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日本・歴史

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2018年9月 1日

明治維新――忘れられた仕掛け人 水戸学と「烈公」=徳川斉昭

8月初めの炎天下、水戸に日帰りしてきた。ここは一度も行ったことがなく、幕末に何かしげしげ名前が出てくる割には、桜田門外で井伊直弼を殺したあと鳴かず飛ばずになってしまった印象があるので、いったいどういうところなのか見に行こうと思った次第。

こういう時は、地元の歴史博物館に行くと、手っ取り早く全貌がつかめる。で、真っ先に茨城県立歴史館に行った。他に勉強したことも合わせると、要するに水戸は尊王攘夷のイデオロギーの発祥地。これが長州の吉田松陰(水戸に来ている)等に受け継がれたのが一つ。だがいわゆる水戸学(儒教の一派)について言えば、それは水戸徳川二代目の光圀が着手した「大日本史」編纂における基本的哲学として、当初から自己矛盾を抱えていたということだ。それは尊王敬幕という言葉で表現されているが、要するに「大日本史」は徳川の治世は天皇に授権されたものとして正当化することにあったので、究極的には江戸幕府擁護、天皇の権威の下、江戸幕府の力で攘夷(植民地主義列強への対抗)をしようというのが、水戸の限界であったのだ。

1860年桜田門外の変の時、水戸は薩摩と結託して体制内クーデターをはかったようだが、それは島津斉彬の死去で潰える。それから半年して徳川斉昭が急死すると共に、水戸は血で血を洗う人事抗争にはまっていくのだが、江戸幕府末代の将軍慶喜は、斉昭の息子である。だから天皇の権威を使って徳川治世を正当化する「大日本史」を編纂した水戸藩は、その天皇の権威を薩摩・長州に奪われて、歴史から消えて行ったのだと言える。

因みに水戸学は、後醍醐天皇の南朝を正統と断じ、彼の統治哲学を継承している。それは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、公家も武家も排して自らの親政を樹立するために編み出したもの。要するに天下の臣民はすべて天皇に属しており、天皇の命令を受けるというもの。これは明治政府に受け継がれ、教育勅語の思想、つまり戦前の国家主義思想となっている。日本に絶対主義を樹立する上で有用な思想であったが、その次の段階の近代民主主義国家を作る上ではそぐわないものとなる。近代民主主義国家は人間一人一人に権利を与え、選挙で選んだ政治家が構成する議会、そして議会の選ぶ首相が統治の要となるからである。

とまれ今回は、これまでよく知らなかった徳川斉昭という人物のスケールの大きさと毒気に、随分当てられて帰って来た。

歴史

水戸はもともと、磐城の国の一部。このあたり、前方後円墳も多いので、大和との関係も深く、経済力もあったのだろう。近くの鹿島神宮は千葉の香取神宮と並んで、皇室からも崇拝される老舗。伝えでは神武元年創建だそうで、もともとは大和朝廷による東北地方征服のための前哨基地であったようだ。また、藤原氏の前身、中臣氏がこの地の出身であった可能性があり、現に藤原家の氏神を祀る奈良の春日大社には鹿島・香取両神宮が祀られてある(この件は弟の仁から示唆を受けたもの)。前方後円墳が多いのも、そのあたりの由来だろう。

水戸は、その名が示すように那珂川のほとりにあり、水運のハブとして重要だったのだろう。脱線すると、少し南下した霞ヶ浦の水郷のあたりは、海から旧利根川を伝っての江戸への水運のハブであった。もっとも江戸時代、太平洋岸の海運は振るわず、全国の物産は大阪に集荷される方が多かったのだが。廻船も、その多くは日本海側諸港を結んでいた。東廻船というのもあったが、せいぜい仙台藩以南の諸藩と江戸の間の水運に利用されるだけだったようだ。こうなったのは、一つにはコメの産地の多くは日本海側にあったこと、そして太平洋岸は犬吠埼沖が名うての難所で、ここを通るわけにはいかなかったことがあるだろう。

磐城の国はいくつかの荘園に分かれていたが、室町以降は戦国大名が生まれ、水戸は佐竹氏が差配するところとなった。関ケ原の戦いの時、佐竹氏は去就に不明なところがあり、秋田に移封。その後に徳川御三家の一つ、徳川頼房が乗り込んできた。ここに親藩を置いておけば、東北諸藩が謀反を起こして江戸に攻め上ろうとする時食い止められるという算段。鹿島神社の江戸版だ。

