ロシアを仮想敵としているNATOがバルト三国など旧ソ連諸国にまで拡張したことは、ロシアのリベラルな勢力までをナショナリステッィクにさせた。マルクス以来、「アジア的停滞」と称して蔑視されてきたアジアは、ロシア人がテレビで見ていてももはやロシアの数10年先を行くように見え、就職難も加わって鬱屈した思いを持つロシア人青年は遂にナチの腕章をつけたスキンヘッドとなって、街頭のアジア人や黒人を襲うようにさえなった。

上げ潮のロシア外交

 9月11日のテロ事件以来、自由と民主主義を広めることがアメリカの安全保障を高めると見たブッシュ政権は、旧ソ連諸国にも同じ政策を取った。アメリカのNPOは「野党」指導者と言われる連中に資金を与え、正しい選挙のやり方など「民主主義のノウハウ」を指導し始めた。それは現地政権の目には内政干渉としか見えなかったが、これらNPOが共和党や民主党の息のかかった団体である場合、現地のアメリカ大使も何も反対できなかった。アメリカ政治におけるそのような権力の相対性は、専制しか知らない現地の指導者には全く理解できず、すべてはアメリカ政府の一貫した戦略の下にしかけられていることと誤解した。これら諸国では、「アメリカ国務省」という言葉は今や、脅威の代名詞のように使われている。

 こうして2003年11月にはグルジア、2004年12月にはウクライナ、2005年3月にはキルギスの「腐敗した専制政権」が、アメリカのNPOに煽られた大衆デモの力で倒され、代わってそれまでは野にあった「民主主義勢力」が政権の座についた。プーチン大統領が自ら梃入れしたウクライナのヤヌーコヴィチ大統領候補が敗れたこと、その後わずか3ヶ月でキルギスのアカーエフ政権が倒れたことはクレムリンの自信を喪失させ、「次はロシアの番だ」という声がマスコミに満ちた。ロシアは民主化を進めようが保守化しようが、国力が低下している中ではいずれにせよ西側に押しまくられる運命になることを自覚して、一時は途方にくれたことだろう。だがこの時、ロシア外交という株の相場は底を打っていた。転機を告げたのは、ウズベキスタンである。

 ウズベキスタンのカリモフ大統領は、2001年9月11日のニューヨークでのテロ事件の後、清水の舞台から飛び降りるつもりでハナバードの空軍基地をアメリカ軍に使わせる決定をした。だがその時彼が期待しただろう「アメリカの大型経済援助」はやってこなかった。彼は、自力でIMFの8条国への移行(自国通貨の交換レートを統一して外貨との国内交換性を実現すること)をせざるを得なかったのである。当時、次第に財力をつけつつあったロシアの企業に目をつけた彼は、次第にロシア寄りへと外交の軸を傾け、2003年末にグルジアのシェヴァルナゼ政権がアメリカのソロス財団の活動で転覆されたと吹き込まれると、アメリカへの警戒心を露にするようになった。それは、その後のウクライナでの政権交代、キルギスでの政変、そして2005年5月アンディジャンで武装勢力を制圧する際数100人の市民が殺された事件の調査をさせろ、させないという経緯で決定的となり、2005年の6月には遂にハナバード基地からの米軍撤退要求をつきつけた。

 そしてアメリカ軍は、素直に出て行った。但しその屈辱は長いこと忘れないだろう。一度進出したら梃子でも出て行かないソ連を相手にしてきたウズベキスタンのエリートは、東西のメンタリティーの差を初めて認識し、後から後悔するかもしれない。現在のウズベク政権では、アメリカ・カードを再度使うことは難しくなった。

 ともあれ2005年の春以降、碁盤の黒が白に返ったように、ロシア外交は急に上げ潮になった。エネルギー価格が高騰した今、西側や中国の首脳がプーチン大統領を見つめる目には、「石油を売ってくれ」とありありと書いてある。

 これまでロシアに対して強く独立を主張してきたウズベキスタンがアメリカと手を切って、頼れる相手はもはやロシアしかないという状況に陥り、フランスでの国民投票でEU拡大も頓挫した。「民主主義革命の成功例」と称えられたグルジア、ウクライナ、キルギスでは、民主主義どころか出口の見えない権力・利権闘争が起きている。僅か半年の間にロシアをめぐる国際情勢は、大きく変わってしまったのだ。

