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日本・歴史

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2019年2月28日

天皇譲位と神社仏閣

(これは、27日発行したメルマガ「文明の万華鏡」の一部です。江戸時代の天皇家の菩提寺を、泉桶寺と誤まって表記しましたので、泉涌寺に修正しておきました。無礼の程お許し願います)

 新天皇が即位されるに際しては、ミーハー的、或いは短視眼的なことしか話題になっていないが、明治以来の「天皇制」についての積年の問題を整理、解決していく上での節目なのではないか。この作業をしておかないと、天皇制はこれからの世代から浮き上がったものになってしまう。

 まず大きな問題としては、天皇は終生、そして24時間公人であり、「人間である」ことのできる時間がほとんどない、ということがある。筆者は在外公館の館長として数年過ごしたが、自分の家の中にいつも他人がいるというのは、それだけですごい精神的重圧を感ずるものなのだ。そして自分はスウェーデンに在勤したことがあるが、国王は自分でドライブしたり、外国で町のバーにお忍びで繰り出したり、普段は郊外のくつろいだ城で過ごしていたりで、「ライフ・ワーク・バランス」がかなり取れていた。

そして天皇は、いつもその権威を利用される一方で、権限は「あてがわれる」範囲にとどめられる。そしてそのあてがわれた任務だけでも、負担は大変なものだ。会いたくもない無数の者と会い、見たくもない展覧会に出かけて1つ1つ詳しい説明に耳を傾けるふりをしては、感心したふりをしないといけない。

高野孟氏のニュースレターで知った「新天皇と日本人」という本は、今の皇太子殿下の学友の小山泰生氏が書いたものだが、このあたりの問題を詳細に指摘、もうちょっと意味のある職務にするには、憲法第4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる」を解釈し直し、国会が採択した法案が憲法に反していると思われる時には、憲法第99条の憲法擁護の義務をたてにとって、天皇が署名しないことにしてもいいのではないか、としている(48頁)。日本にはない憲法裁判所の役割を、天皇に期待するという趣旨である。

天皇制の改革を考えるのはいいが、この憲法裁判所化は危険だ。天皇をめぐって、幕末のような取り合いが始まるに決まっているからだ。この時天皇は、国をほんわり一つにまとめる存在ではなくなって、鋭く分裂させる存在になってしまう。

 もう一つの問題は、天皇と神道の関係にある。明治維新は、薩長が天皇をかついで成就した。薩長は自分達の権力を正当化するために、天皇をことさら祭りあげた。江戸時代には仏教の泉涌寺を菩提寺にしていた天皇家だが、明治政府は土俗の先祖・英雄信仰であった「神道」を国家イデオロギーに昇華、教育勅語を発布して、天皇を神道の最上格に祭り上げたのだ。

 天皇家に伝わった祭祀にも役人が介入し、その内容を変えたと言われる。明治41年の皇室祭祀令で、明文化されている。神道の祖神は天照大神とされているが、紀元前1世紀頃に比定される崇神天皇は、日本書紀によればこの先祖伝来の神を宮廷の外に「追い出し」、最後は伊勢神宮にまで追いやっている。その後天皇で伊勢神宮に参ったのは、持統天皇の後は実に1000年後の明治天皇が初めてなのである。その天照大神は、宮内庁のホームページを見ると、宮中の賢所に皇祖として祀られている。崇神天皇の時の扱いは、どうけりをつけたのだろうか。

 なお現代の神社は、大所は別にして、宮司を務める者が不足し、財政的にももはや成り立たない。そこは仏寺も同じで、1000年以上にわたって地域のコミュニティと文化を支えてきた制度・施設が危機に瀕しているのだ。後継者のいないところは、国庫補助金づきで地方自治体が引き取り、公園等の公的施設にしてもいいのではないか?

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