その水戸徳川第2代が水戸黄門こと徳川光圀で、彼は後世のテレビ・ドラマ・シリーズにも貢献するが、それと並んで重要なのが、「大日本史」の編纂に手を染めたことである。なぜかある日思い立ち、「徳川家が日本を統治するのがいかに理に適ったことか」を証明する歴史書を作ろうとしたのである。全国に使者を送って、史料を集めさせた。完成したのは実に明治39年。神武天皇から後小松天皇(南北朝合一が成立したときの天皇)までを402巻の漢文で叙述してあるというから、ハンパでない。

水戸藩の面白いところは、藩主は参勤交代を免除され、いつも江戸上屋敷にいたということである(屋敷のあとが後楽園)。このため藩士は水戸常勤の者と江戸常駐の者とに分かれてしまい、後者は前者が集めたカネを消費するだけ、随分洒落物の生活をしていたようだ。地元は保守的な家老が治めるところとなり、江戸屋敷の経費を負担するため、財政はいつもひっ迫――後に斉昭は藩士100家族を江戸屋敷から水戸に移している――。下級藩士は寒い夜には十分な蒲団もなく、せんべい蒲団の上に雨戸をかぶせて寝る程であった。こうした情景は、山川菊栄の「覚書 幕末の水戸藩」(岩波文庫)に、当時の見聞録として生き生きと書いてある。
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この、藩内の人脈が二つに分かれていたこと、そして財政がひっ迫していたことが、人事抗争を誘引した。嫡男でなかった斉昭が藩主になれたのは、藩士が下級の者に至るまで江戸に大挙して押しかけ幕府に直訴したことが大きい。

それはどういうことか? 8代藩主斉脩が病の床に伏した時、家臣達は将軍家斉の息子を後任藩主にいただくべく工作を始める。斉脩の弟で、生まれた時から江戸屋敷で袴のすそも破れるほど冷遇されてきた斉昭より、将軍の息子を藩主にいただいた方が幕府からの補助金をたっぷりもらえるだろう――こういう算段だったのである。

そこで反対派(主として下層の身分出身で、農民の生活向上のための改革を求めてきた者達)が水戸徳川家の血脈を絶やしてはならないという名分で、幕府に直訴と相成った次第。水戸藩は御三家なので、問題が生じるとすぐ幕府を巻き込もうとする。お家騒動が起きても、御三家とあっては、幕府も取りつぶしにするわけにはいかない。甘え、というか傲りがあるのだ。

もともと水戸藩は徳川御三家の中では石高が最小(当初25万石)。常陸の国ではその面積の40%が天領で、水戸藩は30%に過ぎなかった。水戸藩は一貫して、幕府からの補助金に依存していたのである。

ところでこの藩の人事抗争は、藩政「改革」の是非とか、尊王攘夷の是非をめぐって起きたように言われるが、実はいいポストにつけるかどうかをめぐる争いだった、というのが、上記「覚書 幕末の水戸藩」にのっている当事者の述懐である。貧乏藩士はウナギの蒲焼の串けずりで稼いでいたので、人事は「蒲焼を自ら食うか、蒲焼の串をけずるか」の分け目であった。身につまされる。因みに「水戸産の蒲焼用串」は、念入りに削ってあるため、江戸で人気で、サンマは目黒、串は水戸に限ると言われていたとかいなかったとか。哀れな話しだ。

尊王攘夷か尊皇敬幕か・水戸学

水戸学というイデオロギーの流れがあって、これは長州藩の吉田松陰等に受け継がれ(彼は水戸にやってきて、経世家達と懇談している)、さらに明治維新になっての「教育勅語」等、日本陸軍の天皇崇拝国家主義の基礎を成したと言われる。しかし調べてみると、水戸学というのは、日本の他の思想と同様、確固とした理論、体系をもったものではない。

最近出た兵藤裕己の「後醍醐天皇」(岩波新書)は、後醍醐天皇は当時の上下の秩序を破壊し、天皇が公家や武家を飛び越えて臣民に直接号令する絶対主義体制を作ったが、大日本史はこの後醍醐天皇の絶対主義イデオロギーを引き継いでいる、とする。大日本史は、徳川政権は天皇から授権を受けていると称するとともに、南北朝のうち後醍醐の南朝に正統性を認めているからである。右「後醍醐天皇」によれば、大日本史は徳川家を新田義貞系統の源氏の子孫としたので、新田義貞を使って足利尊氏除去をはかった後醍醐天皇を正統と認める運びになった由。