 国力が弱った中で、ロシアはチェスのような粘り腰の外交を展開してきた。北朝鮮でもイラクでもイランでも、問題が起こるたびにロシアはその存在を世界にアピールして見せた。それは殆んどの場合、国連安保理理事会での拒否権を陰に陽にちらつかせてのもので、「元手のかからない」外交だった。世界第2の経済力を政治力に転化できず、大きな問題が起こるたびに国内で起こる様々の声を調整しきれず独り相撲でこけてしまう感のある日本とは、キャリアが違うのか、それとも議会、マスコミが弱いから外交をやりやすいのか。もっともゴルバチョフ以降のロシアは特に主体的な戦略もなく、戦略を実行できる力もなく、ただ降りかかる火の粉を払う対症療法でやってきたのだ。それが今は、「ひょっとしてまた俺も」という時なのではないか。石油価格が下がれば全ては砂上の楼閣のように崩れ去ることには、目をつぶって。

外交に自信を深めるプーチン大統領と日露関係

 日中も日韓関係も難しいが、日露も歴史の経緯と両国民の間の心理的なねじれから、複雑骨折のようなことになっている。元々ロシアは日本にとって、白人植民地主義勢力の先鋒みたいなところがあって、日本自ら朝鮮、満州を植民地にしてこれに対抗する、というのが戦前の基調だった。明治のごく初期、欧米を経てロシアに赴いた岩倉具視視察団は、ロシア帝国の専制性と後進性を直ちに見破り、日本として参考にするところ小とした。幕末からロシアに行っていた日本人留学生も、帰国してからは用いられることなく、欧米に留学した者達の華々しい経歴は歩めなかった。ロシアは、白人への劣等感、恐怖感をカラ元気で払いのける日本人の格好の材料になったのである。

 一方ソ連は、戦前の日本をドイツと並ぶ潜在的脅威として警戒したが―――スターリンによる大粛清の時も「日本のスパイ」という嫌疑は致命的なものだった―――、ロシアのニコライ2世がドイツのウィルヘルム2世への手紙で日本人を東洋の猿と名づけたような意識は根強く残った。ほうっておけば、日露は互いにいつまででも警戒し、軽視しあっていることだろう。

 人間は受けた屈辱、被害はなかなか忘れない。だが他人に屈辱や被害を与えたことは、わりと早く忘れてしまう。相手の羽振りが良くなったりしていれば、なおさらそうだ。我々は、戦前の韓国、中国に与えた屈辱と損失を忘れがちだが、韓・中両国は将来への戒めとしても、それを忘れない。ところが日露関係はもっと複雑なことになっている。両国とも、相手から屈辱や被害を受けたと考えていて、相手にそれを与えたことは忘れているからだ。日本は、ソ連が日本との中立条約に違反して満州に攻め込み、その結果60万人もの日本人将兵・民間人を抑留して5万5千人もを死なせたことを忘れはしない。そして、戦後北方4島を占領したまま国際法上の裏づけもなく居座っていることも忘れていない。ところがロシア人は、我々が言い立てれば言い立てるほど、ちょうど日本人が今の中国や韓国に対してそうであるように鼻白み、「そんな昔のことを言うのなら、日本の関東軍が満州からソ連をうかがっていたせいで、我々は西部戦線に十分な兵力をさけず、その結果大損害を喫したのだ。その始末をどうつけてくれるんだ。」と反論してくる。彼らも日本に対して被害者意識を持っているし、彼ら自身もスターリンの弾圧で大変な被害を蒙った、日本だけがスターリンの被害を受けたのではない、と思っている(もっとも日本は別にソ連の一部ではなかったので、これは奇妙な論理だ)。そして日本は1918年、まだ誕生間もないソ連のシベリアに出兵して内政干渉しているのだ。

 戦後、日本は軍隊そして諜報機関を持つことを許されず、国民国家としてのグローバルスタンダードから外れた存在になった。軍事力を後ろ盾に自分の意志を弱小国に押し付けるのではなく、世界全体の安定と発展のためにその経済力を使うのだぞと外国にも言われ、自分でもそう思い込んでやってきた。そして日本は、国際的な取り決めや枠組みを自ら創造するというよりは、既存の規則や枠組みを守り、発展させていく方が得意である。

 だが、ソ連のあり方は日本とは正反対だった。ソ連はその政治力・軍事力を背景にその意志を弱小国に押し付け、世界中で自分の利益を増進させることを主眼に外交をやってきた。そして国際的な取り決めや枠組みは、自国の都合で変えようとしたのである。そうしたソ連の目に日本は米国の属国としか見えず、日本人の目にソ連は国際的規範を守らずにごり押しすることを恥と思わない国に映ったのである。日本は世界第2の経済大国としてソ連国民の物質的生活水準の低さを嘲笑い、ソ連は日本が対米従属の政治小国だとして軽視した。