大日本史の編纂は資金不足で途中で蹉跌し、江戸時代の260年間余を通じ、担当部署が江戸屋敷に細々と残っていたに過ぎない。しかし「大日本史を完成せねばならない」という意識は藩の有識者の間には常にあり、しかも御三家であるので、日本全体を考えて国家を憂えるという伝統があった。

そうした思潮の中で、水戸には何人も学者が現れる。吉田俊純の「水戸学と明治維新」によれば、立原翠軒、金沢正志斎、藤田東湖等である。特徴的なのは、彼らは朱子学だけでなく、荻生徂徠(近隣の上総を拠点としていた)の影響を受けていたことである。徂徠の儒学は陽明学の系統にあって、朱子学が秩序を尊ぶのに対して、秩序を主体的に作り替えることを主張する。革命思想に通ずるし、後の吉田松陰に見られるように、革命のためにはテロも厭わないということになる。

重要なことだが、水戸の尊王攘夷論は最後のところでねじれる。つまり攘夷を叫ぶが、あくまでも江戸幕府の下で叫ぶのである。一言で言えば、それは尊皇敬幕ということで、天皇を前面に押し立てて自分たち徳川家による支配体制を守ることとなる。これは、水戸が御三家の一つであり、大日本史も徳川治世を正当化するために編纂されていたことの流れにある。

徳川斉昭=「烈公」

斉昭は8代藩主斉脩=哀公の弟で、本来は藩主になれないはずだったのを、前述のように前者の早逝で担ぎ出されたもの。

水戸の内部矛盾、イデオロギーのねじれを一身に背負い、かつその火に油を注ぎつつ1829年から約30年、水戸藩に君臨。就任当初は、江戸屋敷、そして地元から守旧派を一掃、自身を藩主に盛り立てるのに功績のあった「お友だち」を抜擢する人事を繰り返すことで、藩を派閥抗争のるつぼに投げ込んだ。人事のたがが外れたのである。そして彼は感情的な攘夷論を唱え(晩年には自ら修正している)、日米修好通商条約を勅許を得ずに調印した井伊直弼を面罵(御三家だから、親藩の井伊は格下なのだ)、同時に息子の一橋慶喜を将軍にしようと暗躍した。井伊は安政の大獄を開始して、斉昭には水戸での蟄居を命ずる。これが1858年のこと。

そして1860年、桜田門外の変となるのだが、これは水戸藩を脱藩した浪士17名による犯行である。そして今回、歴史館での説明で認識したのだが、右17名に加えて薩摩浪士も1名加わっており、井伊の首を自顕流の「キイェエーーー」という掛け声とともに打ち落としたのはこの有村次左衛門である。しかも、水戸浪士らは仲間を大阪に送ってあった。これは、薩摩藩が呼応して軍を率いて京都に上京し、天皇を「確保」する時の連絡役にしようとしたのである。

これは斉昭と並んで井伊直弼を批判し、軍を率いて江戸にのぼることまで考えていた薩摩藩主、島津斉彬が既に亡くなっていて、実現しなかったのだが、ただの水戸のはね上がり分子による犯行だと我々が教わっていた桜田門外の変は、実は水戸・薩摩連合によるクーデターの企てであった可能性がある。そしてそのような大きな企てに、徳川斉昭がかんでいなかったわけがないのだが、不思議に彼の名前は出てこない。彼は桜田門外の変の半年後、「厠に立った時に」急死したことになっていて、持病の心筋梗塞だろうと言われている。

そしてこのあたりが水戸藩の運命の分水嶺で、この後は凡庸な後継藩主・慶篤の下で、血で血を洗う人事抗争が繰り広げられていく。もし、水戸・薩摩連合による政権奪取が1860年桜田門外の変で成立していれば、明治維新はなかったことだろう。水戸藩と薩摩藩は家格が違う。一方は御三家、他方は外様。どうしても、江戸幕府の政権を水戸の徳川家が簒奪したことで終わったであろう。