 だが忘れてならないのは、両国の関係は相互蔑視ばかりではないということだ。ロシアのインテリは昔から芥川龍之介や安部公房に魅せられていたし、80年代東京で特派員をやっていた故ツベートフ氏は「先端技術・科学技術立国の国、未来の国日本」というイメージをロシア人一人一人の心に刷り込んだ。そして首脳の往来が頻繁になった橋本総理・エリツィン大統領時代からは、生身の日本人の顔も彼らに見えるようになった。野蛮なサムライか、なよなよしてスポーツでは負けてばかりいる弱い男どもしかいないと彼らが思っていた日本人が、実は高度の道徳性と男らしさを持った民族だということがわかり、日本人は友人だということになった。今やロシアでは日本文化は立派なメジャー扱いで、北野武や村上春樹はブランド・ネーム、スシ・バーもモスクワだけで百軒を超えている。

 ロシアのビジネス関係者の日本観も、より自然なものに変わってきた兆候がある。僕のロシアの友人に言わせれば、ついこの間まで「ロシアの実業家はワールドカップを観戦しに日本に行っても、日本の大企業と商談をしようなどとはハナから思っていなかった。彼らにとって日本はエキゾチックで不可解な国にとどまり、ただサッカー観戦と寿司の賞味しかしなかった」という感じだったらしい。日本製品の高品質は知れ渡っていたが高価格なために、消費財は韓国製、生産財はドイツ製が好まれていた。しかし最近、日本製品は競争力を回復しつつあり、「ロシアの実業家はやっと、日本をビジネスの相手として真剣に考え始めた」ということだ。ロシアの生産設備の老朽化を考えれば、日本企業にとってはいい商機だろう。日露貿易は上昇傾向にあり、機械・設備類の輸出引き合いも増えている。日本との関係で利益を得るロシア人の数を飛躍的に増やせば、ロシアにおける日本の重要性を上げることができる。国際関係は理屈では動かない。利益と打算で動くのだ。西欧諸国はロシアに対して大きな発言権を持っているが、それは人種的・文化的な親近性もさることながら、「利益を上げさせてもらっている。一緒に仕事をしている」という意識がロシア人に大きく働いているからだ。

 一方、日本人はロシア、ロシア人を相変わらず欧米より劣ったものとして蔑視するのを止めない。この前僕がモスクワから帰るアエロフロートで、ある中年婦人が苛立ちを浮かべた大声で隣の友人にまくし立てていた。「私、かっかしてるんだからね。ドイツに行った時は聞いてもらえたのに、なんでここでは駄目なのよ。」  そして、ロシア人のスチュワーデスに殊更つっけんどんな態度で口もきかない。そういう時のロシア人は、今日ではもうひたすら申し訳ながるだけで可哀相だ。ロシアは長い深い歴史と文化を持つ国だ。ろくな耐久消費財を作っていないから、という理由だけで軽視するべきものではない。

 シャラーポヴァとかチェブラフカのように、ロシアも突然人気を呼んだりするが、日本人の対ロ観、対ロシア人観は、ソ連時代のものを根強く引きずっている。「怖い」、「信用できない」、「閉鎖的で公的見解しか言わない」、「飲んだくれで勤労意欲に欠ける」、こんなところだろう。だがロシア人は普通、リスクや情報を分かち合って協力すれば、誠実で忠実な仲間になる。だが権力が上部に集中している彼らの社会では、いくら約束したことでも上司に駄目と言われればどうしようもない。その時、「ロシア人は信頼できない。」と言って匙を投げてはもったいないのもいいところだ。ソ連末期からロシア人も開放的で、人との付き合い方もヨーロッパ式で日本より洗練されていることも多い。だから問題が起きれば担当レベルで胸襟を開いて話し合って問題点を整理し、双方で自分の内部を調整して、あとはトップ・レベルでの交渉にもって行けばいいのだ。

 北方領土問題は、こじれにこじれている。1997年クラスノヤルスクでの橋本・エリツィン会談以来続いた解決へのプロセスは停滞し、双方とも相手にその責を帰そうとしている。今は仕切りなおしの時期なのだ。石油の高価格でロシアには資金がだぶついている。そして既に述べたように、ロシア外交も上げ潮だ。ロシアの立場は90年代とは比べ物にならないほどいい。だから交渉プロセスを再び始動させようと思っても、その代価は日本にとって大き過ぎるものになるだろう。今は無理することなしにロシアとの関係を適度に維持していけばいい。そして今度は日本からではなく、ロシアの方から領土問題解決のイニシャティブを取らざるを得ない日が来るまで待つのだ。

 それでも、ロシアと今やれることはいっぱいある。東アジア首脳会議にロシアを入れることは、ここにアメリカも引き出す上ではいい材料になるだろうし、そうなればもっと総合的な形で東アジアの安全保障を話し合える場がここにできるかもしれない。ロシアの兵器が東アジアに野放図に輸出されることに歯止めをかけることも可能になるだろう。今年のG8先進国首脳会議はロシアで行われる。日本はロシアでの民主化、人権問題、改革について歯に衣を着せずに発言し、それを外交上使うことができるだろう。他方、東シベリアでのエネルギー開発については、十分な埋蔵量が確認されていないものに対して日本から叩頭外交を展開する必要はなかろう。風林火山、今は王を狙う局面ではない。