斉昭というのは、変わった男だ。夜、一人で城下を徘徊、部下の自宅に無断で入り込むと、暮らしぶりをしげしげ観察、翌日その部下に「お前の家は厩みたいだな」というようなことを言ったという。そして女好き。正室の吉子(有栖川宮織仁親王の末娘)を熱愛していたことになっているが、その正室は側室との同居をやむなくされ、それでも親しくしていたそうだ。

斉昭は、江戸屋敷で藩主の弟として、「袴の裾が破れて落ち葉がまとわりつく」ような窮乏を強いられた反動か、藩主になってからは正室・側室に22男、17女を生ませる絶倫ぶり。「覚書 幕末の水戸藩」で当時の者は、「名君のようでもあり、半きちがいのようでもあり」と評していたそうだから、現代で言えばさしずめ小泉純一郎総理タイプか。
今に伝わるいかにも英雄然とした肖像画は、彼の死後、数名の画師が描いたモンタージュで、未亡人によれば、「これほどイケメンではなかった」由。別の肖像画を見ると、息子の徳川慶喜に似て、細面で癇の強そうな才走った顔をしている。

歴史館には、彼の筆跡が展示されている。ある文書には豪快きわまりない書体が躍っているかと思えば、部下に秘密工作を指示した書面は、精細できっちりした楷書で綿々と綴られている。二重人格的で、大風呂敷を広げるかと思えば、素知らぬ顔で陰謀もたくらむのである。

歴史館の特別企画で展示していたその陰謀とは、彼が藩主になって早々、矢継ぎ早に手掛けた改革措置があまりに急激で(例えば検知改正で畑からの年貢取り分を増加。江戸に近く、商品作物の栽培で農業を振興する茨城県の今日のあり方の基礎を作った)、たぶん冷や飯を食わされた守旧派が幕府に垂れこんだのだろう、一時(1844年)強制隠居+蟄居を命じられた時のことである(つまり前記1858年と合わせ、斉昭は幕府から2度蟄居を命じられているのである)。

斉昭はその前に若手の藩士の結城寅寿を取り立て、自分の政策を実行させようと思っていたのが、斉昭の強制引退後、結城は守旧派に取り入って守旧派の政策を復活する。斉昭は、これに対して復讐を企むのだ。

その経緯はまるで歌舞伎の渡海屋こと平知盛よろしく、彼は紙屋長兵衛を名乗って結城の家臣の庄兵衛なるものをたらしこみ、結城の不法行為を証明する文書を入手させ(捏造かもしれない)、自分の家臣の菊池為三郎を護衛につけて宇和島藩の伊達宗城のもとに8年間送り出す。伊達は、斉昭と水戸学に入れ込んでいたのである。この時、為三郎に与えた一種の身元保証書のようなものが、斉昭の躍るような豪快な字で書かれているのである。そして他方、為三郎に宇和島藩での心得――目立たないよう、そして使命を悟られないよう注意しろ等々――をつづった指示書の方は、他人と見まがうばかりの几帳面で細かな楷書で書かれているのである。

雌伏8年、1855年、ペリー来航で、幕府はかねて攘夷を唱えていた斉昭を頼り、彼を藩主の座に戻す。この時、斉昭は為三郎を水戸に呼び戻すともに、件の文書を口実に結城を拘束、1856年には死罪に追い込んでしまう。結城は罪状を頑なに否認するので、「構わん、斬れ」式に殺されたそうだ。

因みに、斉昭は攘夷で鳴っているが、これは別に鎖国論のことではない。列強の植民地主義に抵抗して、列強に伍していくことを意図しているものだ。水戸学の泰斗、立原翠軒も、1792年ロシアのラクスマン来航では、ロシアの危険を強く説いている。斉昭の側近、藤田東湖は夜間、ペリー艦隊の周囲を小舟でこぎまわってその威容を観察、後に斉昭ともども訪米使節となることを幕府に申請したという。

弘道館と偕楽園

厳しい藩財政の下で、斉昭は鶴の一声で弘道館と偕楽園という2大プロジェクトを実現してしまう(後述のように藩士は三年半にわたって禄を半減されたが)。現代で言えば、総理一代の間に公務員給与を半減し、その金で東大とディズニー・ランドを作ってしまうようなものだ。弘道館は、藩士の水準向上のための総合大学のようなもの。当時、日本随一の広さの藩校であった。教えることは儒学だけでなく、天文学、数学、医学に及ぶ。

開校に当たって斉昭は、「遊於芸」という額を掲げた。これは、学芸においては遊び心、つまりイマジネーションも必要ということ。因みに当時のトイレもそのまま残っているのでのぞいてみたが、大小一つずつ。随分学生も多かっただろうから、学生が野天で用を足し、弘道館は随分臭っていたのでないか?

なお、幕府崩壊のあと、慶喜は弘道館で4カ月謹慎し、その後静岡=駿府に移っている。駿府城は徳川家康が引退後死ぬまで「大御所」として拠を構えていたところ。元々今川氏の居城だったのを、彼が建て直し、天守閣は当時日本随一の規模だったらしい。維新後の明治33年、弘道館には一時、県の高等女学校が置かれていた。そして今では一隅に小学校が入っている。

偕楽園もすごい。山腹全体が園になっているので、大部分は森林なのである。因みに偕楽とは「(民と)共に楽しむ」という意味だそうで、江戸の屋敷に2代目の光圀が完成した後楽園を意識した命名になっている。入り口付近が有名な梅林、そして少し入ると庭園があって、その横に茶室とも言えない大きい、京都の金閣規模の好文亭がたっている。3階建てなのだ。

偕楽の名に恥じず、斉昭はここに藩の文人や、老齢者達を招き、共に絶景を楽しんだのだそうだ。本当に絶景で、特に3階からは近くの千波湖も見晴らすことができる。ちょっと安土城から琵琶湖を見下ろす感じである。但し階段が急だから、老齢者は上れない。面白いことに、この3階へは、茶菓を運ぶための小さなエレベーターがついている。滑車で、手で引き上げるのである。これも斉昭の考案だそうだが、さもありなん。

この財政困難下の2大プロジェクトを実現するため、藩士は3年半にわたって禄を半分召し上げられる破目になる。藩士にとっては、とても「共に楽しむ」気にはなれなかっただろう。昔も今も、公務員はつらい。

水戸の申し子・徳川慶喜

今回自らの無学を露呈したのだが、徳川慶喜は実に徳川斉昭の第7子だったのだ。一橋家には、養子として出ている。江戸の屋敷生まれなのだが、その後11歳まで水戸で斉昭の薫陶を受けている。5歳の時には弘道館に入っている(多分、個人教授でも)。だから尊王攘夷を随分習ったはずなのだが、その後の彼の行動を見ると、身にはついていなかったようだ。

彼は幕府崩壊後も死罪になることはなく、大正になって死去している。歴史館には、明治になってから撮った一族郎党の写真が飾ってあった。因みに、慶喜の才走った言動、部下がついていけない突飛な言動(大政奉還の挙に出るとか、鳥羽の戦いで早々に江戸に逃げ帰るとか)は、斉昭譲りではなかろうか?

水戸黄門祭の熱気

水戸に着き、タクシーに乗って県立歴史館に行こうとすると、運転手が「コーモン祭りを見に来たのか?」と聞いてくる。「何それ? コーモン?」と聞きなおして、運転手に嫌な顔をされた。

聞くと水戸黄門祭りのことで、大名行列とかいろいろあると言うのだが、そんなことどこでもやっていることだしと思って、歴史館、偕楽園を見て、バスがなかなか来ないので炎天下、歩いて水戸駅に向かった。

すると後からバスがやってきたのだが、ものすごい渋滞で、歩道を歩く僕と抜きつ抜かれつ。その先の大通りが黄門祭りのカーニバルで車止めとなり、迂回の車で大渋滞が発生していたのだ。

そこではからずも、黄門祭りのカーニバルをとっぷりと見る破目になったのだが、これが良かった。動画をhttps://www.youtube.com/watch?v=xJipjhk9js0で、見ることができる。大学とか企業とか、組織ごとに若者が中心になって歌いながら(水戸音頭か何か。とても祭りの雰囲気に合っていた)、踊って練り歩く。踊りは組織毎に振付が違うので、面白いし、飽きない。大通りは1.5キロほどこのカーニバルの行列(往復)で埋まった。
老齢化や人口減少で気息奄々の日本に、こんなに沢山の若者がいたなんて。底抜けのエネルギーと明るさに、大いに感激して帰京した。

ああ、あと今回行く時間はなかったが、水戸芸術館(磯崎新設計)とその専属の水戸室内管弦楽団は水戸、いや日本全体の宝。小澤征爾指揮・水戸室内管弦楽団のベートーベン交響曲シリーズは僕の愛聴盤。
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