 日本には、 ロシアは中国が怖いから日本に近づかざるを得ないだろう、と考える人がいる。僕もそう考えた。他ならぬロシア人にも、「中国は、いつかは抑えられなくなる。ロシアは今は中国との関係を良好に維持することで、米国、日本に対する当て馬としているが、十年もたてば中国にあごで命令される(dictate)ようになりかねない。いや、アメリカでさえ、中国を抑えられなくなる日が来るだろう。」と言う者がいる。ならばロシアに対して中国カードを使えるかと言うと、そこはその友人が言うように、「ロシアは東アジアの動向には無関心である」という落ちがついてしまうのだ。ロシアは、十年後、二十年後の中国、中露関係がどうなっているかについて、考えるのを無意識に避けている、つまり思考停止している感がある。それに、現在の中露関係は日中関係よりはるかに良好なのだ。ロシアに出かけて「中国が怖いでしょう」と言えば、「あなたの方こそもっと怖がっているでしょう」と言われるのが関の山だ。

将来への希望を持たせるもの

 この前モスクワに行った時、若いベンチャーのコンサルタント会社社長とだべる機会があった。彼は大学卒業以来、モラルが崩壊し命の危険さえあったロシアのビジネス界を忌避していたが、情勢が落ち着いたしそれなりの需要も出てきたと見て、ヴェンチャーを立ち上げたのである。日本関係が当面の仕事だが、彼は中国への進出も考えた。7ヶ月かけて中国市場を研究すると、中国の物作りの中心になっている南部とロシアの関係が未だ薄いこと、ロシアに輸入されているのは主に安手の製品であり、中国から西側に輸出されている中級・高級品はあまり輸入されていないことに気がついた。そこで最近、彼は一人で中国に出かけ、南部を中心に回ってきたのである。

 現代のロシア人学生は、その多くが役人になったり外資系企業で働くことを夢見る安定志向であるのに対して、リベラリズムが最高潮に達した80年代後半を知っている30代後半の者達には、まだこのようなヴェンチャー志向が残っている。彼は言った。「ビジネスについては随分規制緩和が進みました。法制面での整備は、数年前と比べものにならないほど進んでいます。これで役人さえ邪魔しなければ・・・。汚職がひどいのです。」

 もう一つ、将来への希望を感じさせる一筋の光を見たのは、街を歩く妊婦の数が増えたことだ。生活が厳しく治安も悪かった90年代前半は、街で妊婦や乳児を見かけることはほぼ皆無だった。今回は、かつてないほど妊婦を街頭で見かけたし、懇談したロシア人も昨年あたりから妊婦や乳児を見かけることが顕著に増えたと言っていた(もっとも死亡数が出生をはるかに上回っているため、人口減少は止まっていない)。オイル・マネーに支えられた気だるい安定は、出生率向上の形で将来への本当の希望をもたらしつつあるのかもしれない。

 「ロシアの大学生は目先の利益指向が強くニヒルになった、価値観が崩壊した90年代に幼時を過ごした連中だから駄目なのだ、彼らは『失われた世代』なのだ」、という声も聞かれる。そう言えば、シェレメチェヴォ空港のパナソニックの広告はなんとロシア語のつづりが間違っていて、「夏の天気」ではなく、「ニャツの天気」と書いてあった。大学で講演してみても、学生の水準は確かに下がっている。

 他方全員がそのようになってしまうことはあり得ず、「あの苦しい時代においても、家庭での躾は別に変わらなかったのです」という言葉を裏書きするような真面目な青年ももちろんいる。リベラルな青年達やマスコミ人達がたむろする、本屋兼喫茶店兼食堂のO・G・I・という店も覗いてみたが、嬉しいことに3,4年前と何も変わらないボヘミアンな雰囲気だった。こうした連中を相手にスターリン的な恐怖政治を敷こうとしても、それはそんなに簡単ではないだろう。

 で、結局、ロシアは停滞と変化の芽をいつも共に抱えながら、これからも何とか生きていくだろう、というのが、この前のモスクワ訪問での月並みの結論だった。僕の乗った飛行機は、北に向けて飛び立つ。この方向では、モスクワはもう飛行機から見えないだろう。僕が青春の一時期を過したあの街とも、当分おさらばだ。霞がかった大気の下、白樺の森、草地、湖が見える。そして段々遠くなり、最後には雲海の下に消えていく。今まで雲に隠れていた太陽が、明るい光を飛行機の中にまで投げかけてきた。
(以上)


(なお、ロシア社会の現状については筆者の著書「意味が解体する世界へ」〔草思社〕、90年代のロシアの情勢については筆者の小説「遥かなる大地」[筆名熊野洋、草思社]をご覧下さい)

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